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    ものみの塔 1967 | 12月1日
    • 舌を常に制する

      「あなたがたは重ねて高慢に語ってはならない。たかぶりの言葉を口にすることをやめよ。〔エホバ〕はすべてを知る神であって,もろもろのおこないは主によって量られる」― サムエル上 2:3,〔文語〕

      1 舌はどれほど大切ですか。

      舌は人間の持つ最も有用な道具の一つであり,確かにエホバ神からの大きな賜物です。ゆえにエホバをほめ,その偉大さをエホバに帰することばが,人間の口から出る最高のことばではありませんか。神の忠実なしもべがこのように舌を用いた例は,聖書に数多くしるされ,今日まで残されています。わたしたちはそれを読み,神の恵みに感謝するそれらのことばを繰り返すために舌を使うことができます。

      2 (イ)エホバはご自分に語りかけられ,またご自分について述べられたことばを,どのように喜ばれますか。(ロ)特にエホバを喜ばすものはなんですか。

      2 幼児が初めて口をきくようになった時ほど,音声が喜ばしいものに聞こえることはありません。幼児の成長につれて意味のあることばが話されるようになると,両親は喜びます。してみれば,天の父が命の賜物に感謝する地上の子たちのことばを聞いて喜ばれると考えるのは,全く理にかなっていませんか。神の子たちのささげる祈りは,神の耳に快い音楽です。それは心の思いと願いを伝える手段です。神のことを他の人々と語り合うことでさえも,報いをもたらします。「その時エホバをおそるゝ者互に相かたりエホバ耳をかたむけてこれを聴たまへり またエホバを畏るゝ者およびその名を記憶る者のためにエホバの前に記念の書をかきしるせり」。(マラキ 3:16,文語)考えてごらんなさい。御名をおぼえる者のためにエホバは永久の記録を残されるのです。御名をほめるために舌を用いるのは大きな名誉であり,御名があまり知られていない今日にあっては特にそうです。御名を広く宣べ伝えて崇めることは,御名を負うわたしたちにとって保護となります。わたしたちがそのことをしないならば,災いの結果となるでしょう。「エホバの名はかたき櫓のごとし義者は之に走りいりて救を得」― 箴言 18:10,文語。

      3 すべての人は何を熱心に願うべきですか。このことはいつか実現されますか。

      3 生きているすべての人は,生命の賜物,幸福,エホバの愛,聖書に収められたエホバの貴重な教えに対する大きな感謝を神に知らせたいと願うべきです。やがては,永遠の生命に達するすべての人が宇宙の至上者と栄光の御子をほめる時がくるでしょう。「またわたしは,天と地,地の下と海の中にあるすべての造られたもの,そして,それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた,『御座にいますかたと小羊とに,さんびと,ほまれと,栄光と,権力とが,世々限りなくあるように』」。「もろもろの民よ,手をうち,喜びの声をあげ,神にむかって叫べ」― 黙示 5:13。詩 47:1。

      4 (イ)どんな面で今の世代は特に祝福されていますか。(ロ)聖書の価値が今日とくに高まっているのはなぜですか。

      4 人間は今日,特異な立場におかれています。文字になった神の言である聖書全巻は,人間が用いるため,そして教えを受けるために保存されてきました。今日ではほとんどすべての人が自国語の聖書を入手できます。西暦紀元の聖書筆者の中で最も多くを書いたパウロは,次のように述べています。「これまでに書かれた事がらは,すべてわたしたちの教のために書かれたのであって,それは聖書の与える忍耐と慰めとによって,望みをいだかせるためである」。(ローマ 15:4)とくに今日,聖書に価値があるのはなぜですか。同じ筆者は「それが書かれたのは,世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである」と述べています。これがローマおよびコリントの初期会衆にあてて書かれたのは事実ですが,パウロのこのことばが今日のためにも書かれたものであることは,ウェイマウス博士の聖書ほん訳からもわかります。「それは世の終わりの時に住むわたしたちに対する訓戒として記録された」。行間の英語逐語訳を含むウイルソンのエンファティック・ダイアグロット訳は,次のように訳しています。「これらの事柄は予表として彼らの身に起きたのであり,時代の終りに臨むわたしたちの訓戒のために書かれた」― コリント第一 10:11。

      5 今の「終りの時」がどのように重大な時代かを説明しなさい。

      5 世界史の上で時代の終わりが臨んでいるのは今です。神の預言者はこの時代を心に描きました。(ヘブル 11:10。ヨハネ 8:56。ダニエル 12:8,9)イエスはこの時代の到来を祈り求めるようにと教えました。それは古い事物の制度が過ぎ去って,正しい人々の前途にある,神の栄光にみちた新しい秩序にとってかわられる時です。人々も国々も,「静まって,わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられる」と言われる永遠者を認めるべき時です。(詩 46:10; 2:10-12。ルカ 11:2)今は,世の支配者また君であるサタンが人類をとらえてきた束縛が破られる時です。この不浄な力はどのようにして破られますか。強力な影響を及ぼしている悪霊を,人間の力で滅ぼすことができますか。それをするのは,宿敵,悪魔に対する神の戦いです。神は,王として治める御子イエス・キリストを用いて,悪魔を完全にいやしめます。―ヨハネ 12:31; 14:30。

      6 (イ)どうすれば,サタンの悪の勢力と首尾よく戦うことができますか。(ロ)イエスはどんな手本を残されましたか。(ハ)どんな助けが備えられていますか。

      6 しかし悪魔とその悪霊の軍勢に対して戦うのは,今日の人間の特権であり,義務です。そして霊的な戦いのために備えられた武器を活用する時,首尾よくこの戦いをすることができます。「わたしたちの戦いの武器は,肉のものではなく,神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである」。(コリント第二 10:4)人間イエスはわたしたちのために手本を残されました。「と書いてある」と言われ,神のことばを引くことによって,イエスは悪魔に抵抗できました。(ルカ 4:1-13)文字どおりの剣あるいは他の地的な武器を使わず,イエスは正しく教育され,制御された舌を用いて,敵を敗走させました。同じくわたしたちも身の守りとして,「みたまの剣」すなわち神のことばに信頼し,イエスと同じことをしなければなりません。しかし「もろもろの支配と,権威と,やみの世の主権者,また天上にいる悪の霊」と戦うのに役だつ他の武具あるいは助けがあります。使徒パウロは,わたしたちが身に着けるそれらの武具として,真理の帯,正義の胸当,平和の福音の備えを足にはくこと,信仰のたて,救のかぶと,御霊の剣そして祈りをあげています。自分の力だけでは,見えない悪の軍勢に立ちむかえません。しかし神の備えられた助けを得て,勝利を収めることができます。―エペソ 6:11-18。

      7 「みたまの剣」は舌とどんな関係があるかを説明しなさい。

      7 それで準備を整えることができます。神のことば聖書は「生きていて,力があり,もろ刃のつるぎよりも鋭くて,精神と霊魂と,関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして,心の思いと志とを見分けることができる」のです。この「剣」をふるって「信仰の戦いをりっぱに戦」うとき,「永遠のいのちを獲得」することができ,また今エホバの加護を得られます。ゆえにこの「剣」の用い方を学びましょう。そうすれば「あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には,いつでも弁明のできる用意をし……やさしく,慎み深く,明らかな良心をもって,弁明」できることになります。これはわたしたちの舌を正しく制御して使うということです。―ヘブル 4:12。テモテ第一 6:12。ペテロ第一 3:15。詩篇 31:23。

      8-10 (イ)羊飼いの少年ダビデは,わたしたちにとってどんな良い手本となっていますか。(ロ)怒ることに対して言いわけがたちますか。

      8 羊飼いの少年ダビデは制御することにおいてかんぺきでした。重いよろいに身を固め,穂の重さが7キロ近くもある槍を持った,身のたけ9尺の巨人ゴリアテに対し,ダビデは五つのなめらかな石と石投げ器を持っていたにすぎません。それでもダビデはしくじることのない熟練に完全な沈着を加え,また走りながら石を投げたにもかかわらず的をはずすことなく,敵を倒しました。なめらかな石は美しいものであったでしょう。しかし効果的に使うことを知らなければ,羊飼いの袋の中の石は無価値なものです。聖書も同じことで,使い方を知らなければ役にたちません。本棚におき,美しいことばと文体で書かれた美しい本として賞賛するだけでなく,それ以上のことが必要です。聖書のことば,聖書の説く原則を自分のものにして生活に実行しなければなりません。それを心の中にしっかり植えつけ,おりにふれてそれを語る用意が必要です。

      知識を活用する

      9 舌を制するとは,単に知識があるということではありません。前述のペテロの第一の手紙 3章15節に「やさしく……弁明しなさい」とあることばからもわかるとおり,知識を正しく用いることが必要です。聖書に示されているように,神のしもべは神にかわって告発のことばを述べなければならなかったこともあります。まれには平静を失って怒ったこともあり,彼らはその度に悪い報いを受けました。ピリピ会衆の人々は会衆に蔓延している状態に対処するのに困難を感じていました。舌を正しく用いることについて,彼らに与えられた助言を考慮してごらんなさい。「すべてのことを,つぶやかず疑わないでしなさい。それは,あなたがたが責められるところのない純真な者となり,曲った邪悪な時代のただ中にあって,傷のない神の子となるためである。あなたがたは,いのちの言葉を堅く持って,彼らの間で星のようにこの世に輝いている」― ピリピ 2:14-16。

      10 イエスも,「邪悪で不義な時代」すなわち,かたくなで反抗的な当時の人々に厳しいことばで語ったことがあります。しかもイエスについては,「この人の語るように語った者は,これまでにありませんでした」と述べられています。(ヨハネ 7:46)不注意に,また無考えに,目的もなしに語っていたとすれば,このようには言えないはずです。舌を制し,ことばを選択し,価値あることを語り,それを適切に語る人に対してでなければ,このような批評は出ません。あなたのことばを聞く人々はそのように言いますか。あなたはことばを口に出す前に考えますか。会社の重役などの机には,よく次のようなモットーが示されています。「心をおさえないうちに口を開くな」。

      11 (イ)「この人の語るように語った者は,これまでにありませんでした」ということばは,どんな時に語られたものですか。(ロ)イエスはなぜ大胆に語ることができましたか。

      11 イエスのことばを聞いて前述のように語ったのは,イエスの親族または隣人でしたか。それはイエスを捕えるために遣わされた人々でした。ユダヤ人の祭司たちは,イエスが彼らのおどしを無視して御父のことばを大胆に宣べ伝えたので,イエスを捕えるために役人を遣わしました。むなし手でもどって来た役人たちは,「なぜ,あの人を連れてこなかったのか」と聞かれた時,「この人の語るように語った者は,これまでにありませんでした」と答えています。彼らはイエスの教え方,そのことばの気品と魅力に深い感銘を受けたので,イエスを捕えるどころではなかったのです。イエスの音信の内容と,舌を制したイエスの完全な話しぶりに彼らが全く心を打たれてしまったので,彼らを遣わした宗教家は彼らも惑わされていると非難し,「役人たちやパリサイ人たちの中で,ひとり(も)彼を信じた者が」なかったということを思い起こさせています。(ヨハネ 7:45-48)ラビの学校で訓練を受けたことのないイエスは,きわだつ雄弁家であったわけではありません。しかしマタイの記録によれば,イエスが山上の垂訓を終えられると,「群衆はその教にひどく驚いた。それは律法学者たちのようにではなく,権威ある者のように,教えられたからである」としるされています。―マタイ 7:28,29。

      12,13 (イ)イエスのことばがきわめて効果的だったのはなぜですか。(ロ)イエスにはなぜ確信がありましたか。

      12 イエスが御父の目的どおりに舌を用いられた時,パリサイ人はうるさく感じ,弟子たちは喜んで聞いて豊かに祝福されました。イエスは決して舌を奔放にせず,偽りの宗教の指導者を責める怒りのことばを出した時にも,自制を失いませんでした。そのことばが下品になったり,下劣で慎しみのないものに堕したことはありません。悪いことばは,イエスの口から決して出ませんでした。―マタイ 13:15,16。ヨハネ 8:43-45。マタイの福音書 第23章。エペソ 4:26,29。

      13 イエスは指導者たちにとりいることをせず,大胆に真理を語るという点で弟子たちの手本となられました。また舌を完全に制することをされ,舌を正しく用いるに際して御父のうしろだてを確信されていました。それで次のように言われたのです。「わたしは自分からは何もせず,ただ父が教えて下さったままを話していたことが,わかってくるであろう。わたしをつかわされたかたは,わたしと一緒におられる。わたしは,いつも神のみこころにかなうことをしているから,わたしをひとり置きざりになさることはない」― ヨハネ 8:28,29。使行 4:31。

      14-16 (イ)人間の不完全さは舌を制するうえに妨げとなりますか。(ロ)舌を制することをしないで言いわけできますか。

      14 これはわたしたちの従うべき良い手本です。イエスの足跡にしっかりと従うなら,エホバの是認を得ることができるでしょう。しかし聖書にも「わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました」と述べられているのに,完全な人イエスと同じように舌を制することをわたしたちに求めるのは無理な要求だと言う人がいるかもしれません。また神は罪深い人間にそのようなことは求められないと論ずる人もいるでしょう。確かに完全に制することは今できませんが,努力しないであきらめ,悪魔の思うつぼにはまってはなりません。悪魔はわたしたちが不完全なことを知り,舌で罪を犯させようと,あらゆる手段に訴えます。悪魔はイエスが完全な人であるのを知っていてもなお,イエスを誘惑することをやめませんでした。悪魔の挑戦を永久に解決する明らかな目的をもって天から地に下ってこられたイエスは,“怒り心頭に発して”悪魔を“ののしる”気持ちになっていたと考えられるかもしれません。しかしイエスはそうされましたか。冷静に,おだやかに「と書いてある」と言われ,聖書を引いて答えたイエスは,イエスを圧倒しようとする悪魔の企てをくじかれました。―詩 51:5。ルカ 4:1-13。申命 8:3; 6:13,16。ペテロ第一 2:21。

      15 あるいは「この年になって今さら変えることはできない」と言う人がいるかもしれません。どんなに長い間行なってきた事でも,その間違いを知ったならば,知識を得,啓発された結果生じた責任を,「今さら変えられない」と言って避けるのは愚かなことです。自分の道を変えるのに年をとりすぎているということはありません。神のことば聖書と相容れない道を進むなら,神の不興をこうむることになるでしょう。ゆえに話し方においてもそれが創造者に喜ばれないものであれば,人は決定を下さなければなりません。たとえ大きな変化を意味するものとなっても,事実に直面しますか。自分の生活を聖書の正義の原則と一致させるには,すすんで事を行なう気持ち,謙遜が必要です。しかしそうすれば神の恵みを受け,報いを得ます。神の事物の新しい制度の下に生きるには,このような変化を成し遂げねばなりません。

      16 わたしたちは不完全であるからこそ,なおのこと努力して舌を制し,それを悪魔の意のままにさせるのではなくて,神に誉れとなり,わたしたちにも名誉となるように使わなければなりません。悪魔の攻撃に耐えてそのことをするのに,弁舌に巧みになる必要はありません。ともすれば古い事物の制度に影響される“堕落した肉”の傾向に打ち勝った良い例は使徒パウロです。「そこで,わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず,空を打つような拳闘はしない。すなわち,自分のからだを打ちたたいて服従させるのである」。またパウロは自分が決意して実行している正しい事柄を他の人にどう思われるかを気にしてはいません。「わたしたちは神の信任を受けて福音を託されたので,人間に喜ばれるためではなく,わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように,福音を語るのである」― コリント第二 11:6。コリント第一 9:26,27。テサロニケ第一 2:4。

      17 イエスのことばによれば,どんなことを語るかは何によって決まりますか。

      17 舌が,訓練された心の従順なしもべとなるには,これをとらえ,意のまに支配しなければなりません。舌は心と思いを反映します。イエスはそのことをご存知であり,次のように言われました。「まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに,どうして良いことを語ることができようか。おおよそ,心からあふれることを口が語るものである。善人はよい倉から良い物を取り出し,悪人は悪い物を取り出す。あなたがたに言うが,審判の日には,人はその語る無益な言葉に対して,言い開きをしなければならないであろう。あなたは,自分の言葉によって正しいとされ,また自分の言葉によって罪ありとされるからである」― マタイ 12:34-37。

      周囲からの影響に抵抗する

      18,19 今が「苦難の時代」であり,またぞんざいな話し方が多いことを考える時,親も子供も何をすることが必要ですか。

      18 職場の同僚,買物客,学校の友だちのことばに耳を傾けても,新聞,雑誌を読んでも,ラジオを聞いても,不注意な,あるいは“たあいない”ことばを耳にします。きたない下品なことばはどこでも聞かれ,人気のある本の頁に満ちています。この時代には,放縦なことばや曲がった事柄を語る舌をほめることが盛んです。そのために人はそのようなことばに慣れて,別になんとも感じません。ソロモンは次のように述べています。「悪を行う者は偽りのくちびるに聞き,偽りをいう者は悪しき舌に耳を傾ける」― 箴言 17:4。

      19 これもまた正しい人が戦わねばならないことの一つです。それを心にとめてください。きたないことばを広めることに荷担してはなりません。健全なことばを常に口にして,それを身につけることが必要です。今は使徒パウロが「苦難の時代」と呼んでいる時代です。(テモテ第二 3:1)今日,下品なことばは家庭にもはいり込んでいます。父親は職場で,母親は買い物の時や,つき合いから,子供は遊び友だちからそれを覚え,知らないうちに家族全員がそのような話しことばを習慣にしてしまうかもしれません。子供は悪いことばを初めから知っているわけではありませんが,家庭でのしつけが欠けていると,悪いことばを覚えてそれを日常の会話のことばにします。両親は自分たちのみならず子供のためにも,不健全な事柄に心を向けるのをやめ,徳を高める有益な事柄で心を満たさねばなりません。そうすれば子供たちも正しく教育された心から出る,考え深いことばを語るようになるでしょう。

      20 (イ)心とことばをよくするための助言は,どこから得られますか。(ロ)どんなもので心を養うことができますか。

      20 教えを受けるためにひもとくべき最良の書物は聖書です。たとえばピリピ人への手紙 4章8節に次の助言があります。「すべて真実なこと,すべて尊ぶべきこと,すべて正しいこと,すべて純真なこと,すべて愛すべきこと,すべてほまれあること[語るにふさわしい,評判のよいこと],また徳といわれるもの,称賛に値するものがあれば,それらのものを心にとめなさい」。このこと,またイエスが言われた原則(心からあふれ出ることを,口が語る)から言えるのは,心を正しい考えで満たしておけば,舌は正義の原則と一致した働きをするということです。親にとっても子供にとっても,きたないことばを出さないようにする唯一の方法は心を守ることです。清い心からは清いことば,汚れた心からは汚れたことばが出ます。清いことばを出すには,心を汚れから守らねばなりません。

      21,22 (イ)どうすれば聖書の教えを身につけることができますか。(ロ)怠けていながら啓発されることを望めますか。

      21 聖書は真実なこと,尊ぶべきこと,正しいこと,純真なこと,愛すべきこと,徳といわれるもの,称賛に値するものの宝庫です。しかしそれらのものを求めなければなりません。ある人がおそらくまじめに考えているように,目を閉じてあてずっぽうに聖書を開けば,そこに目ざす答えがあるというわけにはいきません。聖霊が人を導く方法はそれとは異なっています。何もしないで日毎の糧が奇跡的に与えられることはありません。また一日3度の食事のかわりに,注射で栄養を与えてもらうことを望む人はいないでしょう。多くの人は「食べるために生活する」と言います。それで糧を得るために働かねばならず,そのようにしてのち食卓について食べることができます。単なる「パン」よりも大切であるとイエスが言われた霊的食物も勤勉に求め,そのために働き,噛んで消化すべきものです。その証拠に箴言 2章1節から5節にあるソロモンのことばに注意してください。「わが子よ,もしあなたがわたしの言葉を受け,わたしの戒めを,あなたの心におさめ,あなたの耳を知恵に傾け,あなたの心を悟りに向け,しかも,もし知識を呼び求め,悟りを得ようと,あなたの声をあげ,銀を求めるように,これを求め,かくれた宝を尋ねるように,これを尋ねるならば,あなたは〔エホバ〕を恐れることを悟り,神を知ることができるようになる」―〔文語〕。

      22 生活のために働いたことがなく,“失業手当”で生活している人は,自分の受ける物に対して真のありがたみを感じないでしょう。パウロはテサロニケ会衆に養ってもらおうとはせず,「だれにも負担をかけまい」として手ずから働き,「また,あなたがたの所にいた時に,『働こうとしない者は,食べることもしてはならない』と命じ」ました。それで怠堕な人とならず,毎日,聖書を注意深く調べたベレヤの「素直」な人々のように行なうことは喜びとなります。―テサロニケ第二 3:8-10。使行 17:11。

  • 舌は善悪二様の力を持つ
    ものみの塔 1967 | 12月1日
    • 舌は善悪二様の力を持つ

      「あなたがたに言うが,審判の日には,人はその語る無益な言葉に対して,言い開きをしなければならないであろう。あなたは,自分の言葉によって正しいとされ,自分の言葉によって罪ありとされるからである」― マタイ 12:36,37。

      1,2 将来の生命は何に依存することがありますか。どうすればその結果を左右できますか

      これを言われた時にイエスは伝道の書 12章14節にあるソロモンの次のことばを考えていられたのかもしれません。「神はすべてのわざ,ならびにすべての隠れたことを善悪ともにさばかれるからである」。これは人を考えさせます。ことばは人の将来の生命を決定するほど重要なものですか。そうとすれば,各人が自分を吟味するのは益のあることです。神の新しい事物の制度の下で生命を得るため,今から生活を律するのは,努力のかいがあることですか。

      2 意義のある事柄のために努力するなら報いを得ます。捨てられる者とならないように,自分のからだを打ちたたいても服従させると語った使徒パウロの手本を思い起こしてください。「人の道は自身によるのではなく,歩む人が,その歩みを自分で決めることのできない」ゆえに,わたしたちは導きを求めなければなりません。(エレミヤ 10:23)この導きは霊感による神のことば聖書です。「心をつくして〔エホバ〕に信頼せよ,自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ,そうすれば,主はあなたの道をまっすぐにされる」。(箴言 3:5,6,〔文語〕)神の導きを得るとき,正しく語り,理知をもって舌を制し,「すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ」ることができます。―コリント第二 10:5。

      3,4 ヤコブは会衆内のどんな状態を憂慮しましたか。その原因を何に帰することができましたか。

      3 これがどれほど大きな仕事かを知るため,弟子ヤコブが「制しにくい悪」について述べている事柄を考慮してください。(ヤコブ 3:8)ヤコブは舌の力を知り,それが善悪二様の感化を与え得ることを理解していました。エルサレム会衆の監督であり,初期会衆の統治体の成員であったヤコブは,ちょうど使徒パウロが,争いとねたみ,怒り,論争,悪口,不満,うぬぼれその他,無秩序の状態におかれていたコリント会衆のことを心配したのと同様,諸会衆の内紛を気づかっていました。(コリント第二 12:20)そこでヤコブは「離散している十二部族の人々」に対し,すべての汚れ,道徳上の悪,階級差別,つまずきを起こさせるものを除く必要を考慮するように促しています。―ヤコブ 1:1,21; 2:4,9。

      4 ヤコブは人間の不完全さ,つまずきやすい生来の傾向をまず認めることをすすめ,次のように述べています。「もし,言葉の上であやまちのない人があれば,そういう人は,全身をも制御することのできる完全な人である。馬を御するために,その口にくつわをはめるなら,その全身を引きまわすことができる。また船を見るがよい。船体が非常に大きく,また激しい風に吹きまくられても,ごく小さなかじ一つで,操縦者の思いのままに運転される。それと同じく,舌は小さな器官ではあるが,よく大言壮語する…舌は火である。不義の世界である。舌は,わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが,全身を汚し,生存の車輪を燃や(す)」。ついでヤコブは矛盾を蔵したこの小さな器官である舌の働きについて,こう述べています,「わたしたちは,この舌で父なる〔エホバ〕をさんびし,また,その同じ舌で,神にかたどって造られた人間をのろっている。同じ口から,さんびとのろいとが出て来る」。確かに舌には善悪二様の力があります。―ヤコブ 3:2-6,9,10,〔新世訳〕。

      5,6 (イ)各人はどんなことを自問できますか。(ロ)舌を制することによって,どんな恵みが得られますか。

      5 このことばを読むと,なるほどそのような“二枚舌”の人もいるという考えが浮かぶかもしれません。しかしヤコブのことばの意味を深く考えると,それはあなたにもあてはまるのではありませんか。あなたは例外ですか。舌をおさえることができなくて,山火事のようにならせ,他の人や自分にも害を与えたことはありませんか。隣人愛や神の愛を反映するために舌を使うのを忘れたことはありませんか。つまり同じ舌で,ある時には神をほめ,他の時には人をしかりつけたりしませんか。神をのろったり,他の人について無礼なことを語って神の御名を悪く用いたりすることはありませんか。これらは心をさぐる質問です。しかしそれらを心にとめてください。その重要さをみくびることはできません。

      6 不完全だからといっていつも同じあやまちをくり返すことは正しくありません。そのような人の仕事は,やとい主にとっても無益に近いものです。それで「言葉が多ければ,とがを免れない,自分のくちびるを制する者は知恵がある。正しい者の舌は精銀である,悪しき者の心は価値が少ない。正しい者のくちびるは多くの人を養い,愚かな者は知恵[正しい動機]がなくて死ぬ」と述べられています。ゆえにあやまちを恐れて口をつぐむべきではありませんが,舌を常に制する決意が必要です。「多くの人を養」う牧者として,今日,神から大きな誉れを与えられている人々に関して,とくにこのことは大切です。―箴言 10:19-22。

      7 (イ)多くの人は悪いどんな行ないを習慣にしていますか。(ロ)どうすればそれを避けられますか。

      7 どこにおいても健全なことばがおろそかにされている今日,罪深い人間が舌をいつも制するのは困難なことです。多くの人はともすると同じようなことばでやり返します。(箴言 24:29)落ちついて考えれば,それは自分がふだん快く思っていない低い程度にまで自分をおとすことであるのに,怒りのために舌をおさえることができなくなるのです。怒る人はその気持ちを口に出してしまい,ことばに気をつけることができなくなります。ダビデは憤りをもよおさせる仕打ちを何回もされました。彼は怒りをぶちまけましたか。彼は次のように述べています。「わたしは言った,『舌をもって罪を犯さないために,わたしの道を慎み,悪しき者のわたしの前にある間はわたしの口にくつわをかけよう』と」。(詩 39:1)ダビデは人間の罪深い傾向を知っていました。「わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました」。それゆえに助けを祈り求めています,「エホバよねがはくはわが口に門守をおきて わがくちびるの戸をまもりたまへ」。(詩 51:5; 141:3,文語)わたしたちも舌をおさえる努力をすることができ,またそうしなければなりません。それだけでなく,「人の道は自身によるのではなく,歩む人が,その歩みを自分で決めることのできないこと」を認め,御心を行なわさせてくださるようエホバに祈らねばなりません。―エレミヤ 10:23。

      舌にくつわをかける

      8 (イ)どんなことを習慣にしないようにすべきですか。なぜですか。(ロ)人はどのように自分の本性を表わしますか。

      8 このように舌をおさえたからといって,口がきけなくなるわけではありません。それはことばを清いものにするのに役だちます。世の人との長い交わりのため,少し話すと,すぐに悪いことばが出て困ると言う人がいます。悪いことばが酒や麻薬,タバコのように根強い習慣になってしまったのです。それで神やイエスのことを語るのに“ぞんざいな”ことば,また使いなれている俗語がいけないとなると,口がきけないように感じます。これは悪いことばが習慣になっている人にとって不名誉であるばかりか,舌の創造者エホバ神に不名誉なことです。神の御名をふさわしくない方法で口にすることが神を悲しませるのを知っていながら,それを簡単にあしらって,改めることを怠りますか。次のことを心にとめてください。「あなたは,あなたの神,主の名を,みだりに唱えてはならない。主は,み名をみだりに唱えるものを,罰しないでは置かないであろう」。(出エジプト 20:7)悪いことばを使うことに何かよさがあるという事はありません。悪いことばをいつも使う人は自分で気づかなくても,自分がどんな者かを表明しているのです。それは誇りにするようなことではありません。「彼らは高慢な言葉を吐き散らし,すべて不義を行う者はみずから高ぶります」― 詩 94:4。

      9 聖書は,今日,クリスチャンが舌を制しなければならないどんな理由を述べていますか。

      9 クリスチャンは「キリストの使者」となり,「星のようにこの世に輝」き,「暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを…語り伝え」,「世の光」となる権威を授けられています。(コリント第二 5:20。ピリピ 2:15。ペテロ第一 2:9。マタイ 5:14)この大きな誉れにふさわしい者となるため,小さくてしかも重要な器官である舌を厳重におさえ,神への奉仕において舌を使う目的をむなしくしないようにすべきです。今日,クリスチャンのことばと行ないはその伝える音信,そしてクリスチャンが代表している神に良くも悪くも反映します。建てられた神の御国の福音を伝え,光を掲げる者として,神に栄光を帰するには正しく光を掲げねばなりません。「あなたがたの光を人々の前に輝かし,そして,人々があなたがたのよいおこないを見て,天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」― マタイ 5:16。

      10 友人の選択に注意することは,今日なぜ大切ですか,

      10 ある人は思うままになんでもしゃべって,たとえそれが親しい友人に不利な影響を与えようと,自分のことばのもたらす結果に頓着しないように見えます。このような人を避けなければなりません。このように無分別な人と交わっていると,悪い感化を受けるおそれさえあります。悪い交わりは良いならわしをそこない,悪いことばのやりとりは礼儀を失わせ,悪友は道徳をそこないます。(コリント第一 15:33)それで友人の選択には注意しなければなりません。「イエスによって,さんびのいけにえ,すなわち,彼の御名をたたえるくちびるの実を,たえず神にささげ」ることを決意している人々を友にしてはいかがですか。―ヘブル 13:15。

      11 (イ)無分別で気ままなことばは,どんな結果になることがありますか。(ロ)ことばによって人を傷つけた時,どのように,そしていつそれを直すことができますか。

      11 「失礼しました」「そんなつもりではありませんでした」「つい,口をすべらしました」「考えが足りませんでした」。このような言いわけは,舌をおさえなかったために,はからずも加えた傷をある程度までいやすのに役だちます。しかし口に出す前に考え,心が舌を導いて建設的なことばを語らせるならば,そのほうがはるかに良いではありませんか。無考えなことばは,大きな害を与えます。気ままなことばは,たいてい無考えなことばです。それは不一致,分裂,心痛のもとになります。神と隣人を愛することを教えた二つの大きな戒めを守ろうとする人は,舌にくつわをかけなければなりません。しかし無考えなことばのために思いがけず他の人を傷つけたなら,誇りを捨てて謝罪し,許しを求めるだけの謙遜さが必要です。互いの仲が気まずくなるのを放置すべきではありません。それをさっそくいやすのが当然です。怒りを,日の没するまでつづけてはなりません。無分別なことばに対してつぐないをするのは良いことです。深くなるおそれのある傷をいやすだけでなく,神に対しても相手の人に対しても清い良心を持つことができます。―エペソ 4:26。使行 24:16。エペソ 4:31,32。マタイ 5:22。

      12,13 (イ)クリスチャンは「甘言」や「二枚舌」をなぜ使ってはなりませんか。(ロ)「甘言」に耳を傾けることはどのように危険ですか。

      12 今はダビデの次のことばが預言的に示していた時代です。「神を敬う人は絶え,忠信な者は人の子らのなかから消えうせました。人はみなその隣り人に偽りを語り,へつらいのくちびると,ふたごころとをもって語る。〔エホバ〕はすべてのへつらいのくるびる……を断たれるように。彼らは言う,『わたしたちは舌をもって勝を得よう,わたしたちのくちびるはわたしたちのものだ,だれがわたしたちの主人であるか』と」。(詩 12:1-4,〔文語〕)今日,「ふたごころ」を持つ人は,紀元前617年,しるしだけの数の人々がバビロンに連れ去られてのち,エルサレムになお残された不忠実な祭司や長老のようです。彼らの誇り,また異教の憎むべき偽りの崇拝を行なっていながらそれを正当化しようとした彼らの企ては,エゼキエルによって記録されています。「エホバは我らを見ず」。(エゼキエル書 第8,9章)ペテロはこのようなふたごころと二枚舌をいましめて次のように助言しています。「いのちを愛し,さいわいな日々を過ごそうと願う人は,舌を制して悪を言わず,くちびるを閉じて偽りを語らず」。(ペテロ第一 3:10)これは箴言 4章24節にあるソロモンのことばを繰り返したものです。「曲った言葉をあなたから捨てさり,よこしまな談話をあなたから遠ざけよ」。「二枚舌」を使わないことは,クリスチャン会衆の補佐のしもべたちに対する要求の一つです。甘言や美辞,敬虔ぶったあいさつの言葉は純朴な人々の心を欺くために用いられます。―テモテ第一 3:8。ローマ 16:18。マタイ 23:6,7。

      13 今日,多くの人は耳ざわりの良い事柄を聞こうとします。“楽な宗教”が好まれます。人々は安心立命の感を与える事柄を聞くことを望み,責任感に目ざめさせるような事柄を聞くことを必ずしも好みません。パウロは「人々が健全な教に耐えられなくなり,耳ざわりのよい話をしてもらおうとして,自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め,そして真理からは耳をそむけ」る時がくると述べました。(テモテ第二 4:3,4)ゆえに甘言を弄する人,耳ざわりのよい話に終始する人に警戒しなければなりません。「その口は牛酪よりなめらかだが,その心には戦いがある。その言葉は油よりもやわらかだが,それは抜いたつるぎである」。それはいやせない害を与えるかもしれません。ダビデは詩篇 55篇21節に記録されたこのことばを良く述べることができました。イエスの時代にも(イザヤの時代と同じく)このようなことばが聞かれたので,イエスは預言者イザヤをとおして告げられた神のことばを引用して,それを非とされました。「この民は,口さきではわたしを敬うが,その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え,無意味にわたしを拝んでいる」― マタイ 15:8。イザヤ 29:13。

      舌を積極的に善用する

      14 舌を制することには何が含まれていますか。

      14 舌を制するとは,神と人を汚すことばを口から出さないというだけのことではありません。間違いをしないでいれば上役からよく見られるというわけではないのと同じです。ゆえに積極的な面があります。舌を制するとは創造者に誉れとなり,自分にも人にも名誉となるように舌を使うことです。エホバ神の御名,主権,御国を支持するために舌を使うのは,大事なことです。クリスチャンはそれをするために毎日いくらかの時間をとることを決心しなければなりません。それを決意すべき時は今です。今ほどの好機会はありません。―コロサイ 4:5,6。

      15 どんないろいろな面で,舌はいやす働きをしますか。

      15 今日,生活のほとんどあらゆる分野において,建て起こすために舌を使うことができます。「おりにかなって語る言葉は,銀の彫り物に金のりんごをはめたようだ」。(箴言 25:11)「つるぎをもって刺すように,みだりに言葉を出す者がある,しかし知恵ある人の舌は人をいやす」。(箴言 12:18)舌を完全に制することは,現存する悪の事物の制度の下において不可能かもしれません。しかし舌を用いていやすわざを,現在行なっている以上にすすめることは,たいていの人にとって可能です。家庭においてもだれかが病気の時,あるいはけがをした時,悲しみの時,健康や安全,失敗などについて心配事のある時,いやす力のあることばを出すことができます。他の人からきらわれるのを心配したり,孤独を恐れる人を慰めることもできます。洞察力のある人は価値ある事柄を語り,心配事を克服するのを援助できます。「心に憂いがあればその人をかがませる,しかし親切な言葉はその人を喜ばせる」― 箴言 12:25。

      16 真の慰めはどのようにする時にのみ与えられますか。どうしてですか。

      16 医者が治癒あるいは回復をもたらす方法を知らなければ,医者の役にたちません。それと同じく,必要とする人々に「福音」を伝える方法を知らなければ,語ることができません。それで舌を制するとは,舌を効果的に用いることです。神のことば聖書を熱心に学ぶことは大きな報いをもたらします。あらゆる慰めの神のことばである聖書は,真の慰めの唯一の源です。舌を制して善用するには,エホバ神の導きを求めなければなりません。預言者イザヤはイザヤ書 50章4節(文語)にこう述べました。「主エホバは教をうけしものの舌をわれにあたへ言をもて疲れたるものを扶支ふることを知得しめたまふ」。疲れた者を慰めるには,教えを受けた者の舌が必要であり,エホバにそれを求めることができます。正しい者の祈りはエホバに喜ばれます。「義人の祈は,大いに力があり,効果のあるものである」。このような祈りは働くものであり,わざを伴っていなければなりません。―ヤコブ 5:16; 2:14-26。

      17 舌を正しく導くものはなんですか。

      17 舌を正しく用いるには心を教育しなければなりません。真理で心を養うことが必要です。また神の活動力すなわち聖霊によって心が導かれるならば,舌は「エホバの言」を語ります。「エホバの言はきよきことばなり地にまうけたる爐にてねり七次きよめたる白銀のごとし」。(詩 12:6,文語)今日,神の導きを祈り求め,それを受け入れ,エホバに仕えるために献身した人々がいます。「エホバよなんぢの大路をわれにしめしなんぢの径をわれにをしへたまへ我をなんぢの真理にみちびき我ををしへたまへ汝はわがすくひの神なり」と,彼らは願いました。(詩 25:4,5,文語)そこで彼らは神を喜ばせる事柄をするために時間,力,自分たちの持つものを使います。彼らの組織は語る者から成っています。彼らは舌を制するために努力しますが,沈黙することはありません。舌を使わなければ,彼らはかえって当惑するばかりか,自分たちの使命に対して不忠実となります。(コリント第一 9:16)ゆえに彼らは理知をもって賛美することの必要を悟っています。それで聖書を研究するのです。

      18 会衆での研究はどのように大切ですか。しかし神の崇拝の一部としてほかにも何が必要ですか。

      18 神に受け入れられる崇拝をするには,聖書を研究しなければなりません。個人的な研究はぜひとも必要ですが,それだけでは不十分です。そこでエホバの証人は,(政治的であると宗教的であるとを問わず,神に敵対する悪魔的な支配者が全体主義的な法律によって集会を禁止している国を除き)全世界で週に5回の集会を開いて神のことばを一緒に学び,また神を賛美するために舌を正しく用いることを学んでいます。神の崇拝には集まる以上のことが関係しています。神の是認を得るには,単に音信を聞くだけでなく,それに従って行動しなければなりません。舌を制することと神の崇拝とはこうして密接に関連しています。神のしもべは家庭で家族そろって,友人との交際において,職場で,学校で,遊びの時にも,日毎に神を賛美しなければなりません。神を賛美するために舌を正しく使うことを,一時的にしてもやめることはできないのです。「わたしたちは,全世界にも,天使にも人々にも見せ物にされた」ことを忘れてはなりません。―コリント第一 4:9。ヤコブ 1:22。

      19,20 (イ)特に喜ばしい舌の用い方について述べない。(ロ)援助を受けた人々には,避けられないどんな責任がありますか。

      19 戸別訪問による宣教において日毎に神を賛美することも,見のがせません。このことに舌を用いるのは大きな喜びと報いをもたらします。このような奉仕において舌はためされ,また善のための真の力となります。心の正しい人々は神の恵みを得るために何をすべきか,どうすれば「善意の人」となって生命が得られるかを知ろうとしています。エホバの証人は「いのちの言葉」をこのような人々のもとに携え,家庭で一緒に聖書を学び,生命の道を歩むためにどうすべきかを示して,生命を救うわざを行なっており,その特権に喜んでいます。イエスを捕えるためにつかわされた者たちが,この人のように語った者はいませんと報告したのと同じように人々が語るのも当然です。それは人々がふだん聞いている事柄と全く異なっています。

      20 義にかわく,心の正しい人は,援助を受けて真理の正確な知識を学ぶと,受けたいま,今度は与える責任があることを悟ります。イエスが言われたように,それは喜ばしい特権です。(使行 20:35)ソロモンの次のことばがその人々にあてはまります。「あなたの手に善をなす力があるならば,これをなすべき人になすことをさし控えてはならない。あなたが物を持っている時,その隣り人に向かい,『去って,また来なさい。あす,それをあげよう』と言ってはならない」。(箴言 3:27,28)どんな理由であれ,生命に通ずる知識を与えずに口をとざしていることは,その知識を与えなかった人と与えられなかった人の両方が生命を得そこなう結果となります。しかし舌を正しく用いるならば,両方の人が生命を得ます。「『〔エホバ〕が言われる。わたしは生きている。すべてのひざは,わたしに対してかがみ,すべての舌は,神にさんびをささげるであろう』と書いてある。だから,わたしたちひとりびとりは,神に対して自分の言いひらきをすべきである」― ローマ 14:11,12,〔新世訳〕。

      21 さらにどんな援助が与えられていますか。

      21 今日,人は神を喜ばせるために必要な真理を聖書から掘り出す能力を持たなくても,悲観する必要はありません。エホバは時期にかなった霊的食物を備えさせるため,「忠実な思慮深い僕」の組織を地上に持たれています。(マタイ 24:45-47)この組織は今日,全世界2万4900の会衆を傘下におさめています。あなたのお近くにも会衆があります。その集会の場所には「エホバの証人の御国会館」という名前が掲げられています。この組織はあらゆる国の人々を援助するため,166か国語で聖書研究の手引きを出版しており,また71か国語で現在495万部の「ものみの塔」誌を発行しています。それに加えてこの組織と交わる110万人以上の人々は,宇宙の至上主権者エホバ神をほめるために舌を用い,隣人愛を示すわざに忙しく励んでいます。天の父を知り,「救われて,真理を悟る」ように人々を助けるため,あらゆる人種,言語また宗教の人々をたゆまず訪問することが行なわれています。それは隣人愛の表われです。(テモテ第一 2:4)このように援助するためにこの人々がおとずれたならば,迎え入れてください。

      22 アダムとエバはどんな致命的あやまちをしましたか。ゆえに今日すべての人は何をすることを決意すべきですか。

      22 人類共通の親アダムとエバは,神のかたちとさまに造られ,創造者をほめるために完全に舌を用いる能力を疑いなく持っていたにもかかわらず,舌を誤用した偽りの元祖,悪魔の側について創造者の名誉を汚しました。ふたりは生命の権利を失いました。神から授けられた器官である舌を正しく用いる特権が,今日の人間にさしのべられています。真理を求めるすべての人は,言語能力をも含めあらゆる良い賜物の与え主であられるエホバを認め,自分のすべてをエホバにささげねばなりません。義の永遠の御国が治める神の新しい秩序は,目前に迫っています。その新しい秩序の下で「息のあるすべてのもの」はエホバをほめるでしょう。(詩 150:6)逆に言うと,ほめない者は息のあるもののうちにはいることができません。今は創造者をほめるために舌を用いる「恵みの時」です。(コリント第二 6:2)各人の祈りは次のようなものでなければなりません。「エホバわが磐わが贖主よ わがくちの言わがこゝろの思念なんぢのまへに悦ばるゝことを得しめたまへ」― 詩 19:14,文語。

  • おぼえていますか
    ものみの塔 1967 | 12月1日
    • おぼえていますか

      あなたは最近の「ものみの塔」を注意深くお読みになりましたか。そうであるならば,次の重要な点がおわかりになるでしょう。

      ● 寂しさをまぎらすものはなんですか。

      有意義な仕事。他の人に関心をはらう。他の人を霊的に助ける。祈り。―355,356頁。a

      ● 神が悪を終わらせることはどうしてたしかですか。

      神は悪を終わらせることをくりかえし約束されている。また過去における処置の仕方は神が悪を終わらせることの保証。―357,358頁。

      ● イエスが金持ちとラザロのたとえ話をされたとき,金持ちとラザロはだれを表わしていましたか。

      金持ちはイエスが話していた金を愛するパリサイ人を表わし,したがって一つの級としての宗教指導者を表わした。こじきのラザロは支配階級からはさげすまれ,ユダヤ人の中で貧しく,霊的に貧しくされた人々をおもに表わした。―402,403頁。

      ● アブラハムのすえにふりかかる400年の悩みは,いつ始まりましたか。(創世 15:13)

      紀元前1913年,エジプト人ハガルのむすこイシマエルがイサクをあざけった時に始まった。400年後の紀元前1513年,神はイスラエル人をエジプトの奴隷のくびきから解放された。―452頁。

      ● エホバの組織とともに「前進する」とはどういうことですか。

      人の先に出る事ではなく,組織と共に進むことで,適当な場所を占め,必要を満たし,大きな務めを受け入れられるようにすること。―527,528頁。

      ● 昔のイスラエルにおいて,新婚の若者が,1年間,兵役を免除されたのはなぜですか。

      それは妻のためであり,また彼の世継ぎである子供をもうけ,その顔を見る機会を得るようにとの配慮からなされた。―533,534頁。

      ● ハルマゲドンの戦いが「神の大宴会」と呼ばれるのはなぜですか。

      ハルマゲドンで殺された者は,腐肉をついばむ鳥の餌食となる。この勝利は悪の終わったことを心ゆくまで享受できるので生き残った人々にとってもうたげとなる。―570頁。

      ● 自制心を培うどんな方法がありますか。

      エホバの御霊を求めて祈る。日毎に聖書を読みまた研究して平衡を得る。聖書の原則や勧めを生活の諸問題に適用する。よろこんでこらしめを受け入れる。―587,589頁。

      ● 実体的贖罪の日はどれくらいの長さですか。

      西暦29年の秋イエスが犠牲の道を歩んで神のみこころを行なうようご自分をささげた時に始まった。イエスがご自身の生命の血の価値を天にたずさえいれられた,西暦33年に終わった。―622頁。

      ● ニサンの16日に,イスラエルの大祭司が大麦の初穂をささげたこと,また50日後のペンテコストに種を入れて焼いた二つのパンをささげたことは,なにを予表しましたか。

      大麦の初穂は死人の中から最初に生まれた者すなわち初穂としてのイエス・キリストを表わし,またパンは霊によって生まれたキリストのからだの成員の14万4000人全員がキリスト・イエスにより,清いものとしてエホバの前に揺り動かされる,つまりささげられたことを象徴した。―631,632頁。

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