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    ものみの塔 1967 | 10月1日
    • 自制心を培いそして表わす

      「御霊の実は……自制であ(る)」― ガラテヤ 5:22,23

      1 自制は何にたとえることができますか。なぜ?

      天然の真珠には価値があります。それは珍重されます。しかしそれは努力なくして得られるものではありません。ペルシャ湾は品質の最もすぐれた天然真珠のとれる所とされていますが,ここの真珠採取夫は真珠貝のある海床まで1日25回から30回もぐり,一度に約十ぐらいの貝をとって水面にあがります。ダウつまり沿岸航行用のアラビアの帆船には40人から50人が乗り組み,その半分が潜水夫です。しかしこう伝えられています。「良質の真珠がとれることは非常に少ない。たとえば1947年,ある船は1週間に3万5000の真珠貝を採取したが,それから得られた真珠はわずかに21であった。そのうち商業的な価値のある良質のものは3つである」。(アメリカナ百科事典,1956年版第21巻455頁)希少で価値の高いほんとうの真珠は自制という資質のたとえとすることができるでしょう。この「終りの時」にこれはまれな資質となっているではありませんか。「無節制な者」がなんと多いことでしょう。―テモテ第二 3:1-3。

      2 自制を定義しなさい。

      2 クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で自制と訳されるギリシャ語は「エグクラティア」で,これは『自己統制,自己制御。楽しみ事における節度,中庸。欲情の支配,統御』という意味です。(ジェームス・ドネガン編「新希英辞典」,1836年,423頁)「ウェブスター第三新国際辞典」によれば,自制とは「自己の制御。自分の衝動,感情,願望などを抑制すること」です。また,自制は精神的また身体的な力の平衡と安定を保ち,それらを制御することであるとも言えるでしょう。クリスチャンはこの願わしい資質をもつことができます。クリスチャンは神の聖霊を受けており,「御霊の実は……自制[エグクラティア]であ(る)」からです。(ガラテヤ 5:22,23)しかし,ほんとうの真珠を求める者が勤勉に働かねばならないと同じく,霊に満たされるクリスチャンは,この自制という真珠のように価値ある資質をつちかい,発揮するため,熱心に努力しなければなりません。

      3 自制はクリスチャン生活にどれほど大切ですか。

      3 キリストの生涯は『克己(つまり自制)のかがみ』とされています。キリストに従う者の生活において自制が少なからぬ役割を占めることは,1900年前,総督フェリクスの前に立たされた使徒パウロが,「正義,節制(エグクラティア),未来の審判などについて」論じたことに明らかです。自制はきわめて大切なので,パウロはローマ総督フェリクスの前で,特にこの点を論じたのです。―使行 24:24-27。

      4,5 (イ)この事物の制度の終わりが近づくにつれ,自制のあるクリスチャンは何に耐えることができますか。(ロ)エホバの証人が迫害下にあって自制を示した現代の例をあげなさい。

      4 自制は19世紀前のクリスチャンに重要な資質でしたが,その重要さは今日でも変わりません。この事物の制度の終わりが近づくにつれ,緊迫した,不安の時代が到来し,嘆き悲しむ人さえ多くなるでしょう。高まる緊張にあえぐ人があっても,神の霊を得て自制心をもつクリスチャンは心の平衡を保てます。自制心のあるクリスチャンは生活上の諸問題に耐えるだけでなく,激しい迫害のあらしを切り抜けることができるでしょう。クリスチャンはそのことをすでに実証しています。もとより,強い反対や激しい迫害に処するには,クリスチャンの種々の資質がそれぞれに必要です。しかし,その一つとして自制が大いに求められることは疑いありません。むずかしい事態に面して信条を容易に放棄する人は少なくありませんが,昔のクリスチャンは色々の面で自制心を示し,死に面しても動揺しませんでした。これら史上の事実についてここで証拠をあげる必要はありません。(「目ざめよ!」1962年10月8日号20,21頁,および「ものみの塔」1958年5月15日号185-187頁をごらんください)しかし現代において,自制心のあるクリスチャンが,極度の圧迫に面しても信仰を動揺させなかったことを,ここで述べましょう。

      5 プリンストン大学のエベンスタイン教授は自著「ナチス国家」の中でエホバの証人について書いています。「証人たちがその宗教上の信念のためのたたかいをあきらめなかったとき,彼らに対して恐怖の運動が開始された。それはドイツナチス主義の他の犠牲者になされたいかなる行為をもしのぐ激しいものであった……収容所内のエホバの証人に対する虐待はユダヤ人,平和主義者,共産主義者などの受けた処遇よりひどかった。これは小さな宗派であるとは言え,その一人一人は滅ぼすことはできても決して攻略することのできない要さいのように強い」。リチャード・マシソンも「神は百万長者」の中で,エホバの証人に対する迫害について書いています。「こうした迫害のすべては長く続いてきた。……そしていたずらに伝統をふりまわす者たちは,迫害されたこの少数者の不動の勇気から教訓を学べるであろう。朝鮮戦争中,安易な新教主義の産物,およびわれわれの兵学校や高等教育機関の産物は,共産主義の強圧的かつ巧みな洗脳のまえに幾十人となくくずれおちた。この問題を調査した米国国防当局はその結果に赤面した。数は少なかったが戦争捕虜として終わったエホバの証人は……共産主義への転向をはかる科学的また心理的努力に対し,一人のこらずよく耐えた。これは多くの愛国的な陸軍士官学校卒業生よりすぐれている」。強い迫害に耐えるため自制がクリスチャンに必要な資質の一つであることは明らかです。もとよりこの資質は,エホバの奉仕者としての生活の他のいろいろな面にも求められます。しかし,この価値ある真珠をどのようにして得ることができますか。

      この御霊の実をどのようにして得るか

      6,7 (イ)自制を養って示すため基本的に必要なことは何ですか。(ロ)自制を求めるクリスチャンの祈りはどんな態度のものでなければなりませんか。

      6 イエス・キリストはあるとき言われました。「あなたがたは悪い者であっても,自分の子供には,良い贈り物をすることを知っているとすれば,天の父はなおさら,求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。(ルカ 11:13)強い保証のことばではりませんか。事実,エホバの霊によって自制を身につけることを熱心に祈り求めるクリスチャンは,その点で失望に終わることはありません。「何事でも神の御旨に従って願い求めるなら,神はそれを聞き入れて下さる」からです。(ヨハネ第一 5:14,15)それで,自制をつちかい,それを示すことを願うクリスチャンとして,神の霊がこの貴重な資質となって自分の中に表われることを,キリストを通じてエホバに祈らねばなりません。(ヨハネ 14:6,14)そして自制心を保つには不断の努力が求められますから,「絶えず祈りなさい」,「常に祈りなさい」,「身を慎んで,努めて祈りなさい」という勧めに従うことが必要です。(テサロニケ第一 5:17。ローマ 12:12。ペテロ第一 4:7)このすべては良い助言です。

      7 エホバの霊と自制を求めるクリスチャンの祈りに必要なのは誠実さと謙遜さです。自分の心の中に何か平静を失わせるものがあるなら,昔のダビデがしたごとくにエホバに祈るべきです。ダビデは懇願しました。「神よ,どうか,わたしを探って,わが心を知り,わたしを試みて,わがもろもろの思いを知ってください。わたしに悪しき道のあるかないかを見て,わたしをとこしえの道に導いてください。(詩 139:23,24)エホバの助けをこうして謙遜に,熱心に求めるなら,必ず結果を見ることができるでしょう。

      8,9 (イ)平衡を得て保つため,祈りのほかに何が必要ですか。(ロ)この点でクリスチャンの集会はどんな役目を果たしますか。

      8 しかし祈るだけでなく,自制という真珠を大切にするクリスチャンは,心の平衡を得て,それを保つため,日毎に聖書を読み,聖書を勉強しなければなりません。ヨシュアは次の忠告を受けました。「この律法の書をあなたの口から離すことなく,昼も夜もそれを思い,そのうちにしるされていることを,ことごとく守って行わなければならない。そうするならば,あなたの道は栄え,あなたは勝利を得るであろう」。(ヨシュア 1:8)こうして神の律法のことを絶えず考え,聖書の教えを自分にあてはめるなら,知恵だけでなく,心の平衡や自制を身につけられます。そしてエホバを常に自分の前におく人はよろめくことがありません。―詩 16:8。

      9 しかし,聖書の教義,律法,原則などに対する理解は自動的にもたらされるものではありません。神が人を扱うのはご自分の地上の組織を通してです。(マタイ 24:45-47)西暦33年五旬節の聖霊降臨後,キリストの追随者は人の家に集まりました。それは単に食事を共にして楽しく交際するためでなく,共にエホバを賛美するためでした。彼らが開いた会衆の集会は,信者が互いに助け,霊的に励まし合う機会になりました。(ヘブル 10:24,25。マタイ 18:20。使行 2:46,47)これは今日でも同じです。クリスチャンの集会に行くなら,自制を含め,神の霊の実をつちかうのに肝要な,霊的な教えを受けることができます。またこのような会合は,そうした資質が実際に示されるのを見る機会でもあります。

      10 クリスチャン宣教に定期的に携わることは平衡を保つのにどう役だちますか。

      10 クリスチャン宣教を定期的に行なうことも非常に大切です。それは平衡の維持に役だちます。宣教奉仕者として直面する質問や反論に巧みに処するとき,円熟性を養い,自制心をつちかうことができます。宣教で得る経験は心の平静と自己統御を保つのに役だちます。その経験とエホバの助力とを得るなら,たとえ人に挑発されても,「いつも,塩で味つけられた,やさしい言葉を使う」ことができ,「ひとりびとりに対してどう答えるべきか,わかる」でしょう。―コロサイ 4:6。

      11 霊的な見方をすることはどんな助けになりますか。

      11 神のことばを勉強し,御国の事柄をつとめて追い求めることも,霊的な心を養うのに役だちます。聖書を導きとし,その教えに従うことによって生活上の問題は解決し,あるいは少なくとも軽減するでしょう。霊的な物の見方のできる人は心の平衡がとれています。その人は自制心をもち,幸福です。それで,自分の心をいつも神のお考えで満たしてください。何か問題が起きるときには,必ず聖書に従って考え,聖書の原則を適用してください。それによって,貴重な真珠とも言うべき自制心を得,それを守ることができます。―コリント第一 2:6-16。

      12,13 自制について考えるにあたり,習慣について何を言うことができますか。

      12 すべてのことに節度を守り,つとめて良い習慣をつけることも,自制を養う助けになります。クリスチャンの監督は「慎み深」い人でなければなりません。しかしそうあらねばならないのは会衆内で監督一人ではありません。パウロは述べました。「女たちも,同様に謹厳で……なければならない」。(テモテ第一 3:2,11)そしてテトスにあててこの使徒は書きました。「老人たちには謹厳で,慎み深く……あるように勧めなさい」。(テトス 2:2)それで節度と良い習慣はクリスチャンに絶対に必要です。「慎み深く」あることにつとめ,同時にその習慣がすべて良いものであることを確かめなさい。これはあなたの自制心を増進させるでしょう。

      13 しかし注意してください! 他の人があなたの平衡を失わせることがあります。あなたはいま,有益なクリスチャンの習慣を身につけているかもしれません。しかし自分の交際に気をつけねばなりません。「悪い交わりは,良いならわしをそこなう」。(コリント第一 15:33)悪い仲間があなたをクリスチャンの交友から離し,世を愛する者にならせるかもしれません。このような事態を決して許してはなりません。「世と世の欲とは過ぎ去る」からです。友だちの選択にあたってはどうしても自制を発揮しなければなりません。―ヨハネ第一 2:15-17。

      14 自制を養うため,交わる人をどのように扱うべきですか。なぜ?

      14 友だちを選んだなら,その人々とどのように接しますか。自制を養うことを願っているなら,友だちと接するとき思いやりをもち,時に相手の立場に立って考えねばなりません。(マタイ 7:12)人に対してはつとめて善意をもって接しなさい。これは人を疑うこと,たとえばだれかが自分にことばをかけずに通り過ぎる場合に,自分を故意に無視したなどと考えるよりはるかにすぐれています。物事に対し平衡のとれた見方をしてください。自制を働かせ,洞察力をもってください。それは自分の益になるでしょう。「つつしみて御言をおこなう者は益をうべし,エホバにより頼むものは幸福なり」。このことを忘れてはなりません。―箴言 16:20,文語。

      15 こらしめを受けることについてどんな態度をとるべきですか。

      15 クリスチャンとして自制をさらに養うため,謙遜な態度でこらしめを受け入れることも必要です。聖書やクリスチャンの出版物を読み,そこに見出す戒めが自分に対するこらしめとなる場合もあるでしょう。あるいは,クリスチャンの監督からこらしめを受ける場合もあります。そして監督自身も必要に応じてこらしめを受けています。聖書的なこらしめ,またクリスチャンのこらしめをなぜ退けるのですか。それはすべて神から来るのです。「エホバはその愛する者をこらしめ」られるからです。(ヘブル 12:6)自制という真珠を得る方法について考えたいま,それを実際に用いた場合の価値を評価してみましょう。

      自分の気持ちと舌と考えを制御しなさい

      16 (イ)自分の気持ちを押えない人を何にたとえることができますか。(ロ)だれの気質は注目に値しますか。

      16 昔,城壁のない町,あるいは敵軍によって城壁を破られた町は全く救いようがありませんでした。しかし,自分の気持ちを制御できない人はこれと全く同じです。箴言 25章28節は述べています。「自分の心を制しない人は,城壁のない破れた城のようだ」。そのような人に真の心の平衡はありません。またその人は物事を見る力をも欠いています。箴言 19章11節は,「悟りは人に怒りを忍ばせる」と述べているからです。そのような人はキリストのことを考えるべきです。イエスはご自分について,「わたしは柔和で心のへりくだった者である」と言われました。そして柔和な者は幸福であると言われました。(マタイ 11:29; 5:5)それで,怒りを爆発させたいような気持ちになるなら,イエスのことばをよく考え,その模範にならいなさい。―ヘブル 12:1-3。

      17 不完全な人間でも自分の気持ちを押えられますか。答えの実証となるものをあげなさい。

      17 しかし,イエスは完全な人間だから気持ちを押えるのは容易だったのであって,不完全な人間の場合には事情が違うと思う人がいるかもしれません。しかしほんとうにそうですか。アブラハムとロトは心の正しい人であったとは言え,やはり不完全な人間でした。(創世 15:6。ペテロ第二 2:7)二人の家畜を飼う牧夫が激しく争うようになったとき,アブラハムとロトは何をしましたか。「アブラハムはロトに言った,『わたしたちは身内の者です。わたしとあなたの間にも,わたしの牧者たちとあなたの牧者たちの間にも争いがないようにしましょう』」。二人は別れましたが,「身内の者」として友好的な関係を失いませんでした。(創世 13:5-12)クリスチャンはみな霊的な兄弟ではありませんか。もちろんそうです。それではクリスチャンも,怒りの気持ちではなく,自制心をもって問題を解決すべきです。怒りの気持ちで事にあたるのはいかにも非クリスチャン的ではありませんか。

      18 気持ちを押えることについて,クリスチャンはだれの道にならい,だれの道を避けますか。

      18 怒りにまかせて暴虐に走り,結果として良い祝福を失ったヤコブのむす子,二人の肉親の兄弟のことを覚えておられるでしょう。ヤコブはむすこたちに対する臨終の祝福の中でこの二人について述べました。「シメオンとレビは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。わが魂よ,彼らの会議に臨むな。……彼らの怒りは,激しいゆえにのろわれ,彼らの憤りは,はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け,イスラエルのうちに散らそう」。(創世 49:5-7)ヤコブのこの乱暴なむすこたちは怒りの気持ちで過酷に行動しました。彼らは自制を欠いていました。しかしアブラハムとロトには自制がありました。クリスチャンはシメオンとレビの道を避け,アブラハムとロトの道にならうべきです。

      19 気持ちを押えないならどんな結果になりますか。それで聖書のどんな戒めに従うべきですか。

      19 気持ちをおさえないなら人との関係は傷つけられます。それは知恵がないことのしるしです。箴言 29章11節は述べています。「愚かな者は怒りをことごとく表わし,知恵ある者は静かにこれをおさえる」。昔の集合者が語ったことばは適切です。「耐え忍ぶ心は,おごり高ぶる心にまさる。気をせきたてて怒るな。怒りは愚かな者の胸に宿るからである」。(伝道 7:8,9)自己本位であるのは知恵のしるしではありません。そして,「怒りやすい者は愚かなことを行い」ます。(箴言 14:17)それで,すぐに怒りに走ってはなりません。ささいな事柄を超越しなさい。「われ悪に報いんと言ふことなかれ,エホバを待て,彼なんぢを救はん」。(箴言 20:22,文語)「柔らかい答は憤りをとどめ,激しい言葉は怒りをひきおこす」ことを心にとめて,他の人の怒りをかわす道を求めなさい。(箴言 15:1)たとえ人から腹だたしいしうちを受ける場合でも,事態を正すためはやく行動しなさい。パウロのことばに注意してください。「怒ることがあっても,罪を犯してはならない。憤ったままで,日が暮れるようであってはならない」― エペソ 4:26。マタイ 5:23,24。

      20 ヨハネは自分の兄弟を憎む者について何と述べましたか。それでクリスチャンはどのように行動すべきですか。

      20 クリスチャンは自制を失って怒ってはならず,また愛のかわりに憎悪を示したり,あるいはうらみの気持ちをいだいたりしてはなりません。(箴言 26:24-26)もしそうするなら,その人はまだやみにいます。使徒ヨハネは述べました。「兄弟を愛する者は,光におるのであって,つまずくことはない。兄弟を憎む者は,やみの中におり,やみの中を歩くのであって,自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである」。(ヨハネ第一 2:9-11)どのような場所にいても,また周囲の事情がどのようであっても,自制を保つことにつとめねばなりません。たとえば家庭においては,きびしい夫,口うるさい妻,不平をいう,気のみじかい子供となってはなりません。(コロサイ 3:18-20)気持ちを制御しないなら,怒りと後悔を生む結果になります。しかし,きびしくするかわりにやさしくし,批判的であるかわりに思いやり深くし,気みじかであるかわりに柔和であるなら,神の是認を受けることができるでしょう。

      21,22 舌を押えるため聖書のどんな助言に従うべきですか。

      21 当然のことながら,気持ちを押えるためには自分の舌を押えねばなりません。ヤコブは書きました。「同じ口から,さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は,あるべきでない。泉が,甘い水と苦い水とを,同じ穴からふき出すことがあろうか。わたしの兄弟たちよ,いちじくの木がオリブの実を結び,ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができようか。塩水も,甘い水を出すことはできない」。(ヤコブ 3:10-12)ヤコブはここで人が口で語る事柄について述べており,彼が強調している点は明らかです。クリスチャンは自分の舌を制御せねばなりません。

      22 クリスチャンの生活にひわいな話,うわさ,悪口などの占める場所はありません。パウロはエペソ人に述べました。「悪い言葉をいっさい,あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば,人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って,聞いている者の益になるようにしなさい。……すべての無慈悲,憤り,怒り,騒ぎ,そしり,また,いっさいの悪意を捨て去りなさい」。(エペソ 4:29-31)不潔なことばを避けなさい。他の人について語るときには注意しなさい。(詩 15:1-3)うわさ話を広めるだけでなく,それに耳を貸すことも避けなさい。話は繰り返されるにつれ,しだいに尾ひれがついてゆきます。こうしてうわさ話はやがて人に対する悪口となりかねません。イスラエル人はこうした悪口を言うことについて戒められていました。「民のうちを行き巡って,人の悪口を言いふらしてはならない」。(レビ 19:16)こうした戒めに注意を払ってください。こうして自分の舌をおさえねばなりません。

      23 クリスチャンはどのように自分の考えを制御できますか。どんな考えは捨てるべきですか。

      23 しかしうわさ,悪口,ひわいな話などを避けるとすれば,自分の考えも制御しなければなりません。それで,みだらで不潔な事柄が心にうかぶなら,自制を働かさねばなりません。正しいこと,清いこと,愛すべきこと,ほまれあること,徳のあること,そして称賛に価することを心におき,こうした事柄について考えなさい。(ピリピ 4:8,9)自制心を増し加えてくださるようエホバに祈りなさい。このためには物質主義的な考えとわずらいを心から去らせねばなりません。イエスの言われたとおり,「たといたくさんの物を持っていても,人のいのちは,持ち物にはよらない」のです。(ルカ 12:15)それゆえ,なぜ心配するのですか。エホバは飲食また身につける物について,わたしたちに何が必要かをご存じです。キリストは賢明にも言われました。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば,これらのものは,すべて添えて与えられるであろう」。(マタイ 6:25-34)すぐれた忠告ではありませんか。自制を働かせながらこれに従いなさい。そのとき,あなたは真に幸福になるでしょう。

      食べること,飲むこと,レクリエイションに自制を示しなさい

      24 (イ)むさぼりまでいかなくても,食べすぎがどんな結果になることがありますか。(ロ)飲酒に自制しないことからどんな結果の生まれることがありますか。

      24 飲食物を得ることに必要以上に心を用いてはなりませんが,それを得た場合にも自制を示さねばなりません。箴言 23章20,21節はこう戒めています。「酒にふけり,肉をたしなむ者[むさぼりくらう者,新世訳]と交わってはならない。酒にふける者と,肉をたしなむ者[むさぼりくらう者,新世訳]とは貧しくなり,眠りをむさぼる者は,ぼろを身にまとうようになる」。もとより,人はあからさまなむさぼりとなるほどに物を食べないかもしれません。しかし食べ過ぎが,怠惰で実のない宣教となり,クリスチャンの集会における眠気となることがあります。それで,食べることについて自制を働かせなさい。そして,決して酒に酔ってはなりません。酒に酔うのは人の品性をおとすことです。さらに,クリスチャンが酒に酔うなら,人をつまずかせ,エホバの組織に非難をもたらす結果にもなるでしょう。酔酒は人の全生涯を容易に滅ぼします。習慣的で,悔い改めのない酔酒者はクリスチャン会衆から排斥されなければならないからです。自制の欠如がきびしい結果となってかえって来るではありませんか!―コリント第一 6:9,10。

      25 レクリエイションを求める場合に,クリスチャンは何を忘れてはなりませんか。

      25 くつろぐ場合でも,神を喜ばせようとするなら,クリスチャンは自制を忘れてはなりません。レクリエイションを楽しむにも節度が必要です。たとえばスポーツをする場合には,その正しいありかたを忘れてはなりません。パウロはこう書きました。「からだの訓練は少しは益するところがあるが,信心は,今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので,万事に益となる」。(テモテ第一 4:8)真のクリスチャンはレクリエイションを求める場合でも,堕落した肉の不完全な傾向を押え,自分を高揚させる楽しみを選びます。しかし真のクリスチャンは夜ふかしをしないようにも注意します。夜ふかしは健康をそこなうだけでなく,宣教を効果的に行なうことの妨げとなるでしょう。それでクリスチャンは,たとえば土曜日の晩には早く床につき,日曜の朝に新鮮な気持ちで宣教を行なえるようにします。レクリエイションのためにむやみに精力を浪費するのは愚かです。それは自制の欠如であり,レクリエイションの目的を逸しています。賢く行動しなさい。節度を守り,生活のこの面にも自制を示しなさい。

      26 自制を得,示そうとする努力に価値があることを述べなさい。

      26 それで,美しくまれな天然真珠と同じく,自制は誠実な努力なくしては得ることも向上させることもできません。しかし,これを得,発揮しようと懸命に努力することには価値があります。その価値と大切さを考えてごらんなさい。この終わりの時代に自制を養い,発揮するなら,エホバを喜ばすことができます。そして,エホバに忠実を保つなら,今日だけでなく,エホバの約束される新秩序においてもエホバの祝福を受けて幸福になるでしょう。(ペテロ第二 3:11-13)事実,エホバの賛美と御国の福音の伝道のために果たすべきことの非常に多い今日,自制はクリスチャンの進歩に肝要な資質です。

  • 自制は進歩に肝要
    ものみの塔 1967 | 10月1日
    • 自制は進歩に肝要

      「あなたがたの信仰に……節制を……加えなさい」― ペテロ第二 1:5,6。

      1,2 (イ)古代ギリシャの運動家にはどんな鍛練が要求されましたか。(ロ)運動家とクリスチャンの双方にどんな資質が特に必要ですか。パウロはそのことをどのように述べていますか。

      「オリンピアの競技で賞を得たいか ― では,そのために必要なことを考えてみたまえ。まず厳重な摂生が必要である。君は自分のきらいな物を食べ,おいしい物をすべて断ち,暑い時にも寒い時にも定められた通りに必要な鍛練をしなければならない。そして冷たい飲み物をいっさい避け,これまでのように酒を飲んではならない。ひと言で言えば,君は医師の指図に従うかのように,拳闘家の指図に従い,かくしてのち試合場に臨むのである。ここで君は腕を折られ,足の関節をはずされ,砂ぼこりを口いっぱいにのみ,多くの傷を受け,あげくのはてに打ち負かされるかもしれない」。ギリシャの哲人エピクテトスによれば,古代ギリシャの運動家にはこのようなことが要求されました。彼らに安逸な生活はありませんでした。こうした運動家,特に競走者は名誉と巧ちる栄冠のためにきびしい努力をしました。オリンピアの競技会で勝利者に与えられたのは野生のオリーブの枝で作った冠であり,ピシアの競技会では月桂樹の冠,コリントの近くで行なわれたイシミア競技会では松の枝で作った環が与えられました。運動家の生活には幾多の苦しみがありました。そして要求された資質の一つとして,まちがいなく自制があったことでしょう。このすべては巧ち果てる冠と,せいぜい自分の栄光を求めるむなしい目的のためでした。

      2 使徒パウロは,聖書の一部となったコリント会衆あての最初の手紙の中で,古代の競技をたとえに使い,クリスチャンに自制の必要なことを述べています。パウロはキリストに従う人を競技をする走者にたとえました。「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は,みな走りはするが,賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも賞を得るように走りなさい。しかし,すべて競技をする者は,何ごとにも節制をする」。明らかにパウロ自らは自制を働かせていました。このことばを続けているからです。「彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが,わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。そこで,わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず,空を打つような拳闘はしない。すなわち,自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと,ほかの人に宣べ伝えておきながら,自分は失格者になるかも知れない」。(コリント第一 9:24-27)確かにクリスチャンは競技をする走者に似ています。そして走者は自分を鍛練しなければならず。習慣や練習において移り気であったり,節度を欠いたりしてはなりません。競走者にとって,自制は勝利のために肝要です。

      3 自制の面でクリスチャンはなぜ天をあおぎ見ることができますか。

      3 パウロおよびパウロが手紙を送ったコリントの信者は男も女もみな競走の走者であり,その競走はいかなる競技会のものより重要でした。そして彼らにとって勝利が意味したものは,やがてしぼむ冠ではなく,使徒ヨハネがのちに黙示録 2章10節で書いた「いのちの冠」でした。このすばらしい賞を得るため,これらのクリスチャンは自制しなければなりませんでした。そして彼らはみな,この面において天をあおぎ見ることができました。なぜ? なぜなら,真のクリスチャンにご自分の聖霊を注がれるエホバ神は,実際に自制を示すという点で至上の模範を示しておられるからです。「わたしは……おのれをおさえていた」。これはイザヤを通して語られたエホバのことばです。(イザヤ 42:14)もとより,神はやがてご自分が敵対者より強いことを示されますが神がご自分の完全な自制を失われることはありません。(イザヤ 42:13)エホバの主要な属性である愛と力と正義と知恵は常に完全な平衡を保っています。(ヨハネ第一 4:8,16。詩 62:11。申命 32:4。ヨブ 12:13)理知に限りのある人間は必ずしも神のみわざを理解しませんが,エホバはまさに自制を示すことの典型であられます。―ダニエル 4:34,35。イザヤ 55:8,9。

      4 クリスチャンの自制がある人とない人を比べなさい。

      4 しかしなぜ自制をそれほど重視するのですか。次のことを考えてください。この資質をもたない人は何か問題に面するとき,確かで安定した行動をとれないことがあります。そして人々は極端な傾向のある人の助言をあまり信頼しません。それでクリスチャン奉仕者は,「あなたがたの寛容[分別,新世訳]を,みんなの人に示しなさい。主は近い」とのすすめに従わねばなりません。周囲の人々すべてに分別を示しているクリスチャン,すなわち「慎み深く,正しく,信心深くこの世で」生活する人は,円熟した,信頼できる人とみなされ,確かな神のことばに基づくその助言は信頼されるでしょう。(ピリピ 4:5。テトス 2:11,12)そのような自制心をもつ人にはクリスチャン会衆内の責任をゆだねることができます。他方,十分に自制のない人は種々の問題を起こし,節度を欠いた行動に対してこらしめを受けねばならないでしょう。それで,自制を養い,自制を働かせることはすべてのクリスチャンの務めです。しかし,この資質をもつクリスチャンはどんな進歩を見ることができますか。

      自制する人は進歩する

      5 テトスはどんな人を任命すべきでしたか。その人々は特にどんな資質を示すべきでしたか。

      5 西暦第1世紀に,使徒パウロはテトスをクレテに残しました。それは彼が,「欠けたる所を正し,かつ……町々に長老を立て」るためでした。(テトス 1:5,文語)そのような立場で奉仕する者として,求められたのは自制のある人です。パウロは書きました。「監督たる者は,神に仕える者として,責められる点がなく,わがままでなく,軽々しく怒らず,酒を好まず,乱暴でなく,利をむさぼらず,かえって,旅人をもてなし,善を愛し,慎み深く,正しく,信仰深く,自制する者……でなければならない」。(テトス 1:7,8)このような人はどんなことにも極端になりません。また,わがままでありません。このような人が酒に酔い,あたりを騒がせていることはないでしょう。また,人を打ったりしません。彼が自分を制御することは,「利をむさぼら」ないことにも表われています。仲間の信者が信頼を寄せる監督は「善を愛」する人でなければなりません。そして人をよくもてなし,「慎み深」くあるべきです。彼に特に求められるのは自制です。自制心があれば,性急で,非クリスチャン的な態度や行動を避けることができます。

      6 自制心のあるクリスチャン男子が多く求められているのはなぜですか。それでクリスチャン男子は何をすべきですか。

      6 しかし,クレテは大海つまり地中海の小島にすぎませんでした。福音は「世界中のいたる所で……実を結んで成長して」いました。それはもはやユダヤ人に限られず,諸国の民,かつて神から離れていた異邦人にも達していました。(コロサイ 1:5,6,21-23)クリスチャンの福音宣教者が新しい土地にはいるにつれ,自制心のある円熟した人がますます必要になりました。新しい会衆が作られたからです。そしてこの必要は今日はるかに大きくなっています。設立された神の国の福音は全地に伝えられています。それで,神の霊によって自制し,平衡のとれたクリスチャン生活を送るクリスチャン監督や補佐のしもべは,今日非常に多く求められています。エホバの地上の組織が拡大と成長を続けるにつれ,この必要はさらに大きくなるでしょう。それで,クリスチャンの男子は自制をはじめ,神の霊の実を養うことにつとめねばなりません。自制心のある円熟したクリスチャン男子には,新たに設立される会衆で監督また補佐のしもべとして奉仕する特権を含め,進歩の機会が開かれているのです。

      7 監督とクリスチャン会衆内の他のしもべはなぜ自制をもつべきですか。

      7 クレテのみならず,どこの土地のクリスチャン監督も,「自制する者であり,教にかなった信頼すべき言葉を守る人でなければ」なりませんでした。なぜ?「それは,彼が健全な教によって人をさとし,また,反対者の誤りを指摘することができるため」でした。(テトス 1:8,9)監督は健全な教えとさとしを与えるため,神のことばを正確に理解していなければなりません。ときにクリチャンは容易ならぬ問題に面し,その重大な問題の慎重な検討のために,だれかの助けが必要になることがあります。その人は会衆の監督など円熟した兄弟に相談するでしょう。その場合に大切なのは,相談する人が聖書に基づく健全な助言を受けることです。それで,監督と会衆内の他のしもべには自制が求められます。彼らは感傷や心を曇らす他の感情に動かされてはなりません。彼らのことばによって貴重な命の左右される場合があるからです。監督の任につく者は,助言と援助を求められる場合に,聖書の律法と原則を考え,それらを質問者に指摘すべきです。質問者はこれに基づいて自ら決定を下さねばなりません。(ガラテヤ 6:5)それで,聖書の律法や原則が関係する問題であれば,監督は問題を聖書的な観点から見なければなりません。事態がむずかしく,周囲の圧力が強い場合でも,監督は自制を欠いたことばを出さぬように注意せねばなりません。

      8 個人的な決定や大切な約束に先だって何をすべきですか。

      8 クリスチャンは問題をいつでも会衆の監督に相談しなければならないわけではありません。エホバへの祈りに加えて,自ら聖書を調べることにより,自分で解決できる場合もあります。しかし,何か重大な問題を決定する場合には,自制を忘れてはなりません。性急な傾向,または僭越な態度はいっさい避けるべきです。決定がどれだけ重大で,事情がどれほどむずかしくても,自分を制御することを忘れてはなりません。行動する前に,あるいはことばを出す前に,考えなさい。「軽々しく『これは聖なるささげ物だ』と言い,また誓いを立てて後に考えることは,その人のわなとなる」からです。(箴言 20:25)結論を出す前に,あるいは大切な約束をする前に,よく考え,神に祈るべきです。(伝道 5:2-5)自分自身のさとりに頼ってはなりません。みことばにあるエホバの戒めを思い出し,それに従って行動しなさい。次のことを忘れてはなりません。「エホバの法はまたくしてたましひをいきかへらしめ エホバのあかしはかたくして愚なるものをさとからしむ」― 詩 19:7,文語。箴言 3:1-6。

      排斥の問題をとりあげる会衆委員

      9 あやまちをした人を立ち直らせようとする監督および会衆の委員は何に警戒すべきですか。

      9 もとより,クリスチャン会衆内に起きる問題はさまざまに異なります。それで,直接に助力を求められた場合でなくても,監督が何らかの面であやまちをした人を立ち直らせるために努力することもあります。事実,会衆の委員は問題の処理を求められるかもしれません。使徒パウロは,「反対者の誤りを指摘すること」のできる人を任命するようにテトスに命じました。(テトス 1:9)自制を欠いた,心の不安定な人にこのことはできないでしょう。それで,監督と会衆の委員全体はこの堅実な資質をもたねばなりません。パウロはガラテヤ人に述べました。「兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら,霊の人であるあなたがたは,柔和な心をもって,その人を正しなさい。それと同時に,もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと,反省しなさい。互に重荷を負い合いなさい。そうすれば,あなたがたはキリストの律法を全うするであろう」。(ガラテヤ 6:1,2)興奮した感情的な判断や,無制御な思慮のないことばを出してはなりません。霊的な資質を備える人は,過激なことばや行動に走る不完全な人間の傾向に屈してはなりません。そのような傾向に屈するなら,真の霊的な助けをさしのべることができません。

      10 (イ)何をするため委員には自制が求められますか。(ロ)はなはだしい悪行に対して悔い改めがないとき,委員はどんな処置をとるべきですか。悔い改めの示されるとき何をしますか。

      10 感情でなく原則に基づいて行動するため,会衆の委員に自制の求められることは確かです。献身したクリスチャンが懲戒に価する罪を犯し,その悪行を誠実に悔いているなら,その悔い改めを無視してはなりません。しかし,クリスチャン会衆の福祉と清潔さを左右する決定の場合に,感傷が聖書の原則を押しのけることは許されません。はなはだしい悪行を犯しながら,それに対する悔い改めの全く欠けている場合があります。この場合には悪行者の排斥が必要になります。昔のコリント会衆の責任ある人々は,パウロの霊感の助言に従い,近親相姦的な非行を行なった者を会衆から放逐するだけの勇気を示しました。こうして会衆に霊的な害が及ぶのを防いだのです。真実の悔い改めが示された場合にのみ,その悪行者を許し,その者への愛を堅くすることができました。(コリント第一 5章。コリント第二 2:1-12)今日の会衆の委員はつとめて自らを制し,愛とやさしさの必要な場合には過酷さを避け,確固とした態度と決断の重要な場合には弱さと不決断とを避けねばなりません。

      婦人その他にも自制は肝要

      11 自制するクリスチャンの妻はどんなものになれますか。どんなことから守られますか。

      11 個人および会衆の問題を正しく解決するために自制が必要なことは確かです。また,クリスチャン男子はこのすぐれた資質を働かせるとき,自分の特権を増し加えます。しかし,自制は進歩を願うクリスチャンすべてがもつべきものです。この資質を備える敬虔な婦人は会衆の貴重な資産です。クリスチャン婦人が自制を働かせることの益はまず家庭に表われるでしょう。自制心のある有能なクリスチャンの妻はことばにおいても行ないにおいても良い模範となります。そうしたクリスチャン婦人は次のことばに述べられる良い女に似ていても,そこに描かれる悪い女とはかけ離れています。「賢い妻はその夫の冠である,恥をこうむらせる妻は夫の骨に生じた腐れのようなものである」。(箴言 12:4)家事と子供の世話を果たし,心に神の国の事を考えるクリスチャンの妻また母親は,自制のない怠惰な女たちの求める事柄にまとわれません。彼女はそうした女たちと異なり,他人の事に口を出さず,うわさ話にふけったり,不身持ちに落ち込んだりすることがありません。むしろ彼女は良い活動に忙しく携わり,かくして夫と子供,および接する人すべてに祝福となります。―テモテ第一 2:15; 5:11-15。

      12 自制を働かせるクリスチャン婦人はどのように宣教を拡大できますか。

      12 自制を働かせるクリスチャン婦人は宣教を拡大することもできます。彼女は監督の指示,および個人的な援助と訓練のための会衆の取りきめに従い,伝道活動において他の婦人を助ける特権を与えられるかもしれません。しかし,献身した婦人が自制を欠き,服装や行状においていつも極端であるなら,他の婦人を宣教の面で助けるためにその人が用いられることはありません。(テモテ第一 2:9,10。ペテロ第一 3:3,4)もし彼女が会衆内の他の婦人と,おそらくはささいな問題で言い争うなら,そこで示されているのはどんな模範ですか。良い模範ではありません。それで,進歩して円熟し,宣教奉仕で他の人を助ける特権の立場に立ってエホバのほまれとなることを願うクリスチャン婦人は,自制を養い,自制を働かさねばなりません。

      13 自制のある年配のクリスチャンは他の人をどのように助けられますか。

      13 ところで,クリスチャン会衆内の年配者はどうですか。年配の人々も自制をもたねばなりません。そして自制をもつなら,年配の人々も他の人を助けることができるでしょう。老齢のクリスチャンがもつ,神の奉仕における多年の経験と,それに伴う恩恵とを考えてごらんなさい。多年にわたりエホバに忠実に仕えてきた人の多くが,若い人々や経験の少ないクリスチャンから助力を求められることがあるのは当然です。問題の決定はいつでも本人が行なうべきですが,献身した年配のエホバのしもべは自分の経験を話し,聖書の原則に注意を向けさせることによって,質問者を大いに助けることができるのです。

      14 (イ)新世社会内の老齢者と交わることはなぜ楽しみですか。(ロ)以前に行なったほどエホバへの奉仕をできない老齢のクリスチャンでも,伝道の進歩にどのように貢献できますか。

      14 しかし,年が進むにつれ,健康や気力の衰えが問題を生むこともあります。それで年配のクリスチャンは,自分の障害をかかえながらも喜びを失わぬため,自制をつちかわねばなりません。この事物の制度には怒りやすく,気むずかしい老人をよく見かけるではありませんか。そうした人と接することは少しも楽しくありません。しかしエホバの証人の新世社会内の年をとった人々は,自制をつちかい,つとめて自制を働かせており,そうした人々と語り合い,共に宣教に携わるのは楽しみです。そうした人の中には,以前と同じほどにエホバの奉仕に携われない人もいます。しかし,自制を働かせることによって霊の思いをいっそう深くし,その確固とした態度と模範的な行ないによって,無言のうちに,若い人々をクリスチャン活動に鼓舞することができるのです。「ものみの塔」誌にのせられる年配のエホバの証人の体験は多くの人にとって真に励みとなっています。確かに,老齢のクリスチャンは,御国の福音の伝道の進歩のために,多くの面ですぐれた貢献をしているのです。―箴言 16:31。

      15 クリスチャンの子供が自制を働かせるならどんな結果が得られますか。

      15 ところであなたがた,年少の皆さんはいかがですか。あなたがたも自制を働かせるなら,ご両親を喜ばせることができます。この邪悪な事物の制度には,自制を欠いて愚かに行動し,親たちを困らせる子供が多くいます。そうした子供はほんとうに愚かです。そうした子供をまねたいと思う者はいません。箴言 17章25節は述べています。「愚かな子はその父の憂いである。またこれを産んだ母の痛みである」。他方,クリスチャンの若者として自制を養うなら,エホバと親と他の人々の是認を得ることができるでしょう。あなたがどのように行動するかということには大きな意味があります。「幼な子でさえも,その行いによって自らを示し,そのすることの清いか正しいかを現す」からです。(箴言 20:11)若くても自制のあるクリスチャンであれば,あなたは家庭においていろいろな責任や特権をゆだねられるでしょう。つとめを忠実に果たして信頼にこたえるなら,会衆の集会の場所である御国会館においても,清掃その他の仕事を助けることができるでしょう。自制をつちかうことは自分の能力を高めることにもなります。それで若い皆さんにとっても,自制はクリスチャンとしての進歩に肝要です。

      自制を働かせて進歩を続けなさい

      16 自制を養い,自制を働かせることが,どのクリスチャンにも益になることを説明しなさい。

      16 それで,自制を養い,自制を働かせることが,どのクリスチャンにも益となることは明らかです。自制することにより,献身した神のしもべすべては自分の宣教を改善し,エホバに対する奉仕と崇拝の質を向上させることができます。クリスチャンが自制を働かせるべき理由は多くあります。エホバの聖霊のこの実を表わす円熟した人々は,神の地上の組織の一致と進歩に貢献します。その人々は問題を起こさず,クリスチャン会衆内に分裂を起こすような行動をしません。また,自制を欠く人に大きな務めはゆだねられませんが,この資質をもつ人であれば,あなたはその務めを果たせるでしょう。何かを決定しなければならない場合でも,あなたは平衡のとれた見方をする人として信頼されるでしょう。こうしてあなたは宣教を拡大し,増し加わる喜びと祝福を刈り取ることができるのです。

      17 自制は今日のクリスチャンの進歩に肝要ですがそれを示すべきもう一つの理由は何ですか。

      17 しかし,自制はクリスチャンの進歩に肝要であるだけではありません。実際には,自制は神の約束される新秩序で命を得るために欠くことのできないものです。パウロは書きました。「競技をするにしても,規定に従って競技をしなければ,栄冠は得られない」。(テモテ第二 2:5)エホバの是認と永遠の命を得るため,わたしたちはエホバのご要求にそい,エホバの定めに従わねばなりません。それで,「わたしたちは……いっさいの重荷と,からみつく罪とをかなぐり捨てて,わたしたちの参加すべき競走を,耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり,またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ,走ろうではないか」。(ヘブル 12:1,2)イエスの歩まれた道にならいなさい。イエスは自制を示されました。キリストに従うことを自称しながら,あえて自制を働かさない者は,永遠の命の競走で賞を得られないでしょう。そのような者が勝利を望めないのは,鍛練の価値を軽く見,自制しない昔の運動家が勝利者になれなかったのと同じです。もとより,クリスチャンは他の人をさばくことができず,またさばくべきでありません。(ローマ 14:4)しかし,エホバが「人をそれぞれのしわざに応じて,公平にさば」かれることを忘れてはなりません。(ペテロ第一 1:17)それで,クリスチャン各自は自制を含むエホバの霊の実をつちかい,示すことのために,熱心に努力すべきではありませんか。それには命がかかっているのです。

      18 今でもクリスチャンは何を確かめることができますか。

      18 今でもクリスチャンは自分が命の賞を得るような走り方をしているかどうかを確かめることができます。当時のいかなる運動家をもしのぐ刻苦に耐えたパウロは,自分の地上における生涯の晩年にこのように言うことができました。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき,走るべき行程を走りつくし,信仰を守りとおした。今や,義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には,公平な審判者である主が,それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく,主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう」。(テモテ第二 4:7,8)使徒パウロは,自分がクリスチャンの競争を忠実に走り通したこと,および「義の冠」を受けることをすでに確信していました。この「義の冠」はパウロおよび死に至るまで忠実であった,霊によって生まれた他のクリスチャンに今すでに与えられているでしょう。しかし,希望が天のものであると地上のものであるとにかかわりなく,あなたはつとめて自制を働かせ,いまエホバの是認を得,前途に永遠の命を確信できるような走り方をしていなければなりません。

      19 「あなたがたの信仰に……節制を……加えなさい」ということばはなぜ適切ですか。

      19 それゆえ,自制を示すことを決意しなさい。エホバの地上の組織の貴重な資産となりなさい。年配者であっても,まだ比較的に若くても,あるいは子供であってもこのことをつとめなさい。もとより,自制を得てそれを保つことには努力,時に大きな努力が必要です。しかし,それはあなたがたのクリスチャンとしての進歩に肝要です。さらに,それによってあなたの命が左右される場合もあるのです。それで,「信仰に徳を加え,徳に知識を,知識に節制を……加えなさい」ということばにはもっともな理由があるのです。―ペテロ第二 1:5,6。

  • 人類を悩ます者を除去する
    ものみの塔 1967 | 10月1日
    • 人類を悩ます者を除去する

      1 経済状態の悪化や戦争の勃発に対して,たいてい責めを負わされるのはだれですか。

      政府が変わり,投票によって選ばれた為政者がその職につく時,それを支持する人々は事態の改善されることを望みます。このようなことは,まれではありません。しかし暫らくすると不満が出はじめ,政府の支持者でさえも,望ましくない事態が起きていることに対して政府を責めます。それは悪化する経済状態,失業,戦争のためかもしれず,一部のグループが不公正な待遇を受け,公民権を与えられていないということが問題かもしれません。

      2 世界情勢に対してひとりの支配者あるいは政治家の一グループを責めるのは,正しいことですか。

      2 だれでも一部の政治家の腐敗に気づいています。そして事態のいくらかは,公職にある政治家の腐敗が原因となっています。しかしまただれでも認めているように,多くの悪い事態を直すことは,たとえどれほど誠実で,政治をよくすることと公益をすすめることに熱心な人であっても,ひとりの手には負えません。災いの原因をひとりの人に帰することも不可能です。物事を動かす力は事物の制度にあります。物事は互いに関連し,利害が復雑にからみ合っているので,ひとりの人あるいは誠実な人のグループでもこれを正すことは不可能です。

      3 事態を正すには,まず何が必要ですか。

      3 そのわけで聖書の示すところによれば,事物の制度全体,まず偽りの宗教制度,つづいて政治,商業制度が完全に一掃されます。しかし次のような疑問が出るかもしれません。それがどんな役にたつだろうか。過去の歴史が示しているように,人間はふたたび始めて,同じことをくり返すのではないか。

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