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  • あなたは放縦ですか,それとも自己犠牲的ですか
    ものみの塔 1978 | 11月1日
    • あなたは放縦ですか,それとも自己犠牲的ですか

      「それからイエスは弟子たちに言われた,『だれでもわたしについて来たいと思うなら,その人は自分を捨て,自分の苦しみの杭を取り上げて絶えずわたしのあとに従いなさい』」― マタイ 16:24。

      1 今日どういう態度の人が増えていますか。

      だれかのために,またはある目的のために自己を犠牲にするという考えは,今日の世の多くの人々にとって魅力のあるものではありません。神や人のことなど少しも考えずに,もっと多くの物,もっと多くの楽しみ,自分のしたいことをするもっと大きな自由が欲しい,という態度の人々が確かに多くなっています。最近では自分の家族のために進んで犠牲になる気持ちすら薄れて,家族は崩壊し,どの国でも離婚率は記録的な上昇を見せています。

      2 この放縦の傾向が聖書研究者にとっては別に驚くべきことでないのはなぜですか。

      2 このような放縦な傾向が生じても,神の霊感による言葉聖書に常に注意を払ってきた人々には,別に驚くべきことではありません。「終わりの日」には多くの人が「自分を愛する者」,「金を愛する者」,「神を愛するより快楽を愛する者」となると,その預言的言葉は正確に予告していたのです。ある人々は気ままな生き方を追い求めることに夢中になるので,彼らは「自制心のない者」である,と聖書は述べています。このことは,アルコール中毒者や麻薬乱用者,不品行などの近年における大幅な増加にも見ることができます。―テモテ第二 3:1-4。

      3 それとは逆のどんな態度がありますか。だれがそれを推奨しますか。

      3 しかし,それとは逆の態度,すなわち自己犠牲の態度も存在するのです。それを推奨しているのはまさしく全能の宇宙創造者という権威,すなわちエホバ神ご自身にほかなりません。しかし,そういう自己犠牲の道など,現代では時代遅れなのではないでしょうか。そういうことに無関心な人が増えているときに,どうしてそれに関心を持たねばならないのでしょうか。

      関係している事柄

      4,5 イエスは自己犠牲の道についてどのように話されましたか。イエスの言葉にはどんな意味がありましたか。

      4 放縦と対照して見た場合のこの自己犠牲の問題に対して正しい見方を持つのは非常に重要なことです。このことについてイエス・キリストは次のように言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら,その人は自分を捨て,日々自分の苦しみの杭を取り上げて絶えずわたしのあとに従いなさい。だれでも自分の魂を救おうと思う者はそれを失うからです。しかし,だれでもわたしのために自分の魂を失う者はそれを救う者となるのです。全世界をかち得ても,自らを失い,あるいは損傷をこうむるなら,その人にとっていったいなんの益するところがあるでしょうか」― ルカ 9:23-25。

      5 イエスはここで自己犠牲の道を教えておられました。またその意味するところを実際に示す点で率先されました。「わたしは,自分の意志ではなく,わたしを遣わしたかたのご意志を追い求める」とイエスは言われました。(ヨハネ 5:30)したがってイエスが自己犠牲の道を歩まれた理由は,天の父エホバのご意志を完遂するためでした。イエスがご自分の追随者たちに推奨したのはこの道でした。イエスの追随者は自分を「捨て」る気持ちがなければならない,とイエスは言われました。それは,自分個人の欲望を抑えて神のご意志を行なうことを生活の中で第一にする,という意味です。

      6 (イ)自己犠牲の道にはどんな犠牲が関係してきますか。(ロ)人は神のご意志を行なうことにより,どのように『自分の魂を救う』ことができますか。

      6 そういう自己犠牲の生活がやさしくないことは事実です。それには時間や努力を含め,犠牲が伴います。神のしもべを迫害する者たちの手にかかって命を失うことを意味する場合さえあるかもしれません。しかし,イエスがお示しになったように,神のご意志を行なっている者は『自分の魂』,すなわち命を『救う』ことになります。どのようにして救いますか。エホバの是認を得,神に仕える者すべてに神が約束しておられる最終的報いを得ることによってです。神は,「ご自分をせつに求める者に報いてくださる」方だからです。(ヘブライ 11:6)神の忠節なしもべたちのほとんどにとってその報いは,この地球上に設けられる義の新秩序におけるとこしえの命です。「義なる者たちは自ら地を所有し,そこに永久に住まう」。(詩 37:29,新)「温和な者たちは自ら地を所有し,平和の豊かさに必ずや無上の喜びを見いだすであろう」と書かれています。(詩 37:29,新)死そのものも,この報いを得るのを妨げることはできません。なぜならエホバが「命の復活」のあることを保証しておられるからです。―ヨハネ 5:29。

      7 エホバが約束しておられる将来は,なぜどんな犠牲をも払うだけの価値がありますか。

      7 そうです,放縦と対照して見た場合のこの自己犠牲の問題には命が関係しています。そしてそれはなんとすばらしい命でしょう! 毎日を「無上の喜び」で満たす楽園の状態のただ中で永遠に生きるのです。本当にそれは真の命というものでしょう。この世で今選ぶことのできるどんな人生航路も,またなにかの商売をし,あるいはなんらかの専門職についてどれほど一生懸命に働いても,そしてこの世のどんな人間または組織に対する忠誠の行ないも,エホバがご自分に仕える者に約束しておられるような将来を作り出すことはできません。ですからどんな犠牲が関係してこようとも,自己犠牲を払うだけの価値は十分あるのです。

      目ざめつづけている必要

      8,9 今目ざめつづけ,また犠牲を払うことに一層の努力を払う必要があるのはなぜですか。

      8 「終わりの日」が深まるにつれ,霊的に常によく目ざめていて,神の意にかなった奉仕を行なうべく進んで犠牲を払う気持ちを強くする必要は,ますます大きくなっています。その一つの理由は,悪魔サタンが次の事実を知っているからです。つまり自分が除かれるまで『短い時』しか残されていないということです。(啓示 12:12; 20:1-3)今その時が非常に短くなっているので,腐敗させ,滅ぼすためのその狂気の努力に拍車をかけることが予想されます。悪魔サタンは何よりも,エホバのしもべたちの霊的知覚力を鈍らせ,この危機の時代の緊急感を失わせることを望んでいることでしょう。そしてもし彼らが神の「王国の良いたより」を他の人々に告げる手をゆるめるか,または放棄してしまうなら,悪魔が大いに喜ぶことは確かです。―マタイ 24:14。

      9 人を欺き傷つけるサタンの能力を軽く見るべきではありません。エホバの霊感による言葉はこう警告します。「冷静を保ち,油断なく見張っていなさい。あなたがたの敵対者である悪魔がほえるししのように歩き回ってだれかをむさぼり食おうとしています。しかし,堅い信仰をもって彼に立ち向かいなさい」。(ペテロ第一 5:8,9)賢明な人は,狂気のライオンが野放しになって近所をうろついていることを知っているなら,自分と自分の家族を守るために,前もって可能な限りの用心をするのではないでしょうか。

      10,11 (イ)イエスは食べ過ぎや飲み過ぎについてどんな警告をお与えになりましたか。(ロ)イエスの言葉は,今日のエホバの組織内にいるある人々にも当てはまる理由を述べなさい。

      10 イエスは現在の邪悪な事物の体制の来たらんとする滅びについて述べたとき,油断なく警戒していることの必要について語られました。「食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなたがたの心が押しひしがれ,その日が突然わなのように急にあなたがたに臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい。それは,全地の表に住むすべての者に臨むからです。それで,起きることが定まっているこれらのすべての事をのがれ,かつ人の子の前に立つことができるよう,常に祈願しつつ,いつも目ざめていなさい」― ルカ 21:34-36。

      11 イエスはだれに話しておられたのでしょうか。この場合はご自分の追随者に話しておられました。それでもイエスは,もし目覚めつづけていないなら,彼らの中にさえ,破滅をもたらすエホバの日が臨むときに油断しているところを捕らえられる者がいるかもしれないことを警告されました。どういうことから,油断しているところを捕らえられるような結果になるのでしょうか。今の生活の日々の煩い事にかまけすぎる,あるいは快楽にふけりすぎるようになるのでしょう。イエスのこの忠告は,今日のわたしたちに対する真の警告なのです。この体制の終わりがまだ来ていないので,エホバに仕えている人々の中には,エホバのために犠牲を払いたいという気持ちを弱くする人がいるかもしれません。そのような人たちは,エホバの新秩序はあまりにも遠い将来のことなので,現在の状態を切迫したものと考えることはできないと思うかもしれません。そしていわゆる“正常な”生活を送ることにもっと関心を払うべきだと考えるかもしれません。

      12 現体制の中で“正常な”生活を捜し求めることは道理にかなっていますか。

      12 しかし神の見地からすれば,この事物の体制における生活様式に“正常な”ものがあるでしょうか。この世はサタンとその配下の悪霊の影響下にあり,厳しい政治体制,貪欲な営利事業,利己的な偽宗教に支配されています。この世は恐れ,憎しみ,暴力,不道徳,腐敗,財政困難,病気,死などで満ちています。こうしたことはみな,エホバが人類のために意図された正常な生活,すなわち永遠の命のみならず,完全な健康や全き安全と幸福をすべて楽園の地で享受するという生活からは遠くかけ離れています。したがって今の生活は決して正常なものではありません。極めて異常です。そしてこれは,エホバが邪悪な現体制全体を滅ぼして,輝かしい新秩序への道を開かれる時までつづくでしょう。ですから異常な世界の中で正常を捜し求めるのは自己欺瞞です。

      13 放縦なためにサタンに捕らえられた人の例を幾つか挙げなさい。

      13 今になってクリスチャンがイエスの警告を無視し,警戒をゆるめ,エホバとの関係を危うくすることは,なんと大きな災いとなるのでしょう! そういう人には,『悪魔のわな』にかかり,「悪魔の意志に仕えるべくその者に生きながら捕らえられ」るすきがたくさんあるかもしれません。(テモテ第二 2:26)これこそ第一世紀に,一度はクリスチャンであったデマスに生じたことです。使徒パウロは彼について,「デマスは今の事物の体制を愛してわたしを見捨て」たと言いました。(テモテ第二 4:10)ロトの妻もサタンのわなにかかった者のひとりです。彼女はソドムが破壊されていたとき,言われていたことを守らないでソドムの方を振り返り,『魂を失いました』。イエスは十分の理由があって,「ロトの妻のことを思い出しなさい」と言われたのです。(ルカ 17:32)またエサウがいます。彼は一時的な物質上の利益のために長子相続権を放棄しました。それはなんとお粗末な判断だったのでしょう!(創世 25:29-34)もう一人はアカンです。彼はエホバの目的のことを考えるよりも,金と上等の衣服のことを考えました。(ヨシュア 7:1,20-25)悲惨なことに,そういう人々は,自己犠牲の精神の代わりに放縦の精神を持ったことに対し,高い代価を支払いました。放縦な気持ちに屈することは決してまれなことではありません。昔の神のしもべたちの中にもそれに屈した人が幾人かいました。現代においても幾人かが屈しました。ですからそれは今後もあり得ないことではありません。

      「わなのように」

      14 来たるべき世界の滅びはどのようにわなにたとえられていますか。

      14 イエスはエホバの日の破滅について語られたとき,それは「わなのように」来る,と言われました。(ルカ 21:34)わなは,警戒心のない動物が危険な道を不注意に歩いているときにその動物を捕らえます。同じように,この体制の終わりも,ほとんどの人が予期していないときに突如臨みます。その人々のうちには,『命に至る道』を歩みはじめたけれどもこの世的な事柄に熱中するようになり,違った方向に遠く迷い出てしまった人たちもいることでしょう。―マタイ 7:14。

      15 世界情勢がそれほど険悪でないことは,この体制の終わりが遠い先のことにちがいないことの証拠ですか。

      15 しかし,世界情勢がそれほど険悪でないことや,色々な地域が見たところ繁栄している様子は,終わりは近くないという気持ちをある程度正当化するものではないのですか。実際にはそれはちょうど反対のことを意味します。イエスの言葉に注意してください。「人の子の臨在はちょうどノアの日のようだからです。洪水まえのそれらの日,ノアが箱船に入る日まで,人びとは食べたり飲んだり,めとったり嫁いだりしていました。そして,洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでしたが,人の子の臨在の時もそのようになるのです」。そういうわけでイエスは次のような忠告もお与えになりました。「このゆえに,あなたがたも用意のできていることを示しなさい。あなたがたの思わぬ時刻に人の子は来るからです」― マタイ 24:37-39,44。

      16 この体制の終わりが突然に臨むことを,パウロとペテロはどのように述べていますか。

      16 使徒パウロも,この事物の体制の終わりが突然で,ほとんどの人の予期していないときに来ることを指摘しています。「エホバの日がまさに夜の盗人のように来ることを,あなたがた自身がよく知っているからです。人びとが『平和だ,安全だ』と言っているその時,突然の滅びが……彼らに突如として臨みます」と彼は言いました。(テサロニケ第一 5:2,3)使徒ペテロも,「エホバの日は盗人のように」,霊的に目ざめていない人々にとっては不意に,来るという事実を述べました。(ペテロ第二 3:10)ですからパウロは次のように助言しました。「ですからわたしたちは,ほかの人びとのように眠ったままでいないようにしましょう。むしろ目ざめており,冷静さを保ちましょう」― テサロニケ第一 5:6。

      17 エホバは憤りの日を延期されたと考えるべきでないのはなぜですか。

      17 悪に対するエホバの憤りの日は,エホバが予定された通り正確に臨みます。瞬時も遅れることはありません。ですから,エホバを愛する人はだれも,この地から悪を一掃して義の新秩序を確立する神の目的を信じていないことを暗示するような気分になったり,そういう生活の仕方をするようになったりしてはなりません。もしそのような消極的な態度を取るなら,その人はペテロ第二 3章3,4節に述べられている人々によく似た人でしょう。そこには次のように述べられています。「終わりの日にはあざける者たちがあざけりをいだいてやって来るからです。その者たちは自分の欲望のままに進み,『この約束された彼の臨在はどうなっているのか。わたしたちの父祖が死の眠りについた日からも,すべてのものは創造の初め以来と全く同じ状態を保っているではないか』と言うでしょう」。

      18 (イ)わたしたちの時代が「創造の初め」とは実際大いに異なっていることを示すどんな証拠がありますか。(ロ)なぜわたしたちは主な努力をエホバのご意志を行なうことに向けるべきですか。

      18 最初の生命の営みが今までつづいて来たことは事実です。しかし,「終わりの日」の証拠はすべて余すところなくわたしたちの上に臨んでいます。史上最悪の災いのほとんどは今世紀に集中しています。そして今人間は地球上の生物を全滅させるだけの能力を有しています。確かに,聖書の預言の成就を示す証拠はすべて,この世がその終わりに向かって容赦なく進んでいることを物語っています。そしてその終わりが来るなら,その時は人類にとって未曾有の苦難の時となるでしょう。イエスはその時を,「世のはじめから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難」と呼ばれました。(マタイ 24:21)その期間中にこの世の政治・経済・偽宗教の体制は破壊されてしまうでしょう。したがって,それらの体制を維持するために投入された時間と努力と費用はすべて無に帰してしまうでしょう。確かにクリスチャンは,永続しないものに自分たちの主要な努力を向けたくはありません。クリスチャンの主な忠誠と犠牲は永久のものに向けられるべきです。「世は過ぎ去りつつあり,その欲望も同じです。しかし,神のご意志を行なう者は永久にとどまります」― ヨハネ第一 2:17。

      19 「大患難」の間に,どんな犠牲を払う必要が生じますか。その犠牲を払う可能性が大きいのはだれですか。

      19 来たるべき「大患難」の間に,エホバのしもべたちが自己犠牲の精神を示す機会はたくさんあるに違いありません。必要な物を分け合うことも含めて,多くの面で仲間のクリスチャンを助ける必要があるでしょう。(ヘブライ 13:16)その時に政治・社会・経済体制に生ずる激変のために,神のしもべたちは財産の一部を,あるいは全部を失うかもしれません。ですから,現在エホバの関心事を生活の中で第一にしている人,そして自己犠牲の精神をすでに有している人々は,その時に必要となる犠牲を払うことを別にむずかしく感じないでしょう。

      20 自己犠牲の問題はどれほど重大な問題ですか。

      20 「あなたは放縦ですか,それとも自己犠牲的ですか」という質問は,エホバの見地から見れば生死にかかわる問題である,という事実から逃れることはできません。もし命を愛し,神の新秩序の中で完全な生活を送ることを望むなら,エホバの意にかなった奉仕を今行なう,自己犠牲の精神が必要です。

  • 自己犠牲の精神を培う
    ものみの塔 1978 | 11月1日
    • 自己犠牲の精神を培う

      「兄弟たち,わたしは神の情けによってあなたがたに懇願します。あなたがたの体を,神に受け入れられる,生きた,聖なる犠牲としてささげなさい。これがあなたがたの理性による神聖な奉仕です」― ローマ 12:1。

      1 わたしたちはエホバのために犠牲を払いますが,なぜエホバはそれに値する方ですか。

      人間が犠牲を払おうとする場合,その犠牲の対象となるものは,その犠牲に値する,大いに尊敬されている存在でなければなりません。エホバ神はあらゆる点で,確かにわたしたちが払うすべての犠牲に値する方です。エホバ神は畏怖すべき壮麗な宇宙の創造者であり,すべての生物の根源であられます。また人類の抱えている問題をすべて解決する義の新秩序の造り主でもあられます。聖書は適切にも,「エホバ,わたしたちの神よ,あなたは栄光と誉れと力を受けるにふさわしいかたです。あなたはすべてのものを創造し,あなたのご意志によってすべてのものは存在し,創造されたからです」と述べています。(啓示 4:11)エホバは全くふさわしい方であるために,わたしたちは『自分の体を,神に受け入れられる,生きた,聖なる犠牲としてささげる』ように勧められています。―ローマ 12:1。

      2 「犠牲」という語にはどんなことが含まれていますか。(ヘブライ 13:15,16をお読みください。)

      2 エホバに対する生きた犠牲であることにはどんなことが関係しているでしょうか。「犠牲」という語の一つの定義は,「より高い要求権を持つと考えられているあるもののために,貴重なもの,または望ましいものを引き渡す」ことです。さらに「犠牲」には,「神に命をささげる」という意味もあります。エホバはわたしたちに,祭壇の上で実際に殺されることを要求してはおられませんから,わたしたちが命をささげるのは,エホバに対する奉仕においてです。この体制の来たるべき滅びについて述べたとき,使徒ペテロは,クリスチャンは「聖なる行状と敬神の専念」とによって目立つ人となるべきであると励ましました。(ペテロ第二 3:11)したがって,神に受け入れられる犠牲をささげることには,エホバが非とされる習慣,あるいはエホバに対するわたしたちの奉仕のさまたげとなる習慣を捨てることだけでなく,積極的な行動が関係しています。

      3 エホバは崇拝に関係した犠牲をすべて是認されますか。

      3 自己犠牲の道は,狂信者になること,常軌を逸した行ないをすることを神が人々に求めるという意味を持ちますか。例えば,ある人々は教会の神殿まで,長い道のりをひざをついて,血を流しながらはって行きます。そういう犠牲を神は喜ばれると考えているのです。わざわざ貧しい暮らしをしたり,物乞いをしたりする人々もいます。崇拝の一部としてある食物を断つ人もいます。しかしエホバはご自分のしもべたちに,わざわざ苦しみを背負い込むことを求めてはおられません。「自ら課した崇拝の方式と見せかけの謙遜,すなわち体を厳しく扱うことにおいて,知恵の外見を有」する,人間のつくった定めをエホバは是認されません。―コロサイ 2:23。

      4 今日,エホバの関心事のために犠牲を払うとはどういう意味ですか。

      4 エホバがお求めになる妥当な種類の自己犠牲は,わたしたちが一層十分にエホバの目的に仕えることができるよう,自分の個人的な欲望を制限することです。エホバの目的は,全地を治める来たるべき神の政府,キリストの手中にある天の王国を中心としています。その政府はまもなく地を支配する唯一の権威となりますから,その義の統治下で生きることを望む人はすべて,その政府の法律,運営指針,目的を学ばねばなりません。また今日人類の間で『王国のこの良いたよりを宣べ伝えて』,その関心事を促進する必要があります。したがって,エホバの関心事のために犠牲を払うということは,エホバのおきてに従い,生活の中でエホバの王国を第一にすることを意味します。「それでは,王国と神の義をいつも第一に求めなさい」とイエスは言われました。―マタイ 6:33。

      5 自己犠牲の道はむずかし過ぎると考えるべきですか。

      5 自己犠牲の道は楽な道ですか。そうではありません。しかしその道を歩むように招いておられるのはエホバ神とキリスト・イエスです。それは,その道を歩むことが可能であることを意味します。人間を創造した,愛情深い父とそのみ子は,人々が何を成し遂げ得るかをご存じだからです。さらに,エホバとキリストは人間を大いに愛しておられますから,わたしたちの最善の益を損なうような事柄をわたしたちに要求されることは決してないという確信を抱くことができます。それに前途に控えている大きな報いを考えるなら,エホバに仕えるために犠牲を払うことこそ,今日における唯一の価値ある生き方であると,確信をもって言うことができます。その他のものは遅かれ早かれ失望に終わります。―マタイ 19:26。ローマ 9:33。ヨハネ第一 4:16。

      6,7 (イ)ノアはどんな犠牲を払わねばなりませんでしたか。(ロ)時の経過とともにノアは次第に失望していきましたか。

      6 聖書の歴史を調べて,他の普通の人々がこの道を追い求めて成功したこと,そしてそのために受けた報いなどを知ると,自己犠牲の道を歩むわたしたちは大いに励まされます。一例を挙げますと,エホバはノアに,ある仕事をすることができるように,いろいろな事柄を犠牲にすることをお求めになりました。その仕事とは当時の人々が,ばかげたこと,と考えていたものでした。ノアは大きな船,つまり箱船を造るようにとの指示を受けました。しかしそれまで雨が降ったことも,洪水が起きたこともなかったのです。そのうえノアは造船家でもなく,しかも家族を養う責任がありました。

      7 そういう大きな箱船を造るには,ノアは自分がしたいと思っていた事をする時間をそれに当てる必要があったでしょう。もし彼がそれだけの時間とエネルギーを,物質の富の蓄積につぎ込んでいたなら,確かにもっと楽になっていたにちがいありません。また,箱船を造る仕事は自らを人々の嘲笑にさらすことになったので,隣人の間での自分の評判もいくらか犠牲にしなければなりませんでした。ノアは当時の体制の終わりを待つ間,その仕事が多くの年月を要したので失望するとか中止するようなことをしましたか。それとは反対に,ノアは忍耐強く自己犠牲の道を歩みつづけました。これには「義の宣明者」として行動することも含まれました。(ペテロ第二 2:5)ノアは自分が「正常な」世界に住んでいるのではなく,「真の神の前に破滅を迎え,地は暴虐で満ちる」世界,ついには滅ぼされる世界に住んでいることを理解していました。したがって聖書は,「それでノアはすべて神が彼に命じられた通りにした。彼はまさしくその通りにした」と述べています。―創世 6:11,22,新。

      8 ノアの従順はわたしたちすべてにどのように影響しましたか。

      8 わたしたちはノアが当時の放縦な人々の側につこうとしなかったことを,非常にありがたく思わなければなりません。ノアが従順であったために,わたしたちは今日こうして生きているのです。わたしたちは皆ノアの子孫だからです。放縦な人々は,家,財産,そしていわゆる正常な生活様式など,すべてを失ってしまいました。「その時の世は,大洪水に覆われた時に滅びをこうむった」ので,彼らは自分の命そのものも,そして子供たちの命も失ってしまいました。―ペテロ第二 3:6。

      9 アブラハムは進んで犠牲を払おうとしたことに対し,どんな祝福を得ましたか。

      9 アブラハムも,エホバのために犠牲を払う必要のあることを認識していた人でした。エホバはアブラハムに,「あなたの国を出,あなたの親族を離れ,あなたの父の家を離れて,わたしがあなたに示す国へ行きなさい」という指示をお与えになりました。(創世 12:1,新)安定した生活様式を後にし,全く不明なもののために出て行くようにエホバが言われたからといって,アブラハムはひるみませんでした。エホバが要求されることはすべて正しく,自分自身の益になるという確信がアブラハムにはありました。「アブラハムはエホバが彼に話されたとおりに出かけて行き」ました。(創世 12:4,新)それは確かに幾年もの間相当の犠牲を払うことを意味しました。しかしエホバは,アブラハムのその進んで奉仕する気持ちを,大いに祝福されました。アブラハムは自分自身と自分の家族のために,エホバが数多くのすばらしいことを行なってくださったのを見ました。彼は物質面で必要なものに事欠きませんでした。彼は「エホバの友」と呼ばれるようになりました。(ヤコブ 2:23)また,神はアブラハムに,一つの国民全体が彼から出ることを約束されました。聖書はこのことを深い意味を込めて,「アブラハムは,しんぼうしたのち,この約束を自分のものとしました」と述べています。(ヘブライ 6:15)さらに彼はイエスの先祖となる特権を得ました。

      10 第一世紀に,どんな対照的な態度が見られましたか。どんな結果になりましたか。

      10 西暦一世紀にも,普通の男女が多数,エホバの関心事のために自分の関心事をいくらか犠牲にしました。彼らは一生懸命に働きまた幾多の困難を経験しましたが,自分は正しいことをして神を喜ばせているという自覚から来る大きな満足感を抱いていました。また,自分たちの信仰とエホバのために行なった働きとをエホバがお忘れになることはなく,将来必ずすばらしい報いを与えてくださるという確信を抱いていました。ではひどく放縦であった人々,「正常な」生き方をつづけることを望んだ人々,『ローマ人たちがやって来て,彼らの場所も国民も取り去ってしまう』ことを恐れた人々はどうなりましたか。(ヨハネ 11:48)彼らの生き方は,いずれにせよ,まさにその世代のうちに終わりを迎えました。ローマの軍隊が国土を荒し,多数の命と莫大な財産が失われました。しかし,自己犠牲の精神に富むクリスチャンは,家および全部に近い物質の財産を後に残すことになりましたが,イエスの教えに従ってその地域から逃げ,命を守りました。彼らは本当に「幸いな者」とみなされています。―ルカ 21:20-24; 22:28-30。啓示 20:4-6。

      わたしたちの時代における犠牲

      11 (イ)今日のクリスチャンは,財産を全部放棄することを要求されていますか。(ロ)エホバのために犠牲を払うことは,他の人々に対する活動とどのように関係していますか。

      11 ではこれは,今日の神のしもべたちが一人残らず,家その他の物質の財産を,神への犠牲の一部として手離さなければならない,ということでしょうか。前述のノア,アブラハム,そして一世紀のクリスチャンたちに関する例では,必要とあらば進んでそれを行なう気持ちがあったとはいえ,そのことは問題の要点ではありません。最も重要な事柄は,生活の中で神の関心事を第一にし,そのために必要ならばどんな犠牲でも払う,という気持ちです。それは人が何を持っているかいないかではなく,心がどこにあるか,ということです。エホバの関心事を第一にすることに向いているでしょうか,それとも個人的な関心事に向いているでしょうか。そしてエホバの関心事には,他の人々のために物事を行なうこともその一部として含まれています。「自分の益をはかって自分の事だけに目をとめず,人の益をはかって他の人の事にも目をとめなさい」,「自分[だけ]を喜ばせていてはなりません」,「わたしたちはおのおの,築き上げるのに良い事がらによって隣人を喜ばせましょう」と神の言葉は述べています。―フィリピ 2:4。ローマ 15:1,2。

      12 なぜわたしたちは,現代,他の人々が自己犠牲の道を歩んでいることに感謝すべきですか。

      12 現代,そのような自己犠牲の精神が見られるのでしょうか。確かに見られます。事実,世界中に四万以上あるエホバの証人の会衆と交わって,聖書の真理と,クリスチャンとしての交友を今楽しんでいる数百万の人々は,神の忠節なしもべたちが現代の初めに払った犠牲の益を受けているのです。1800年代の終わりから1900年代の初めにかけて,自己犠牲の精神を持つ多くの人々が,聖書の真理を他の人々に教え,エホバの現代の見える組織の基礎を確立するために労苦しました。その組織から今わたしたちはエホバに関する真理を学び,他にも多くの益を受けています。

      13 一層十分にエホバに仕えるため,多くの人はどんな犠牲を払っていますか。

      13 目下,世界中で幾千幾万もの献身的な男女が,神に仕えるために,普通には見られない犠牲を払っています。宣教者の仕事やベテル・ホームにおけるエホバの関心事のために,あるいは諸会衆に仕える旅行する代表として全時間働くことができるように,文字通り家と財産を犠牲にした人々もいます。来たるべきエホバの新秩序について他の人々により十分に教えることができるよう,特別開拓,正規開拓,補助開拓の仕事をすることに犠牲を払っている人たちもいます。

      14 種々の事情に制約されている人々の奉仕を,エホバはどのようにご覧になりますか。

      14 しかし,エホバに献身している人が一人残らずそういう全時間奉仕をできるほど責任のない立場にあるわけではありません。多くの人は家族を養うために,むずかしい経済体制の中で苦闘しなければなりません。もしそれをしなければ,「信仰のない人より悪い」ということを彼らは認識しています。(テモテ第一 5:8)クリスチャンの両親には子供を持つことに伴う責任もあります。ですから子供を「エホバの懲らしめと精神の規整とをもって育てて」ゆけるよう,自分がしたいと思う事柄をいくらか犠牲にしなければならないのを知っています。(エフェソス 6:4)また,健康がすぐれないために,高齢であるために,あるいは他の制約があるために,エホバに対する直接の奉仕はごくわずかしかできない人もいます。この点,そういう人々は,神殿で「ごくわずかな価しかない小さな硬貨二つ」をささげることができたにすぎない貧しいやもめに似ています。(ルカ 21:1-4)しかし,エホバを知るよう他の人々を助けるために自分にできることをする人々は,確かにエホバに受け入れられる犠牲をささげています。困難な状態に耐えながらも,状況が許すときにはいくらかでも奉仕をささげる気持ちがあるので,エホバはその人たちを愛されます。―ヤコブ 5:11。

      自分を調べる

      15 どんな事柄を自問するのはよいことですか。

      15 あなたには自己犠牲の精神がありますか。それとも放縦な傾向がありますか。状況が許すかぎりエホバに奉仕していますか。自分をよく調べ,神に対するクリスチャンとしての自分の奉仕を改善できるかどうか考えてみるのはいかがですか。

      16 わたしたちはどのように「よい時を買い取り」ますか。(ローマ 10:9,10をご覧ください。)

      16 例えば,個人的に聖書を読むことにもっと多くの時間を使うことはできませんか。家族のある人なら,定期的に家族と聖書について話し合いますか。近所の人々を訪ねて「良いたより」を伝えることに,もっと多くの余暇を使うことはできませんか。あるいは,クリスチャンにふさわしい親切と愛の行為により,病気の人やお年寄りなどを助けることにいくらかの時間を用いることができますか。レクリエーション,例えばテレビを見ることなどに費やす時間と,エホバの活動のなんらかの分野でエホバに奉仕するのに費やす時間とを,比較してみることもできるでしょう。それはよくつり合っていますか。―エフェソス 5:15

      17 子供に何をすることを頼んでいるか,親が調べてみるのはなぜ大切ですか。

      17 あなたは親でしょうか。では子供との関係を調べてみてください。子供が自己犠牲の道を学びはじめるのに一番良い時は,ごく幼い時であることを理解してください。家の周りの何か有益な仕事を子供に与えましょう。遊ぶことが生活のすべてではなく,仕事をすることや犠牲を払うこともそれに含まれることを,子供が悟るように助けましょう。もしかしたら,あなた自身子供の時に粗末な服を着,娯楽を楽しむことも,良い食物を十分に食べることもなく過ごしてきたかもしれません。それで子供には自分がしたような不自由をさせたくない,とお考えかもしれません。しかし一方,子供が欲しがるものをなんでも与えるなら,子供はそのために命を失う結果になるかもしれません。人生は苦労を要しないもの,物は容易に手に入るもの,エホバのご意志を行なうことはやさしいこと,と子供は考え,後になってもエホバのために進んで犠牲を払う気持ちを持たないでしょう。おとなはすでに知っている通り,人生は苦労が多く,物はたやすく手に入らず,エホバのご意志を行なうことは必ずしもやさしいとは言えません。ですから,娯楽のための時間もあるけれども,働くための時間,聖書研究,犠牲を払う時間もなければならないことを,子供に教えましょう。妥当な自己犠牲の道を歩むよう,息子や娘を鍛練しましょう。この鍛練が結ぶ実は,彼らがあなたから受け継ぐ最も価値あるものの一つとなる可能性が十分あるのです。(エフェソス 6:4。ヘブライ 12:11)そして親自身の良い手本こそ,親が口で与える教えを最もよく強化するものです。

      18 より多くの時間をエホバへの奉仕にささげることができないとしても,まだどんな改善ができますか。

      18 既婚者でも独身者でも,正直に自分を調べてみるとき,自分が王国の関心事にできるかぎり多くの時間を費やしていることがわかるかもしれません。ではまだできることが何かあるでしょうか。あります。神の霊の実,すなわち「愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,柔和,自制」を一層豊かに示すことを学び,よりよいクリスチャンとなるように努力することです。(ガラテア 5:22,23)さらに,神への奉仕の質を改善するよう努めることができます。

      19 なぜ自己犠牲の精神を培うべきですか。(ヘブライ 6:11; コリント第一 15:58をお読みください。)

      19 将来,神の新秩序で,過去を振り返り,この緊急な時代の本当に必要なときに自分が“ひと肌脱ぎ”,必要な犠牲を払い,エホバへの奉仕において自分の分を尽したことを知るとき,どんなに大きな満足をおぼえることでしょう。ですから,前途にある胸のおどるような報いを見つめて,エホバの関心事のために個人的な関心事を自分から進んで差し控えましょう。「自ら進んでわたしはあなたに犠牲を捧げます。わたしはあなたのみ名をほめたたえましょう,ああエホバよ。それは善いからです」と言った詩篇作者の精神を培いましょう。―詩 54:6,新。

      [24,25ページの図版]

      ペテロ,ノア,アブラハム,その他多くの人々はエホバ神のために犠牲を払い,エホバから祝福を受けました

  • 結婚関係外の性 ― なぜそれは有害か
    ものみの塔 1978 | 11月1日
    • 結婚関係外の性 ― なぜそれは有害か

      性の持つ誘引力は非常に強いものがあります。創造者によって人間にそれが植え込まれていることは,明らかに結婚生活に喜びを与え,その絆を拘束力のあるものにするのに役立っています。

      結婚していない男女が性的にねんごろになるのは有害であるという考えを一笑に付す人も中にはいます。そのような人は,結婚生活の外で性的な欲望を満たすことにふけったとしても,一体どんな害が身体に及ぶのかをいぶかるかもしれません。しかし身体の中にある自分,内面の人というものを忘れていないでしょうか。人は人格,理性を持ち,真の愛情や安らぎを求める心を持っていないでしょうか。かりそめの愛人に捨てられて心に受けた傷は,何年間もうずくかもしれません。また感受性を無くしてしまうこともあり,これも健康と幸福に資するものとはなりません。結婚生活の外での性行為は永続する満足と喜びをもたらしません。人々はこの事をますます悟るようになっています。

      夫婦愛に対する熱望

      妻は最初の性的交渉によって身体的な変化のみならず,人格の変化をも経験します。まだ処女であった時に彼女はボーイフレンドつまり話し合ったり,“頼りにする”人をだれか求めていたことでしょう。しかし性交渉の後,女は言葉の別の意味で“男をしたい”始めます。創造者エホバ神

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