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師の教え方ものみの塔 1960 | 7月15日
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のようではありませんでした。ザアカイは,イエスをよろこんで自分の家に迎え入れ,イエスをもてなしその教えに聞き入り,それから,「主よ,わたしは誓つて自分の財産の半分を貧民に施します」と言いました。
12 しかし,なぜ主は,ザアカイにむかつて,彼の弟子になるため,その財産全部を貧民に施して,イエスに従いなさい,と言わなかつたのですか。その理由は,ザアカイは自分の資産の他の半分を正しく取扱つて,イエスの真実の弟子になることを示そうと欲したのです。ザアカイは,物質主義的な気持から資産の半分を自分のものにしようとしたのではありません。ただ正義を図るために,自分の正しい責任を果すために,それを保有しようとしました。貧しい者に施されない他の半分の資産の使用について,ザアカイは次のように語りました,「また,もしだれかから不正な取立をしていましたら,それを四倍にして返します」。モーセの律法の要求するところによると,盗んだ羊1匹を処分した者は,4匹の羊でつぐなわなければなりません。しかし,盗んだものがなお生きて,彼の手もとにあれば,これを2倍にしてつぐなわねばなりません。(出エジプト 22:1,4)それで,ザアカイは悔い改めを示しました。また,貧乏人に愛を示しただけでなく,その悔い改めを表わすため,圧迫された者たちに公正を示しました。忠実なアブラハムの子孫であるザアカイが,そのように資産を処分することにイエスはよろこびました。そして,次のように言われたのです,「きよう,救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子がきたのは,失われたものを尋ね出して救うためである」。―ルカ 19:1-10,新口。
13 (イ)なぜ彼はマルタにむかつて,彼女が無分別にも「多くのことに心をくばつて思いわずらつている」と告げましたか。その助言は,他の者たちにも適当なものですか。(ロ)私たちはイエスがかくも効果的に用いたこの教える特質を,どのように,進歩発展させることができますか。
13 イエスがマリヤとマルタの家を訪問したとき,彼はマリヤに真理を教えました。一方,マルタはたいへんな御馳走を準備しました。ついにマルタは,苦情の言葉をこう述べました,「主よ,妹がわたしだけに接待をさせているのを,なんともお思いになりませんか。わたしの手伝をするように妹におつしやつてください」。イエスは言われました,「マルタよ,マルタよ,あなたは多くのことに心を配つて思いわずらつている。しかし,無くてならないものは多くはない。いや,一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは,彼女から取り去つてはならないものである」。(ルカ 10:38-42,新口)きわめて簡素な食事でも十分まに合つたはずであるのに,マルタはお客のために念入りな接待をして時間を多く使い,もつと大切な霊的な事柄をなおざりにしました。そして,イエスはそのことを明白に示したのです。しかし,イエスはパレスチナをくまなく旅行して,婦人たちに客を接待するためのすばらしい御馳走をしてはいけない,などとは告げませんでした。マルタが家のなかでこまかいことに気を配つていたことは,彼女の個人的なつまずきの石でした。イエスの助言は,ちようどマルタの必要とするものでした。また,マルタのような人々にも,ちようどあてはまるものです。イエスが教えた他の場合でも,イエスは同じように深く見きわめて,各人をつまづかせているものをはつきり示し出し,それからその点にその人の注意を向けさせました。私たちも良く観察して,私たちが教える人々の気質や反応に気をつけねばなりません。そして,それらのことを考慮に入れながら,援助しつづけます。
彼は自己満足をおい出した
14,15 イエスは,どのように山上の垂訓を始めましたか。どんな結果がともないましたか。
14 マタイ伝 5章1節から7章27節に記録されているイエスの有名な山上の垂訓は,20分もかからずに読めます。しかし,その垂訓は,19世紀間つづき,それ以来のどんな訓戒の言葉も,それに匹敵することはできません! 彼はカペナウム近くにいて,群集は彼に従つてきました。それで,イエスは山に上つて,従つてきた者たちを教えるために坐りました。彼は何と言いましたか。大多数の者がすぐに受け入れるようなことでしたか。必要物を感じない者とは金持だけであり,慰めを必要としない者は幸福な者たちである,とイエスは言いましたか。彼は,人々から良く思われている者たちをほめましたか。いいえ,むしろ,彼はびつくりするようなことを言いました。
15 「あなたがた貧しい人たちは,さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。あなたがたいま飢えている人たちは,さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなた方いま泣いている人たちは,さいわいだ。笑うようになるからである。人々があなたがたを憎むとき,また人の子のためにあなた方を排斥し,ののしり,汚名を着せるときは,あなたがたはさいわいだ。その日には喜びおどれ。見よ,天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから,彼らの祖先も,預言者たちに対して同じことをしたのである」。彼がさいわいな者たちと告げた人々は,霊的に飢えている者,かわいている者,非難をうける者,必要を感じている者,そして泣いてなげいている者たちです。―ルカ 6:20-23,新口。
16 彼はどんな高い標準を示しましたか。これらの教えは,聞く者たちにどんな影響を及ぼしますか。
16 イエスは,つづけてこう語りました,「昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは,あなたがたの聞いているところである。しかし,わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は,だれでも裁判を受けねばならない」。(マタイ 5:21,22,新口)多くの人は,「私は人を殺したことがない。私は法律を守りました」と言うことができます。しかし,「私は兄弟に対して怒つたことがない」と言い得る人は幾人いますか。それから,イエスは次のように語りました,「『姦淫するな』と言われたことは,あなたがたの聞いているところである。しかし,わたしはあなたがたに言う。だれでも,情欲をいだいて女を見る者は,心の中ですでに姦淫をしたのである」。(マタイ 5:27,28,新口)彼の話を聞いていた者の中には,多くの者が「私は姦淫をしたことがありません」と言い得たことでしよう。しかし,その中の幾人の人は,生涯中に情欲をいだいたことが一度もないと正直に言えたでしようか。イエスはまた次のように語りました,「『目には目を,歯には歯を』と言われていたことは,あなたがたの聞いているところである。しかし,私はあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし,だれかがあなたの右の頬を打つなら,ほかの頬をも向けてやりなさい」。多くの人は,争いを始めないと言うことができます。しかし,もし誰かが来て,ほほを打つて争いをしかけるなら,いつたい幾人の人は気持と手を抑えて,戦いを避けることができますか。―マタイ 5:38,39,新口。
17 私たちは誰を愛すべきですか。そしてなぜ? どのように憎しみに打ち勝つことができますか。
17 「『隣り人を愛し,敵を憎め』と言われていたことは,あなた方の聞いているところである。しかし,わたしはあなた方に言う。敵を愛し,迫害する者のために祈れ。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて,なんの報いがあろうか」。(マタイ 5:43,44,46,新口)あなたを愛する者を愛することは容易です。しかし,あなたを憎んで迫害する者を愛することは非常にむずかしいものです。エホバは敵を愛することができます。もし私たちがエホバの子供になりたいなら,エホバにならわねばなりません。なぜ,他の人々の悪い行いによつて,あなたの行いを左右されるのですか。他の人々が憎むからという理由で,なぜ憎むのですか。悪に対して悪をむくいる,という悪い循環になぜ入るのですか。あなたの敵の低劣な標準のところまで,なぜ落ちてしまうのですか。憎しみに対して憎しみでこたえるなら,問題をもたらします。しかし,憎しみに対して愛でこたえるなら,問題を終らせるでしよう。あなたの正しい行いで敵をあなたの側につけるとは,なんとすばらしい祝福でしよう!「だれに対しても悪をもつて悪に報いず」とパウロは語りました,「善をもつて悪に勝ちなさい」。―ロマ 12:17,21,新口。
18 イエスは,その教えの中で,どのように問題の根本に達しましたか。クリスチャンたちは,彼の助言にどう反応しますか。
18 イエスは,教える際に,問題の根本にまで達しました。そして,自分を正しいと見なす自己満足の感情をおい出しました。暴行や不道徳の行いをしない,ということ以上のものがふくまれている,と彼は示しました。イエスは,それらの悪い行いにみちびく考えを指摘しました。そして,敬虔な欲望をつちかうための他の考えをすすめました。それは彼らの正しい行いの動機が愛であるためです。そうするなら,彼らは,後日のヤコブが述べた致命的な循環を避けます,「人が誘惑に陥るのは,それぞれ,欲に引かれ,さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み,罪が熟して死を生み出す」。(ヤコブ 1:14,15,新口)クリスチャンはイエスの助言を心に深く取り入れて,それを行うように熱心に努力します。しかし,罪深い人間の中で,その完全な標準に十分達し得たと正直に言える人がいますか。エホバ神の寛容とメシヤという御準備を必要としない,などと言える人がいますか。イエスの時代において,人間の欠点に注意をひいたそのような真理は,言伝えをかたく守つていた宗教家たちの気持をはげしく動揺させました。彼らは,規則や規定をその通りに守れば,自分は正しいと考えていたのです。(マタイ 23:23,新口)イエスは,自己満足という点をつよく叩きました。それは,正直な者を正気に返させ,ほこりと自己偽善という罠から救うためでした。
イエスは活動を伝道した
19 イエスはどんな心配を知つていましたか。しかし,私たちはどこに注意を向けるべきである,と彼は教えましたか。
19 イエスの垂訓は,こうつづいていました,「何を食べようか,何を飲もうかと,自分の命のことで思いわずらい,何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり,からだは着物にまさるではないか」。それから,イエスは手近かにあつた山腹での譬を用いられ,まかなくても食物を得る鳥や,つむぎをしなくても美しい装いをつけている野の百合を見なさい,と彼らに告げられました。人間も神に頼ることを学び,神の備えたもうものに対して神に感謝すべきです。「きようは生えていて,あすは炉に投げいれられる野の草でさえ,神はこのように装つて下さるのなら,あなたがたに,それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ,信仰の薄い者たちよ」。イエスは,物質のことに多くの時間をかけたり,心配するよりも,霊的な事柄,御国そして神の義を第一に置くことを強調しました。―マタイ 6:25-34,新口。
20 (イ)イエスはどんな事柄を強調しましたか。あなたはどんな証拠を述べることができますか。(ロ)それは私たちの教えに影響しますか。どのように?
20 イエスは,活動が重要であると弟子たちに教えました。彼は,悪事をしないことよりも,善事をすることに多くの強調を置きました。正しいことを行なうなら,同時に悪いことを行なうことができません。「すべて良い木は良い実を結び,悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし,悪い木が良い実をならせることはできない。わたしにむかつて『主よ,主よ』と言う者が,みな天国にはいるのではなく,ただ,天にいますわが父の御旨を行う者だけが,はいるのである」。クリスチャンであると称し,悪事を行なわないだけでは十分でありません。イエスは弟子たちのしてはならぬ事柄を長々と告げるようなことをせず,神の御心を行なうようにすすめました。大体において,彼は消極的な善を取りあげず,積極的な活動をとりあげました。彼は,悪を行なつた人々を責めるよりも,善を行なわなかつた人々の方を多く責めました。例えば,道の反対側を歩いて強盗の被害者を助けようとしなかつた祭司やレビ人,王の兄弟たちに善を行なおうとしなかつた山羊のごとき人,そして乞食のラザロに何もしなかつた金持ちがいました。イエスは,弟子たちに悪い道について警告しました。しかし,彼は神の道を強調したのです。彼は教える者であるクリスチャンの従うべき模範を残しました。―マタイ 7:17,18,21,新口。
21 彼の垂訓が聞いている者たちに及ぼした影響は何でしたか。何がイエスについての聖書中の事柄に解明を加えますか。
21 「イエスがこれらの言を語り終えられると,群衆はその教にひどく驚いた。それは律法学者たちのようにではなく,権威ある者のように,教えられたからである」。律法学者たちは,どのように教えましたか。彼らはどんな人々でしたか。イエスがパレスチナで教えたとき,そこには,どんな宗教的な群れが活動していましたか。イエスが伝道したときのパレスチナ内の宗教的な状態をいくらか知るなら,聖書中に記録されている多くの出来事をさらに良く理解できるでしよう。(マタイ 7:28,29,新口)また,聞いていた群衆が,師イエスの教え方がそんなにもちがつていたことに,驚いたわけも,より一層良く認識できます。
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師が伝道したときの宗教家の態度ものみの塔 1960 | 7月15日
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師が伝道したときの宗教家の態度
1 エシーン教徒は何を信じ何を行ないましたか。
イエスがその宣教を始めたとき,洗礼者ヨハネの熱心な活動以外に,パレスチナ内には数多くのユダヤ人の群れが宗教的な活動を行なつていました。この群れの1つに,エシーン教徒がいます。彼らのことは,イエスの使徒や弟子たちが霊感の下に書いた書物の中で述べられていません。信心をするために苦行が必要であり,断食と質素な生活をしなければならぬ,とそれらの人々は信じました。そして,肉をよろこばすものをみな見下げました。彼らは隠遁して小さな村をつくりました。エシーン教徒は,伝道していたイエスが会つた大きな宗教的な群れではありません。しかし,最近聖書の死海写本が発見されてからは,エシーン教徒は有名なものになりました。
2 ユダヤ教の熱狂信徒は,何に興味を持ちましたか。どんな時に彼らの影響ははつきり表われますか。
2 国家主義者であるユダヤ教の熱狂信徒の群れがいました。彼らは,ひとりのユダヤ人が起きてローマに敵対する反乱の指導者になり,ローマの束縛を取りのぞいてくれることを願い求めていました。ガリラヤは暴動の温床でした。そのガリラヤでイエスは成長したのです。イエスの弟子のひとりは,「熱心党」あるいは「熱狂信徒」と呼ばれました。彼はユダヤ教の熱狂信徒の群れの一員であつたかも知れません。しかし,イエスが5000人を奇跡的に養なった直後でも,彼は国家主義的な精神,あるいは地方自治の精神をたきつけませんでした。「人々はイエスのなさつたこのしるしを見て,『ほんとうに,この人こそ世にきたるべき預言者である』と言つた。イエスは人々がきて,自分をとらえて王にしようとしていると知って,ただひとり,また山に退かれた」。これらの国家主義的な者たちは,
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