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苦悩するドイツの諸教会目ざめよ! 1971 | 11月22日
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ている」。それでも教会は,収入に執着し,収益の高い教会税を支持しつづけています。
僧職者の中にさえ,これが正しくないことと認めている人がいます。ハンブルクの牧師エドガー・シュピールは,教会税制度を変えることについて語り,つぎのように言いました。「われわれはイエス・キリストの証人として存在するよりも,宗教というかくれみのの下の単純なくつろぎを愛するがゆえに,ひるむのかもしれない。事実を直視しようではないか。われわれの慣習的なキリスト教は,サタンがかわいがっている子なのである」。
多くの人はこの評価に共鳴した。自分の賛成できない組織を財政的に支持することを欲しないために,教会を去っています。しかし教会税の支払いを免れるには,関係当局に行って,教会をやめたことを実際に宣言しなければならないのです。
教会に対する不満の原因は,教会税だけではありません。教会内の霊性の不足 ― 神および神のみことばを人々に教えることにほとんど完全に失敗していることも,その原因を成しています。ドイツの宗教制度は,聖書と神に対する懐疑的な,それどころか時には敵意のある態度によって,毒されるに至りました。
たとえば,コロンに住む著名な神学者ドロテー・ゾーレは,「神が過去において行なったことを確証したところで何の益にもならない」とか,「この神とよばれる,一神論者の崇拝の対象は」死んでいるなどと主張します。誠実な人々が,そのような教理の宣伝を許す教会を去るとき,だれが非難できますか。
若い人たちはとくに,教会に得るべきものがないことをよく見てとっています。いく人かの新教徒の若者たちを対象に調査が行なわれたとき,彼らはかなりしんらつな意見を述べました。質問を受けたエッセンの2,500名の生徒のうち70%は,日曜日の朝の説教は人の人生観にほとんど影響を与えないと言い,約25%はそれは「全然重要でない」と言いました。ある17歳の若者は,「毎週日曜日に葬式に行っているような感じがする」と言いました。
教会を去る人がみな,神にあるいは聖書に無関心である,というのではありません。反対に多くの人たちは,西ドイツでエホバの証人たちが毎週司会する4万2,000以上の家庭聖書研究に出席しています。昨年は5,828名が,このうちの一部はごく最近教会を離れた人たちですが,聖書の知識の面で進歩を遂げ,エホバ神に献身し,その献身を水のバプテスマによって表わしました。ですから,教会の会員や出席者が減少していくのとは対照的に,聖書を教える西ドイツのエホバの証人は9万以上に増加しました。
エホバの証人は何年もの間,キリスト教世界の教会は神を代表していないし,神のことばである聖書を人々に教えることにも失敗していると言いつづけてきました。この事実は今ますます多くの人の目に明らかとなってきており,多数の人が教会を捨てるという結果を生み出しています。
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「心の純粋な人々は幸福です」目ざめよ! 1971 | 11月22日
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「あなたのみことばは真理です」
「心の純粋な人々は幸福です」
心は,神のみことばのいたる所で顕著なものとされ,重視されています。事実,創世記から黙示録までにおよそ740回出てきます。
神のみことばが心を重視していることを示す典型的なことばは箴言 4章23節(新)です。「守られるべき他のすべてのもの以上に,あなたの心を守りなさい。命の源がそこに発しているからである」。
山上の垂訓の中でいみじくもイエスは,心の純粋さを保つ必要を強調されました。それはイエスが指摘された『至福』あるいは幸福の6番目に当たります。事実,イエスは,純粋な心の持ち主に最高の報いの一つを約束しておられます。それはなんですか。そのような人は,人間がかつて見たことのない,また血肉の人間がそのかたを見て,なお生きてなどおれない「神を見る」ことなのです。―マタイ 5:8,新。出エジプト 33:20。ヨハネ 1:18。
心は,動機・感情・愛情・欲望の座です。ここで「純粋な」と訳されているギリシア語をギリシアの著述家は,純粋な水のように全然汚染されていないものだけでなく,純粋な牛乳や純粋なぶどう酒,また純粋な金銀のように,不純物やまじりけのない純正なものをも表わすのに用いています。同時にこの語は,道徳的に純粋で,罪のない人を描写するためにも用いられています。
では,純粋な心を持つとはどういうことですか。一つには,分たれない心,つまりエホバ神がわたしたちに要求しておられるもの,すなわち専心の献身をエホバに帰す心を持つことです。(出エジプト 20:5,新)「あなたの名前を恐れるようわたしの心を一つにさせてください」と詩篇作者が祈ったとおりです。(詩 86:11,新)クリスチャンは「全き心」をもってエホバ神に仕えねばならず,「心全体」をもってエホバを愛さねばなりません。弟子ヤコブが,「あなたがたの心を潔くしなさい,あなたがた優柔不断なものよ」と書き送ったのは,この点で欠けている人たちに対してでした。―歴代上 28:9。マルコ 12:29-31,ヤコブ 4:8,新。
また,純粋な心とは道徳的にも清い心です。心はあらゆる種類の不潔なことをいだくものです。「邪悪な推論,殺害,姦淫,淫行」― これらすべては当人自身はもとより,その人の心を汚す,とイエスが指摘されたとおりです。純粋な心を持つには,「肉と霊とのあらゆる汚れ」からみずからを清く保たねばなりません。―マタイ 15:19,20,コリント後 7:1,新。
ほかに,多くの人に不純な心を持たせるものとなるのは偽善です。たとえば,神のみことばは,「[この]命令の目的は,清き心と善き良心と偽りなき信仰とより出づる愛にあり」と述べています。神を喜ばすには,イエスに反対した宗教指導者のように物事を行なうのに隠れた動機があってはなりません。イエスはそれら指導者の偽善を最も強烈なことばで,繰り返し非難なさいました。―テモテ前 1:5。マタイ 6:1-6; 23:13-36。ルカ 12:1。
純粋な心を持つためのもう一つの必要条件は強固な信仰です。それで,クリスチャンはこうさとされています。「兄弟よ,あなたがたのうちだれも生ける神から離れ去って,信仰の欠けた邪悪な心を発達させることが決してないように気をつけなさい」。純粋な心を持つには,「こゝろを尽くしてエホバに倚頼(ま)」ねばなりません。―ヘブル 3:12,新。箴言 3:5,6。
では,純粋な心を持つためにどんな助けがありますか。エホバ神の不興を買うこと,つまり,エホバの怒りを受けることに対する恐れはそうした助けとなります。「エホバを畏るゝとは悪を憎むことなり」。「エホバへの恐れは純粋で,永遠に持続します」。エホバ神の不興を買わないようにする健全な恐れをいだくことは確かに純粋な心を持つ助けとなります。―箴言 8:13。詩 19:9,新。
心の純粋さを得る別の助けは,義に対する愛,つまり良い良心を持とうとする決意です。悪い良心ほど心を汚すものはありませんから,良い良心を持とうとすることは,心を純粋に保つ助けとなります。聖書は,使徒パウロが良い良心を持つことに深い関心を払ったことを示しています。―使行 23:1; 24:16。コリント後 1:12。
エホバ神がわたしたちのために行なわれた事柄すべてに対する,愛のある暖かく,かつ深い感謝の念も,純粋な心を持つ助けとなります。神への愛は人を動かして,神の戒めを守らせるものとなります。そうした戒めの一つは,何にもまして自分の心を守ることなのです。―箴言 4:23。ヨハネ第一 5:3。
地上の楽園,あるいは天における永遠の命の報いにあずかる希望も,心を純粋に保つのに役だちます。神はご自分を真に愛して仕える人たちすべてにそうした希望を差し伸べておられます。「凡て主による此の希望を懐く者は,その清きがごとく己を潔くす」るのです。―ヨハネ第一 3:3。
神の不興を買うことに対する恐れ,良い良心,深い感謝の念,永遠の命の希望,どうすれば,こうしたものを強化できますか。エホバ神は三つの基本的な助けを備えられました。その一つは神のみことばです。それを毎日読んで研究してください。(テモテ後 3:16,17)別の助けは神の聖霊です。それは,みことばを理解し,純粋な心を持ちたいとの決意を強化する助けとなります。(ルカ 11:13。コリント前 2:9,10)そして神は,あなたに霊的な食物を備える「忠実で思慮深い奴隷」と呼ばれる,見える組織を設けられました。その組織は聖書研究の手引きを出版し,集会を設けています。その集会に出席すれば,同様に純粋な心を持つことに関心をいだいている仲間のクリスチャンと交われます。―マタイ 24:45-47,新。ヘブル 10:23-25。
純粋な心をほんとうに持っている人はすべて文字どおりまともに神を見るのですか。そうではありません。それは山上の垂訓中の『至福』もしくは幸福が第一に適用される人たちだけです。それはイエスの油をそそがれた追随者たちであり,彼らに対してこうしるされています。「愛する者よ,我等いま神の子たり,後いかん,未だ顕れず,主の現れたまふ時われら之に肖んことを知る。我ら[神]の真の状を見るべければなり」。(ヨハネ第一 3:2)これはどうして可能となるのですか。なぜなら,彼らは朽ちない不滅の霊のからだを持ち,神の性質にあずかる者となるからです。それらの人についてこうしるされています。「そは此の朽つる者は朽ちぬものを著,この死ぬる者は死なぬものを著るべければなり」。「その栄光と徳とによりて我らに貴き大なる約束を賜へり,これは汝らが神の性質に与る者とならん為なり」。―コリント前 15:53。ペテロ後 1:4。
マタイ伝 5章8節に指摘されている幸福の実現にあずかるのはそれらの人たちだけではありません。神を見る方法は一つだけではないからです。文字どおり,あるいは表象的に神を見ることができるのです。エホバ神の古代の忠実なしもべヨブのことを覚えておられますか。ヨブは神によって啓発され,考え方を正されたのち,次のように言うことができました。「われ汝の事を耳にて聞ゐたりしが今は目をもて汝を見たてまつる」。(ヨブ 42:5)黙示録 7章9節(新)の述べる「大群衆」を構成する人たちは,ヨブがしたように,『心の目』をもって神を見るでしょう。これが,イエスがご自分の天の父を人々に明らかにするために地にこられた理由の一つです。それは人々が父を『見る』ためです。―ルカ 10:22。ヨハネ 14:9。エペソ 1:18。
ゆえに,神と義を愛する人はすべて純粋な心を保つよう努力し,そうすることにより,「第一の復活」によって文字どおりに,あるいは心の目をもって表象的に神を見ることができるようにしてください。―黙示 20:6。
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