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「御心が地に成るように」(その3)ものみの塔 1959 | 2月1日
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44 イエスが弟子たちに祈るように教えた神については,何が知られていましたか。
44 それとは反対に,イエスはいわゆる母 ― 父なる神dとか,名前の無い神に祈るようにと弟子たちに教えず,その名前をイエス自身およびイスラエルの大祭司の知つていた神に祈りを捧げるようにと教えたのです。ヱホバという神の個有の御名が重要でないなら,なぜイエスは模範的な祈りの最初の部分で,『天にいますわれらの父よ,御名があがめられますように(または清められますように,新世訳)』と教えたのはなぜですか。イエスの山上の教えを聴いていた者たちは,インドとか他の国々の神々を信じておらず,イエス御自身の崇拝した神を信じていました。キリスト自身の名前は,天的な父なるこの神の御名を崇めます,なぜならイエスという名前は,『ヱホバは救い』という意味だからです。―マタイ 1:21。
(次号につづく)
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目ざめている者は幸福であるものみの塔 1959 | 2月1日
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に次のごとく書かれています。『ヱホバ家を建て給うにあらずば,建つる者の勤労は空しく,ヱホバ城を守り給うにあらずば,衛士のさめおるは徒労なり』(詩 127:1)私たちが見張りをして守ることは不完全なもので,十分ではないでしよう,しかし神の見張られることは完全で,すべてのものの上にあり,いかなる緊急事態が生じようとも見ることのできるものです。私たちは神の見張りが共にあることを必要とします。
18 (イ)宮級の会衆内の誰が,見張りをする特別な責任を持つていますか,(ロ)監督として見張りをつづけることは,現在なぜ一層たいせつですか。そして,何に対して?
18 神の宮級の会衆内で監督として任命された人々は,悪い不適当な状態の起ることに対して,特別に見張る責任を持つています。いまから19世紀前に使徒パウロは次のような言葉を監督たちに告げましたが,現在ではその言葉に注意を払うことは猶更いつそうに重要です,『どうか,あなた方自身に気をつけ,またすべての群れに気をくばつていただきたい。聖霊は,神が御自身の御子の血であがない取られた神の会衆を牧させるために,あなた方をその群れの監督に任命したのである。私が去つた後,狂暴な狼が,あなた方の中に入りこんできて,容赦なく群れを荒らすようになることを,私は知つている。また,あなた方自身の中からも,いろいろ曲つたことを言つて,弟子たちを自分の方にひつぱり込もうとする者らが起るであろう。だから,目を覚ましていなさい。そして,三年間,夜も昼も,私が涙をもつて,あなた方一人一人を教えつづけたことを記憶しておいてもらいたい。……あなた方はこのように働いて弱い者を援助し,主自ら「受けるよりは与える方が幸いである」と言われた言葉を心に留意するべきである。」』(使行 20:28-35,新世)いまでも目を覚まして見張ることは是非必要です。全くのところ昔よりも一層必要なのです。それは貪り食う狼共の入るのを防ぎ,そして弟子たちを正しい羊飼に従わせず自分たちに引きこもうとする野心的な宗教指導者たちの起ることを防ぐためです。正しい羊飼は,次のように語りました。『また,あなた方は教師と呼ばれてはならない。あなた方の教師はただひとり,すなわち,キリストである。そこで,あなた方のうちでいちばん偉い者は,仕える人でなければならない。』― マタイ 23:10,11,新口。
19 どんな出来事が不定であるため,すべての崇拝者は目ざめていなければなりませんか。彼らはどんな意味においてそうしなければなりませんか。
19 しかしながら,ヱホバ神の真実の霊的な宮にいるすべての崇拝者は,目ざめて見張りをしなければなりません。それは,入つて来る汚れた者たちに対して行うだけでなく,また大祭司なる検閲者の来ることに対してもなされねばならないのです。イエスは,最後の調べを行う時の何時であるかは不定であると私たちを戒めました。ともかく,その時になつてみると,私たちが見張りの期間の終りまで,すなわちこの世の組織制度の全き終りまで,神への崇拝と奉仕に耐え忍んだかどうかが明白にされます。イエスはこう語りました。『その日,その時は,だれも知らない。天にいる御使たちも,また子も知らない。ただ父だけが知つておられる。気をつけて,目をさましていなさい。その時がいつであるか,あなた方にはわからないからである。それはちようど,旅に立つ人が家を出るに当り,その僕たちに,それぞれ仕事を割り当てて責任をもたせ,門番には目をさましておれと命じるようなものである。だから,目をさましていなさい。いつ,家の主人が帰つて来るのか,夕方か,夜中か,にわとりの鳴くころか,明け方か,わからないからである。あるいは急に帰つてきて,あなた方の眠つているところを見つけるかも知れない。目をさましていなさい。私があなた方に言うこの言葉は,すべての人々に言うのである。』(マルコ 13:32-37,新口)この意味は,つまり霊的な意味において,すべての者が眠らずに目を覚ましていること,宗教的な領域でいつも十分に目ざめているということです。
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