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幸福な羊の群れの監督ものみの塔 1966 | 8月1日
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前で,わたしの前に宴を設け,わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。わたしの生きているかぎりは,必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに〔エホバ〕の宮に住むでしょう」。エホバを知る者が味わう満足,慰め,安らかな喜びが美しく表現されているではありませんか。それは迷った羊の悲しげな鳴き声を想像させることばではありません。群れから迷い出た羊はどれもみじめで無力であり,孤独です。やさしく世話する羊飼いの手を離れて保護を失った羊は恐怖を感じます。エホバから遠く離れていて幸福はありません。ダビデが詩篇 23篇に述べている幸福と平安は,エホバとエホバの羊の群れとともにいるとき,はじめて得られます。
8 群れを世話するため,だれがエホバから任命されていますか。彼らはどんな基本的な真理を常に心に留めなければなりませんか。
8 ご自身の群れに属する人々が迷って不幸にならないように,エホバは監督および羊飼いの働きをする者を任命されました。それは神の羊の群れを世話する人々です。昔のイスラエルの王ダビデは,このような監督のひとりでした。神の民の羊飼いではあっても,ダビデは自分の上に監督である羊飼いがいること,自分がその前に責任をはたすべきことを知っていました。それで詩篇 16篇8節に,「われ常にエホバをわが前におけり」と述べています。羊飼いは群れの先頭に立って進みます。それでダビデ王は自分の神エホバを自分の前におくことを喜びとしていました。別のイスラエル人も,「イスラエルの牧者よ,羊の群れのようにヨセフを導かれる者よ,耳を傾けてください」と書いています。(詩 80:1)この基本的な真理を心に留めていたダビデは良い監督となり,神の羊の群れのりっぱな手本となりました。
9 監督がエホバの導きに従うとき,監督と群れにどんな結果が及びますか。詩篇の筆者ダビデは,これについてなんと述べていますか。
9 天の監督に導かれるとき監督は祝福を受け,羊の群れも幸福を感じます。これについてダビデの書いた詩篇 144篇13節から15節は物質主義の人々を次のように描いています。「われらの倉は満ちて様々の物を備え,われらの羊は野でちよろずの子を産み,われらの家畜はみごもって子を産むに誤ることなく,われらのちまたには悩みの叫びがありません。このような祝福をもつ民はさいわいです」。これと対照して,ダビデは「主〔エホバ〕をおのが神とする民はさいわいです」と述べています。それで霊の思いを持つ監督はエホバからの祝福となります。このような監督の下で神の羊の群れは真の幸福を感ずることでしょう。
いつも幸福な羊の群れ
10 (イ)羊に対する愛を示すという点で,だれの手本がありますか。どのように?(ロ)とくにどんな面で,監督はエホバの愛にならうべきですか。
10 群れを幸福にするものとして,愛にまさるものはありません。エホバは愛の手本です。神の羊のひとりであった使徒ヨハネは次のように書きました。「愛さない者は,神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし,彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって,わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく,神がわたしたちを愛して下さって,わたしたちの罪のためにあがないの供え物として,御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから,わたしたちも互に愛し合うべきである」。(ヨハネ第一 4:8-11)天からのこの愛の手本にならうのは監督の責務です。神がまず愛してくださったように,監督は愛を示すことに率先しなければなりません。「わたしたちが愛し合うのは,神がまずわたしたちを愛して下さったからである」と,ヨハネは述べています。(ヨハネ第一 4:19)愛されているという自覚,たとえ自分たちがとるにたりない者であっても愛されているという確信は,大きな幸福感を生みます。
11 (イ)群れを愛することはなぜ肝要ですか。(ロ)愛はどのように羊飼いを助けますか。
11 しかし愛はなぜそんなにも肝要ですか。「愛は人の徳を高める」からであり,「愛は,すべてを完全に結ぶ帯」であり,「愛はいつまでも絶えることがない」からです。(コリント第一 8:1; 13:4-8。コロサイ 3:14)愛の心を持つ監督は親しみやすく,親切また柔和で思いやりと忍耐に富んでいます。愛があれば,羊を手あらく扱うようなことはありません。羊が必要とする霊的なものに目ざとく気づくのは,愛があるからです。ほかの人の気持ちを本能的とも言えるほど正確に感じとるという点で,純粋な愛ほど目ざとく,敏感なものはありません。真実の愛は感じとる力をするどくします。羊が空腹ならば,羊飼いにはすぐにそれがわかります。愛があるからです。のどがかわいているならば,羊飼いは愛のゆえにそのことにすぐ気づきます。けがをしたり,病気になった羊があれば,羊飼いの愛はそれを悟ります。一匹の羊がいなくなれば,いちばん早く気がつくのは,羊を愛している羊飼いです。羊飼いの持つあらゆる善良さの原動力は愛です。天の神から,「良い羊飼」イエス・キリストへ,さらに任命された監督をとおして,上から下に及ぶ愛は,神の羊の群れを一致させ,幸福にします。愛されるよりもまさったことがあるとすれば,それは愛することです。監督はそのことを忘れてはなりません。また愛は絶えることがないのを心に留めておきましょう。
12 愛のある羊飼いはどのように群れの祝福となりますか。
12 したがって,愛の心を持つ監督は会衆にとって,はかりしれない祝福となります。羊は彼らと語り,また接する監督の態度から愛を感じとります。監督は親切で近づきやすい人です。羊は監督にひきつけられます。また監督が面倒をみてくれることと,彼らの福祉を心から気づかってくれることを知っています。自分たちの問題をすぐ監督に相談するのは,監督がやさしく相談に乗ってくれることを確信しているからです。彼らは監督の愛を確信しています。愛が人の目にかくれることはありません。愛はやわらげる働きをするので重荷を軽くし,従うことを容易にします。愛は平和な空気をかもし出します。愛は不平をこぼすことがなんと少なく,また喜ぶことがなんと多いのでしょう。監督はそのことを知るゆえに,天の監督である神とキリストにならって愛を示します。
13 イエスの愛はどんな事実から証明されますか。イエスは羊飼いの愛を証明するどんなたとえを語りましたか。
13 羊に対するエホバ神の愛は,「よい羊飼」によって示されています。地上のイエスは羊の生命を大事にしました。そして羊はイエスの愛を全身に感ずることができました。貧しい者,病気の者,しいたげられた者,無知の者,あらゆる種類また階層の罪人がイエスにひきつけられたのです。「よい羊飼」は決して高ぶるようなことをせず,羊を腕にだき,生命に至る道を歩むように彼らを励ましました。イエスが近づきやすい人であったために,罪人は罪の道を離れて救いの道にはいることができました。(ヨハネ 10:11。ルカ 7:36-50)ルカは聖書に次のことを書いています。「さて,取税人や罪人たちが皆,イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて,『この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている』と言った。そこでイエスは彼らに,この譬をお話しになった,『あなたがたのうちに,百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら,九十九匹を野原に残しておいて,いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。そして見つけたら,喜んでそれを自分の肩に乗せ,家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め,「わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから」と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように,罪人がひとりでも悔い改めるなら,悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが,天にあるであろう』」。(ルカ 15:1-7)愛と理解を示すという点で,イエスはすべての監督にすぐれた手本を残されました。イエスにならうのは最高の知恵の道です。
滋養と幸福
14,15 (イ)羊飼いのおもな務めのひとつはなんですか。なぜそうですか。(ロ)不満な羊をなだめるのにいちばん良い方法はなんですか。
14 良い食物は幸福と密接な関係があります。羊が空腹になるといらだち,御しにくくなることは,どんな羊飼いでも知っています。しかし良く食べて満足している時は,外見だけでもそれがわかります。落ちつかない,不満を表わした,いらだった様子はなくなって,落ちつきと満足の様子を示します。ゆえに羊を養うことが,監督の大切な務めとなります。
15 羊が不平を述べる時,おそらく最善の策は神のことばの牧場に導いて,元気づけ,励まし,建ておこす真理を示すことです。こうした話をするとき,神から与えられる希望と神の約束の確かなことをゆっくり話し合ってください。(テトス 1:2)不満な心や傷ついた心をエホバのことばで養うならば,満足や幸福感がよみがえってきます。霊感によって書かれた箴言によれば,「知恵を求めて得る人,悟りを得る人はさいわいである。知恵は,これを捕える者には命の木である,これをしっかり捕える人はさいわいである」からです。(箴言 3:13,18)神の羊はこのような認識を持つにつれて,幸福を感ずるようになります。しかし,そうなるように,監督が導かなければなりません。
16 イエスのことばによれば,何が人を幸福にしますか。
16 しかし読んだり,聞いたりするだけで幸福が得られるのではありません。「受けるよりは与える方が,さいわいである」と,イエスは言われました。(使行 20:35)聞くだけでなく,神のみこころを行なう人が真の幸福を得ます。神のことばを守る人は,つきることのない幸福を味わうでしょう。クリスチャンとなった弟子ルカは,「よい羊飼」の次のことばをとくにしるしています。「めぐまれているのは,むしろ,神の言を聞いてそれを守る人たちである」。(ルカ 11:28)ゆえに神のことばを聞くこと,行なうことの両方が相まって,幸福をもたらします。
ひとりびとりに目をとめる
17 (イ)羊飼いが群れに個人的な関心を払うのはなぜ当然ですか。(ロ)羊飼いはどのようにして羊を幸福にできますか。
17 神の羊の群れは記録カードや綴りや数字を寄せ集めたものではなく,生ける神を賛美するために献身した貴重な人々の生きた組織です。ゆえに当然,これらの人々には最善の注意を払わなければなりません。それはひとりびとりに目を留めるということです。監督が机の上の仕事に忙しくなりすぎて,羊に注意を払う時間が全く,あるいはほとんどなくなるのは,ありがちなことです。しかし羊飼いの世話は群れの各人に行き届いていなければなりません。「善を行なうことと施しをすることとを,忘れてはいけない。神は,このようないけにえを喜ばれる」と,クリスチャンの監督パウロは書きました。(ヘブル 13:16)野外の宣教においてひとりびとりの羊と一緒に時おり働くことは,100の説教よりも彼らの心を動かします。ひとことでも監督が親しく語りかけて励ますならば,彼らは強められます。それは監督が気づかっていることの表われです。このように親しく交わって,彼らの努力や進歩をほめることが羊を幸福にし,また霊的に成長させます。
18 羊飼いは入院中の人にどんな喜びを与えることができますか。
18 羊は病気になりやすく,したがって羊飼いが必要です。「心のいためる者をいやし」と述べられた使命を,羊飼いははたさなければなりません。(イザヤ 61:2)そのためには親しく訪問することが必要です。羊飼いがそばにいるだけでも,病気の羊は喜び,励まされます。羊飼いは会衆の活動をいろいろ知らせ,聖書研究をし,新しい聖書の話を一緒に検討し,あるいは最近開かれた主の民の大会について,プログラムの内容,新しい知らせ,大会によって励まされたことなどを語るでしょう。病気になった人がエホバと組織に対する関心を失わないように,監督は気を配ってください。しっかり立つこと,祈ること,神の羊の群れに関心を払うことが,群れの幸福の増進に役だつことを示しなさい。心のいためる者をいやしなさい。―コリント第二 1:3-7。
19 ほかにもどんな方法で,病気の人に同情を示すことができますか。監督はどのように報われますか。
19 病院にはいっている人だけが病人ではありません。家にいても病気の人は大ぜいいます。監督はそれらの人にも注意を払わなければなりません。手紙1本あるいは見舞いのはがき1枚でも,予想以上に大きな幸福を与えます。しかもそれにくらべるなら,そのために要するものはごくわずかです。「あなたが会衆のほうに見えないのでさびしく思っています。どうぞ早くよくなってください」という監督のひとことを,病気の羊は非常にありがたく思うでしょう。それだけでなく,羊の所有者であるエホバもそれを喜ばれます。「隣り人を卑しめる者は罪びとである,貧しい人をあわれむ者はさいわいである」と述べたエホバのことばを忘れてはなりません。(箴言 14:21)悩む人を見舞うことはその人を力づけるだけでなく,そのことをするやさしい監督をも幸福にします。
20 群れに個人的な注意を払うにあたって,監督は時に何をすることが必要ですか。だれに対して,またどのようにそのことをしますか。
20 助言を与えるのも,ひとりびとりに注意を払うことのひとつです。老若を問わず群れの人々は時おり個人的な助言,聖書からのさとしを必要としています。監督は若い人に対し,異性に対するクリスチャンの正しいふるまいについて語ることがあるかもしれません。あるいは正しい服装の必要さ,正しいことば,宣教に関心を持つこと,よくない交わりについて,助言を与えることもあるでしょう。賢明な監督の目がおとなを見守ることも多くの場合に必要です。おとなも監督の知恵に耳を傾けなければなりません。監督はその人々の生命のことを心配しているのです。宣教,集会の出席,子供の訓練があるいはおろそかになっているかもしれず,正しい行ないに欠けるところがあるかもしれません。その時に監督は助けます。監督はあなたの生命に対して責任があるのです。ですから監督の心づかいに感謝しなければなりません。
21,22 (イ)迷った羊をさがし出すことの価値を,何が証明していますか。(ロ)なぜ,監督はエホバからの祝福であると言えますか。
21 あるときイエスはとくに使徒ペテロをさとして,「わたしの小羊を養いなさい」「わたしの羊を飼いなさい」「わたしの羊を養いなさい」と言われました。(ヨハネ 21:15-17)これを聞いたペテロは忘れることのできない感激を覚えたに違いありません。ペテロも神の羊の群れからさまよい出た者であり,良い羊飼いイエスの手でようやく救われたからです。ゆえに他の失われた羊をさがし求めることは,監督となったペテロの願いではありませんか。ペテロは救われたことに感謝していました。忠実な羊飼いとなってすごしたペテロの生涯は,そのことを証明しています。この経験をしてから何年ものちに,ペテロはクリスチャン会衆の古い人たちに対して次のような励ましのことばを書き送りました。「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく,神に従って自ら進んでなし,恥ずべき利得のためではなく,本心からそれをしなさい。また,ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで,むしろ,群れの模範となるべきである。そうすれば,大牧者が現れる時には,しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう」。(ペテロ第一 5:2-4)ペテロは良い羊飼いイエスの努力を無にしませんでした。監督たち,さまよった羊をさがし求めなさい。ゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。
22 群れの監督はエホバからの大きな祝福です。忠実な監督の導く群れには平和と一致が見られます。彼らは生きることに喜びを見出します。その生きている限り,恵みといつくしみが彼らにともなうでしょう。彼らはエホバのみ名の立証にあずかることに歓喜します。その望みは王なる羊飼いダビデが言い表わしたのと同じく,彼らの羊飼いとともにエホバの家に永遠に住むことです。
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幸福な羊の群れにはしもべの導きが必要ものみの塔 1966 | 8月1日
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幸福な羊の群れにはしもべの導きが必要
「門からはいる者は,羊の羊飼である。門番は彼のために門を開き,羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の手の名をよんで連れ出す」― ヨハネ 10:2,3。
1 (イ)指導する力は監督になぜ肝要ですか。「監督」ということばは何を示していますか。(ロ)どのようにしてのみ,監督はその責務を効果的にはたすことができますか。
クリスチャン会衆が栄え,神の羊の群れがいつでも幸福を感ずるためには,指導する力が会衆の監督になければなりません。「監督」ということばは,来てしらべるという意味のことばです。それは会衆の益を見守り,益を図ることを暗示しています。使徒行伝 20章28節にしるされた助言によれば,このことを効果的また能率的に行なうために,監督はまず自分「自身に気をつけ」,ついで神の「すべての群れ」に気をくばり,最後に「神の教会を牧さ」なければなりません。これらの要求を忠実にはたすことは,群れを幸福にします。
2 自分に気をつけるため,監督は何をしますか。なぜそうですか。
2 羊飼いの生活は多くの場合,つらい重労働を伴います。それは片手間にできる仕事ではありません。それで羊をよく世話するには,必要な程度において自分自身を大切にしなければなりません。監督は霊的に強い者とされています。羊は監督から力づけられ,励まされることを期待しています。ゆえに監督は,必要とする慰めを適当な時に与えることができるように,聖書に通じていなければなりません。それで毎日,神のことばを学び,その賢明な助言に思いをめぐらし,その原則を自分の生活に実行することが必要です。またエホバの祝福がなければ正しく導くことが不可能なのを知るゆえに,知恵と導きを神に祈り求めます。「エホバは知恵をあたへ,知識とさとりとその口より出づればなり」ということを忘れてはなりません。また「上からの知恵は,第一に清く,次に平和,寛容,温順であり,あわれみと良い実とに満ち,かたより見ず,偽りがない」ことをいつも心に留めるべきです。(箴言 2:6,文語。ヤコブ 3:17)この知恵をもって行動するならば,指導する力,信仰および監督に要求される他のよい資質は,神の羊の群れにおのずから明らかとなるでしょう。
3 しもべの指導ということは何を意味しますか。
3 しもべが導くということは,監督がいつも群れを導き,あるいは群れとともにいるという意味です。監督が群れの背後にいたり,群れと離れていたりすることは決してありません。監督は会衆のとりきめた集会にすべて出席し,会衆の人々とともに活発に集会に参加します。監督は集会の進行中に会衆の用事をしたり,補佐たちと何か相談したりしません。自分が群れに望むことをする,つまり演壇で話している人のことばに注意を集中するでしょう。監督は会衆に手本を示します。
4 効果的に指導するため,監督はほかに何をしますか。
4 監督が自分自身に気をくばるには,神の羊の羊飼いとして自分の持つ義務と責任に精通しなければなりません。監督はエホバのしもべである組織 ― ものみの塔協会から絶えず送られてくる指示を読んで研究することを怠りません。「平和と一致のうちに伝道し教える」「奉仕者になる資格」「御国奉仕」および協会の他の出版物もよく研究し,また参照します。また自分の責務に精通するだけでなく,監督を助けて会衆を牧する補佐のしもべたちの務めにも精通し,必要な時には補佐を援助できるようにします。監督が首尾一貫した強力な導きを与えるならば,群れにとって従うことは容易です。群れは監督の手本にならって指示に従い,教訓を受け入れるでしょう。
5 なぜ監督は自分の家族のことに関心を払うべきですか。
5 しもべの導きということは,もし監督に家族があるならばそれにも関係してきます。家族はその人の監督としての能力を反映するからです。ゆえに使徒パウロの教訓どおり,監督が自分自身に気をつけるには,この責任をりっぱに果たさなければなりません。パウロは監督の資格として次のことをあげました。監督は「自分の家をよく治め,謹厳であって,子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。自分の家を治めることも心得ていない人が,どうして神の教会を預かることができようか」。(テモテ第一 3:4,5)ゆえに監督の家族は会衆の模範的な家族となるのが当然です。
6 監督はどのように自分の家族を導きますか。なぜですか。
6 自分の家の者が神のことば聖書を熱心に学び,野外の宣教に励むようにするのは,一家のかしらである監督の務めです。監督の家族はことばと行ないにおいて,会衆内の他の家族に手本を示さなければなりません。霊的な面で家族をじゅうぶんに顧みるため,監督は毎週,家族そろっての聖書研究を司会すべきでしょう。また家族を代表して祈り,さらに戸別訪問による宣教,御国の音信に興味を示した人への再訪問に家族の各人と連れだって行き,また家族の者が週毎に司会している家庭聖書研究に気をくばらねばなりません。このことをするのは,家庭の父親また会衆の監督として,家族の各人および会衆の霊的な進歩に関心を払っているからです。その願いはすべての者が永遠の生命の報いをかち得ることです。監督はまた自分が正しい手本を示して会衆を益することを望んでいます。
7,8 (イ)使徒パウロは,家族を霊的に顧みることの必要をどのように強調していますか。(ロ)監督は家族に対する責務をはたすため,時には何をすることが必要ですか
7 監督は会衆のことで非常に忙しいかもしれませんが,それでも他のことにかまけて自分の家族の霊的な福祉をおろそかにしてはなりません。監督は家族を顧みます。「もしある人が,その親族を,ことに自分の家族をかえりみない場合には,その信仰を捨てたことになるのであって,不信者以上にわるい」とパウロは述べています。(テモテ第一 5:8)家族も,また自分が監督をつとめる会衆も霊的に害をこうむってはなりません。
8 すべての務めをはたすため,監督は時間を綿密に計画し,また会衆の仕事の一部を補佐に委任することが多くの場合,必要でしょう。監督は家族に対する責任をはたさなければなりません。会衆内の他の家族のかしらは,夫また監督としての指導力を監督に期待します。羊飼いは他の人々のならうに足る手本を示すのが当然です。そのためには家庭にあっても会衆にあってもすべての事に分別を示し,また思慮,先見,理解を用いなければなりません。こうして監督は家族の者に祝福となり,神の羊の群れに手本となります。―テモテ第一 4:15,16。
「すべての群れ」に気をくばる
9 (イ)羊飼いは羊に対してどんな考えを持つべきですか。なぜですか。(ロ)羊飼いは羊がどんな認識を持つように導きますか。
9 聖書の中ですべての人間は羊にたとえられています。しかし聖書の述べるように,人間はさまよえる羊です。大いなる羊飼いエホバは,ひとりの羊が滅びることも望まれません。エホバの良い羊飼いイエス・キリストは,「これらの小さい者のひとりが滅びることは,天にいますあなたがたの父のみこころではない」と言われました。(マタイ 18:14。エゼキエル 33:11)神の羊の「すべての群れ」を牧するため,聖霊によって任命された監督は,これと同じ考え方をしなければなりません。監督は自分に委ねられたすべての羊の生命に最大の関心を払います。監督はエホバの小さい者のひとりでさえも滅びることを望みません。羊の生命を守るために,監督は神に関するすべての知識を彼らに教えなければなりません。監督はキリスト教の教えを授ける資格を持つと同時に,野外の宣教において教える者となることが必要です。「人は心に信じて義とされ,口で告白して救われるからである」と,使徒パウロは述べました。(ローマ 10:10)羊がこの大切な認識を抱くように,監督は導きを与えなければなりません。
10 (イ)イエスは,羊飼いの二つの大きな責務をどのように示されましたか。どのようにそのことをされましたか。(ロ)イエスはどのように教えるわざに率先されましたか。また羊に何を教えられましたか。(ハ)今日この教訓をどのように行ないますか。
10 神への奉仕に群れを導き,教えることは,監督の主要な務めのひとつです。「すべての国民を弟子と」する使命がイエスの追随者に与えられたことはそれを示しています。その時イエスは,「命じておいたいっさいのことを守るように」,新しい人々を教えよと言われました。(マタイ 28:19,20)監督は「よく教えることができ」なければならないと述べたパウロのことばも,監督が教える者となる必要を強調しています。(テモテ第二 3:2)イエスは教えるわざに率先されました。イエスはことばと手本によって教えることをされました。教えを説いただけでなく,野外の宣教に追随者を訓練されたのです。神の国について使徒に教えたのち,イエスは神への奉仕に彼らを伴い,親しく教訓を授けることをされました。父のみわざを行なうイエスを見て彼らは一歩ずつ学び,自分たちも同じわざに携わるようになりました。イエスはある特定の事柄をご自分が語り,また行なったわけを弟子たちに告げています。イエスは,野外の宣教に携わる時の服装,戸口で語るべき事柄,敵対者の前に出た時のふるまいについて教訓を与え,また彼らが人々にどう迎えられるかについて警告を与えました。こうして周到な教えをよく言い聞かせてのち,イエスはご自分の手本にならうように弟子たちをつかわされました。イエスはまず12使徒を野外の宣教に遣わし,ついで70人を遣わされました。イエスは資格のある教師でした。神の羊の群れが繁栄し,いつでも幸福を感ずるために,今日の監督はイエスの完全な手本にならわなければなりません。―マタイ 10:5-30。マルコ 9:28,29。ルカ 10:1-3,文語。
11 (イ)監督には報いの大きい,どんな特権がありますか。なぜですか。(ロ)どうすれば羊飼いは自分に従うように群れを動かすことができますか。
11 神への奉仕に群れを導くことは,報いの大きな,すばらしい特権です。新しい羊がはじめて神を賛美するのを聞くことは大きな喜びではありませんか。監督が群れとともに野外の宣教に携わるとき,監督も群れも大きく報われます。監督が補佐の羊飼いを訪問して,いろいろ提案することはきわめて有益です。そのために監督は多くのことをしなければなりませんが,その労苦は喜びによって報われ,つぐなわれます。イエスの足跡に従った使徒パウロはこのような特権に恵まれていました。エペソのクリスチャン兄弟に対して,パウロは自分が3年のあいだ昼も夜も彼らを訓戒したことを心に留めるようにと告げています。「あなたがたの益になることは,公衆の前でも,また家々でも,すべてあますところなく話して聞かせ,また教え(た)」。(使行 20:20,31)パウロはテサロニケ人に次のことを語っています。「あなたがたの間で,ちょうど母がその子供を育てるように,やさしくふるまった。このように,あなたがたを慕わしく思っていたので,ただ神の福音ばかりではなく,自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに,あなたがたを愛したのである」。(テサロニケ第一 2:7,8)監督に従うように群れを動かすのは,愛にあふれ,心のこもった,また人の心を動かす監督のこのような手本です。
12 (イ)正しく指導することが群れを守る結果になるのはなぜですか。(ロ)羊飼いはどのように教えますか。(ハ)羊が羊飼いに従うのはなぜですか。
12 神の会衆を正しく牧することは,群れにとって保護となります。羊飼いの勤勉さを見て,羊は真の崇拝の重大さ,組織とそれにかたくつくことの必要を悟ります。良い指導者を得る時,彼らは力強く感じ,しっかりと歩みます。また群れと一緒に保護され安心していられます。いつも集まり合うことや,神のことばを毎日学ぶことの重要さを,ますます認識するようになります。羊は信頼できる人になるという教訓を忠実な羊飼いから学びます。群れを牧するため,羊飼いが喜んで群れのためにつくし,不平を言わないのを見て,羊は自分たちもいっそう自分を犠牲にする必要があることを学ぶでしょう。監督がエホバのみこころを迅速に行なう時,群れの各人は神権的な指示にすぐ従うことの重大さを教えられます。羊飼いがおだやかであれば,羊も互い同志,温和にすごすでしょう。監督が多くの務めをはたすのを見て,群れの人々は時間を計画することの益を悟ります。監督がいばらないで導き,無理なことを要求するかわりに励まし,憎むのではなくて愛するからこそ,群れは建ておこされ,幸福になるのです。ひもは,うしろから押したのではあまり前に進みません。それと同じく羊の長い列も,押すことによってはたいして前に進まないことを,羊飼いは知っています。ゆえに羊飼いの喜びは先頭に立ち,神の会衆のすべてに心をくばり,「わたしがキリストにならう者であるように,あなたがたもわたしにならう者になりなさい」と言って彼らを招くことにあるのです。―コリント第一 11:1。
指導することが欠けている場合
13 指導することが行なわれないと,群れはどうなりますか。
13 すべての監督が神の羊の群れを正しく牧するわけではありません。昔のイスラエルの羊飼いの多くは不忠実でした。羊の持ち主で
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