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  • 神の目的とエホバの証者(その30)
    ものみの塔 1961 | 11月15日
    • にて言え。耳をあてて聴くことを屋の上にて宣べよ」。宣べるべきものとは,エホバがひそかに,「暗黒」にかくれて示すものであると記事は説明しました。

      この世の見ていない真理あるいは理解していない真理は,敵に対する警告として明白に,かつ恐れなしに語らねばなりません。そうすれば,善意者たちも学ぶことができます。その記事は諸国民がエホバの証者を迫害したり,逮捕したりして示した憎しみと悪意に注意をひきました。特に1918年に主が宮に来てから憎しみと悪意は示されるようになったのです。特にローマ・カトリック教会のはげしい敵意はばくろされました。そして,エホバの証者が共産主義者,社会主義者であり,現在の地上の政府をくつがえすために政治的な企に参加しているという偽りの非難もばくろされました。この反対のために神の忠実な僕の幾人かが殺されることは,聖書からも分かると,その記事は示しました。

      いまや残れる者各人の前に大論争が置かれている。その大論争については,疑問の余地はすこしもない。残れる者各人は,勇気と確信をもって,大論争に面しなければならない……もし宮級のひとりがいま述べ伝えねばならぬ大いなる真理を学んでも,その真理を自分のものだけにして,人々に告げる機会を避けるなら,そして敵の手先から非難をうけずに済むと思う行いをするなら,その者は主を否定しているのである。……なぜなら,彼は主のいましめに従っていない……キリスト・イエスと共々に御国の栄光にあずかる人々は,エホバ神の御名に関して忠実かつ真の証者でなればならぬ。そして,宮で神について学んだことを大胆に,しかもよろこびをもって告げねばならぬ。かくして,彼らはエホバの聖なる御名の立証に参加するであろう。g

      国旗敬礼の論争が起きる

      1934年別の論争が起きました。この論争のため,反対の火は猛烈なものとなり,ものすごい悪意と憎しみが燃えあがったのです。その始まりは,1932年ドイツでした。ヒトラーは,人々にかぎ十字の旗を強制的に敬礼させて,国民を統一しようとしました。この論争は,最高主権者エホバ神にささげるエホバの証者の忠誠を土台から打つことになりました。それはアメリカ合衆国やカナダにもひろまり,エホバの忠実な僕たちの敵であった熱烈な愛国主義者たちは,それを利用して証者たちを滅ぼそうとしました。国旗敬礼の儀式は,学校で組織化されましたが,エホバの証者の子供たちは,その良心の故に国旗敬礼に参加するのを拒絶しました。

      1935年6月3日,月曜日,ワシントンD.C.で行なわれた5日間の大会の最後の日に,質問と答えの集会が開かれました。学校の子供たちがする国旗敬礼についての質問に対する答えとして,ルサフォード兄弟は大会出席者にこう答えました,地上の象徴物に敬礼して,それに救を帰することは神への不忠を示すものであって,彼は国旗敬礼をしない,との答えでした。それから程なくして,1935年9月20日,アメリカ中に宣伝されたひとつの出来事が生じました。エホバの証者のひとりであるアメリカの学童は,アメリカの国旗の敬礼を拒絶しました。h この子供の両親は,そのような変節の責任を問われました。共同通信の報道員はものみの塔聖書冊協会の会長に近づいて,この新しい論争についてのエホバの証者の見解を求めました。i 彼は通信員たちに後日来るように,その時までには声明文を用意しておくと告げました。

      それから,1935年10月6日,彼はアメリカ国内の放送網を通して,有名な「国旗敬礼」という講演を行ない,アメリカの国民にその答えを与えました。この話は「忠節」と題する32頁の冊子にのせられ,幾百万部も配布されました。アメリカの新聞に対するこの聖書的な返答の中で次のことが指摘されました。すなわちエホバの証者は国旗を尊敬する。しかし,エホバの証者は聖書的な責任とエホバに対する関係を考えるとき偶像とか表象物に敬礼することはとうていできないというのです。エホバの証者にとって,そのような行いは崇拝の行いと同じ意味を持つものです。しかも,その崇拝は出エジプト記 20章4-6節に記録されている十戒の第二のいましめの原則に反するものです。さらに次のことが示されました。すなわちクリスチャンの両親は子供たちを教える主要な責任を持っているということ,および最も,大切な助言は聖書中に見出される故,子供たちには聖書についての両親の認識と理解に従い,真理を教えねばならないということです。

      トム: その答えで事態は落ちつきましたか。

      ジョン: いいえ,反対はかえって増加しました。時たつ中に,幾百人,幾千人というエホバの証者の子供たちは,この国家的な大論争の中に巻きこまれて行きました。しかし,これらの子供たちは,学校友だちからの嘲笑や排斥をうけても,き然とした立場を取り,両親と共々にエホバへの愛を示しました。その行いにより,彼らは主にある両親から受けた家庭聖書訓練の質を試してみました。彼らはエホバへの忠節をしっかり保ったので,歴史にも載るほどの行いをしました。また,国家の最高の役人たちを驚かせるほどにいたったのです。

      トム: この論争はついに最高法廷に提出されたのですか。

      ジョン: そうです。しかし,それは長年のあいだ行なわれませんでした。1935年11月6日,ふたりの子供は国旗の敬礼を拒絶してペンシルバニア州ミナースビルの公立学校から出されました。その子供の父親は逮捕されて,この件は連邦地方裁判所に提出されました。この裁判所は,エホバの証者に有利な判決をくだしました。巡回控訴院で,この有利な判決が論ぜられたときも,証者たちは勝を得ました。ついに1940年,この件はアメリカの最高裁判所に回されましたが,その結果は,惨たんたるものでした。それについては後日くわしくお話ししましょう。

      成功を収めた英国の運動

      英国でのわざは拡大していましたが,それはおそいものでした。1931年,365の会衆があり,約4000人の証者たちは定期的に報告していました。この中には196人の開拓者もはいっており,全部の証者たちは毎年150万部から200万部の本と冊子を配布していました。j 1937年,目をさますことをすすめる特別の召が発せられ,その応答は満足すべきものでした。第二次世界大戦の直前,英国の開拓者の数は約1500名に増加し,約5000人の伝導者は野外奉仕に参加していました。

      他の場所と同じく,英国でも反対が生じました。1938年と1939年中,特にいくつかのカトリック ― ファシストの攻撃が加えられてきました。ある場合には,牧師の指導する暴徒たちが証者を襲撃したり,集会に干渉したりしました。k

      カトリックが反対したひとつの例は1938年10月14日に生じました。そのとき,ロンドンの「カトリック・ヘラルド」は,ものみの塔協会の会長ジャッジ・ルサフォードは,英国人の福利を害する仕事をしている,という中傷的な言葉をのせました。ルサフォード兄弟は直ちに手段を講じました。彼は英国にいる協会の弁護士に指示を与えて,ロンドン,「カトリック・ヘラルド」に対する3つの中傷裁判をおこしました。ひとつは,ジャッジ・ルサフォード個人として,2番目はものみの塔協会の会長ジャッジ・ルサフォードとして,そして第3番目は,ものみの塔協会の法人としての裁判です。この思いもよらぬ手段を見て,「カトリック・ヘラルド」は,示談を求め,急速な解決を求めました。ルサフォード兄弟は,次の条件で訴訟を取り下げることに同意しました。すなわち,その新聞社がその時までの費用をみな払い,かつジャッジ・ルサフォードの指示通りの取り消し文をすべての人が必ず見ることのできるようにするため,黒線の中に入れて1頁に発表するということでした。英国の法廷では,とても勝てないと知ったこの新聞社は,11月25日号の第1頁に取消しの言葉をのせました。l

      また1938年にはロンドンで特別顕著な大会が開かれました。欧州大陸の政治状態は緊迫してきたので,ジャッジ・ルサフォードは大会より6週間も前からロンドンにいて,旅行のできた欧州からの支部の僕たちと会いました。したがって,欧州大会は,ロンドンで最適の大会場,ローヤル・アルバート・ホールで開かれることになりました。

      ふたたび新しい試みが実施されました。大きぼな放送の行なわれていた期間中,ラジオ電話通信は,非常な成功を収めました。したがって,地上の各地で50の大会が同時に開かれ,直接電線でむすびつけられる取りきめがもうけられました。このようなことはまったく前代未聞であり,英国国王のメッセージを放送するときでもこの種の取りきめはつくられませんでした。プログラムは大成功をおさめ,ふたつの大講演はロンドンから英国,スコットランド,アイルランド,カナダ,アメリカ合衆国およびオーストラリアの49の他の都市に伝えられました。

      その最初は,9月10日の日曜日で,「地をみたせ」という題でした。このすばらしい話は,地上で生きる希望をもつハルマゲドン生存者たちは,最初エデンの園でアダムとエバに与えられた生めよふえよ地にみてよの命令に従う特権にあずかるという聖書的な説明を与えました。2番目の公開の話,「事実を見よ」は,世界の国民に対する強烈な挑戦であって世界の直面している危険な状態を認めるよう人々にすすめるものでした。また,民主主義の国民にカトリック・ファシストが世界支配計画を立てていると警告しました。a

      時たつ中に,「事実を見よ」という冊子は1200万部も全地に配布されました。b

      1936年,ニュージャージー州,ネワークで始められた新しい奉仕は,ロンドンでさらに発展しました。「事実を見よ」という講演を宣伝する際,プラカードは各証者の肩から前と後にかけられました。それに加えて,プラカードをになう者たちのあいだに他の証者たちは看板を棒につけてもちはこんでいました。それらの看板は,「宗教は罠でありごまかしである」および「神と王なるキリストに仕えよ」と示すものでした。兄弟たちはそれから長さ10キロにおよぶ行列をつくって都市の忙しいところを歩き,講演を宣伝しながらビラを人々に渡しました。この人目を見はらす行列は,「案内行列」cとして知られるようになり,録音された公開講演を宣伝するためにしばらくのあいだ大きぼに使用されました。後には,証者たちはひとりかふたりで歩き,行列をつくらなくなりました。

  • 子供の証者
    ものみの塔 1961 | 11月15日
    • 子供の証者

      子供たちでも,次の例のようにこのわざによくあずかることができます。10歳と12歳のふたりの女の子は,開拓者が母親の勉強のためにくる時,一緒に聞いて興味をおぼえました。ふたりがいつもよく乗るバスに乗っていた時に,めくらの人が同じ停留所で下りるということに気がつき,下りるのを手伝ってあげました。まもなくふたりは,御国についてその人に話し,またどのようにして盲人の視力が回復される時がくるかを語りました。その人はふたりの母親の電話番号をおしえてもらいました。そのうちに,ふたりの少女は彼を定期的に訪問するようになりました。ある日,開拓者は,この姉妹のうちのひとりと共に彼を訪問し,開拓者は声を出して文書を読んで聞かせ,協会で出版している本の中の1冊を用いて聖書研究をはじめました。それからしばらくして彼を御国会館に伴っていき,すべての僕たちに紹介しました。今,彼は自分の家で研究しているほか,会衆の書籍研究にも出席しています。―1961年度のエホバの証者の年鑑より,スウエーデン。

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