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幸福な羊の群れの監督ものみの塔 1966 | 8月1日
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ない者であっても愛されているという確信は,大きな幸福感を生みます。
11 (イ)群れを愛することはなぜ肝要ですか。(ロ)愛はどのように羊飼いを助けますか。
11 しかし愛はなぜそんなにも肝要ですか。「愛は人の徳を高める」からであり,「愛は,すべてを完全に結ぶ帯」であり,「愛はいつまでも絶えることがない」からです。(コリント第一 8:1; 13:4-8。コロサイ 3:14)愛の心を持つ監督は親しみやすく,親切また柔和で思いやりと忍耐に富んでいます。愛があれば,羊を手あらく扱うようなことはありません。羊が必要とする霊的なものに目ざとく気づくのは,愛があるからです。ほかの人の気持ちを本能的とも言えるほど正確に感じとるという点で,純粋な愛ほど目ざとく,敏感なものはありません。真実の愛は感じとる力をするどくします。羊が空腹ならば,羊飼いにはすぐにそれがわかります。愛があるからです。のどがかわいているならば,羊飼いは愛のゆえにそのことにすぐ気づきます。けがをしたり,病気になった羊があれば,羊飼いの愛はそれを悟ります。一匹の羊がいなくなれば,いちばん早く気がつくのは,羊を愛している羊飼いです。羊飼いの持つあらゆる善良さの原動力は愛です。天の神から,「良い羊飼」イエス・キリストへ,さらに任命された監督をとおして,上から下に及ぶ愛は,神の羊の群れを一致させ,幸福にします。愛されるよりもまさったことがあるとすれば,それは愛することです。監督はそのことを忘れてはなりません。また愛は絶えることがないのを心に留めておきましょう。
12 愛のある羊飼いはどのように群れの祝福となりますか。
12 したがって,愛の心を持つ監督は会衆にとって,はかりしれない祝福となります。羊は彼らと語り,また接する監督の態度から愛を感じとります。監督は親切で近づきやすい人です。羊は監督にひきつけられます。また監督が面倒をみてくれることと,彼らの福祉を心から気づかってくれることを知っています。自分たちの問題をすぐ監督に相談するのは,監督がやさしく相談に乗ってくれることを確信しているからです。彼らは監督の愛を確信しています。愛が人の目にかくれることはありません。愛はやわらげる働きをするので重荷を軽くし,従うことを容易にします。愛は平和な空気をかもし出します。愛は不平をこぼすことがなんと少なく,また喜ぶことがなんと多いのでしょう。監督はそのことを知るゆえに,天の監督である神とキリストにならって愛を示します。
13 イエスの愛はどんな事実から証明されますか。イエスは羊飼いの愛を証明するどんなたとえを語りましたか。
13 羊に対するエホバ神の愛は,「よい羊飼」によって示されています。地上のイエスは羊の生命を大事にしました。そして羊はイエスの愛を全身に感ずることができました。貧しい者,病気の者,しいたげられた者,無知の者,あらゆる種類また階層の罪人がイエスにひきつけられたのです。「よい羊飼」は決して高ぶるようなことをせず,羊を腕にだき,生命に至る道を歩むように彼らを励ましました。イエスが近づきやすい人であったために,罪人は罪の道を離れて救いの道にはいることができました。(ヨハネ 10:11。ルカ 7:36-50)ルカは聖書に次のことを書いています。「さて,取税人や罪人たちが皆,イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて,『この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている』と言った。そこでイエスは彼らに,この譬をお話しになった,『あなたがたのうちに,百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら,九十九匹を野原に残しておいて,いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。そして見つけたら,喜んでそれを自分の肩に乗せ,家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め,「わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから」と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように,罪人がひとりでも悔い改めるなら,悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが,天にあるであろう』」。(ルカ 15:1-7)愛と理解を示すという点で,イエスはすべての監督にすぐれた手本を残されました。イエスにならうのは最高の知恵の道です。
滋養と幸福
14,15 (イ)羊飼いのおもな務めのひとつはなんですか。なぜそうですか。(ロ)不満な羊をなだめるのにいちばん良い方法はなんですか。
14 良い食物は幸福と密接な関係があります。羊が空腹になるといらだち,御しにくくなることは,どんな羊飼いでも知っています。しかし良く食べて満足している時は,外見だけでもそれがわかります。落ちつかない,不満を表わした,いらだった様子はなくなって,落ちつきと満足の様子を示します。ゆえに羊を養うことが,監督の大切な務めとなります。
15 羊が不平を述べる時,おそらく最善の策は神のことばの牧場に導いて,元気づけ,励まし,建ておこす真理を示すことです。こうした話をするとき,神から与えられる希望と神の約束の確かなことをゆっくり話し合ってください。(テトス 1:2)不満な心や傷ついた心をエホバのことばで養うならば,満足や幸福感がよみがえってきます。霊感によって書かれた箴言によれば,「知恵を求めて得る人,悟りを得る人はさいわいである。知恵は,これを捕える者には命の木である,これをしっかり捕える人はさいわいである」からです。(箴言 3:13,18)神の羊はこのような認識を持つにつれて,幸福を感ずるようになります。しかし,そうなるように,監督が導かなければなりません。
16 イエスのことばによれば,何が人を幸福にしますか。
16 しかし読んだり,聞いたりするだけで幸福が得られるのではありません。「受けるよりは与える方が,さいわいである」と,イエスは言われました。(使行 20:35)聞くだけでなく,神のみこころを行なう人が真の幸福を得ます。神のことばを守る人は,つきることのない幸福を味わうでしょう。クリスチャンとなった弟子ルカは,「よい羊飼」の次のことばをとくにしるしています。「めぐまれているのは,むしろ,神の言を聞いてそれを守る人たちである」。(ルカ 11:28)ゆえに神のことばを聞くこと,行なうことの両方が相まって,幸福をもたらします。
ひとりびとりに目をとめる
17 (イ)羊飼いが群れに個人的な関心を払うのはなぜ当然ですか。(ロ)羊飼いはどのようにして羊を幸福にできますか。
17 神の羊の群れは記録カードや綴りや数字を寄せ集めたものではなく,生ける神を賛美するために献身した貴重な人々の生きた組織です。ゆえに当然,これらの人々には最善の注意を払わなければなりません。それはひとりびとりに目を留めるということです。監督が机の上の仕事に忙しくなりすぎて,羊に注意を払う時間が全く,あるいはほとんどなくなるのは,ありがちなことです。しかし羊飼いの世話は群れの各人に行き届いていなければなりません。「善を行なうことと施しをすることとを,忘れてはいけない。神は,このようないけにえを喜ばれる」と,クリスチャンの監督パウロは書きました。(ヘブル 13:16)野外の宣教においてひとりびとりの羊と一緒に時おり働くことは,100の説教よりも彼らの心を動かします。ひとことでも監督が親しく語りかけて励ますならば,彼らは強められます。それは監督が気づかっていることの表われです。このように親しく交わって,彼らの努力や進歩をほめることが羊を幸福にし,また霊的に成長させます。
18 羊飼いは入院中の人にどんな喜びを与えることができますか。
18 羊は病気になりやすく,したがって羊飼いが必要です。「心のいためる者をいやし」と述べられた使命を,羊飼いははたさなければなりません。(イザヤ 61:2)そのためには親しく訪問することが必要です。羊飼いがそばにいるだけでも,病気の羊は喜び,励まされます。羊飼いは会衆の活動をいろいろ知らせ,聖書研究をし,新しい聖書の話を一緒に検討し,あるいは最近開かれた主の民の大会について,プログラムの内容,新しい知らせ,大会によって励まされたことなどを語るでしょう。病気になった人がエホバと組織に対する関心を失わないように,監督は気を配ってください。しっかり立つこと,祈ること,神の羊の群れに関心を払うことが,群れの幸福の増進に役だつことを示しなさい。心のいためる者をいやしなさい。―コリント第二 1:3-7。
19 ほかにもどんな方法で,病気の人に同情を示すことができますか。監督はどのように報われますか。
19 病院にはいっている人だけが病人ではありません。家にいても病気の人は大ぜいいます。監督はそれらの人にも注意を払わなければなりません。手紙1本あるいは見舞いのはがき1枚でも,予想以上に大きな幸福を与えます。しかもそれにくらべるなら,そのために要するものはごくわずかです。「あなたが会衆のほうに見えないのでさびしく思っています。どうぞ早くよくなってください」という監督のひとことを,病気の羊は非常にありがたく思うでしょう。それだけでなく,羊の所有者であるエホバもそれを喜ばれます。「隣り人を卑しめる者は罪びとである,貧しい人をあわれむ者はさいわいである」と述べたエホバのことばを忘れてはなりません。(箴言 14:21)悩む人を見舞うことはその人を力づけるだけでなく,そのことをするやさしい監督をも幸福にします。
20 群れに個人的な注意を払うにあたって,監督は時に何をすることが必要ですか。だれに対して,またどのようにそのことをしますか。
20 助言を与えるのも,ひとりびとりに注意を払うことのひとつです。老若を問わず群れの人々は時おり個人的な助言,聖書からのさとしを必要としています。監督は若い人に対し,異性に対するクリスチャンの正しいふるまいについて語ることがあるかもしれません。あるいは正しい服装の必要さ,正しいことば,宣教に関心を持つこと,よくない交わりについて,助言を与えることもあるでしょう。賢明な監督の目がおとなを見守ることも多くの場合に必要です。おとなも監督の知恵に耳を傾けなければなりません。監督はその人々の生命のことを心配しているのです。宣教,集会の出席,子供の訓練があるいはおろそかになっているかもしれず,正しい行ないに欠けるところがあるかもしれません。その時に監督は助けます。監督はあなたの生命に対して責任があるのです。ですから監督の心づかいに感謝しなければなりません。
21,22 (イ)迷った羊をさがし出すことの価値を,何が証明していますか。(ロ)なぜ,監督はエホバからの祝福であると言えますか。
21 あるときイエスはとくに使徒ペテロをさとして,「わたしの小羊を養いなさい」「わたしの羊を飼いなさい」「わたしの羊を養いなさい」と言われました。(ヨハネ 21:15-17)これを聞いたペテロは忘れることのできない感激を覚えたに違いありません。ペテロも神の羊の群れからさまよい出た者であり,良い羊飼いイエスの手でようやく救われたからです。ゆえに他の失われた羊をさがし求めることは,監督となったペテロの願いではありませんか。ペテロは救われたことに感謝していました。忠実な羊飼いとなってすごしたペテロの生涯は,そのことを証明しています。この経験をしてから何年ものちに,ペテロはクリスチャン会衆の古い人たちに対して次のような励ましのことばを書き送りました。「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく,神に従って自ら進んでなし,恥ずべき利得のためではなく,本心からそれをしなさい。また,ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで,むしろ,群れの模範となるべきである。そうすれば,大牧者が現れる時には,しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう」。(ペテロ第一 5:2-4)ペテロは良い羊飼いイエスの努力を無にしませんでした。監督たち,さまよった羊をさがし求めなさい。ゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。
22 群れの監督はエホバからの大きな祝福です。忠実な監督の導く群れには平和と一致が見られます。彼らは生きることに喜びを見出します。その生きている限り,恵みといつくしみが彼らにともなうでしょう。彼らはエホバのみ名の立証にあずかることに歓喜します。その望みは王なる羊飼いダビデが言い表わしたのと同じく,彼らの羊飼いとともにエホバの家に永遠に住むことです。
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幸福な羊の群れにはしもべの導きが必要ものみの塔 1966 | 8月1日
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幸福な羊の群れにはしもべの導きが必要
「門からはいる者は,羊の羊飼である。門番は彼のために門を開き,羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の手の名をよんで連れ出す」― ヨハネ 10:2,3。
1 (イ)指導する力は監督になぜ肝要ですか。「監督」ということばは何を示していますか。(ロ)どのようにしてのみ,監督はその責務を効果的にはたすことができますか。
クリスチャン会衆が栄え,神の羊の群れがいつでも幸福を感ずるためには,指導する力が会衆の監督になければなりません。「監督」ということばは,来てしらべるという意味のことばです。それは会衆の益を見守り,益を図ることを暗示しています。使徒行伝 20章28節にしるされた助言によれば,このことを効果的また能率的に行なうために,監督はまず自分「自身に気をつけ」,ついで神の「すべての群れ」に気をくばり,最後に「神の教会を牧さ」なければなりません。これらの要求を忠実にはたすことは,群れを幸福にします。
2 自分に気をつけるため,監督は何をしますか。なぜそうですか。
2 羊飼いの生活は多くの場合,つらい重労働を伴います。それは片手間にできる仕事ではありません。それで羊をよく世話するには,必要な程度において自分自身を大切にしなければなりません。監督は霊的に強い者とされています。羊は監督から力づけられ,励まされることを期待してい
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