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巧みに羊を牧するものみの塔 1959 | 9月15日
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巧みに羊を牧する
『こうして彼は直き心をもつて彼らを牧し,巧みな手をもつて彼らを導いた。』― 詩 78:72,新口。
1 ヘブル書 11章6節に述べられているどんな特質は,神の奉仕者になるために必要ですか。そして,このことから私たちは何を尋ねるようになりますか。
読者は宗教的な牧師ではないでしよう。しかし,単なる牧師ではない神の真実の奉仕者に課せられている責任について考えたことがありますか。彼の神にたいするその信仰はどのくらい強いものですか,又はどのくらい弱いものですか。パウロという名前を持つひとりの奉仕者は,次のように述べてそのことを明白に示しました,『信仰がなくては,神に喜ばれることはできない。なぜなら,神に来る者は,神のいますことと,ご自身を求める者に報いて下さることを,必ず信じるはずだからである。』(ヘブル 11:6,新口)今日,いつたい何名の教師がヱホバ神とその書かれた御言葉に明白な信仰を持つてそれを信頼しているか,そしていつたい何名の牧師がヱホバに喜ばれることを求めているか,疑問に思うことでしよう。いつたい何名の奉仕者が神の御こころを行うという全責任をとつていますか。
2 今日,宗教的な神学校にいる大多数の者たちは,自分たちの信仰をどのように見なしていますか。このことは,正直な真理探究者として何を考えさせますか。
2 1958年11月30日のニューヨーク・タイムス誌の『信仰を求める学生たち』という記事の中で,その記事を書いたスタンレイ・ジェー・ローランドは,次のように言つています,すなわち『今日の神学校に行く者たちは,一般的に言つて疑いの心を持つているが,経験を通して,また奉仕の目的に対する正しい認識によつて信仰を見出そうと希望している。』彼は,宗教的な訓練を受ける青年たちについて,次のように述べています,『矛盾していることに,彼らは神からの召と彼ら自身のクリスチャン信仰の力について,疑いを抱いている。彼らは,存在の基礎的な価値をするどく探している。彼らは人生の事柄に没頭したいと欲している。』神からの召について疑いを持っており,また自分たちの信仰に確信を持つていないそれらの青年が,現在のクリスチャンたちの奉仕者である,と私たちは信じなければなりませんか。この筆者は,ニューヨークのユニオン神学校の校長ヘンリー・ピー・バン・デュセンの言葉を引用しています。このデュセンという人は,次のように語つていました,『彼らを理解することはできない。その大多数はよろこびがないように見える。彼らは幸福ということがどういう意味か,真実に知つているのであろうか,疑問に思う。彼らは宗教的な面で探し求めている。20年むかしでは例外的な態度であつたが,今日の学生のあいだでは殆ど皆の者が持つ普通の態度である。』
3 キリスト教の設立者は,どんな種類の信仰を持つていましたか。彼の弟子たちは,同じ態度をとりましたか。
3 彼らに信仰が不足していることは,クリスチャン奉仕者たちの指導者キリスト・イエスとなんという対照なのでしよう! イエス・キリストが御父を信じて献身し,神の御こころを行いたいという強い気持があつたことは,疑問のないものでした。このことは,彼の生涯についての四つの記録中に明白に記されています。イエス・キリストはまことに神の奉仕者であつて,進んで責任を取りました。彼は信仰にみち,そして信仰にあふれている自分の弟子たちに,イエスのごとき奉仕者になれと教えました。イエスの弟子たちは,『経験によつて信仰を見出そう』とせず,また彼らによろこびがない,などということはありませんでした。彼らは主の信仰とよろこびを持つていました。彼らは幸福な奉仕者でした。そして,神は『ご自身を求める者に報いて下さる』ということを信じていました。また,いまでも『信仰を求めている』種類の人々ではなかつたのです。彼らはヱホバ神,御子イエス・キリストそして神の御言葉を信じていました。今日,宣教を研究する人はみな信仰を持たねばなりません。さもなければクリスチャン奉仕者としては全くの失敗です。
4,5 (イ)宣教は限られた数の人々だけのものですか。(ロ)どんな大きな責任は,ある人の上に課せられますか。
4 唯一の神ヱホバを強く信じていただけでなく,神の御言葉を倦まずに伝道した使徒パウロはガラテヤ人の会衆に次のさとしの言葉を告げました,『御言葉を教えてもらう人は,教える人とすべて良いものを分け合いなさい。』(ガラテヤ 6:6,新口)それで,御言葉を聞いて信じる者は,教えた人を支持して,自らも教えるわざをしなければなりません。福音の奉仕者は,神学校に行く少数の者とか,神学校の訓練をうける少数の者だけに限られていません。むしろ,宣教は広い級の人々を含むのです。神の御言葉を信じた人,そして神の御言葉を教えられる人は,みな宣教することができます。なぜなら,そのような人も自分の学んだ良い事柄を他の人々と分ち合わねばならないからです。パウロは次のことを強調して語りました,『「ヱホバの御名を呼び求める者は,みな救われるであろう。」しかし,信じていない者をどうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を,どうして信じることがあろうか。伝道する者がいなくては,どうして聞くことがあろうか。』(ロマ 10:13,14,新世)世界は,信仰にみちる奉仕者を必要とするのであつて,いまだに信仰を求めている奉仕者を必要としません。
5 神の言葉である聖書は,クリスチャンと称する人は,みな神についての良いたより,そして神の正義の御国についての良いたよりについて伝道しなければならぬと明白に示しています。しかし,ペテロが信者たちで構成されている会衆内の古い者について語つたとき,神の群れの監督,すなわち羊飼である古い者たちに大きな責任が課せられていると示しました。神の奉仕に献身した人は,みな奉仕者です。しかし,この忠実なクリスチャンの群れから会衆全部の事柄を指示するためにある人々が選ばれています。それで,ペテロはこう語りました,『あなた方のうちの古い人々に,私はこうすすめる……あなた方にゆだねられている神の群れを牧しなさい。』― ペテロ前 5:1-4,新世。
霊的に牧することは重大なわざ
6 誰が会衆内の羊飼になる資格を持つていますか。このわざをどのように見なすべきですか。
6 群れの信頼できる羊飼たちは,すでに奉仕者である者たちから選ばれます。すなわち,ヱホバ神に全く献身している人々,また会衆内の兄弟たちを援助しようと望む人々から選ばれます。これはたしかに円熟したクリスチャンにとつては正しい種類のわざです。すでに信仰にみちている者たち,そして神の奉仕を活発に行つている者たちについて,パウロは次のように言いました,『もし人が監督の職を望むなら,それは良い仕事を願うことである。』(テモテ前 3:1,新口)真理に古い人々は,必ずこの種類のわざを願い,神の群れの中の羊を牧する援助をしなければなりません。これは,信仰を持つている者で神を真実に愛する者たち,そして神のみこころをすでに知つていて,御こころを行なつている者たちが取る責任です。それは,信者になつたばかりの人,クリスチャンのわざに新しい初心者のするわざではありません。
7 (イ)監督が神の御言葉を研究する者であることは,なぜそんなにも必要ですか。(ロ)監督は,どんな性質を持たねばならぬと,使徒パウロは言いましたか。
7 まず第一に,監督は神の御言葉を学んで信じ,御言葉の教えにしたがつて行動しなくてはなりません。彼は信仰をしつかりと保ち,パウロがテモテに告げた言葉に今日でも十分の注意を払わねばなりません,『霊感の言葉は明らかに言う。後の時代になつてある者は惑わす霊の言葉と悪鬼の教えに注意を払い,信仰から離れさるであろう。……偽り者の偽善のしわざである。彼らは結婚を禁じたり,食物を断つことを命じたりする。しかし食物は,信仰を持ち真理を正しく知る者たちが感謝していただくようにと神がつくられたものである。……兄弟たちにこれらの教訓を与えることにより,あなたはキリスト・イエスの正しい奉仕者になる。すなわち信仰の言葉と,あなたが良く従つてきた正しい教えによつてやしなわれた者になる。』(テモテ前 4:1-3,6,新世)良い助言を与えるためには,監督は『信仰の言葉』に養われ,『正しい教え』にしつかり従わねばなりません。そのとき,神の群れを巧みに牧することができます。『監督する(指導者として行なう)者は熱心に行ない,あわれみを示す者は快くするべきである。』(ロマ 12:8,新世,欄外)監督は,会衆を治めるように選ばれてから,『指導者として行なう』ことが必要です。彼は次のいましめに従わねばなりません,『悪は憎み退け,善には親しみ結び,兄弟の愛をもつて互いにいつくしみ,進んで互いに尊敬し合いなさい。熱心で,うむことなく,霊に燃え,ヱホバに仕え,望みをいだいて喜び,患難に耐え,常に祈りなさい。貧しい聖徒を助け,つとめて旅人をもてなしなさい。あなた方を迫害する者を祝福しなさい。祝福して,のろつてはならない。喜ぶ者と共によろこび,泣く者と共に泣きなさい。互いに思うことをひとつにし,高ぶつた思いをいだかず,かえつて低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがつてはならない。だれに対しても悪をもつて悪に報いず,すべての人に対して善を図りなさい。あなた方は,できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。』(ロマ 12:9-18,新世と新口)ここに述べられているごとく援助を与える奉仕者になるためには,神に信仰を持つていなければならず,『信仰を探し求める』というようなものであつてはなりません。
8 聖書は監督だけのために書かれましたか。クリスチャン会衆全部の責任は何ですか。
8 会衆の羊飼がそのような指導をするとき,すべてのクリスチャン成員の見ならうべきすばらしい模範がつくられます。さらに,聖書は監督のためだけに書かれたのではなく,監督を含むすべての会衆のために書かれたのです。たがいに集められた羊が,後に良い羊飼のようになることは,神の御こころです。むかしのパウロの時代に神は羊飼に羊の世話を見させました。それと同じく今日でも羊飼たちは模範を残します。羊を牧すということは重大な仕事です。現在は,全国民を分ける時です。そして,この分けるわざはヱホバの御国の良いたよりを伝道することによつて行われているのです。そのわざは,監督だけがするのでなく,会衆内のクリスチャン奉仕者全部がするのです。
9,10 (イ)羊飼の責任は大きいですか。誰の責任の方が大きいですか。(ロ)特に1919年以来,残れる者はどんなわざをして来ましたか。彼らの見方は,どのように大いなるダビデ,キリスト・イエスの持つ見方のようですか。
9 しかし,監督の立場にいることは,羊の羊飼として大きな責任が課せられることになります。しかし,監督は,ヱホバこそ大いなる羊飼であつて,自分ではないことを常に留意します。ダビデは次のように言いました,『ヱホバはわが牧者なり』(詩 23:1)羊を集めて,その世話をみる一番の責任を持つ御方はヱホバです。しかし,ヱホバは人々を用いて牧するわざをいたします。1919年以来,油そそがれた『小さな群れ』の残れる者が集められているだけでなく,特に1935年以来,『他の羊』の大いなる群衆が集められています。(ルカ 12:32。ヨハネ 10:16)小さな群れの残れる者は,第一次世界大戦のくらい期間中,散らされていました。しかし,今では多数の残れる者が集められて牧するわざに用いられています。神の奉仕者である彼らは,みな御国の良いたよりをたずさえて出かけました。そして,過去40年のあいだ,彼らはその良いたよりを伝道して神のみこころを行なつてきました。彼らは羊を探し求めて,みちびき入れ,そして必要な霊的の食物で養つてきたのです。
10 別の言葉で言えば,大きな集めるわざがなければなりません。しかし,小さな群れでも他の羊でも,ヱホバはこのすべての羊をひとつの協力し合う群れにいたしました。彼らはみな正義の新しい世で生命を相続する者たちです。ヱホバは御自分の民に約束されたことをことごとく誠実に行われました。しかし,クリスチャンたちが自分自身で行わねばならぬ事柄はいくらかあります。特に,会衆の群れの忠実な羊飼でなければならぬ監督が,是非することが必要な事柄はいくらかあります。キリスト・イエスは大いなるダビデです。そして,地上におられたとき,羊飼の責任を取つて他の監督に対する正しい模範を残しました。詩篇 78篇70-72節は,次のように述べてイエスに言及します,『(ヱホバ)その僕ダビデをえらびて……その民ヤコブその嗣業イスラエルを牧わせ給えり。かくてダビデはそのこころの完全にしたがいてかれらを牧い,その手のたくみをもてこれをみちびけり。』全くその通り,キリスト・イエスは巧みな羊飼でした。御父は彼にこういいました,『あなたは義を愛し,不法を憎まれた。』― ヘブル 1:9,新口。
巧みさを得る
11 羊飼はどのように巧みさを得ますか。
11 巧みさとは,知識と実践によつて来る能力,すなわち才能を意味します。正しい羊飼なるイエスは,神の御言葉の知識を持つていました。彼は御言葉の教えることを行ないました。彼はそれを自分自身の生活に適用し,知恵と理解を示しました。彼はヱホバ神を大いなる羊飼と認め,人々の心を御父であるヱホバに向けて,自分自身に向けることをしませんでした。神は,正しい種類の羊飼に彼を選びました。今日の従属の羊飼たちもイエスのようでなければならず,群れを自分のものにしようとすることに興味を持つてはなりません。彼らは忠実を保つ心を持ちつつ,神の群れを巧みに牧さなければなりません。それですから,監督が知識を持ち,そして知恵の中にその知識を働かせることは極めて必要です! 羊飼は,ぶざまで,へたな,不注意な監督ではありません。彼は他の羊を世話する際に神の御言葉を巧みに用います。正しい羊飼であるイエス・キリストが聖霊によつて使徒たちを任命し,牧するわざを行わせたとき,彼らは神の御言葉の用い方を知つていたからこそそのわざを命ぜられたのです。神の御言葉は『人を教え,戒め,正しくし,義に導くのに有益である。』そして,彼らはこのわざを巧みにしました。(テモテ後 3:16,新口)今日のすべての従属の羊飼は,神の御言葉を同じ仕方で用いなければなりません。新しい世の社会内にいる今日の監督たちも羊飼であつて,神の羊を巧みな手で取りあつかい,彼らを導かねばなりません。ちようど,イスラエルの人々の福利を図つたダビデが行なつたごとく,また自分の弟子たちの福利を図つたキリストの行なつたごとくしなければなりません。
12 羊飼は羊を不注意に取りあつかつても良いですか。この点につき使徒ペテロはどのように助言していますか。
12 忠実に牧することに対する報いは,単に自分自身を救うだけでなく,他の羊である他の者をも救うことになります。監督であろうとなかろうと,すべの者は羊であることを忘れてはなりません。すべての者は,大いなる羊飼ヱホバと,彼が選んだ正しい羊飼イエス・キリストの下にいる羊です。イエス自身もこう語りました,『私は良い羊飼である。良い羊飼は,羊のために生命を捨てる。』(ヨハネ 10:11,新口)そして又,『私は良い羊飼であつて,私の羊を知り,私の羊はまた,私を知つている。』(ヨハネ 10:14,新口)それですから,羊のひとりが羊飼に選ばれてから,思い上がり,神の御言葉の取りあつかいに不注意になつてはいけません。イエス・キリストの羊でもあり,また使徒でもあつたペテロは,聖霊によつて従属の羊飼に任命されたとき,自分の責任を知つていました。それで,ペテロは他の者に次の言葉を告げたのです,『あなた方にゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく,神に従つて自ら進んでなし,恥ずべき利得のためではなく,本心から,それをしなさい。また,ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで,むしろ,群れの模範となるべきである。そうすれば,大牧者が現れる時には,しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。』― ペテロ前 5:2-4,新口。
13,14 羊飼は,神の御こころを行うと同意したのですから,自分の責任についてどのように感じ,またどのように感じてはなりませんか。
13 新しい世の社会内にいるすべての監督たち,たとえばものみの塔聖書冊子協会の支部の僕,地域の僕,巡回の僕,会衆の僕,そして奉仕の僕は,ヱホバの御言葉が従属の羊飼である監督の上に課す重い責任を感じなければなりません。監督は,献身したときに,神の御心を行なうと同意しました。そして,監督となつている現在,彼らは神の御言葉内で自分たちに与えられているいましめの一つが,『あなた方にゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい』ということを認識しなければなりません。監督たちよ,あなた方はどのようにそのことをしていますか。しいられてしていますか。その地位に任命されているため,仕方なしにしていますか。その責任から自由になりたいですか。ペテロは,すべての者に次のごとく親切に言つています,「自ら進んでしなさい。」
14 不正な利益を得たいためにする人がいますか。会衆内で人目に立つ地位に立ちたいためにいたしますか。多分,個人的な誇りのためですか。神の群れの上に及ぶ影響のためですか。よろこんで「本心からそれをしなさい」というペテロのいましめの言葉は,会衆内のすべての者に暖い愛を持つものです。またすべての羊はヱホバ神に属し,あなたの交わる会衆は真実に神の群れであることを認めます。
15 監督が自分自身を調べることは,なぜそんなにも必要ですか。
15 あなた自身を調べてごらんなさい。あなたは『ゆだねられた者たちの上に』立つ監督ですか。あなたは羊に対していばりますか。あなたはえらそうな羊飼であるため,人々が話しかけることもできませんか。いつでも忙しすぎますか。そのようなことがあつてはなりません。それは良い模範ではありません。ペテロは,次のような助言を述べています,「群れの模範となりなさい」どのような面でですか。信仰において,徳において,知識において,節制において,忍耐において敬虔において,兄弟愛において,そして愛においてです。『これらのものがあなた方に備わつて,いよいよ豊かになるならば,私たちの主イエス・キリストを知る知識について,あなたがたは,怠る者,実を結ばない者となることはないであろう。』(ペテロ後 1:5-8,新口)監督であるあなた方にとつて,正確な知識と正しい生活の仕方は,きわめて必要なものです。
16 ペテロ前書 5章3節の新世訳の脚註は,羊飼のわざの重要性を,どのように強調していますか。
16 監督の地位に任命されたあなたは,自分にゆだねられた神の羊の世話を見ていると十分に認識していますか。ペテロ前書 5章3節の新世訳の脚註は,その事実を強調して次のように述べています,『あなた方にゆだねられている者たちの上に権力をふるうことをしてはいけない』目に見える大きな神の制度内では,これらの羊はみな神の羊です。しかし,違つた群れの羊はちがつた羊飼にゆだねられます。1958年の新しい世の社会内には,全世界にわたりヱホバの証者の群れ,または会衆は1万7878ありました。あなた方にゆだねられている者に権力を振るつてはならないと,ペテロは監督たちにさとしています。それで,どの羊飼も次のように自問すべきです,『私は神の羊をどのように取りあつかつているか。私はどんな模範を残しているか。奉仕会に,私はどれ程興味を持つているか。神権学校には? 会衆の書籍研究には? 家から家の証言には? 再訪問? 家庭聖書研究? 私はこれらの方法で神の御国のこの良いたよりを伝道していますか。そして私にゆだねられたすべての羊を援助して私のしていることと同じことをするように援助し,彼らが目ざめた状態を保ち,その宣教の衣服を着つづけることを援助していますか。』
17 神の羊の忠実な羊飼には,どんな報いがありますか。
17 監督がペテロのすばらしい助言に従つて神の群れと見知らぬ者たちに愛と親切を示すとき,そして長なる羊飼が現われるとき,その監督は『しぼむことのない栄光の冠を受ける』でしよう。小さな群れに属する者たちにとつては,その報いはキリスト・イエスと共に天的な栄光の中に共同の相続者になるということです。他の羊にとつては,それは楽園の新しい地における生命を意味します。今日,羊を牧することに巧みで忠実な者たちは,「多くの町の支配者」にされる報いを必ず受けます。今日の監督で小事に忠実であるなら,大きな事をするよう任命されるでしよう。イエスのたとえ話の中の王が述べた通りです,『よい僕よ,うまくやつた。あなたは小さい事に忠実であつたから,十の町を支配させる。』(ルカ 19:17,新口)それで,監督たちよ,あなた方はヱホバ神と,神があなた方に委ねた群れにたいする関係を認識し,そして次のいましめを記憶しなさい,『あなた方自身に気をつけ,またすべての群れに気をくばつていただきたい。聖霊は,神が御子の血であがない取られた神の会衆を牧させるために,あなた方をその群れの監督に任命したのである。』― 使行 20:28,新世。
羊飼の特質を表わし行う
18 どんな事実を認識することは,会衆の羊飼にとつて肝要ですか。
18 『群れ』である『会衆』は神のものであり,また羊飼として任命を受けたことは神の聖霊によるものであると,監督は十分に認識しなければなりません。その群れは,神が買いとられたものです。そのことを決して忘れてはなりません! パウロは,コリントにいた油そそがれたクリスチャンたちに語つた際に,こう尋ねました,『あなた方は知らないのか。自分のからだは,神から受けて自分の内に宿つている聖霊の宮であつて,あなた方は,もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは,代価を払つて買いとられたのだ。それだから,自分のからだをもつて,神の栄光をあらわしなさい。』(コリント前 6:19,20,新口)今日,その『からだ』の僅かな残れる者は,地上にいます。そして,その多くの者は監督の地位についています。しかし,監督が残れる者であろうと,あるいは他の羊級の者であろうと,彼は神の羊飼であり,神が買い取られた神の羊の世話を見る監督です。監督は,新しい世の社会内にいる神の羊全部の者の中でも,そして社会外にいまでも迷つている者の中でも,神のみこころを行わねばなりません。
19 羊飼は誰の権威から羊を引き離しますか。そしてなぜ?
19 キリスト・イエスはパウロを用いて外部の諸国民のところに行かせ,またイスラエル内の者たちを慰めました。イエスはパウロに現われました。それは彼を選んで『あかしし,これを伝える務に,』任じるためでした。そして『私は,この国民と異邦人との中から,あなたを救い出し,あらためてあなたと彼らにつかわすが,それは彼らの目を開き,彼らをやみから光へ,悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ,また,彼らが罪のゆるしを得る』ためです。(使行 26:16-18,新口)パウロは監督になりました。そして,羊をサタンの支配から離して唯一の真の神に帰らせようといつしようけんめいに努力しました。今日の監督たちも,同じことをしなければなりません。羊を神に帰らせてから後羊飼たちは光の中に彼らを保つように援助しなければなりません。このことをするために,あなた方監督たちは,どのくらいの努力をしていますか。どのくらいの精力をかたむけていますか。あなたがたの会衆内で『あなた方にゆだねられている』者たちに対して,どのくらいの愛を示していますか。従属の羊飼たちよ,羊のような人々を取りあつかう際には忠実で巧みでなければなりません。その全部は,ヱホバ神に属する者たちです!
20 (イ)羊飼のわざの主要な特質は何ですか。(ロ)キリスト・イエスにならつて羊をどのようにみちびくかを説明しなさい。
20 羊飼の主要な特質は何ですか。(1)指導すること,(2)養うこと,(3)牧することです。イエスは真実の指導を示しました。彼自身も大いなる羊飼である御父ヱホバにみちびかれたからです。実際のところ,彼は次のように語りました,『ヱホバはわが魂を生かし,御名の故をもて我をただしき道にみちびき給う。』(詩 23:3)イエスは,大いなる羊飼である御父により正しい道にみちびかれることを欲しました。イエスは次のように言われています,『私自身の考えでするのではなく,私をつかわされたかたの,み旨を求めているからである。』(ヨハネ 5:30,新口)イエスと同じく,忠実にして巧みな従属の羊飼たちは,神の羊を正義のみちにみちびくでしよう。彼らは,羊を神の御言葉に述べられている真理から引きはなすようにみちびきません。その御言葉は神の御こころです。従属の羊飼は,いつでも神の御こころを心に思い,ヱホバは何のわざのなされることを欲しておられるか,イエスはそれをどのようにしたか,彼はどんな道を歩いたか,と自問しなければなりません。羊を神の道にいつでもみちびかねばなりません。神の羊をみちびく者は,ヱホバの御名をあがめるということを心にとめねばなりません。イエスは次のように祈れと弟子たち全部に教えたとき,神の御名を第一にいたしました,『天にいますわれらの父よ,御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり,地にも行われますように。』(マタイ 6:9,10,新口)彼はヱホバの御名のうちに羊をみちびきました。
21 監督はどこで神の御言葉を巧みに用いますか。なぜ彼はためらうことができませんか。
21 羊飼パウロは,次のように語つて指導者としての特質を示しました,『私はあなたがたの益になることなら,何でもあなたがたに語つて,人中でも,家から家へ行つても,あなた方を教えるのをためらわなかつた。』(使行 20:20,新世)パウロは,これらの益になる事柄をどこで学びましたか。神の御言葉から学んだのです。彼はどこで伝道しましたか。いたるところで伝道しました。今日の監督は神の御言葉を知つており,家から家の良いたよりの伝道や,再訪問の活動および聖書研究のわざをするさい,神の御言葉を極めて巧みに用いるでしよう。そして他の奉仕者たちを訓練することに真実の指導をいたします。しかし,会衆の監督は,時々このように考えることがあります。すなわち,巡回の僕は近い中に来るから指導するということは巡回の僕の仕事の一部である,という考えです。それで,彼は不定期な奉仕者にたいする援助をおろそかにして,羊は指導をすこしも受けません。しかし,神の全部の制度はいつしよに働くべきであつて,各人は,それぞれの分を果します。良い羊飼は,羊が強く,健康に,そして丈夫に生長するのを見たいと欲します。そして,彼は益のあることをいたします。それは後になつて羊の中のある者が監督になり,羊をみちびくことができるためです。このわざは決して中止しません。たくさんの新しい羊は,新しい会衆をつくり上げ,新しい羊飼を必要としているのです。パウロは『ためらわなかつた。』あなたは?
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今日の羊の必要物をみたすものみの塔 1959 | 9月15日
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今日の羊の必要物をみたす
1 羊飼は,どのように巧みなものになりますか。羊飼は,どんな質問を自問すべきですか。
イエスは,『私の小羊を養いなさい』と言われました。良い羊飼は,羊をやわらかい草と清い水にみちびきます。神の小羊は,羊を『生命の水の泉に導いて下さる』と告げられました。(黙示 7:17,新口)あなた方監督は,同じことをしようと切望し,良い食物で羊を養い,そして羊を生命の水にみちびきますか。幾年かむかし,ある人は羊飼であるあなた方をみちびき,生命の水を無料で飲ませたではありませんか。それでは,あなた方が援助をうけた同じ牧場で他の羊が食し,同じ水を飲むようにしてはいかがですか。巧みな指導は,真理の正確な知識を持つこと,および羊を良く知ることによつて得られるのです。あなたは自分の会衆を良く知つていますか。あなたは彼らを訓練して正しい声に耳を傾けさせましたか。イエスの言われたことに耳を傾けなさい,『羊は彼(羊飼)の声を聞く。そして,彼は自分の羊の名を呼んで連れ出す。』(ヨハネ 10:3,新口)イエスは,自分の羊の名をみな知つていました。あなたは会衆内のすべての人の名前を知つていますか。あなたは,会衆内のすべての人に話しますか。あなたは新しい羊によろこんで会い,その人たちが御国会館に来るとき,よろこんで知り合うようになりますか。イエスはそうでした。見知らぬ人々を愛しなさい。野外奉仕のわざや,神の会衆の集まりで交わることにより,ヱホバの羊を知るようにしなさい。
2 羊はどのように養われていますか。そうであつても,羊飼は何をしなければなりませんか。
2 羊をみちびくだけでなく,養うことは必要です。羊はどのように養われていますか。『主人が家人の上に任命して,正しい時に食物を与える忠実にしてさとい奴隷』は,たしかに十分の食物を供給しています。ヱホバの見える制度の統治体は,監督をふくめてすべての羊に良い食物をたくさん供給します。あなた方羊飼たちは,この食物をたべるよう羊をはげまし,ヱホバの制度から来るその食物に彼らをみちびきますか。羊がしばしば欠席するなら,あなたは,集会にみちびくのにどれほどの時間をかけますか。あなたは弱い羊を助けて,食物を得させますか。どのくらい,あなたは彼らを野外奉仕にみちびきますか。又は,あなたといつしよに行くようすすめますか。弱い羊に対してどれほどの時間をかけますか。又は,他の人をしてその弱い羊に訪問させますか。あらゆる面で神の御こころを行うことは,良い食物です。イエスはこう述べられました,『私の食物というのは,私をつかわされた方のみこころを行い,そのみわざをなし遂げることである。』― ヨハネ 4:34,新口。
3,4 (イ)イエスは,霊的な食物にどんな重要性を付しましたか。(ロ)使徒ペテロは,神の言葉を何になぞらえましたか。
3 この世の物質は,最も重要なものではありません。物質を持つても人は霊的に餓死します。神の御言葉である霊的な食物こそ,人を活かしつづけるものです。『人はパンだけで生きるものではなく,ヱホバの口から出る一つ一つの言葉で生きるものである。』(マタイ 4:4,新世)神の御こころを知つて理解し,そして神のみこころを行うことは,全く唯一つの正しい食物です。牧するわざをしている人は,みな神の言葉を食することが必要です。
4 イエスは次の事実を強調しました。すなわち羊を見出したとき『弟子として……あなた方に命じておいたいつさいのことを守るように教えよ』(マタイ 28:19,20,新口)弟子とは学ぶ人です。そして,暗やみから出て来る人は,多くのことを学ばねばなりません。道徳の悪くなつている中で,また兄弟たちがねたみと争いをいだいている只中で,学ぶということ,または良く養われるということは,難しい事柄です。そのわけでペテロは,次のように書きました,『だから,あらゆる悪意,あらゆる偽り,偽善,そねみ,いつさいの悪口を捨てて,今生れたばかりの乳飲み子のように,混じりけのない霊の乳をしたい,求めなさい。それによつて育ち,救いに入るようになるためである。あなた方は,主が恵み深いかたであることを,すでに味わい知つたはずである。』(ペテロ前 2:1-3,新口)監督は『主が恵み深い』ことを知つています。それで,羊が『混じりけのない霊の乳』を得ることにより『救いに育つ』ようにいたしなさい。この食物を食べることが,羊にとつてどれほど良いことかを示しなさい。たしかに,それは時間のかかることです。しかし,新しい人も円熟した人も,すべての羊は正義を切実に求めます。両者とも食べつづけなければなりません。そうしないなら,餓死してしまいます。羊飼のなすごとく,彼らを助けなさい。そして羊の空腹とかわきがみたされるようにいたしなさい。『義に飢えかわいている人たちは,さいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう』(マタイ 5:6,新口)従属の羊飼であるあなた方は,自分の責任を良く果していますか。
食物と飲物の必要性
5,6 いま霊的な食物や飲物は,たくさんありますか。監督はけちけちすべきですか。
5 羊を餓死させてはなりません。神の御言葉の真理で羊を養う監督は,羊について心配する必要はありません。羊はそだつて円熟に達します。なぜなら,『私が与える水を飲む者は,いつまでも,かわくことがないばかりか,私が与える水は,その人のうちで泉となり,永遠の命にいたる水が,わきあがるであろう。』(ヨハネ 4:14,新口)その水をわきあがらせつづけなさい。永遠の生命にいたるこの水を,羊に飲ませつづけなさい。ヱホバは又,良い実を供給されます。『いのちの木があつて,十二種の実をむすび,その実は毎月みのり』(黙示 22:2,新口)正しい精神を持つ監督は,神の羊が必要とするものをみな得ることができ,ヱホバ神に永遠に奉仕し得るようにいたします。
6 新しい世の社会にいるすべての者は,会衆の奉仕者であろうと,羊飼であろうと『「きたりませ」と言いつづける。』『かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は,価なしにそれを受けるがよい。』(黙示 22:17,新口)監督は,たくさんあるものを,けちけちすることはできません。神の羊と共に彼らは無料で受けたのですから,無料で与えたいと欲します。彼らは,次の言葉を述べた賢人の真理を知つています,『私の言葉に心をとめよ,……それは,これを得る者の命であり,またその全身を健やかにするからである。』(シンゲン 4:20,22,新口)そのことを考えてごらんなさい! 他の羊に正しい食物と,神の言葉の真理である正しい飲物を与えることは,彼らにとつて生命を意味します。彼らの全身を健やかにするのです。羊飼たちは,羊の面倒を見て羊が空腹になつたり,のどが乾くということが決してないようにしましよう!
7 モーセの律法内に与えられているどんな助言は,今日神の羊の中で適用されますか。
7 良い羊は,自分たちの霊的な必要物を意識しなければなりません。この事柄で羊飼たちは彼らを援助することができます。世話を受ける若い羊は,ちようど両親を欲している子供たちのようです。若い羊は,その父であるヱホバ神と,母のごときヱホバの見える制度を欲しなければなりません。彼らが神の御言葉に耳を傾けるとき,その両方をよく知るようになるでしよう。聖書にこう書かれています,『今日,私があなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め,努めてこれをあなたの子らに教え,あなたが家に座している時も,道を歩くときも,寝る時も,起きる時も,これについて語らなければならない。』(申命 6:6,7,新口)ヱホバの制度に来るすべての幼児にたいして,私たちはこのことをしていますか。もし,これらの新しい者が神の言葉を正しく教えられるならば,彼らが離れさるということは決してなく,むしろ目をさましつづけて幸福な状態にとどまり,新しく見出したヱホバへの奉仕に満足を感じます。
保護をそなえる
8 牧するとは,どういう意味ですか。なぜこの終りの時に羊飼は牧するわざに警戒を払わねばなりませんか。
8 牧するということは,『注意ぶかく見守る』すなわち,羊の世話をして羊を守り,羊を保護するという意味です。そのことをする羊飼は,真実の忠実を示さねばなりません。彼は,自分にゆだねられたすべての羊を世話して,羊を危険から守らなければなりません。ダビデは,羊飼としての責任を取りました。そして彼については次のように書かれています,『彼は直き心をもつて彼らを牧し』(詩 78:72,新口)イエスは,御自分のすべての弟子たちのために『私の小羊を養いなさい』とペテロに言われました。(ヨハネ 21:16,新口)後日,ペテロは,監督たちにむかい,『あなた方にゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。』と告げました。(ペテロ前 5:2,新ロ)パウロも,次のように語つたとき,そのことについて極めて明確な態度を取りました,『あなた方自身(監督)に気をつけ,またすべての群れに気を配つていただきたい。聖霊は,……神の会衆を牧させるために,あなた方をその群れの監督に任命したのである。』(使行 20:28,新世)それですから,羊飼になつている人々は羊を注意深く見守るという責任を持つており,羊の世話を見て,守らねばなりません。羊飼にとつて,それは羊をみちびいて養うということだけではなく,羊を守るということです。羊飼は,多くの事柄から羊を守らねばなりません。羊飼であるユダの言葉に耳を傾けなさい,『聖徒たちによつて,ひとたび伝えられた信仰のために,戦うことをすすめるように,手紙を送る必要を感じるに至つた。そのわけは,不信仰な人々がしのび込んできて,私たちの神の恵みを放縦な生活に変え,唯一つの君であり,私たちの主であるイエス・キリストを否定しているからである。』― ユダ 3,4,新口。
9 高ぶつて誇りの気持を抱く監督には何が生じますか。なぜそのような者を避けるべきですか。
9 そのような不敬虔な者が制度内に入らぬよう。監督は注意を払わねばなりません。時には,監督自身が高ぶつた気持と誇りをいだき,ユダの書いたような事をしても大丈夫と考えます! 監督という高められた地位にいるので,羊を守るどころか反つて羊を自分の都合の良いように取りあつかい,不道徳な行いで羊を滅ぼすことすらいたします。神の会衆内で,監督がどんな地位を持とうとも,たとえ支部の僕であろうと,地域の僕であろうと,巡回の僕であろうと,会衆の僕であろうと,又は奉仕の僕であろうとも,自分の地位が高いから不道徳を行つても大丈夫だなどとは1分といえども考えてはなりません。そのような秘密な振舞にたいしては,神はすでにその者を滅ぼすと裁いておられるのです。そのような者が会衆の内にしのび込むなら,その者がどんな者であろうとも,必ずその者を排斥しなさい。そして,その者との交わりを持つてはなりません。神の羊は,そのような者が会衆に入るのを欲しません。神の羊は,ヱホバ神に栄光と名誉をもたらす清い制度を欲します。彼らはパウロの次の助言に注意を払います,『兄弟と呼ばれる人で,不品行な者,貪欲な者,偶像礼拝をする者,人をそしる者,酒に酔う者,掠奪をする者があれば,そんな人と交際してはいけない。』― コリント前 5:11,新口。
10,11 (イ)監督はどんな不愉快な仕事に時折り面しますか。しかし,なぜ問題を見のがすことはできませんか。(ロ)神の羊の居る場所は,どの面でマタイ伝 10章16,17節のイエスの言葉と適合しますか。
10 監督が羊の世話を見るとき,必要な保護をことごとく与えます。問題にかかわり合つたり,問題を見つけ出したり,問題があるときそのことをしらべる,ということは快いものではありません。しかし,羊飼が群れの中にあるその問題を追及せず,また根絶しないなら,群れ全部を失うかも知れません。『めざめていてその上衣を保つ者は幸福である。』(默示 16:15,新世)怠慢な羊飼であつて,見張りをしなかつたため,彼は自分の生命を失うかも知れません。
11 神の羊は何処にいますか。この古い世にいるのです。彼らはまだ新しい世に入つていませんが,新しい世の社会の内にいます。しかし,それはまだ正義の新しい世ではありません。イエスは,この古い悪しき世にいるが,古い世の一部ではないと言われました。ヱホバの証者は同じ立場にいます,すなわち奉仕者として古い世にいますが,その一部ではないのです。そのわけでイエスはこう言われました,『私があなた方をつかわすのは,羊をおおかみの中に送るようなものである。だからへびのように用心深く。はとのように罪なき者であれ。人々に注意しなさい。』― マタイ 10:16,17,新世。
病気の羊を世話する
12 全く目ざめている羊飼は,病気の羊に対して何をしますか。なぜこのことは必要ですか。
12 人々が隠すこともできない歴然とした行いをして,説諭を受けるとか,又は会衆の委員の前に現われて監視を受けるようになるとか,又は排斥を受けることがあります。監督は,そうなる時まで待つ必要はありません。監督が十分に目ざめている羊飼であるなら,彼は病気の羊を認めるでしよう。そしてやさしい世話か,又は必要な矯正の手段をとるでしよう。こうするとき,彼らは再び健全な精神的な健康,道徳的な健康,そして霊的な健康にもどります。そうすれば,彼らの病気がたいへん重いものになつて,何の援助も利かず,ただ死を受けるにふさわしくなる,ということはないでしよう。ヤコブは,次のように書きました,『あなた方の中に病んでいる者があるか,会衆の古い人々を呼び,ヱホバの御名により,オリブ油を塗つて祈つてもらうがよい。信仰の祈りは,病める者をいやし,ヱホバはその人を立ち上らせて下さる。また罪を犯したならば,その罪はゆるされるであろう。』(ヤコブ 5:14,15,新世)時々,これらの病気の羊は,会衆の羊飼である古い人々に,自分のところに来て,祈つてもらいたいとお願いするだけの良い判断力を持つていません。そのとき,監督は何をしなければなりませんか。
13 (イ)神の羊の間の病気の原因は何ですか。(ロ)兄弟愛は,なぜそんなにも肝要ですか。
13 羊飼は,その病気の者のところに行くべきです。良い羊飼は,会衆から誰が欠席しているかを知つています。それでは,羊が羊飼のところを訪問するまで待つよりも,羊飼がその羊のところを訪問することは良くありませんか。親切な羊飼は,病気の者のところを訪問します。多分その人は霊的な食物に不足していたのでしよう。あるいは,何かの問題にぶっつかつて助言が必要なのかも知れません。あるいは,或る人がその人の気持をそこねたのかも知れません。それがどんなものであろうと,ともかくその人は羊飼の援助を必要としています。監督が病気の羊を援助して,制度の内にとどまらせ,その愛にみちる羊飼のみちびきの下に健康を再び得させる際,監督の持つよろこびを考えてごらんなさい。ヨハネは,こう書きました,『兄弟たちよ。世があなた方を憎んでも,驚くには及ばない。私たちは,兄弟を愛しているので,死から生命へ移つてきたことを,知つている。』(ヨハネ第一書 3:13,14,新口)ヨハネは,真実の愛の意味することを知つていました。イエスは,その生涯中,およびその死によつて真実の愛を示しました。ヱホバの制度内にいる兄弟たちは,多くの仕方のうちにこれと同じ種類の愛を示すことができます。迫害に対する一致した立場のうちにたしかに示します。あらゆる種類の問題の際には,真実の愛が示されます。時には,他の人にこの愛を示しても,受ける人が感謝を示さないことがあります。しかし与える人は,真実の愛を表明しなければなりません。
14,15 (イ)パウロのどんな助言は,監督たちが従うのに適したものですか。(ロ)羊飼は,自分に委ねられた羊のうちのいく人を世話しなければなりませんか。
14 それですから,羊飼は会衆を援助して使徒の語つた言葉通りを行わせるようにしなければなりません。『すべての無慈悲,いきどおり,怒り,騒ぎ,そしり,また,いつさいの悪意を捨てさりなさい。互に情ぶかく,あわれみ深い者となり,神がキリストにあつてあなた方をゆるして下さつたように,あなた方も互にゆるし合いなさい。』とパウロはエペソ人の会衆に告げました。(エペソ 4:31,32,新口)監督たちよ,あなた方は全部の羊の世話を見るように神から選ばれた者であることを忘れてはなりません。健康な者だけとか,あなたといつしよに奉仕に出かける者だけとか,集会に来る者だけの世話を見るのでなく,ヱホバの御こころを行うことに献身したすべての者たちの世話を見なければなりません。聖霊により,あなた方は神の群れを牧するように任命されているのです。
15 ヱホバ神は正しい者にも正しくない者にも雨を降らせるということは,あなた方の知つておられる通りです。太陽は善い者の上にも悪い者の上にも照ります。ヱホバはいつでも与えておられます。ヱホバは常に与えておられ,そして過分の御親切の気持から与えられます。キリスト・イエスは,正しい者のためにもそして正しくない者のためにも,自分の生命をよろこんで捨てました。それで,羊の羊飼である監督たちよ,あなた方はどの程度まで羊をみちびき,養い,そして牧しますか。イエスは簡明にこう言われました,『これらのことを命じるのは,あなたがたが互に愛し合うためである。』― ヨハネ 15:17,新口。
16 大いなる羊飼が全部の羊を世話しておられるゆえ,彼らはダビデの語つたどんな言葉を言うことができますか。
16 地上にある御自分の羊が小さな群れであろうと,他の羊であろうと,天におられる大いなる羊飼は御自分の羊の世話をしておられます。地上にいる任命された監督たちは,どんな環境の下にあろうと,真心からの熱心をこめて神の羊の世話を見なければなりません。神はその重い責任を持つ彼らと共におられるからです。彼らは,他の羊全部と同じく,次のように言います,『ヱホバはわが牧者なり,われ乏しきことあらじ。たといわれ死のかげの谷を歩むとも,わざわいを恐れじ。なんじ我とともに在せばなり。なんじの笞なんじの杖われを慰む。なんじ我が仇のまえに我がために宴を設け,わが首にあぶらを注ぎ給う。わが酒杯はあふるるなり。わが世にあらん限りはかならず恵みとあわれみとわれにそいきたらん。我はとこしえにヱホバの宮に住まん。』― 詩 23:1,4-6。
羊は羊飼を必要とする
17,18 (イ)羊飼は,どのように羊を群れの中に保つことができますか。(ロ)なぜイエスは,羊にとつてそのように良い羊飼でしたか。いま,更に多くの羊飼は必要ですか。
17 従属の羊飼たちよ,大いなる羊飼にならいなさい。羊にはあなた方が是非とも必要です。羊はあなた方の援助を期待しています。そのために神はあなた方を任命したのです。『互に重荷を負い合いなさい。そうすれば,あなた方はキリストの律法を全うするであろう。』(ガラテヤ 6:2,新口)神は罪人や,感謝を持たぬ者たちに親切を示しました。羊飼たちは同じことを巧みにすることができませんか。そして,自分にゆだねられている者たちに常に親切を示すことはできませんか。良い羊飼は,羊を群れの中に保ちます。保護を与える羊飼としてのわざをおろそかにせず,また羊が群れの外に出て行くことも許さないでしよう。もしある羊が外に出て行くなら,彼は羊をさがして,安全に連れ戻すでしよう。
18 イエスは制度を建てて,羊をその中に保ちました。彼の御父は,彼に羊を与えました。イエスは,そのことを認めています。『私がお願いするのは,この世のためにではなく,あなたが私に賜わつた者たちのためです。彼はあなたのものなのです。』(ヨハネ 17:9,新口)彼はあらゆる面で彼らのことを見守りました。彼らは御父のものであると,彼は知つていました。しかし,彼らを救いにみちびくため,彼はその羊飼になるべく御父から任命されたのです。そのわけでイエスは祈りの中で更にこう語つたのです,『私が彼らといつしよにいた間は,あなたからいただいた御名によつて彼らを守り,また保護してまいりました。彼らのうち,だれも滅びず,ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした。』(ヨハネ 17:12,新ロ)イエスは,羊の生命を守るため彼らをいつしよに保ちました。イエスの時には,それは小さな会衆でした。ペテロパウロ,そして他の者たちのような羊飼の下にあつて群れはなんと大きくなつたのでしよう! 現在のこの終りの日において,何人も数えることのできない大きな群衆は,あらゆる国,種族,人々そして言語から来て,神の会衆として御座と小羊の前に立つています。(默示 7:9-15)いま,さらに多くの従属の羊飼が必要です。昨年の終りには1万7878の会衆がありました。しかし,毎年6万から7万人の羊がヱホバの制度に入つてくるのですから,監督の責任を取るために更に多くの羊飼はたしかに必要です。あなたの祝福された特権を大事にいたしなさい。そのとき,更に多くの他の人々はこの正しい種類のわざを求めるようになるでしよう!
19,20 さらに多くの羊飼が必要である故,どんな質問が起りますか。そして,すべての羊は何を認めつづけねばなりませんか。
19 たしかに,更に多くの地域の僕,巡回の僕,会衆の僕,そして奉仕の僕が必要です。この大きな群れが進歩するにつれて,更に多くの羊飼は任命されて神の群れを世話するでしよう。更に多くの人々は,牧するわざをしなければなりません。あなたは,それらの人々のひとりになりますか。神の大いなる群れの一部を任されて,その世話を見るよう命ぜられるとき,その責任をよろこび進んで引き受けますか。そして,群れの良い模範になりますか。
20 新しい羊飼たちがこれらの責任の地位に任命されるとき,80万人以上の羊たちは,自分たちを守るため,ヱホバ神が御子キリスト・イエスを通して設立した制度を認めつづけねばなりません。羊は,緑の牧場にみちびいてもらうよう羊飼に仰ぎ求めます。
21 会衆内の者たちは,監督をどのように見なすべきですか。
21 同様に会衆の人々は,監督として任命されている者が,たとえどのような人々であろうとも,それらの人々を尊敬しなければなりません。従属の羊飼であるパウロはこう語りました,『あなたがたの指導者たちの言うことを聞き入れて,従いなさい。彼らは神に言いひらきをすべき者として,あなたがたのたましいのために,目をさましている。彼らが嘆かないで,喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと,あなた方の益にならない。』― ヘブル 13:17,新口。
22 監督は何を祈り求めるべきですか。
22 監督たちよ,あなた方の心と思いが開かれて神の御こころを理解し得るようあなた方の神ヱホバに絶えず祈りなさい,『愚かで無知な論議をやめなさい。それは,あなたが知つているとおり,ただ争いに終るだけである。主の僕たる者は争つてはならない。だれに対しても親切であつて,よく教え,よく忍び,反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は,彼らに悔い改めの心を与えて,真理を知らせ,一度は悪魔に捕えられてその欲するままになつていても,目ざめて彼のわなからのがれさせて下さるであろう。』― テモテ後 2:23-26,新口。
23 羊飼は,自分自身の面倒をどのように見ますか。彼は誰の愛の中に羊を保ちますか。
23 良い羊飼は羊の世話を見るだけでなく,自分自身のことも良く世話します。羊飼は食事をします。心身さわやかにする水を必要とします。休息を取ります。巧みな羊飼は,霊的にも,肉体的にも,また道徳的にも健康を保ちます。そのようにして会衆内に委ねられた全部の羊にたいして真実の指導者となり導き手となり得ます。彼は,羊と羊飼に対するユダの助言を心に深く認識します,『しかし,愛する者たちよ。あなた方は,最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ,聖霊によつて祈り,神の愛の中に自らを保ち,永遠の生命を目あてとして,私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。』(ユダ 20,21,新口)羊飼たちよ,神の羊を世話しなさい。そして神の愛の中に自分の身を保ち,ますます拡大するヱホバの制度内で活発に働きなさい。巧みに牧するとき,よろこび,楽しみ,そして一切の理解よりすぐれる愛を得ることができます。それは,正しい羊飼であるイエスの持つていた愛です。彼はこう言いました,『人がその友のために自分の生命を捨てること,これよりも大きな愛はない。』(ヨハネ 15:13,新口)そのような愛のあるとき,神の羊を正しく守り,そして群れを牧して,神の正義の新しい世における永遠の生命にみちびきます。
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パプアでの実際的な愛の援助ものみの塔 1959 | 9月15日
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パプアでの実際的な愛の援助
1959年ヱホバの証者の年鑑
今年度中に,自分たちの言葉であるモツ語で『ものみの塔』が印刷されたことは,多数の兄弟たちにとつて大きなよろこびでした。いまその言葉で雑誌を読む兄弟たちは,研究を心から感謝しています。このことは,多数の人々が質問に答えていること,野外奉仕が良くなつたこと,そして一般的に言つて円熟性が増したことからも表明されます。
いくつかの会衆は,いろいろの村で自分たちの御国会館を建てました。ある会衆は,更に週末に援助に来る欧州人の証者たちのために,3部屋づきの家を建てました。神の御心大会以来,兄弟たちはできるだけ早く読み書きを学ばねばならないと感じています。それですから,この新しい家は欧州人の兄弟たちにより今まで以上に使用されるでしよう。
原住民の言葉を上手に話すひとりの特別開拓者は,遠くはなれた辺鄙な場所に移転しました。開拓者はある土地で家を建てましたが,その土地の所有主は,決して追出さないと保証したのです。この地方の有名な牧師は,原住民の言葉を話しませんでした。しかし,ヱホバの証者が自分の区域内に住んでいて働いていると知つて,この牧師はすぐに開拓者のところに行き,原住民は証者たちが好きではないし,いては困ると警告しました。それから兄弟の家の土地所有者にも警告が発せられ,すぐに出て行くようにと兄弟は命ぜられました。しかし,証者たちがそこにいた短い時の期間中,開拓者とその妻は多くの村の原住民と親しくなつていました。原住民の言葉を知ることは,なんという助けだつたのでしよう。開拓者たちをこの場所から追い出すという企みを知って,原住民たちは激怒しました。彼らは開拓者の家族を愛していました。彼らは霊的な援助を多く必要としており,去つて行かれては困ると感じました。原住民たちは,家を建てるところを探し出し,二つの村々から人々が来ました。すぐに家を取りこわして新しい場所に運び,そして僅か2,3日の中に家は再び建てられて開拓者の家族はそこで幸福な生活を始めました。原住民と研究がつづけられ,原住民は急速に円熟にむかつて進歩しています。間もない中に,会衆がここで設立されるでしよう。
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