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「りっぱな羊飼い」と「小さな群れ」ものみの塔 1980 | 10月15日
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も彼らを知らなかったので,彼ら個人の名前を呼びませんでした。彼らは自ら選んで盲目になったので,メシアなる羊飼いを見分けることができなかったのです。わたしたちは今日,彼らのようになりたくないものです。
「羊の戸口」
17 ヨハネ 10章7-10節によると,イエスは羊の囲いの他のどんなものにご自分を例えて話されましたか。
17 ここでイエスは,問題のもう一つの重要な面を例えで示すために,比喩的表現を変えられます。「それゆえイエスは再び言われた,『きわめて真実にあなたがたに言いますが,わたしは羊の戸口です。わたしに代って来た者はみな盗人であり,略奪者です。しかし羊は彼らの言うことを聴きませんでした。わたしは戸口です。だれでもわたしを通って入る者は救われ,その者は出入りして,牧草地を見つけるのです。盗人は,盗み,殺し,滅ぼすためでなければやって来ません。わたしは,彼らが命を得,しかも満ちあふれるほど豊かに得るために来ました」― ヨハネ 10:7-10。
18 (イ)地上のだれが,象徴的「戸口」としてのイエスに対する「戸口番」として行動しようとしていますか。(ロ)「事物の体制の終結」の特徴として,イエスはどんなクラスのことを語られましたか。このクラスは,「戸口」としてのイエスの「戸口番」として仕えますか。
18 ご自身が「戸口」であることと関連させて「戸口番」のことを述べておられない点に注目しましょう。イエスは,いわゆる「キリストの代理」,つまり不謬性を有すると主張する,ある教派の首長のことを語っておられるのではありません。イエスは,「わたしは戸口です」と言われました。そして何か月かたってさらにこう言われました。「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません」。(ヨハネ 14:6)こう言われたからといって,イエスが「[ご自身の]臨在と事物の体制の終結」にかかわる長い預言をされた際に,「忠実で思慮深い奴隷」すなわち主人が「任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせる」者について確かに予告されたことが意味をなさなくなるわけではありません。(マタイ 24:3,45-47)ここで言われているのは,イエスの忠実で思慮深い追随者からなる「奴隷」級,つまりイエスが,特にこの「事物の体制の終結」の間に,地上にあるご自身の見える持ち物の監督をゆだねる級のことです。けれども,その任命によって「奴隷」級がイエスの「戸口番」になるわけではありません。
19 アブラハム契約の取り決めという羊の囲いの中にいる者たちは,どれほどの大きさの「群れ」を形成しますか。どの入口を通ることが彼らの救いとなりますか。
19 イエスは,共に「アブラハムの胤」の一員とされる,ご自分の羊のような追随者にとって象徴的な「戸口」です。ですから彼らは,アブラハム契約の取り決めという「羊の囲い」の中にいます。そしてそれらの人々は羊飼いであるイエスのもとに全部集まってもちょうど14万4,000人の,比較的に「小さな群れ」を形成するに過ぎません。彼らはいわば霊的イスラエルの12部族を形成し,霊的シオンの山に,神の「小羊」,イエス・キリストと共に立っています。(ルカ 12:32。啓示 7:1-8; 14:1-5)彼らが救われて天の相続財産を受けるのは,キリストの代理などのお陰ではなく,「羊の戸口」である方のお陰です。「だれでもわたしを通って入る者は救われ,その者は出入りして,牧草地を見つけるのです」とイエスは言われたからです。(ヨハネ 10:9)天に行く希望を持つ「小さな群れ」に代わって使徒パウロは,「わたしたちの主イエス・キリスト」に言及し,「このキリストを通して,わたしたちは,自分たちがいま立つこの過分のご親切に,信仰によって近づくことができました。それで,神の栄光の希望をよりどころとして,歓喜しようではありませんか」と述べています。―ローマ 5:1,2。エフェソス 2:18; 3:12。
20 エホバの従属の羊飼いは,彼に「代って来た」「偽キリストや偽預言者」と比べてどのように傑出していましたか。
20 「事物の体制の終結」に関する預言の中でイエスは,「偽キリスト」や「偽預言者」が起こり,人々を大いにまどわすことを預言されました。彼らは真のキリストに「代って来」ました。そして,欺かれてそういう詐欺師に従った人々は,宗教的に言って盗まれ,実際に殺されないまでも,霊的に殺され,滅ぼされました。(マタイ 24:3,24,25。ヨハネ 10:8,10)一方,イエスは,命を救う者として,また人間に今よりも豊かな命を楽しませる備えをするためにこられました。その命は完全な,永遠の命であり,すべての者を牧する大いなる牧者エホバ神によってつくられる安全に関する規定内にあります。ですから,神の「羊」として永遠の命を得ることを望むなら,エホバ神の従属の羊飼いであり,自己犠牲の精神にも富んでおられるイエス・キリストこそ,わたしたちが従うべき方です。
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「りっぱな羊飼い」と「ほかの羊」ものみの塔 1980 | 10月15日
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「りっぱな羊飼い」と「ほかの羊」
「また,わたしにはほかの羊もいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければな(りません)」― ヨハネ 10:16。
1 「りっぱな羊飼い」は「雇われ人」とどのように違いますか。
りっぱな羊飼いは,賃金だけに関心のある雇われ人とは違います。イエスは言われました。「わたしはりっぱな羊飼いです。りっぱな羊飼いは羊のために自分の魂をなげうちます。雇われ人は,おおよそ羊飼いとは異なり,また羊が自分のものでもないので,おおかみが来るのを見ると,羊たちを見捨てて逃げます ― そしておおかみは彼らをさらい,また散らします ― 彼は雇われ人であり,羊のことを気にかけないからです」― ヨハネ 10:11-13。
2 (イ)イエスは,「りっぱな羊飼いは羊のために自分の魂をなげうちます」と言って,ご自身がどんな経験をすることを示唆されましたか。(ロ)イエスがご自身の魂をなげうたれたことは,一般に何のためになりましたか。
2 当時の中東では,羊を牧草地で放し飼いにする場合には様々な危険が伴いました。そのことで思い出すのは羊飼いの少年ダビデのことです。ダビデはある時父エッサイの羊の命を救うために,1頭のくまと1頭のライオンを殺さねばなりませんでした。(サムエル前 17:34-36)イエスは,おおかみが羊を取って食べることについて語られました。おおかみを追い払う時には,羊飼いの身が危険になることもあるでしょう。りっぱな羊飼いは,雇われ人のように自分の身の安全を考えて逃げるのではなく,食肉動物から羊を守ります。「りっぱな羊飼い」は,1匹の羊も失うまいとして,『羊のために自分の魂をなげうつ』ことさえいといません。イエスはこの点に注意を引いて,人間の魂としてのご自分がエホバの「羊」のために死ぬことを予告しておられたのです。しかしイエスは自ら進んで「りっぱな羊飼い」のこの特性にふさわしく行動されました。イエスの天の父で,地上の「羊」の所有者であるエホバ神は,ご自分がこよなく愛しておられる「羊」のためにみ子がその魂をなげうつよう進んで取り計らわれたのです。イエスの人間としての「魂」は,罪を犯したアダムから人類が受け継いでいた死より人類を買い戻すための贖いの犠牲として捧げられました。
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