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    ものみの塔 1966 | 8月1日
    • 幸福な羊の群れの監督

      「エホバはわが牧者なり,われ乏しきことあらじエホバは我をみどりの野にふさせ,いこひの水浜にともないたまふ エホバはわが霊魂をいかし御名の故をもて我をたゞしき路にみちびき給ふ」― 詩 23:1-3,文語。

      1,2 (イ)宇宙を監督するのはだれですか。その下にいる人はなぜ幸福ですか。(ロ)エホバの理知ある被造物の幸福を物語るどんな証拠がありますか。

      まことの神エホバは全宇宙で最も名のある監督であり,ご自身の手の群れの牧者です。聖書にもエホバは「幸福なる神」としるされており,エホバに近づく特権に恵まれた人は幸福です。―テモテ第一 1:11,文語。

      2 理知のあるものがエホバの導きを受けて幸福を感ずることは,聖書の多くの句に照らして明白です。聖書によれば,天の子たちはエホバのみまえに「喜び呼ばわ」り,「喜び楽しみ」,幸福を味わっています。(ヨブ 38:7。黙示 19:7-9。箴言 8:30)地上ではエホバの牧場の羊である人間もまた「さいわい」な者と呼ばれています。「エホバをおのが神とする民はさいはひなり」と,詩篇の筆者はうたいました。「ヤコブの神をおのが助とし,その望をおのが神エホバにおくものは幸福なり 此はあめつちを造り給ふ神なり」。(エゼキエル 34:31。詩 144:15; 146:5,6,文語)気の沈みがちな20世紀にもほんとうの幸福があり,幸福な神エホバの羊の群れに属する人はそれを味わっています。その群れの人ならば,幸福とは何かを知っているはずです。

      3,4 (イ)エホバはご自分の民を幸福にするため,何を備えられましたか。なぜですか。(ロ)神の羊の群れが幸福を感ずるため,聖書の研究を欠かせないのはなぜですか。

      3 エホバはご自分の民の幸福を望まれます。幸福な生活を望まない人はいません。幸福感を味わうことがなければ,人生は退屈な重荷となり,実際に多くの人にとってはたえがたいものともなり,旅路のはてに至るまで孤独なさまよいとなります。羊の群れの監督エホバはこの事をご存じです。エホバは活気に満ち,意義のある生活をご自身の羊の群れに保証するため,彼らがいつまでも幸福であるように豊かに備えられました。

      4 つきることのない食物と飲みものが,神の羊の群れに供給されています。神の羊がいつも幸福を感ずるために,良い食物と良い飲みものが必要です。羊飼いであった詩篇の筆者は,「主はわたしを緑の牧場に伏させ,いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせる」と述べました。(詩 23:2,3)エホバが備えられたこの食物と飲みものとは,すなわち文字にしるされたエホバのことば聖書です。ゆえにこのことばを熱心に学ぶことは,神の羊の群れにとって肝要です。それは霊的な健康と幸福への道であるにとどまらず,永遠の生命への道です。神の子イエス・キリストが当時のユダヤ人にむかって次のように言われたのも不思議ではありません。「めぐまれているのは,むしろ,神の言を聞いてそれを守る人たちである」。「霊的な必要を自覚している人はさいわいである」。「人が生きるのはパンのみにはよらず,エホバのみ口から出るすべてのことばによる」。(ルカ 11:28。マタイ 5:3; 4:4,新世)幸福に生きるために,神の羊は神の倉からたえず霊的食物を補給しなければなりません。

      5 どんな面において,聖書は神の人に絶対に必要ですか。エホバのことばはそのことをどのように証明していますか。

      5 神のことばはまた,今の暗い,苦しい時代にどうしても必要な光です。詩篇の筆者は神に対して,「あなたのみ言葉はわが足のともしび,わが道の光です」と語りました。(詩 119:105)暗やみの中に迷い出た羊は恐怖にとりつかれ,幸福を失います。エホバは羊を導き,幸福を得させるために,聖書の真理というともしびを与えられました。イスラエル人を約束の地に導き入れようとしていた将軍ヨシュアに対して,エホバは言われました。「この律法の書をあなたの口から離すことなく,昼も夜もそれを思い,そのうちにしるされていることを,ことごとく守って行なわなければならない。そうするならば,あなたの道は栄え,あなたは勝利を得るであろう」。(ヨシュア 1:8)自分が歩む道に栄え,賢明に行なうには,聖書を持つにとどまらず,大いなる監督エホバがヨシュアに与えられたさとしに従わなければなりません。この賢明なさとしに従うならば幸福になります。「おのが道をなほくしてエホバの律法をあゆむ者はさいはひなり エホバのもろもろの証詞をまも(る)ものは幸福なり」(詩 119:1,2,文語)と述べられています。聖書を知り,その教えを守って生活する時,神の羊の群れは幸福を見出します。

      6 他のどんな面において,聖書はエホバからの祝福ですか。

      6 エホバがご自身の羊の群れの牧者としてみことばを備えられた目的はほかにもあります。その高い目的は人間が,天の牧者であるエホバを知るためです。聖書がなければ,神の羊は自分たちの牧者であり神であるエホバを知ることができません。エホバを知るときに初めて,つきることのない幸福が得られます。エホバは「いのちの泉」であると同時に喜びの源です。喜びはみたまの実です。(詩 36:9。ガラテヤ 5:22)羊が恐れを抱き,不幸になるのは,羊飼いから離れたときです。ほんとうに幸福になることと,エホバを知ることとが詩篇の中でどのように結びつけられているかに注目してください。霊感によって書かれたことばは次のように述べています。「主に寄り頼む人はさいわいである」。「よろこびの音をしる民は幸福なり,エホバよ彼等はみかほの光のなかをあゆめり」。「エホバをおそれ(る)ものは皆さいはひなり」。「あなたの家に住(む)人はさいわいです」。「その力があなたにあ(る)人はさいわいです」。(詩 34:8; 89:15,文語。128:1,文語。84:4,5)ゆえに幸福を求める者は,エホバから与えられる喜びを見出すために天に顔を向けなければなりません。

      7 (イ)詩篇を書いた人は,エホバを知る喜びをどのように表現していますか。(ロ)人が幸福と安心感を見出せる唯一の場所はどこですか。

      7 天の監督エホバを知る人に報われる安らかな喜びと満足は,ダビデの書いた印象的な詩篇 23篇に表現されています。「エホバはわが牧者なり」とダビデは述べました。「わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ,いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ,み名のためにわたしを正しい道に導かれる。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも,わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと,あなたのつえはわたしを慰めます。あなたはわたしの敵の前で,わたしの前に宴を設け,わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。わたしの生きているかぎりは,必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに〔エホバ〕の宮に住むでしょう」。エホバを知る者が味わう満足,慰め,安らかな喜びが美しく表現されているではありませんか。それは迷った羊の悲しげな鳴き声を想像させることばではありません。群れから迷い出た羊はどれもみじめで無力であり,孤独です。やさしく世話する羊飼いの手を離れて保護を失った羊は恐怖を感じます。エホバから遠く離れていて幸福はありません。ダビデが詩篇 23篇に述べている幸福と平安は,エホバとエホバの羊の群れとともにいるとき,はじめて得られます。

      8 群れを世話するため,だれがエホバから任命されていますか。彼らはどんな基本的な真理を常に心に留めなければなりませんか。

      8 ご自身の群れに属する人々が迷って不幸にならないように,エホバは監督および羊飼いの働きをする者を任命されました。それは神の羊の群れを世話する人々です。昔のイスラエルの王ダビデは,このような監督のひとりでした。神の民の羊飼いではあっても,ダビデは自分の上に監督である羊飼いがいること,自分がその前に責任をはたすべきことを知っていました。それで詩篇 16篇8節に,「われ常にエホバをわが前におけり」と述べています。羊飼いは群れの先頭に立って進みます。それでダビデ王は自分の神エホバを自分の前におくことを喜びとしていました。別のイスラエル人も,「イスラエルの牧者よ,羊の群れのようにヨセフを導かれる者よ,耳を傾けてください」と書いています。(詩 80:1)この基本的な真理を心に留めていたダビデは良い監督となり,神の羊の群れのりっぱな手本となりました。

      9 監督がエホバの導きに従うとき,監督と群れにどんな結果が及びますか。詩篇の筆者ダビデは,これについてなんと述べていますか。

      9 天の監督に導かれるとき監督は祝福を受け,羊の群れも幸福を感じます。これについてダビデの書いた詩篇 144篇13節から15節は物質主義の人々を次のように描いています。「われらの倉は満ちて様々の物を備え,われらの羊は野でちよろずの子を産み,われらの家畜はみごもって子を産むに誤ることなく,われらのちまたには悩みの叫びがありません。このような祝福をもつ民はさいわいです」。これと対照して,ダビデは「主〔エホバ〕をおのが神とする民はさいわいです」と述べています。それで霊の思いを持つ監督はエホバからの祝福となります。このような監督の下で神の羊の群れは真の幸福を感ずることでしょう。

      いつも幸福な羊の群れ

      10 (イ)羊に対する愛を示すという点で,だれの手本がありますか。どのように?(ロ)とくにどんな面で,監督はエホバの愛にならうべきですか。

      10 群れを幸福にするものとして,愛にまさるものはありません。エホバは愛の手本です。神の羊のひとりであった使徒ヨハネは次のように書きました。「愛さない者は,神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし,彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって,わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく,神がわたしたちを愛して下さって,わたしたちの罪のためにあがないの供え物として,御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから,わたしたちも互に愛し合うべきである」。(ヨハネ第一 4:8-11)天からのこの愛の手本にならうのは監督の責務です。神がまず愛してくださったように,監督は愛を示すことに率先しなければなりません。「わたしたちが愛し合うのは,神がまずわたしたちを愛して下さったからである」と,ヨハネは述べています。(ヨハネ第一 4:19)愛されているという自覚,たとえ自分たちがとるにたりない者であっても愛されているという確信は,大きな幸福感を生みます。

      11 (イ)群れを愛することはなぜ肝要ですか。(ロ)愛はどのように羊飼いを助けますか。

      11 しかし愛はなぜそんなにも肝要ですか。「愛は人の徳を高める」からであり,「愛は,すべてを完全に結ぶ帯」であり,「愛はいつまでも絶えることがない」からです。(コリント第一 8:1; 13:4-8。コロサイ 3:14)愛の心を持つ監督は親しみやすく,親切また柔和で思いやりと忍耐に富んでいます。愛があれば,羊を手あらく扱うようなことはありません。羊が必要とする霊的なものに目ざとく気づくのは,愛があるからです。ほかの人の気持ちを本能的とも言えるほど正確に感じとるという点で,純粋な愛ほど目ざとく,敏感なものはありません。真実の愛は感じとる力をするどくします。羊が空腹ならば,羊飼いにはすぐにそれがわかります。愛があるからです。のどがかわいているならば,羊飼いは愛のゆえにそのことにすぐ気づきます。けがをしたり,病気になった羊があれば,羊飼いの愛はそれを悟ります。一匹の羊がいなくなれば,いちばん早く気がつくのは,羊を愛している羊飼いです。羊飼いの持つあらゆる善良さの原動力は愛です。天の神から,「良い羊飼」イエス・キリストへ,さらに任命された監督をとおして,上から下に及ぶ愛は,神の羊の群れを一致させ,幸福にします。愛されるよりもまさったことがあるとすれば,それは愛することです。監督はそのことを忘れてはなりません。また愛は絶えることがないのを心に留めておきましょう。

      12 愛のある羊飼いはどのように群れの祝福となりますか。

      12 したがって,愛の心を持つ監督は会衆にとって,はかりしれない祝福となります。羊は彼らと語り,また接する監督の態度から愛を感じとります。監督は親切で近づきやすい人です。羊は監督にひきつけられます。また監督が面倒をみてくれることと,彼らの福祉を心から気づかってくれることを知っています。自分たちの問題をすぐ監督に相談するのは,監督がやさしく相談に乗ってくれることを確信しているからです。彼らは監督の愛を確信しています。愛が人の目にかくれることはありません。愛はやわらげる働きをするので重荷を軽くし,従うことを容易にします。愛は平和な空気をかもし出します。愛は不平をこぼすことがなんと少なく,また喜ぶことがなんと多いのでしょう。監督はそのことを知るゆえに,天の監督である神とキリストにならって愛を示します。

      13 イエスの愛はどんな事実から証明されますか。イエスは羊飼いの愛を証明するどんなたとえを語りましたか。

      13 羊に対するエホバ神の愛は,「よい羊飼」によって示されています。地上のイエスは羊の生命を大事にしました。そして羊はイエスの愛を全身に感ずることができました。貧しい者,病気の者,しいたげられた者,無知の者,あらゆる種類また階層の罪人がイエスにひきつけられたのです。「よい羊飼」は決して高ぶるようなことをせず,羊を腕にだき,生命に至る道を歩むように彼らを励ましました。イエスが近づきやすい人であったために,罪人は罪の道を離れて救いの道にはいることができました。(ヨハネ 10:11。ルカ 7:36-50)ルカは聖書に次のことを書いています。「さて,取税人や罪人たちが皆,イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて,『この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている』と言った。そこでイエスは彼らに,この譬をお話しになった,『あなたがたのうちに,百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら,九十九匹を野原に残しておいて,いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。そして見つけたら,喜んでそれを自分の肩に乗せ,家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め,「わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから」と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように,罪人がひとりでも悔い改めるなら,悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが,天にあるであろう』」。(ルカ 15:1-7)愛と理解を示すという点で,イエスはすべての監督にすぐれた手本を残されました。イエスにならうのは最高の知恵の道です。

      滋養と幸福

      14,15 (イ)羊飼いのおもな務めのひとつはなんですか。なぜそうですか。(ロ)不満な羊をなだめるのにいちばん良い方法はなんですか。

      14 良い食物は幸福と密接な関係があります。羊が空腹になるといらだち,御しにくくなることは,どんな羊飼いでも知っています。しかし良く食べて満足している時は,外見だけでもそれがわかります。落ちつかない,不満を表わした,いらだった様子はなくなって,落ちつきと満足の様子を示します。ゆえに羊を養うことが,監督の大切な務めとなります。

      15 羊が不平を述べる時,おそらく最善の策は神のことばの牧場に導いて,元気づけ,励まし,建ておこす真理を示すことです。こうした話をするとき,神から与えられる希望と神の約束の確かなことをゆっくり話し合ってください。(テトス 1:2)不満な心や傷ついた心をエホバのことばで養うならば,満足や幸福感がよみがえってきます。霊感によって書かれた箴言によれば,「知恵を求めて得る人,悟りを得る人はさいわいである。知恵は,これを捕える者には命の木である,これをしっかり捕える人はさいわいである」からです。(箴言 3:13,18)神の羊はこのような認識を持つにつれて,幸福を感ずるようになります。しかし,そうなるように,監督が導かなければなりません。

      16 イエスのことばによれば,何が人を幸福にしますか。

      16 しかし読んだり,聞いたりするだけで幸福が得られるのではありません。「受けるよりは与える方が,さいわいである」と,イエスは言われました。(使行 20:35)聞くだけでなく,神のみこころを行なう人が真の幸福を得ます。神のことばを守る人は,つきることのない幸福を味わうでしょう。クリスチャンとなった弟子ルカは,「よい羊飼」の次のことばをとくにしるしています。「めぐまれているのは,むしろ,神の言を聞いてそれを守る人たちである」。(ルカ 11:28)ゆえに神のことばを聞くこと,行なうことの両方が相まって,幸福をもたらします。

      ひとりびとりに目をとめる

      17 (イ)羊飼いが群れに個人的な関心を払うのはなぜ当然ですか。(ロ)羊飼いはどのようにして羊を幸福にできますか。

      17 神の羊の群れは記録カードや綴りや数字を寄せ集めたものではなく,生ける神を賛美するために献身した貴重な人々の生きた組織です。ゆえに当然,これらの人々には最善の注意を払わなければなりません。それはひとりびとりに目を留めるということです。監督が机の上の仕事に忙しくなりすぎて,羊に注意を払う時間が全く,あるいはほとんどなくなるのは,ありがちなことです。しかし羊飼いの世話は群れの各人に行き届いていなければなりません。「善を行なうことと施しをすることとを,忘れてはいけない。神は,このようないけにえを喜ばれる」と,クリスチャンの監督パウロは書きました。(ヘブル 13:16)野外の宣教においてひとりびとりの羊と一緒に時おり働くことは,100の説教よりも彼らの心を動かします。ひとことでも監督が親しく語りかけて励ますならば,彼らは強められます。それは監督が気づかっていることの表われです。このように親しく交わって,彼らの努力や進歩をほめることが羊を幸福にし,また霊的に成長させます。

      18 羊飼いは入院中の人にどんな喜びを与えることができますか。

      18 羊は病気になりやすく,したがって羊飼いが必要です。「心のいためる者をいやし」と述べられた使命を,羊飼いははたさなければなりません。(イザヤ 61:2)そのためには親しく訪問することが必要です。羊飼いがそばにいるだけでも,病気の羊は喜び,励まされます。羊飼いは会衆の活動をいろいろ知らせ,聖書研究をし,新しい聖書の話を一緒に検討し,あるいは最近開かれた主の民の大会について,プログラムの内容,新しい知らせ,大会によって励まされたことなどを語るでしょう。病気になった人がエホバと組織に対する関心を失わないように,監督は気を配ってください。しっかり立つこと,祈ること,神の羊の群れに関心を払うことが,群れの幸福の増進に役だつことを示しなさい。心のいためる者をいやしなさい。―コリント第二 1:3-7。

      19 ほかにもどんな方法で,病気の人に同情を示すことができますか。監督はどのように報われますか。

      19 病院にはいっている人だけが病人ではありません。家にいても病気の人は大ぜいいます。監督はそれらの人にも注意を払わなければなりません。手紙1本あるいは見舞いのはがき1枚でも,予想以上に大きな幸福を与えます。しかもそれにくらべるなら,そのために要するものはごくわずかです。「あなたが会衆のほうに見えないのでさびしく思っています。どうぞ早くよくなってください」という監督のひとことを,病気の羊は非常にありがたく思うでしょう。それだけでなく,羊の所有者であるエホバもそれを喜ばれます。「隣り人を卑しめる者は罪びとである,貧しい人をあわれむ者はさいわいである」と述べたエホバのことばを忘れてはなりません。(箴言 14:21)悩む人を見舞うことはその人を力づけるだけでなく,そのことをするやさしい監督をも幸福にします。

      20 群れに個人的な注意を払うにあたって,監督は時に何をすることが必要ですか。だれに対して,またどのようにそのことをしますか。

      20 助言を与えるのも,ひとりびとりに注意を払うことのひとつです。老若を問わず群れの人々は時おり個人的な助言,聖書からのさとしを必要としています。監督は若い人に対し,異性に対するクリスチャンの正しいふるまいについて語ることがあるかもしれません。あるいは正しい服装の必要さ,正しいことば,宣教に関心を持つこと,よくない交わりについて,助言を与えることもあるでしょう。賢明な監督の目がおとなを見守ることも多くの場合に必要です。おとなも監督の知恵に耳を傾けなければなりません。監督はその人々の生命のことを心配しているのです。宣教,集会の出席,子供の訓練があるいはおろそかになっているかもしれず,正しい行ないに欠けるところがあるかもしれません。その時に監督は助けます。監督はあなたの生命に対して責任があるのです。ですから監督の心づかいに感謝しなければなりません。

      21,22 (イ)迷った羊をさがし出すことの価値を,何が証明していますか。(ロ)なぜ,監督はエホバからの祝福であると言えますか。

      21 あるときイエスはとくに使徒ペテロをさとして,「わたしの小羊を養いなさい」「わたしの羊を飼いなさい」「わたしの羊を養いなさい」と言われました。(ヨハネ 21:15-17)これを聞いたペテロは忘れることのできない感激を覚えたに違いありません。ペテロも神の羊の群れからさまよい出た者であり,良い羊飼いイエスの手でようやく救われたからです。ゆえに他の失われた羊をさがし求めることは,監督となったペテロの願いではありませんか。ペテロは救われたことに感謝していました。忠実な羊飼いとなってすごしたペテロの生涯は,そのことを証明しています。この経験をしてから何年ものちに,ペテロはクリスチャン会衆の古い人たちに対して次のような励ましのことばを書き送りました。「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく,神に従って自ら進んでなし,恥ずべき利得のためではなく,本心からそれをしなさい。また,ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで,むしろ,群れの模範となるべきである。そうすれば,大牧者が現れる時には,しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう」。(ペテロ第一 5:2-4)ペテロは良い羊飼いイエスの努力を無にしませんでした。監督たち,さまよった羊をさがし求めなさい。ゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。

      22 群れの監督はエホバからの大きな祝福です。忠実な監督の導く群れには平和と一致が見られます。彼らは生きることに喜びを見出します。その生きている限り,恵みといつくしみが彼らにともなうでしょう。彼らはエホバのみ名の立証にあずかることに歓喜します。その望みは王なる羊飼いダビデが言い表わしたのと同じく,彼らの羊飼いとともにエホバの家に永遠に住むことです。

  • 幸福な羊の群れにはしもべの導きが必要
    ものみの塔 1966 | 8月1日
    • 幸福な羊の群れにはしもべの導きが必要

      「門からはいる者は,羊の羊飼である。門番は彼のために門を開き,羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の手の名をよんで連れ出す」― ヨハネ 10:2,3。

      1 (イ)指導する力は監督になぜ肝要ですか。「監督」ということばは何を示していますか。(ロ)どのようにしてのみ,監督はその責務を効果的にはたすことができますか。

      クリスチャン会衆が栄え,神の羊の群れがいつでも幸福を感ずるためには,指導する力が会衆の監督になければなりません。「監督」ということばは,来てしらべるという意味のことばです。それは会衆の益を見守り,益を図ることを暗示しています。使徒行伝 20章28節にしるされた助言によれば,このことを効果的また能率的に行なうために,監督はまず自分「自身に気をつけ」,ついで神の「すべての群れ」に気をくばり,最後に「神の教会を牧さ」なければなりません。これらの要求を忠実にはたすことは,群れを幸福にします。

      2 自分に気をつけるため,監督は何をしますか。なぜそうですか。

      2 羊飼いの生活は多くの場合,つらい重労働を伴います。それは片手間にできる仕事ではありません。それで羊をよく世話するには,必要な程度において自分自身を大切にしなければなりません。監督は霊的に強い者とされています。羊は監督から力づけられ,励まされることを期待しています。ゆえに監督は,必要とする慰めを適当な時に与えることができるように,聖書に通じていなければなりません。それで毎日,神のことばを学び,その賢明な助言に思いをめぐらし,その原則を自分の生活に実行することが必要です。またエホバの祝福がなければ正しく導くことが不可能なのを知るゆえに,知恵と導きを神に祈り求めます。「エホバは知恵をあたへ,知識とさとりとその口より出づればなり」ということを忘れてはなりません。また「上からの知恵は,第一に清く,次に平和,寛容,温順であり,あわれみと良い実とに満ち,かたより見ず,偽りがない」ことをいつも心に留めるべきです。(箴言 2:6,文語。ヤコブ 3:17)この知恵をもって行動するならば,指導する力,信仰および監督に要求される他のよい資質は,神の羊の群れにおのずから明らかとなるでしょう。

      3 しもべの指導ということは何を意味しますか。

      3 しもべが導くということは,監督がいつも群れを導き,あるいは群れとともにいるという意味です。監督が群れの背後にいたり,群れと離れていたりすることは決してありません。監督は会衆のとりきめた集会にすべて出席し,会衆の人々とともに活発に集会に参加します。監督は集会の進行中に会衆の用事をしたり,補佐たちと何か相談したりしません。自分が群れに望むことをする,つまり演壇で話している人のことばに注意を集中するでしょう。監督は会衆に手本を示します。

      4 効果的に指導するため,監督はほかに何をしますか。

      4 監督が自分自身に気をくばるには,神の羊の羊飼いとして自分の持つ義務と責任に精通しなければなりません。監督はエホバのしもべである組織 ― ものみの塔協会から絶えず送られてくる指示を読んで研究することを怠りません。「平和と一致のうちに伝道し教える」「奉仕者になる資格」「御国奉仕」および協会の他の出版物もよく研究し,また参照します。また自分の責務に精通するだけでなく,監督を助けて会衆を牧する補佐のしもべたちの務めにも精通し,必要な時には補佐を援助できるようにします。監督が首尾一貫した強力な導きを与えるならば,群れにとって従うことは容易です。群れは監督の手本にならって指示に従い,教訓を受け入れるでしょう。

      5 なぜ監督は自分の家族のことに関心を払うべきですか。

      5 しもべの導きということは,もし監督に家族があるならばそれにも関係してきます。家族はその人の監督としての能力を反映するからです。ゆえに使徒パウロの教訓どおり,監督が自分自身に気をつけるには,この責任をりっぱに果たさなければなりません。パウロは監督の資格として次のことをあげました。監督は「自分の家をよく治め,謹厳であって,子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。自分の家を治めることも心得ていない人が,どうして神の教会を預かることができようか」。(テモテ第一 3:4,5)ゆえに監督の家族は会衆の模範的な家族となるのが当然です。

      6 監督はどのように自分の家族を導きますか。なぜですか。

      6 自分の家の者が神のことば聖書を熱心に学び,野外の宣教に励むようにするのは,一家のかしらである監督の務めです。監督の家族はことばと行ないにおいて,会衆内の他の家族に手本を示さなければなりません。霊的な面で家族をじゅうぶんに顧みるため,監督は毎週,家族そろっての聖書研究を司会すべきでしょう。また家族を代表して祈り,さらに戸別訪問による宣教,御国の音信に興味を示した人への再訪問に家族の各人と連れだって行き,また家族の者が週毎に司会している家庭聖書研究に気をくばらねばなりません。このことをするのは,家庭の父親また会衆の監督として,家族の各人および会衆の霊的な進歩に関心を払っているからです。その願いはすべての者が永遠の生命の報いをかち得ることです。監督はまた自分が正しい手本を示して会衆を益することを望んでいます。

      7,8 (イ)使徒パウロは,家族を霊的に顧みることの必要をどのように強調していますか。(ロ)監督は家族に対する責務をはたすため,時には何をすることが必要ですか

      7 監督は会衆のことで非常に忙しいかもしれませんが,それでも他のことにかまけて自分の家族の霊的な福祉をおろそかにしてはなりません。監督は家族を顧みます。「もしある人が,その親族を,ことに自分の家族をかえりみない場合には,その信仰を捨てたことになるのであって,不信者以上にわるい」とパウロは述べています。(テモテ第一 5:8)家族も,また自分が監督をつとめる会衆も霊的に害をこうむってはなりません。

      8 すべての務めをはたすため,監督は時間を綿密に計画し,また会衆の仕事の一部を補佐に委任することが多くの場合,必要でしょう。監督は家族に対する責任をはたさなければなりません。会衆内の他の家族のかしらは,夫また監督としての指導力を監督に期待します。羊飼いは他の人々のならうに足る手本を示すのが当然です。そのためには家庭にあっても会衆にあってもすべての事に分別を示し,また思慮,先見,理解を用いなければなりません。こうして監督は家族の者に祝福となり,神の羊の群れに手本となります。―テモテ第一 4:15,16。

      「すべての群れ」に気をくばる

      9 (イ)羊飼いは羊に対してどんな考えを持つべきですか。なぜですか。(ロ)羊飼いは羊がどんな認識を持つように導きますか。

      9 聖書の中ですべての人間は羊にたとえられています。しかし聖書の述べるように,人間はさまよえる羊です。大いなる羊飼いエホバは,ひとりの羊が滅びることも望まれません。エホバの良い羊飼いイエス・キリストは,「これらの小さい者のひとりが滅びることは,天にいますあなたがたの父のみこころではない」と言われました。(マタイ 18:14。エゼキエル 33:11)神の羊の「すべての群れ」を牧するため,聖霊によって任命された監督は,これと同じ考え方をしなければなりません。監督は自分に委ねられたすべての羊の生命に最大の関心を払います。監督はエホバの小さい者のひとりでさえも滅びることを望みません。羊の生命を守るために,監督は神に関するすべての知識を彼らに教えなければなりません。監督はキリスト教の教えを授ける資格を持つと同時に,野外の宣教において教える者となることが必要です。「人は心に信じて義とされ,口で告白して救われるからである」と,使徒パウロは述べました。(ローマ 10:10)羊がこの大切な認識を抱くように,監督は導きを与えなければなりません。

      10 (イ)イエスは,羊飼いの二つの大きな責務をどのように示されましたか。どのようにそのことをされましたか。(ロ)イエスはどのように教えるわざに率先されましたか。また羊に何を教えられましたか。(ハ)今日この教訓をどのように行ないますか。

      10 神への奉仕に群れを導き,教えることは,監督の主要な務めのひとつです。「すべての国民を弟子と」する使命がイエスの追随者に与えられたことはそれを示しています。その時イエスは,「命じておいたいっさいのことを守るように」,新しい人々を教えよと言われました。(マタイ 28:19,20)監督は「よく教えることができ」なければならないと述べたパウロのことばも,監督が教える者となる必要を強調しています。(テモテ第二 3:2)イエスは教えるわざに率先されました。イエスはことばと手本によって教えることをされました。教えを説いただけでなく,野外の宣教に追随者を訓練されたのです。神の国について使徒に教えたのち,イエスは神への奉仕に彼らを伴い,親しく教訓を授けることをされました。父のみわざを行なうイエスを見て彼らは一歩ずつ学び,自分たちも同じわざに携わるようになりました。イエスはある特定の事柄をご自分が語り,また行なったわけを弟子たちに告げています。イエスは,野外の宣教に携わる時の服装,戸口で語るべき事柄,敵対者の前に出た時のふるまいについて教訓を与え,また彼らが人々にどう迎えられるかについて警告を与えました。こうして周到な教えをよく言い聞かせてのち,イエスはご自分の手本にならうように弟子たちをつかわされました。イエスはまず12使徒を野外の宣教に遣わし,ついで70人を遣わされました。イエスは資格のある教師でした。神の羊の群れが繁栄し,いつでも幸福を感ずるために,今日の監督はイエスの完全な手本にならわなければなりません。―マタイ 10:5-30。マルコ 9:28,29。ルカ 10:1-3,文語。

      11 (イ)監督には報いの大きい,どんな特権がありますか。なぜですか。(ロ)どうすれば羊飼いは自分に従うように群れを動かすことができますか。

      11 神への奉仕に群れを導くことは,報いの大きな,すばらしい特権です。新しい羊がはじめて神を賛美するのを聞くことは大きな喜びではありませんか。監督が群れとともに野外の宣教に携わるとき,監督も群れも大きく報われます。監督が補佐の羊飼いを訪問して,いろいろ提案することはきわめて有益です。そのために監督は多くのことをしなければなりませんが,その労苦は喜びによって報われ,つぐなわれます。イエスの足跡に従った使徒パウロはこのような特権に恵まれていました。エペソのクリスチャン兄弟に対して,パウロは自分が3年のあいだ昼も夜も彼らを訓戒したことを心に留めるようにと告げています。「あなたがたの益になることは,公衆の前でも,また家々でも,すべてあますところなく話して聞かせ,また教え(た)」。(使行 20:20,31)パウロはテサロニケ人に次のことを語っています。「あなたがたの間で,ちょうど母がその子供を育てるように,やさしくふるまった。このように,あなたがたを慕わしく思っていたので,ただ神の福音ばかりではなく,自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに,あなたがたを愛したのである」。(テサロニケ第一 2:7,8)監督に従うように群れを動かすのは,愛にあふれ,心のこもった,また人の心を動かす監督のこのような手本です。

      12 (イ)正しく指導することが群れを守る結果になるのはなぜですか。(ロ)羊飼いはどのように教えますか。(ハ)羊が羊飼いに従うのはなぜですか。

      12 神の会衆を正しく牧することは,群れにとって保護となります。羊飼いの勤勉さを見て,羊は真の崇拝の重大さ,組織とそれにかたくつくことの必要を悟ります。良い指導者を得る時,彼らは力強く感じ,しっかりと歩みます。また群れと一緒に保護され安心していられます。いつも集まり合うことや,神のことばを毎日学ぶことの重要さを,ますます認識するようになります。羊は信頼できる人になるという教訓を忠実な羊飼いから学びます。群れを牧するため,羊飼いが喜んで群れのためにつくし,不平を言わないのを見て,羊は自分たちもいっそう自分を犠牲にする必要があることを学ぶでしょう。監督がエホバのみこころを迅速に行なう時,群れの各人は神権的な指示にすぐ従うことの重大さを教えられます。羊飼いがおだやかであれば,羊も互い同志,温和にすごすでしょう。監督が多くの務めをはたすのを見て,群れの人々は時間を計画することの益を悟ります。監督がいばらないで導き,無理なことを要求するかわりに励まし,憎むのではなくて愛するからこそ,群れは建ておこされ,幸福になるのです。ひもは,うしろから押したのではあまり前に進みません。それと同じく羊の長い列も,押すことによってはたいして前に進まないことを,羊飼いは知っています。ゆえに羊飼いの喜びは先頭に立ち,神の会衆のすべてに心をくばり,「わたしがキリストにならう者であるように,あなたがたもわたしにならう者になりなさい」と言って彼らを招くことにあるのです。―コリント第一 11:1。

      指導することが欠けている場合

      13 指導することが行なわれないと,群れはどうなりますか。

      13 すべての監督が神の羊の群れを正しく牧するわけではありません。昔のイスラエルの羊飼いの多くは不忠実でした。羊の持ち主であるエホバは預言者エゼキエルによって彼らの無責任と利己心および彼らが羊を少しも顧みていないことを暴露し,次のように言われました。「わざわいなるかな,自分自身を養うイスラエルの牧者……あなたがたは……群れを養わない。あなたがたは弱った者を強くせず,病んでいる者をいやさず,傷ついた者をつつまず,迷い出た者も引き返らせず,うせた者を尋ねず,彼らを手荒く,きびしく治めている。彼らは牧者がないために散り,野のもろもろの獣のえじきになる。わが羊は散らされている。彼らはもろもろの山と,もろもろの高き丘にさまよい,わが羊は地の全面に散らされているが,これを捜す者もなく,尋ねる者もない」。(エゼキエル 34:2-6)羊飼いは神から与えられた務めを全く放棄していたのです。明らかに彼らはエホバも,エホバの羊も愛していませんでした。エホバは彼らを必ず滅ぼすと言われ,たしかにそうされました。しかし導くことが行なわれなかったゆえに,羊は不幸でした。散らされ,失われた羊は決して幸福ではありません。

      14 キリスト教国において,羊はどんな状態にありますか。羊が散らされているのはなぜですか。

      14 不忠実な昔のイスラエルは今日のキリスト教国の原型です。キリスト教国において羊は同様な状態におかれています。キリスト教国の羊の状態を述べたクリスチャン・ヘリテッジ1964年2月号によれば,「今日,羊のおりに残っているのは1匹で,99匹がさまよって」います。羊がおりから逃げ出すのは羊飼いがいないからです。キリスト教国の羊飼いのひとり,ジョン・R・クレイプール牧師は,若い優秀な人々がバプテスト教会から他の宗教に転向しつつあることを警告しました。そのことばはテキサス州ダラスのモーニング・ニュース紙1963年5月7日付の紙上にのせられています。「この種の離脱は驚くべき程度に達している。危機の焦点は崇拝の分野にあるようだ」。若い羊はまことの食物と飲み物を求めています。ある婦人は教会を離れた理由を次のように述べました。「バプテスト教会で行なわれていることをみると,崇拝が社交また不敬なものに堕しており,わたしには無意味なものに思えます」。羊は飢えています。群れを導く真の羊飼いを失って羊は迷い,捨てられたように感じています。ニューヨーク市の「キリストの教会」に属する牧師ラルフ・W・ソックマン博士は,「キリストでさえも,キリストの名によって建てられた教会の多くで場違いなものを感ずるであろう。キリストの福音は教会主義と俗化のために初めの簡素さと誠実さを失ってしまった」と語りました。羊が散らされているのも不思議ではありません。まことの崇拝が行なわれていないので,羊は離れて行きました。

      15,16 (イ)羊が迷い出るのはなぜですか。(ロ)羊飼いと羊について,ある人はどんな観察をしていますか。

      15 エホバが言われたとおり,羊は羊飼いがその責務をはたさない時に散らされます。キリスト教国の羊の悲しげな泣き声,満足と落ち着きのない様子,道に迷った羊が群れをさがして右往左往していることは,キリスト教国の羊飼いが責務をはたしていない証拠です。1962年10月25日付ファミリー・ヘラルド紙は「羊の群れにはなお羊飼いが必要」と題してP・ラドボーンの次のことばをかかげています。

      16 「ブラウン牧師は月曜日から金曜日までどこにいるのだろうか。日曜日には説教壇に立つが,週のほかの日にはどこにいるのだろう。わたしの家またあなた,家にもおとずれていないと,わたしは思う。人々の生活にもっと感化を及ぼすため,教会は家庭と結びつかねばならない。これがわたしの持論である。家庭を訪問した,そして日曜日に説教を聞く人々を知っていた昔の牧師 ― 必ず1軒ずつ訪問し,茶を飲みながら談笑し,去る前にはひざまずいて家族の上に祝福を祈った,あのけんそんで,おおような神の人がほしいものだ。非行青少年などがいなかった世の中で,若者に感化を与えたのはこのような人である。今日だれがわたしの子供たちを導く光になっているだろうか。わたしは知らない ― しかし牧師がそうであってほしい。週日に見かけないところを見ると,牧師はよほど忙しいのだろう。牧師はいくつもの役員を兼ね,慰安施設や団体の会員であり,見かけないのも無理はないと思われるほど遠方に講演に出かける。しかし牧師の訪問を受けない唯一の場所が我々の家であるということは依然として事実である……昔の牧師は晴雨を問わず,歩いて,気がるに我々の家までやってきた。自動車も電話も,あるいは手紙を書き,打ち合わせをするための秘書つきの事務所もなかった。それでも牧師はやってきたのである。電話も自動車もあるこの時代に,牧師と会う機会はますます少なくなっている……羊飼いが迷い出た羊をさがし出すのは当然である。しかしほかの99匹はどうなっているのだろうか。狼が羊を奪っても,山のむこうにいる羊飼いは,それを知らないであろう。」

      17 (イ)キリスト教国において羊がみじめな状態に陥っているのは,だれの責任ですか。(ロ)羊はどんな状態におかれていますか。

      17 キリスト教国の羊があわれな状態に陥っているのはだれの責任ですか。羊飼いは仕事の重荷,現代生活の忙しさを口実にするかもしれません。しかし羊の所有者は責任のありかを明白にしています。エレミヤ書 50章6節にあるエホバのことばは,「わたしの民は迷える羊の群れである,その牧者がこれをいざなって,山に踏み迷わせた」と述べています。それは羊飼いの責任です。彼らは羊を牧していません。その怠慢は群れにとって災いとなりました。羊は迷い出たばかりでなく,飢えとかわきのために死ぬのにまかされ,狂暴な娘のえじきになるのにまかされています。たとえ死ななくても,迷った羊はおびえ,混乱しています。彼らはみずからクリスチャンであると言いますが,キリスト教のなんであるかを全く知りません。彼らはキリスト教の説く地には平和の倫理的原則と隣人愛を口にしますが,その意味を理解しようとはせず,実行しようともしません。散らされた羊の希望は,羊の所有者であるエホバにあります。彼らは王である羊飼いイエス・キリストをとおしてエホバに近づかなければなりません。そうしなければ,無価値な羊飼いとともに滅びる危険に直面します。―イザヤ 9:14-16。エゼキエル 34:16。

      正しく牧することの結果

      18 エホバの証人の新世社会内において,羊はどんな状態にありますか。

      18 ラドボーンの願いである牧師の家庭訪問は,エホバの証人がキリストと使徒にならって宣教を行なってきた方法です。任命されている彼らの羊飼いは,気軽に戸口におとずれて羊の必要を顧みるわざに率先しています。このことは神の祝福を得,彼らの群れは過去二,三年の間に目ざましく増加しました。群れから離れることなく,羊は健全なわざに富み,創造者とその組織に対して自分たちが持つ関係を認識するようになっています。羊飼いの愛は一致の完全な絆であるゆえに,群れには平和と一致が見られます。霊的な食物と水をじゅうぶんに得ているので,羊は満足していて,幸福です。

      19 正しく導くことはどんな結果になりますか。

      19 正しく牧する結果は,会衆が次第に監督に似てくることに表われます。羊は羊飼いにならいます。それはヘブル人への手紙 13章7節においてすすめられています。「神の言をあなたがたに語った指導者たちのことを,いつも思い起しなさい。彼らの生活の最後を見て,その信仰にならいなさい」。監督をみならう中に,会衆は監督に似てきます。監督が神権的な指示と提案にすぐ従うならば,会衆も同じ態度を示すことでしょう。野外の宣教においても,提案されている目標を達成するために羊飼いが率先して努めるならば,その下にある羊も同じように努力するに違いありません。監督が奉仕に熱心ならば,群れも同じ積極さと自信をもって監督とともに奉仕するでしょう。ゆえに正しい導きは確かにエホバからの祝福です。それは生命に至ります。

      20 (イ)羊が答え応じない時,監督は何をすべきですか。(ロ)羊飼いも羊も何から慰めを得ますか。

      20 羊が羊飼いを導いているのを見た人はいません。群れを導くのは羊飼いの責任です。羊飼いの期待どおりに羊が答え応じないとすれば,羊飼いは神のことばに照らして自分自身をよく吟味しなければなりません。次のことを自問すべきでしょう。わたしは宣教のあらゆる面において群れを積極的に導いているだろうか。注意深く,やさしく,喜んで,熱心に牧しているかどうか。羊に対して厳しく,圧制的になってはいないか。わたしと家族は群れの模範となっているだろうか。考え,祈り,思いめぐらしてのちに,答えはおのずから明らかになるでしょう。それから改めるべきところを改めてください。羊飼いも群れも,天にいます神の小羊が牧しておられ,黙示録 7章17節にある約束をはたされることを知るとき,慰めを得ます。「御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって,いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は,彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。

  • キリスト教国は真にキリストの領域ですか
    ものみの塔 1966 | 8月1日
    • キリスト教国は真にキリストの領域ですか

      1 (イ)「キリスト教国」ということばは何を意味しますか。(ロ)キリスト教国は何を主張してきましたか。またどのようにその成就に努めてきましたか。

      すでに長い間,とくに西暦800年以来,キリスト教国は世界に支配的な影響を及ぼしてきました。「キリスト教国」とは「キリストの領域」あるいは「キリストの治めるところ」を意味することばです。キリスト教国はそのことを主張し,また異教の国々に宣教師を派遣して世界の改宗つまり全世界をキリスト教国の領域にすることに努めてきました。これらの国の多くにおいて,宣教師たちは知ってか知らずかキリスト教国の政治的,経済的勢力を伸長することにひと役買ってきました。そのことをするに際して,彼らはキリストの支配圏を拡大しましたか。キリスト教国が真にキリストの支配するところであるなら,それはキリストが説いた,そしてイエスと使徒の教えた教義と原則に基づくキリスト教の延長ですか。それを検討することにしましょう。

      2 わたしたちの質問の答えを得るため,どんな2人の証人の証拠を検討できますか。

      2 まずキリスト教国の基本的な教理を検討し,ついでキリスト教国が世界的な勢力に成長した過程を簡単にしらべて,歴史の見地からキリスト教国の基礎を検討することにします。こうして2人の確実な証人すなわち聖書と歴史から証拠を求めることができます。

      3 2人の証人の証拠からどんな結論が出ますか。

      3 結論を先に述べると,これら二つの証拠からは同じ結論すなわちキリスト教国がキリストの領域ではなく,またかつてそうであったこともないという結論が出ます。ここで結論を述べることは読者の理解を助けるでしょう。すなわち歴史のさまざまな事実をここに

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