-
神の支配権を行使する主要な代理者を生み出すものみの塔 1973 | 2月15日
-
-
ごとし」と。…この〔意志〕に適いてイエス・キリストのからだの一たび献げられしによりて我らは潔められたり』〔新〕。イエスはそのようにして詩篇 40篇6節から8節を成就していたのです。神の『意志』は,イエスがご自身を,その『からだ』を犠牲としてささげることを要求したのです。
25 (イ)ではイエスの水のバプテスマは何の象徴でしたか。(ロ)イエスはすでにどのようにささげられ,あがなわれていましたか。
25 預言がそれを要求していた以上,神の特別の意志を行なうべく来ることをせず,したがって,バプテスマのためにご自分の身をヨハネに差し出さなかったとするなら,イエスはやましい良心を持つことになったでしょう。イエスの受浸が象徴的なものであったことは明らかです。イエスのバプテスマは,「悔い改めの象徴としてのバプテスマ」ではありませんでした。それはイエスが神の意志を行なうために来る,すなわちご自身を差し出すことの象徴で,その神の『意志』には,イエスのからだを犠牲としてひとたびささげることが含まれていました。イエスは生来のユダヤ人でしたから,すでにモーセの律法の下にあり,当時の地上にあって『エホバの言いたまいしところ(を)みな』行なうべく神に献身していた唯一の国民の一員でした。また,マリヤの長子でしたし,マリヤの夫ヨセフはその長子を自分自身の長子として養子にしていましたから,イエスはエホバのために聖別されており,エホバのものでした。(出エジプト 13:1,2)その理由で,イエスが世俗の仕事に携わるためには,イエスはヨセフとマリヤによってあがなわれなければなりませんでした。(民数 3:13-51; 18:14-16)ですからイエスのバプテスマは,神へのイエスの献身を表わすものではなく,自分を犠牲にするに至るまでも神の意志を行なうために,自分自身をささげることを表わしました。
26 (イ)自分自身をささげたイエスを受け入れたことを,神はどのように示されましたか。(ロ)イエスはどこまでその神の『意志』を行ないましたか。
26 エホバ神はバプテスマを受けたイエスに聖霊をそそぎ,天から声を出して,「これは我が愛しむ子,わがよろこぶ者なり」と述べ,ご自分のみ子イエスが自分自身をささげたのを受け入れたことを表わされました。(マタイ 3:16,17)それ以来バプテスマのヨハネは,油そそがれたイエスを「世の罪を取り除く神の小羊」として公けに知らせました。(ヨハネ 1:28-36,口語。使行 10:37,38)イエスは人間として地上にいたとき,最後に至るまで神の意志を遂行しました。自然の人間のからだをもって地上にいた最後の夜,イエスは神に祈り,こう言われました。『わが父よ,もし得べくばこの酒杯を我より過ぎ去らせ給え。されど我が意のままにとにはあらず,〔ご意志〕のままになし給え』。(マタイ 26:39-44〔新〕)翌日の午後3時ごろ,イエスは刑柱にかけられていた時,ヨハネ伝 19章30節(口語)が伝えているように,『すべてが終った』と言われ,首をたれて息をひきとられた」のです。こうして,神のご意志どおり,イエスのからだはひとたびささげられました。
27 (イ)イエス・キリストはどんな復活を受けましたか。なぜですか。(ロ)その時イエスはどのように全人類を所有するに至りましたか。そのために将来,死者に何が起こりますか。
27 完全な人間のからだを犠牲としてささげたことと調和して,イエス・キリストは三日めに死から,血肉のからだではなくて霊のからだによみがえらされました。(ペテロ前 3:18。コリント前 15:42-45)そして復活から40日めに天にのぼり,そこで,全人類のための,ご自分の人間としての犠牲の価値もしくは功績を神に差し出されました。イエスは地上にいたとき,わたしが来たのは,『つかうることをなし,またおおくの人のあがないとして己が生命を与えんためなり』と言われました。(マタイ 20:28)使徒パウロは,イエスが「死の苦難を受」けたことについて語り,『これ神の恩恵によりて万民のために死を味ひ給わんとてなり』と述べています。またパウロは,『人なるキリスト・イエス』は『己を与えてすべての人の贖価となり給えり』とも述べています。(ヘブル 2:9。テモテ前 2:5,6)こうしてイエスは,ご自分の人間としての犠牲の生命の価値を神に差し出すことによって,全人類をあがない,彼らから要望されなくても,全人類を買い取られたのです。そういう理由から,イエスの天の王国の支配下では,「義者と不義者との復活」があります。(使行 24:15)イエス・キリストは彼らを所有されます。
28 (イ)それで復活したイエス・キリストは,人類の救いにかんして何になりましたか。(ロ)イエス・キリストはまたどんなより偉大なものの主要な代理者として奉仕しますか。
28 こういう方法で,神の子イエス・キリストは,神の『意志』にしたがい,全人類に対して,救いの主要な代理者となられました。ヘブル書 2章9,10節からわたしたちが理解するのはそのことです。そこにはこうしるされています。『ただみ使いよりも少しく卑くせられしイエスの,死の苦難を受くるによりて栄光と尊貴とを冠らせられ給えるを見る。これ神の恩恵によりて万民のために死を味い給わんとてなり。それ多くの子を光栄に導くに,その救いの〔主要な代理者〕を苦難によりて全うし給うは,万の物の帰するところ,万の物を造りたもうところの者にふさわしきことなり』。そして,ヘブル書 5章9,10節にはこう書かれています。『かつ全うせられたれば,すべて己に順う者のために永遠の救いの原となりて,神よりメルキゼデクの位に等しき大祭司と称えられ給えり』。このかたは,神の支配権を行使する主要な代理者として奉仕するにふさわしい者であることを証明したのです。
-
-
神の支配権を行使する主要な代理者に従うものみの塔 1973 | 2月15日
-
-
神の支配権を行使する主要な代理者に従う
1 (イ)今や新しい契約について言えば,割礼を受けた生来のユダヤ人の父祖たちがシナイ山のふもとで行なった決定は,なぜこれらのユダヤ人のためには役に立ちませんでしたか。(ロ)それらのユダヤ人はだれに,またどんな仕方で見習わねばなりませんでしたか。
イエス・キリストが天のエホバ神のみまえに上り,ご自分の人間としての犠牲の貴重な価値をエホバにささげて以来,割礼を受けた生来のユダヤ人にとって,物事の事情はそれまでと同じではありませんでした。イエスのそうした行為によって,古いモーセの契約は取り消され,新しい契約が神のみ子,つまりその契約の仲介者の血をもって有効にされたのです。この新しい契約に入れられる機会は,まず生来のユダヤ人に差し伸べられました。彼らの15世紀前の父祖たちは,かつて仲介者モーセに向かって,『われわれはエホバが言われたことを,みな行ないます』と宣言しました。しかし,新しい契約についていえば,これは彼らの子孫のためには役に立ちませんでした。この,後の契約には,モーセより偉大な新しい仲介者,すなわちイエス・キリストがいました。その新しい契約に入れられるためには,この,よりすぐれた,そしてより偉大な仲介者に対して,『われわれはエホバが言われたことを,みな行ない,従順に従います』と答えなければなりませんでした。神の支配権を行使する主要な代理者,つまり仲介者であるイエス・キリストに見習って,それら生来のユダヤ人はみずからをエホバにささげねばなりませんでした。それはこの新たな,より偉大な仲介者を通して自分たちに伝えられた神の意志を行なうためでした。
2 西暦33年のペンテコステにさいしてペテロがユダヤ人に述べたところによれば,それら生来のユダヤ人にとって事態を変えるものとなったどんなことを,神はイエスに対して行ないましたか。
2 確かに,生来のユダヤ人にとっては新しい事態が起きていたので,彼らは個人個人そうした事態に対してみずからを調整しなければなりませんでした。クリスチャンの使徒ペテロは,西暦33年のペンテコステの祭りの日に,この点を彼らに指摘しました。それは,エホバ神が,イエス・キリストを通して,神の支配権を行使する主要な代理者の忠実な追随者に聖霊を注いだのちのことでした。ペテロは奇跡的に起きていた事がらとその理由を説明したのち,集まっていた幾千人ものユダヤ人にこう語りました。『それダビデは天に昇りしことなし,されど,みずから言う。「〔エホバ〕わが主に言い給う,我なんじの敵をなんじの足台となすまでは我が右に座せよ」と。されば,イスラエルの全家は確と知るべきなり。なんじらが〔刑柱〕に釘けしこのイエスを,神は立てて主となし,キリストとなし給えり』― 使徒 2:34-36〔新〕。
3 (イ)シナイ山のふもとで彼らの父祖たちが答え応じた例に見られるように,それらのユダヤ人は新しい契約に入れられるのにふさわしいことをどのように示しましたか。(ロ)ペテロと他の使徒たちから,行なうべきこととして告げられたことを行なったのち,彼らが新しい契約に入れられたことを示すものとなったのは何ですか。
3 さて,これを聞いていたそれらユダヤ人は,一連の新しい事情のもとで,『われわれはエホバが言われたことを,みな行ないます』ということをどのように宣言して,新しい契約に入れられるにふさわしいことを示しましたか。それは,ひとたび杭につけられたイエスを自分たちの主,またエホバのキリストもしくはメシヤ,また,預言者モーセによって予告され,予表された仲介者として受け入れることによって示されました。彼らに救いをもたらす道は,それ以外にはありえませんでした。それら幾千人ものユダヤ人は,ペテロの語ることを聞いて心を刺されました。それで,彼らがペテロやほかの使徒たちに,『兄弟たちよ,我ら何をなすべきか』と尋ねたとき,ペテロは,神の立てた命の主要な代理者に彼らの注意を引いてこう述べました。『なんじら悔い改めて,おのおの罪の赦しを得んためにイエス・キリストの名によりてバプテスマを受けよ。さらば聖霊の〔無償の賜物〕を受けん。この約束は汝らと汝らの子らとすべての遠き者,すなわち〔エホバ〕なる我らの神の召し給う者とに属くなり…この曲がれる代より救い出されよ』。(使行 2:37-40〔新〕)彼らが,水の浸礼を受けたのち,キリストを通して無償の賜物である神の聖霊を受けたのであれば,それは彼らが新しい契約に入れられたことを意味していました。
4 では,それらのユダヤ人が受けた水のバプテスマは何を象徴するものでしたか。
4 では,彼らが受けた水のバプテスマは何を象徴するものでしたか。彼らのバプテスマが『イエス・キリストの名によって』施されたものであり,それにはエホバ神に対する悔い改めが先行していたのですから,それは,神の意志を行なうため,自分自身を神にささげることを象徴するものでした。神の意志を行なうということには,イエス・キリストを,神から与えられた「主」,また神から与えられた「キリスト」もしくはメシヤとして受け入れることも含まれていました。
5,6 (イ)彼らはだれを通して罪のゆるしを得るのですか。今や彼らがゆるしを必要としていた罪とは何ですか。(ロ)ヘブル書 9章14節によれば,彼らの罪のゆるしは,彼らに何をもたらすものとなりましたか。
5 イエス・キリストを『主またキリスト』として受け入れなければ,彼らは自分たちの『罪のゆるし』を得ることはできませんでした。今や神がイエス・キリストを通してゆるしたそれらの罪とは,彼らがモーセの律法契約に対して犯していた罪ではありません。生来のイスラエルと結ばれたその契約は今や過去のものとなり,取り消され,約束の新しい契約が今や,よりすぐれた仲介者イエス・キリストを通して立てられていたのです。それで,彼らが神に対しで悔い改める必要のあった罪とは,おもに,神のみ子イエス・キリストを
-