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罪 ― もはやどうでもよいことですかものみの塔 1981 | 2月1日
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罪 ― もはやどうでもよいことですか
「我々は国家として『罪を犯すこと』が20年ほど前から,公式にはなくなった」。これは,カール・メニンガー博士が自著「罪は一体どうなったのか」の中で述べた言葉です。同博士は,米国大統領が国家の憂慮すべき主要な事柄として罪に言及したのは1953年の声明が最後であることを指摘しています。
東洋では,罪の概念は面子や孝心のようなものほど,一般に重視されていません。しかし西洋では,かつて非常に重要なものとされていました。罪を犯したとの非難を受けるなら,それは極めてゆゆしい問題でした。今日では,事情は変わってきているようです。自分は罪を犯したと人々が言う場合,顔に半ば笑いを浮かべているのが普通です。罪はもはや恐ろしいものではなくなっています。そうみなして然るべきですか。
罪とは一体何のことでしょうか。もはやそれさえはっきり分からない人が少なくないのが実情です。昔は,誇り・貪欲・欲情・怒り・大食・そねみ・怠惰といった“七つの大罪”が挙げられました。今日では,こうした傾向がごく普通に見られるように思えます。国家の誇りや民族の誇りという形で,誇りを持つことが勧められています。多くの裕福な国々では,人々の間に貪欲・そねみ・大食などがある程度なければ,消費型の社会は成り立ってゆかないでしょう。宗教指導者の中にさえ,姦淫・同性愛・淫行など欲情の様々な表われを容認したりする者がいます。また,テレビのような現代の発明品のために,人々はますます怠惰になっています。
だれの見解?
『自分の良心を導きとしている限り,罪を犯すことはない』と言う人が時々います。わたしたちの良心が善悪を識別するための神から与えられた助けであることは事実です。もし良心というものがなかったなら,人間社会はずっと昔に抜き差しならない混乱と暴虐のふちに沈んでいたことでしょう。―ローマ 2:14,15。
しかし,良心も人を欺くことがあります。例えば,殺人が罪であることを認めない人はほとんどいないでしょう。ところが,ヒンズー教の女神カーリーの崇拝者や中世のローマ・カトリックの異端審問官の間では,殺人が宗教によって正当化されました。イエスはご自分の追随者たちに,「あなたがたを殺すものがみな,自分は神に神聖な奉仕をささげたのだと思う時が来ようとしています」という警告の言葉を語られました。(ヨハネ 16:2)今日でさえ,年間5,000万人の胎児が中絶という手段によって殺されています。しかも,法律でそれが認められている国さえ多くなっています。
さらに,自分の良心をゆがめる恐るべき能力を有している人がいます。ある政治家について言われたように,そうした人々は良心を“導き”とするのではなく,自分の“従犯者”に仕立ててしまうのです。例えば,大抵の人は確かに盗みを罪とみなしています。特に,自分のお金が盗まれた時はそうです。ところが,米国では,ビジネス犯罪が最大の犯罪問題の一つになっているのです。これには,窃盗・保険金詐欺・贈収賄・不法リベートなどが含まれます。幾百万人ものごく普通の人がこうした犯罪に手を染めています。そうした人たちの良心は痛まないのでしょうか。痛まないようです。一体なぜですか。恐らくそれが露見しないから,あるいは「だれもがしていることだから」というのがその理由でしょう。
ですから,何が罪であるかを識別するのに良心は相応の役割を果たしはしますが,良心にも導きが必要なようです。では,どこからその導きを得ますか。この問題の権威者を任ずる者たちは,自ら矛盾を抱えていたり,互いに意見を異にしていたりすることが少なくありません。
例えば,ローマ・カトリック教会では,一時期,金曜日に肉を食べることが罪とみなされていました。今日では,ほとんどの金曜日の場合に,罪とはみなされていません。『当時と今と何が違うのか』と,多くの人は疑問を抱いています。
同じカトリック教会の見解によると,家族の規模を制限する目的で「人為的な」手段を講じることは重大な罪であるとみなされています。しかし,カトリック教徒をも含めた多くの人々は,地球の人口の爆発的な増加を驚きの目をもって見ており,今では異なった考え方をしています。これらの人々は恐らく,カール・メニンガー博士の次の言葉に同意することでしょう。「無情で冷淡で,産児制限の面で無策であること,あるいはそれがもたらす世界的な影響に無知であったり無関心であったりすることは,わたしにとって最も忌まわしい罪の表われに思える」。人口の増加を抑制することと促進することのどちらが罪でしょうか。
こうしたことに災いされて,人々の考えは混乱しています。米国のローマ・カトリック教徒を対象にした最近の一調査で,「ほとんどのカトリック教徒に,何が罪であるかに対する明確な観念のない」ことが明らかになりました。「何が罪かについて考えが混乱して」おり,「何を告白してよいのか分からない」と語る人は少なくありません。
識者の中には,もはや罪など存在しないのではないかと問う人さえいます。そうした人々は「罪」よりも「病気」という言葉を好みます。信奉者を大量自殺に追いやったジム・ジョーンズに関する一神学者の次のような言葉がタイム誌に引用されました。「ヒトラーやジョーンズのような人物は実際には単なる精神病者であったものと思う。示すべき唯一の反応は,道徳的憎悪感ではなく,当事者双方に対する哀れみであるように思える」。
本当にどうでもよいことか
見解がこのように様々に異なっていることからして,罪はもはやどうでもよいことなのでしょうか。自分の家族や隣人のことを気遣っているのであれば,また将来に希望を抱き,幸福で満足のゆく生活を現在送ることを願っているのであれば,「そうではない」と答えねばなりません。
「罪」とは,「宗教上の律法または道徳規範に対する違背」と定義されることがあります。「宗教上の律法」という言葉は,何が罪であるか,また罪をどのように避けるべきかを正当な権威をもって語ることのできる方は実際,真の宗教の創始者であられるエホバ神お独りであるという事実を思い起こさせます。エホバ神は特定の道徳律に従って生活するよう人間を創造されました。わたしたちが重力の法則など自然の法則を破るなら,身に危害を招きかねません。同様に,神の道徳律を破るなら,つまり罪を犯すならやがては同じ結果を招くことになるでしょう。聖書はわたしたちにこう警告しています。「惑わされてはなりません。神は侮られるようなかたではありません。なんであれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです」― ガラテア 6:7。
個々の人に罪がもたらす悲惨な結果はエゼキエル 18章4節(新)の「罪を犯している魂 ― それは死ぬ」という言葉に示されています。箴言 14章34節(新)には,国家全体に対する悪い結果がこう記されています。「義は国民を高めるが,罪は国々の民にとって恥ずべきものである」。
そうです。罪は決してどうでもよいことではありません。自分自身の益のために,何が罪かを識別し,それを避ける方法を学ばなければなりません。どのようにそれを行なえますか。続く記事の中でその点を考慮してみることにしましょう。
ダビデ王は言いました。「ご覧ください,とがと共にわたしは産みの苦しみを持って産み出され,罪のうちにわたしの母はわたしを宿しました」― 詩 51:5,新。
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『すべての人が罪を犯している』というのは本当ですかものみの塔 1981 | 2月1日
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『すべての人が罪を犯している』というのは本当ですか
誠実な人々が八方手を尽くしても,人間がその差し迫った問題の大半をこれまで解決できないでいるのはなぜだろうかと疑問に思ったことがありますか。平和・繁栄・幸福・病気からの解放など,望んでいる事柄は極めてはっきりしているのに,望ましい目標からますます遠ざかっているように思えるのはなぜでしょうか。
その主な理由は使徒パウロの次の言葉から分かります。「すべての者は罪を犯しているので神の栄光に達しない(のです)」。(ローマ 3:23)人類の努力の大半は人間の罪深さによって挫折させられてきたのです。
中には次のように語って使徒パウロの言葉に疑問を投げかける人がいるかもしれません。『どうして私が罪人なのですか。隣人に危害を加えることはありませんし,平穏な生活を送っており,問題を起こすようなこともありません。私がどんな罪を犯しているというのですか』。しかし,事実を言うと,罪には,単に隣人を害したり問題を起こしたりする以上のことが関係しているのです。確かに,こうした事柄はいずれも罪であり,それを避けるのはほめるべきことです。しかし,「罪」という言葉にはさらに広い適用があります。パウロは,「神の栄光に達しない」ことを罪と結び付けています。このように,罪は,創造者エホバ神とわたしたちとの関係にかかわりがあります。
現代の聖書の中で「罪」と訳されている言葉には,元来,完全な従順の「的をはずす」という考えが含まれていました。何に対する従順ですか。神のご意志に対する従順です。ですから,現代のある聖書辞典はこう述べています。「罪とは,神への忠実な関係からの逸脱,および戒めや律法に対する不従順の双方を意味する」。それゆえ,何を罪とみなすかについて正当な権威をもって告げることのできる方は神お一人です。そして神は,聖書の中でそれを明らかにしておられます。
罪の具体例
まず,現代の世界で認められつつある事柄の中には,実を言うと確かに悪いものが少なくありません。聖書はこう述べています。「淫行の者,偶像を礼拝する者,姦淫をする者,不自然な目的のために囲われた男,男どうしで寝る者,盗む者,貪欲な者,大酒飲み,ののしる者,ゆすりとる者はいずれも神の王国を受け継がないのです」。(コリント第一 6:9,10)そうです,姦淫,淫行,同性愛はいずれも罪です。また,盗みも同じです。
確かに,多くの人は不道徳な行為や盗みを避けており,それは立派なことです。しかし,罪はほかにもあります。行動だけでなく,語る言葉も罪をもたらすことがあるのです。偽りを語ることは罪であり,人を中傷するうわさ話や怒りに燃えた言葉,ののしりも同じです。(コロサイ 3:9。詩 101:5。エフェソス 4:31)パウロはさらに,「愚痴を言ってはなりません。彼らのある者たちは愚痴を言い,滅ぼす者によって滅びる結果になったからです」と語っています。(コリント第一 10:10,現代英語聖書)ヤコブは自慢することを非としましたし,パウロは愚かな話や卑わいな冗談を避けるよう諭しました。(ヤコブ 4:16。エフェソス 5:4)ここまでに述べたどの面でも決して罪を犯したことがないと誠実に言える人がいるでしょうか。おそらくいないでしょう。イエスの兄弟ヤコブは,『ことばの点でつまずかない人がいれば,それは完全な人です』と語りました。(ヤコブ 3:2)自分は完全であると断言できる人がいるでしょうか。そのような人は一人もいません。
この同じヤコブは,わたしたちが罪を犯しかねない別の面にも言及してこう述べています。「正しいことをどのように行なうかを知りながら行なわないなら,それはその人にとって罪なのです」。(ヤコブ 4:17)どのような時にそれが生じますか。次の場面を想像してください。ある人が歩道を歩いていると,突然子供が庭先から目の前に飛び出して来て,往来の激しい通りに走って行こうとします。車にひかれてしまう子供を助けることのできる立場にいながら,それを無視して歩き去ってしまうならどうでしょうか。確かに,悪いことをするわけではありません。しかし,子供を助けることができるのに何もしないという事実は,罪となるでしょう。わたしたちはいずれも,仲間の人間に対して,あるいは神に対して,真に愛ある仕方で行動することに幾度も失敗してきたのではないでしょうか。この点で失敗するたびにわたしたちは罪を犯しているのです。
間違った態度も罪となる場合があります。ごう慢や尊大,それに臆病は聖書の中で非とされています。(箴 21:4,新。啓示 21:8)悪い考えでさえ罪になります。十戒の10番目の戒めは次の通りです。「あなたは仲間の者の家を欲してはならない。仲間の者の妻を,またその男奴隷,女奴隷,牛,ろば,仲間の者に属するどんなものも欲してはならない」― 出エジプト 20:17,新。
悪い欲望が思いに入り込まないようにするにはどうすればよいでしょうか。健全な事柄で事前に思いを満たしておけるでしょう。しかし,そうしていてもだめな時には,その欲望をありのままに認め,それと闘う以外に方法はありません。(コリント第一 9:27)そうした悪い欲望は神の目から見ると罪なのです。―箴 21:2。
さらに,偽りの宗教がわたしたちを罪に陥れることがあります。聖書の中ではっきり禁じられている偶像礼拝や心霊術といった悪い慣行だけでなく,偽りの宗教に所属することも罪とされています。聖書巻末の書は,偽りの宗教を大いなるバビロンと呼ばれる世界的大都市として描き,こう述べています。「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄をともに受けることを望まないなら,彼女から出なさい」。(啓示 18:4)偽りの宗教は大きな罪を負っています。唯一の真の神を偽り伝え,神の真の僕を迫害し,政治に介入してきました。偽りの宗教に所属している人はすべて,こうした罪を犯している組織を支持することにより,その罪にあずかっています。
わたしたちはどうして罪を負っているのか
罪となり得る事例のほんの幾つかをここに取り上げたにすぎません。聖書の中にはほかにも多くの原則が略述されています。それらの点を考えると,罪を全く犯さないようにすることなど不可能だという結論に達するでしょう。そして,「罪をおかさない人間はひとりもいない」と語ったソロモン王の言葉に同意されるでしょう。(列王上 8:46,新)神ご自身,「人の心の傾向はその年若い時から悪い」と語られました。(創世 8:21,新)人を罪に走らせる原因は数多くありますが,その中でも大きなものは人間の肉の弱さです。
なぜそう言えるのでしょうか。人間はそうした弱さを受け継いでいるのです。当初,わたしたちの父祖アダムとエバはこうした問題を抱えていませんでした。二人は完全であり,罪に関しても,道理にかない平衡の取れた決定を下すことができました。しかし,二人は間違った選択をし,神に反抗する道を選び,結果として,完全な状態を逸脱し,不完全になりました。このゆえに,二人は罪と悪い性向を子孫すべてに伝えることになりました。使徒パウロはその点をこう説明しています。「ひとりの人[アダム]を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪を犯したがゆえにすべての人に広がった(のです)」― ローマ 5:12。
ですから,どんなに正しい動機を抱いていても,罪を犯さないでいることは不可能です。その理由について,使徒パウロはこう告白しています。「自分の願う良い事がらは行なわず,自分の願わない悪い事がら,それが自分の常に行なうところとなっているのです」。(ローマ 7:19)わたしたちすべても同じ問題を抱えています。
それによって,人類には悲惨な結果が臨みました。最善の意図をもって事に当たっても,誤りに傾く自分の性向から,挫折感を味わわされてきました。利己心や貪欲から,汚染・貧困・不正が生まれました。疑いと不信は,家族関係だけでなく,国際関係をも不安定なものにしています。汚職や犯罪は,発展を目指す諸国家の努力を妨げています。しかも,この点で人間にできることは極めて限られています。
さらに,人間が受け継いだ罪深さゆえに,ローマ 6章23節に記されている,「罪の報いは死です」という原則が不吉な暗雲のように頭上に漂っています。罪のもたらす死の刑罰を被らずに済ます方法は何一つありません。罪を全く犯さないようにするためにわたしたちにできることはないからです。人間は自分の不完全さに翻弄されています。
これがすべてで,どうしようもないのでしょうか。いつまでも自分の弱さに妨げられて,人間の気高い夢や願望を達成することはできないのでしょうか。そうではありません。わたしたちに助けを差し伸べることのできる方がおられるからです。罪を犯さないようにする点で自分が無力であることを言い表わした使徒パウロは,続けてこう語っています。「わたしはなんと惨めな人間でしょう。こうして死につつある体からだれがわたしを救い出してくれるでしょうか」。パウロは何と答えていますか。「わたしたちの主イエス・キリストを通してただ神に感謝すべきです!」(ローマ 7:24,25)そうです,自分がどれほど罪の強大な影響下に置かれているか,また自分を救い出す点でいかに無力かを認識すると,わたしたちに助けを差し伸べてくださった神の偉大な愛とご配慮に対する感謝の念を深めます。ところで,神はどのようにそれを行なってくださったのでしょうか。
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罪の汚れを取り除くものみの塔 1981 | 2月1日
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罪の汚れを取り除く
エホバ神は創造の業を終えられたのち,ご自分の造られたすべてのものを検分して,『非常に良い』と宣言されました。(創世 1:31,新)神がお造りになったすべてのものは完全でした。(申命 32:4)この義の秩序に入り込んだ罪は,健康な体に入り込んだ望まれないガン細胞のようでした。
実際,神に反抗して罪を犯したのは人間だけではありませんでした。聖書は,「罪を犯したみ使いたち」についても述べています。(ペテロ第二 2:4)そもそも,アダムとエバを誤った道に誘ったのは,霊の被造物サタン悪魔でした。(ヨハネ 8:43,44)しかし,これらの邪悪な霊者たちのために取り成しをすることはできません。それらの者たちは完全であり,故意にそうした道を選びました。ですから,その罪は全く弁解の余地のないものです。これらの者たちの罪の汚れは,神の定めの時に彼らが最終的な滅びを被ることにより,宇宙から取り除かれます。―マタイ 25:41。
同様に,アダムとエバも罪を犯すことを選びました。二人は完全な者として創造されながら,故意に悪を行ない,自ら罪の奴隷となりました。「すべて罪を行なう者は罪の奴隷です」とイエスご自身が語られた通りです。(ヨハネ 8:34)神は,罪のもたらす不完全さの結果として二人が最終的に死ぬに任され,こうしてアダムとエバは除き去られました。―創世 3:19; 5:5。
しかし,わたしたちの場合は,事情が異なっています。わたしたちも罪の奴隷ですが,それはもっぱら自分の選択によるものではありません。わたしたちは,あたかも生まれる前にすでに奴隷として売られていたかのように,生まれた時から罪人なのです。(ローマ 5:12; 7:14)そこでエホバ神は,わたしたちが本当に望むなら罪の隷属から自由になれるように,愛と知恵を働かせて,備えを設けてくださいました。
問題を解決する
イスラエル国民との交渉を通して,エホバ神は,ご自分が買い戻しの原則を承認していることを示されました。例えば,あるイスラエル人が貧しくなって,自分の身を非イスラエル人に売らねばならないような時,身近な親族は自分に力があれば,その人を買い戻すつまり贖うことができました。(レビ 25:47-49)値段は厳格に算出されましたから,その買い戻しは全く公正なものでした。
エホバは,罪の行為の取り扱いに関しても,等価の原則を確立されました。例えば,人が仲間のイスラエル人の身体に故意に危害を加えた場合,公正という立場から,加害者は同じ害を身に受けて苦しまなければなりませんでした。律法にはこう規定されていました。「魂には魂,目には目,歯には歯,手には手,足には足,焼き印には焼き印,傷には傷,殴打には殴打を与えなければならない」― 出エジプト 21:23-25,新。
これから推し量ると,神は罪の奴隷状態から人類を買い戻すことをよしとされるでしょう。しかし,それは公正な立場からなされねばなりません。あたかも買い戻されるものが真の価値を有していないかのように,支払われる代価が取るに足りないものであってはなりません。その代価は正確に量られなければなりません。どれほどの代価が必要だったでしょうか。考えてみてください。アダムが捨てたのは,永久に生きる見込みを伴う,罪のない完全な人間の命でした。それは非常に価の高いものでした。
人間はこれと同等の価値を有するいかなるものも所持してはいません。世界一の富豪でさえ,やがては死ななければなりません。そのすべての金銀をもってしても,永遠の命を買うことはおろか,現在の不完全な命をさえ延ばすことはできません。霊感を受けた詩篇作者はこう語りました。「その一人として,兄弟を請け出すことさえ決してできない。また,そのための贖いを神にささげることもできない。……これがなお永久に生きて,坑を見ることのないようにしようとしても」。(詩 49:7-9,新)ですから,助けは人類以外のところからもたらされねばなりませんでした。
アダムとエバが従順の道ではなく罪の道を選んだ直後に,早くも神は助けを備えるご自身の目的を明らかにしておられます。神は,人類を罪深い状態に陥れた邪悪な霊の被造物に対抗する「胤」の到来を予告されました。(創世 3:15,新)一連の啓示を通して,この胤つまり子孫の生み出される家系も明らかにされました。最終的にこれらの啓示は,ローマ帝国が権勢を誇っていた時期にパレスチナに住んでいた,ヨセフとマリアという名の婚約関係にある二人にその焦点を合わせていました。―創世 22:15-18; 49:10。ルカ 1:26-35。
この二人は,神の被造物の間から罪の汚れを取り除く上で極めて重要な役割を果たすことになる男子をマリアが身ごもるという知らせを受けました。エホバの使いは夢の中でヨセフに現われて,こう告げました。「ダビデの子ヨセフよ,あなたの妻マリアを家に迎えることを恐れてはならない。彼女のうちに宿されているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。あなたはその名をイエスとしなければならない。彼は自分の民をその罪から救うからである」。(マタイ 1:20,21)こうしてついに,「兄弟を請け出すことさえ」できる人物が登場したのです。
イエスはマリアの息子として生まれました。ですから,間違いなくダビデの家系のユダヤ人でした。しかし,のちに明らかにされたように,実際にはイエスは人間になる前に,天で存在していました。イエスの命は奇跡を起こすエホバの力によってマリアの胎内に移され,神のみ子が人間として生まれることになったのです。(ヨハネ 1:1-3,14)このようなわけでイエスは,その時まで全人類を損なってきた罪深さを受け継いではいませんでした。アダムのように完全である一方,アダムとは異なり従順のうちにとどまっていました。ですから,人類史上類例のない存在として,イエスは罪を犯すことのない人間だったのです。「彼は罪を犯さず,またその口に欺きは見いだされませんでした」と使徒ペテロは語りました。イエスは「忠節で,偽りも汚れもなく,罪人から分けられ」ていた,とパウロは述べています。―ペテロ第一 2:22。ヘブライ 7:26。
イエスはこのように,完全な人間の命とまさしく等価のもの,すなわちもう一つの完全な人間の命を所持しておられました。イエスは死なれましたが,その死は「罪の報い」ではありませんでした。(ローマ 6:23)イエスは死の処罰に値する人物ではありませんでした。このように,イエスはその死に際し,アダムが失った完全な命と全く等価のものを犠牲にされました。―テモテ第一 2:6。
イエスの犠牲は,アダムの罪とまさに正反対の影響をもたらしました。「アダムにあってすべての人が死んでゆくのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされるのです」と使徒パウロは語っています。(コリント第一 15:22)イエスは,人類を罪から買い戻す価としてご自分の完全な人間の命をお用いになることができました。こう記されています。「[イエス]は,現在の邪悪な事物の体制からわたしたちを救い出すため,わたしたちの罪のためにご自身を与えてくださいましたが,それはわたしたちの神また父のご意志にしたがってでした」― ガラテア 1:4。
罪からの救済
このように今や,人類のための逃れ道が備えられました。贖いの価は払われたのです。これは,今やすべての人が罪の奴隷状態から自動的に解放され,再び完全な状態へと導かれることを意味しているのでしょうか。そうではありません。この備えが効力を発揮する仕方について,イエスご自身が次のように語っておられます。「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされ(ました)」。(ヨハネ 3:16)そうです,神はイエス・キリストを通して贖いを備えてくださいましたが,そのイエスに信仰を働かせる人は,アダムの意識的な不従順によって奪い去られた永遠の命を享受するのです。
現在でも,イエスの犠牲を受け入れる人々は益を得ます。そうした人々が依然として不完全であることは言うまでもありません。人類を完全な状態に回復する神の定めの時はまだ到来していません。しかし,不完全さゆえに罪を犯しても,それが天のみ父との関係を取り返しのつかない程損なうことはありません。使徒ヨハネはこう書きました。「わたしがこれらのことを書いているのは,あなたがたが罪を犯すことのないためです。それでも,もしだれかが罪を犯すことがあっても,わたしたちには父のもとに助け手,すなわち義なるかたイエス・キリストがおられます」。(ヨハネ第一 2:1,2)不完全さゆえに罪に陥っても,イエスの犠牲に基づいて神に祈り,エホバが許してくださるとの確信を抱けるのです。―ヨハネ第一 1:7-9。
では,罪はもはやどうでもよいことなのでしょうか。このような愛ある備えがあるので,好むままに罪を犯しても,イエスの犠牲によって許しが得られることを確信できるのでしょうか。そのようなことはありません。この備えから益を得たいのであれば,罪に対してイエスが抱いているのと同じ態度を示さなければなりません。イエスは『義を愛し,不法を憎まれます』から,わたしたちもそうすべきです。(ヘブライ 1:9)パウロと同様,罪に誘う性向を克服するために,「自分の体を打ちたたき,奴隷として連れて行く」ことが必要です。(コリント第一 9:27)それには,何が罪かをはっきり理解し,それに抵抗して闘うことが関係してきます。この点で神はわたしたちに助けを差し伸べてくださいます。それにより,わたしたちは個人として真の変革を遂げることができるでしょう。―ローマ 12:2。
しかし,罪深い性向と闘わないなら,使徒パウロの付け加えた次の言葉がわたしたちに当てはまることになりかねません。「真理の正確な知識を受けたのち,故意に罪をならわしにするなら,罪のための犠牲はもはや何も残されておらず,むしろ,裁きに対するある種の恐ろしい予期……があるのです」― ヘブライ 10:26,27。
肉体が不完全であるにもかかわらず,罪の奴隷状態から逃れたいと願っていることを示す人は,最終的に,すばらしい見込みを持つことになります。罪が過去のものとなる新秩序で生きる機会が約束されています。罪は神の被造物すべての間から一掃されていることでしょう。その時のことについてこう記されています。「それらはわたしの聖なる山のどこにおいても害をもたらすことも,損なうこともない。地は,水がまさに海を覆っているように,必ずエホバについての知識で満ちるからである」。(イザヤ 11:9,新)霊感を受けた詩篇作者はこう約束しています。「邪悪な[故意に罪を犯す]者はもういない」。一方,「温和な者たちこそ地を所有し,豊かな平和にこの上ない喜びを見いだすのである」― 詩 37:10,11,新。
病気,死,神からの疎外など罪の悪影響すべては過ぎ去り(啓示 21:3,4),地球に対する神の目的は完全に成就します。―マタイ 6:9,10。
信じる人類の前には,罪の奴隷状態から最終的に解き放されるすばらしい機会があるのですから,イエスの贖いの犠牲に深く感謝できます。詩篇作者の次の励ましの言葉はまさしく時宜を得たものです。「悪から遠ざかって善を行ない,定めのない時に至るまで住むように。エホバは公正を愛される方であり,ご自分の忠節な者たちを捨てられないからである。定めのない時に至るまで彼らは必ず守られる」― 詩 37:27,28,新。
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