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  • 神の王国の王が人間のために行なう事柄
    ものみの塔 1978 | 1月1日
    • でしょう。報いを与える偉大な方としてのエホバの,キリストおよびその天の仲間14万4,000人に対するそれ以後の関係,またエホバが彼らに与えられる任命は,彼らに対するエホバの大きな愛の表現となるでしょう。(ヘブライ 6:10)聖書には,神が彼らのために蓄えておられる事柄は示されていませんが,すでに行なわれたことはすばらしいものでした。

      「神はあわれみに富んでおられ,わたしたちを愛してくださったその大いなる愛のゆえに……キリストとともに生かし……また,キリスト・イエスとの結びつきにおいてわたしたちをともによみがえらせ,天の場所にともに座らせてくださったのです。それは,キリスト・イエスと結ばれたわたしたちに対する慈しみのうちにあるその過分のご親切の卓抜した富が,きたらんとする事物の諸体制において明らかに示されるためです」― エフェソス 2:4-7。

      19 なぜ人は,わたしたちが今勉強してきたことを理解する必要がありますか。

      19 良いたよりにはこれらの事柄がすべて含まれています。神に受け入れられる奉仕をし,良いたよりを他の人々に宣べ伝えることを望む人々は,これらの事柄を理解し認識することがぜひとも必要です。

  • 賢人はどんな意味で述べたか
    ものみの塔 1978 | 1月1日
    • 賢人はどんな意味で述べたか

      彼らは神のみ手にある

      賢い王ソロモンでさえ,神のみ業の全容を推し量ることはできませんでした。つまり至高者がご自分の壮大な目的の成就において行なわれる事柄だけでなく,許しておられる事柄までは理解できなかったのです。それでも,人間に関する事柄を注意深く調べた後に,ソロモンが「心に留めた」肝要な真理がありました。それは何でしたか。「義なる者と賢い者,また彼らの業は真の神のみ手にある」ということです。―伝道 9:1,新。

      そうです,義人や賢人は,その人柄と行動の両面で至高者のみ手,つまり力の下にあると言えます。義人や賢人に災いが臨むのを至高者が許されたとしても,その人たちが報いを得損なうことは決してありません。エホバ神は「ご自分に属する者を知っておられ」,そのみ業すべての結果が『ご自分を愛する者たちの益に』なるようにしてくださいます。(ローマ 8:28。テモテ第二 2:19)このことを知っていれば,義人が苦しんでいるのに邪悪な者たちが栄えているのを見たとしても,慰めや励ましを得ることができます。―伝道 8:14。

      ここ数百年の間,聖書学者たちはソロモンが伝道之書 9章1節(新)の次の言葉を一体どんな意味で述べたのか理解しかねてきました。「人間は自分たち以前にすべてあった愛にも憎しみにも気づかない」。この言葉は,故意に数々の実際的な概念を導き出せるような仕方で書かれたとも思われます。例えば,死は人間の愛や憎しみに終わりをもたらすので,生きている人は,自分が生まれる前に,つまり自分の時代以前に生きた人々の生涯にどれほどの愛と憎しみがあったかを知ることはできない,という意味にも理解できます。

      あるいは,ソロモンの言葉は,神が義人や賢人を,またその業を左右する力を持っておられるという,前に述べられた文脈から考慮しなければならないかもしれません。神の許しや黙認の結果,義人や賢人をはじめとする人類の残りの人々すべてが愛や憎しみを経験するようになりました。また至高者は,人々の生まれるずっと前から,人間が愛や憎しみを味わうことを予知しておられました。神は,愛と憎しみの感情を持つ罪深い人類が生まれてくるのを許されました。アダムとエバの反逆の後,エホバ神はこう宣言されました。「わたしは,おまえ[もとのへび,サタン悪魔]と女[エバではなく神の「女」(ガラテア 4:26-31)]との間に,またおまえの胤と彼女の胤との間に敵意を置く」。(創世 3:15,新)ですから,神は人類の間にその結果生ずる『愛と憎しみに気づかなかった』わけではありませんが,人間はつらい経験を通してようやくそれを知るようになったのです。

      さらにまた,賢人が伝道之書 9章1節で述べた事柄を次のように説明することもできます。不完全な人間の間では,しばしば愛や憎しみの感情が理由なしに表わされます。それで人は,自分たちの前に表わされた愛や憎しみすべての動機づけとなったものに気づいておらず,またそれを理解しても把握してもいないわけです。このように理解すれば,ソロモンのこの言葉は,死がすべての事柄に終わりをもたらすため,人生は不確かで予測不可能なものである,という続く論議と結び付いていることになります。愛と憎しみは人生と同じように盲目的で不可解なものとなることがあります。

      人類は不完全な罪深い世にいるため,義人も悪人も,善と悪,愛と憎しみの両方を経験します。エホバ神は,義人も悪人も,飲食物をはじめとする,命を支えていくための寛大な備えを享受できるようにしてくださいました。(マタイ 5:45。使徒 14:16,17)その上,死に関しては,何の相違もありません。ソロモンはこう続けました。「すべてのものが持つことに関しすべてが同じである。義なる者と邪悪な者,善良な者と清い者と清くない者,また,犠牲を捧げる者と犠牲を捧げない者とに一つの終局が臨む。善良な者は罪人と同じ,[軽々しく,あるいは考えなしに]誓う者も,だれであれ宣誓を恐れていた者と同じである」― 伝道 9:2,新。

      生きている間に義人と悪人に臨む事柄には,一見なんの違いもないように思え,その上すべてが死によって終わるため,方正で,神を恐れる人生を送ることには何の利点もないように思えるかもしれません。ソロモンは,人類の間で悪行がいつまでも続いている理由としてそのことを指摘して,こう述べています。「これが日の下に行なわれたことすべてにおいて災難となるものである。すなわち,すべてのものに一つの終局があるために,人々の子らの心は悪に満ちてもいるのである」― 伝道 9:3,新。

      しかし,不法に身を任せることはそれらの人々の益になりますか。いいえ,賢人が次のように述べているからです。「彼らの心にはその生がいの間狂気がある。そしてその後 ― 死者たちのもとへ!」(伝道 9:3,新)生きている間,彼らは自らを制することなく間違った欲望や傾向に従って,我を忘れたかのように行動します。最終的には,そうした浮かれ騒ぎと欲望の人生は死をもって突然に終わります。それでは,本当に賢い生き方とはどのようなものでしょうか。

      健全な仕方で人生を楽しみなさい

      人は命を与えられていることに感謝し,それを正しく用いなければなりません。ソロモンはこう書きました。「だれであれすべての生けるものと結ばれている者に関しては確信がある。生きている犬は死んだししよりましだからである。生きている者は自分が死ぬことを意識しているのである[自分の命を健全な仕方で用いるよう動かす冷静な考え]。しかし死者は何事に関しても全く意識がなく,報酬を受けることももはやない。彼らの記憶も忘れられたからである。また,彼らの愛も憎しみもねたみもすでに滅びてしまい,彼らは日の下で行なわれるべき何事についても,定めのない時に至るまでもはや何の分も持たない」― 伝道 9:4-6,新。

      確信と希望があるのは,人が生きている時だけです。その時こそ,創造者に対して良い名を築くときです。不法な行動を取る人の場合でさえ,命のある間は,良い方に変化するかもしれないという希望があります。しかし,死期が訪れるときに

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