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隣人愛は神への愛の代用ではないものみの塔 1961 | 10月1日
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隣人愛を示す人々は神を愛していると主張し,それが神への愛を表わすことになると主張するかも知れません。しかしそれはその人々の解釈です。神の言葉は次のように告げています,「神を愛するとは,すなわち,その戒めを守ることである。」ゆえに神の御要求に従わなければ,神を愛しているとは言えません。アダムはエバに対する愛のゆえに禁じられていた実を食べたのかも知れません。しかしそのために不従順な行いを正当化することはできませんでした。サウロ王もそれと同じ理くつを述べました。神の命令に従わなかったことを責められたとき,サウロ王はイスラエルの人々のためを思ったがゆえであると述べて言いわけしました。しかし神の眼の前にその言いわけは何の役にも立たず,サウロ王は不従順のゆえにエホバ神から捨てられました。―ヨハネ第一 5:3,新口。サムエル前 15:22,23。
ソロモン王の例もあります。ソロモンは妻たちに対する「隣人愛」から彼らの偶像崇拝を支持しました。そして遂にはすべての思い,心,魂と力をつくして父ダビデの神エホバを愛さなくなりました。「隣人愛」がエホバ神への愛の欠如の言いわけになりましたか。そうではありません。大きな知恵を持ち,エルサレムにエホバの宮を建て,聖書のシンゲンの大部分と伝道の書,ソロモンの雅歌を書くのに用いられたソロモン王も,そのことのために神の恵みを失ったまま死にました。―列王紀上 11:1-9。
しかしイエス・キリストはこの間違いをしませんでした。御自分の第一のつとめは天の父に対するもので,その御心を行ない,御名と御国をあかしすることであると,イエスは知っていました。ある時イエスがパンと魚で群衆の飢えをいやしたのを見て,人々はイエスを「とらえて王にしようとし」ました。そのときイエスは「ただひとり,また山に退かれた」と記録されています。人々の要求に応ずることは隣人愛を示す道であったかも知れません。しかしそれは神への愛を表わすことではなく,神の御心でもないと,イエスは知っていました。神の「国はこの世のものではない」からです。しかも神を第一にしたことによって,イエスの選んだ道は地上に来たイエスにとっての隣人すなわち人類に最大の益を与えるものとなりました。それは人類が神の新しい世で復興され楽園を得ることを意味するからです。―ヨハネ 6:15; 18:36。ルカ 23:43。
このように見るとき,神の御目的を考慮に入れない隣人愛は,全く先見の明のないものです。神を愛する人は何をしなければなりませんか。時たま教会に行くことですか。教会の名簿に名をつらねて寄付をすることですか。決してそうではありません。神と神の御要求について聖書の述べていることと少しも関係のない説教を聞いているとすれば,なおのことそうです。神を愛するためには神を知らなければなりません。少しも知らない人あるいはほとんど知らない人を愛することはできません。神は御自身のことを知らせるため,二つの本すなわち自然の本とすべての本にまさる聖書という本を書かせました。特に聖書はこの目的にかなうものです。聖書の述べている通り,聖書を理解するには助けが必要ですから,神はそのための助けを備えられました。それで神を愛するためには,この助けを利用しなければなりません。聖書を読んでも理解できなければ,神を愛するための助けにはなりません。―使行 8:30,31。
この本は,私たちの行い,交わり,人生における使命について神の御要求が何であるかを告げています。聖書の教えに従うとき,神への愛と隣人愛との間に正しいつりあいを保ち,理知をもって行なうことができます。
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排他的な法人団体ものみの塔 1961 | 10月1日
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排他的な法人団体
「神の創造的な愛 ― それはどんな障壁をも乗りこえる ― の代理者の働きをやめた教会,そして中流階級の人々,社会的地位の高い人々,ブルジョア階級と呼ばれる人々の排他的な法人団体になった教会は,キリスト教のものではない」とタイト・エイ・カントネンは「福音主義の神学」という本の中で述べています。
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