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人間になる以前の存在ものみの塔 1962 | 10月15日
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かの聖書訳によると,イエスはあとで彼にこう言われました,「なんぢ人の子を信ずるか」。その男は答えました,「主よ,それは誰なるか,われ信ぜまほし」。イエスはお答えになりました,「なんぢ彼を見たり,汝と語る者はそれなり」。イエスは,ご自分,すなわちイエスが,神の子以上の者であると信ぜよとはその男に言われていません。その男もそれ以上を信ずると告白したのではありません。―ヨハネ 9:35-37。欽定訳,ドウェー訳,アメリカ標準訳,エンハチック・ダイアグロット,ラムサ訳,マードック訳。
60 イエスは,ラザロを復活させるまえに,だれが栄光を受けるべきだと言われましたか。それ以後マルタは,イエスをだれと信ずると言いましたか。
60 病気の友ラザロのために,ベタニヤの村へ行く前にイエスは使徒たちにこう言われました,「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため,また,神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。ラザロが死んで横たわっている墓にイエスが行き着くまえに,ラザロの姉妹マルタは,イエスがご自分について言われたことに対する信仰を告白し,こう言いました,「主よ,信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト,神の御子であると信じております」。―ヨハネ 11:4,27,新口。
61 テアテラの会衆にメッセージを送るにさいして,イエスはご自分のことをなんであると言われていますか。
61 栄光を受けたイエスは天においてさえご自分のことを神の子と言われています。黙示録 2章18節で,テアテラの町にあるクリスチャン会衆にメッセージを送る時,栄光に輝くイエスはヨハネにつぎのように言われます,「テアテラにある教会の御使に,こう書きおくりなさい。『…神の子が,次のように言われる。…勝利を得る者,わたしのわざを最後まで持ち続ける者には,諸国民を支配する権威を授ける。彼は鉄のつえをもって,ちょうど土の器を砕くように,彼らを治めるであろう。それは,わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である」。―黙示 2:18,26,27,新口。
62 イエスは,祈りの中で,ご自分を神とどんな関係において話されていますか。
62 神とのそういう関係に基づいてイエスは,ご自分を子として神に話しかけ,また祈られました。「父よ,時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように,子に栄光をあらわして下さい。あなたは,子に賜わったすべての者に,永遠の命を授けさせるため,万民を支配する権威を子にお与えになったのですから。永遠の命とは,唯一の,まことの神でいますあなたと,また,あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」。(ヨハネ 17:1-3,新口)こうしてイエスは,ご自分が「唯一の,まことの神」であることを主張されませんでした。
63 ユダヤ人はなぜイエスを石で打ち殺そうとしましたか。そうすることが,ユダヤ人にとって正しいかどうかを示すために,イエスは詩篇からどんなことを引用されましたか。
63 しかし,そんなことをいうのは,ヨハネ伝 10章31-39節を忘れているからではありませんか。この聖句によると,ユダヤ人は,イエスが「わたしと父とは一つである」と言われたので,イエスを石で打ち殺そうとしています。私たちはべつにそれを忘れているわけではありません。エホバという名の唯一の神を信じていたユダヤ人は,イエスを石で打ち殺してやりたいと思ったのです。なぜでしょうか。イエスが,三位一体とか,自分は三位一体の三分の一だなどと教えたからではなく,ご自分を神の子,彼らの神であるエホバの子と言ったからです。イエスは,石をにぎりしめている彼らに言われました,「わたしは,父による多くのよいわざを,あなたがたに示した。その中のどのわざのために,わたしを石で打ち殺そうとするのか」。ユダヤ人は答えました,「あなたを石で殺そうとするのは,よいわざをしたからではなく,神を汚したからである。また,あなたは人間であるのに,自分を神としているからである」。(新口)そこでイエスは,ユダヤ人の注意を,彼らの聖書の詩篇 82篇6節に向けさせて言われました,「あなたがたの律法に,『わたしは言う,あなだがたは神々である』と書いてあるではないか。神の言を話された人々が,神々といわれておるとすれば,(そして聖書の言は,すたることがあり得ない)父が聖別して,世につかわされた者が,『わたしは神の子である』と言ったからとて,どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。もしわたしが父のわざを行なわないとすれば,わたしを信じなくてもよい。しかし,もし行っているなら,たといわたしを信じなくても,わたしのわざを信じるがよい。そうすれば,父がわたしにおり,また,わたしが父におることを悟るであろう」。―新口。
64 (イ)この場合イエスは,ご自分が何であると論じられましたか。(ロ)詩篇 82篇が,「もろもろの神」と述べているのはだれのことでしたか。
64 このイエスの論議はまさに,彼が自分は神であると主張しなかったことを証明しています。イエスがもし神であると主張していたなら,ユダヤ人が彼を神を汚したといって石で打ち殺しても間違いではなかったでしょう。しかしイエスは,自分は神よりも小さいと主張した,と論じておられます。この点を証明するためにイエスはつぎのように書かれている詩篇 82篇1,2,6,7節(欽定訳)を引用されました,「神〔エロヒム〕は,力ある者の会衆の中に立ち給ふ。彼はもろもろの神〔エロヒム〕のなかにさばきをなしたまふ。なんぢらは正しからざるさばきをし,あしき者の身をかたよりみ幾何時をへんとするや。……われいへらく,なんぢらは神〔エロヒム〕なり,なんぢらはみな至上者の子なりと。されどなんぢらは人のごとくに死にもろもろの君のなかの一人のごとくたふれん」。この詩篇の中で,至上者であられる神は,地上のさばき人 ― 単なる人間 ― に話しかけておられます。そして彼らを,「もろもろの神」,すなわちヘブル語でエロヒムと呼び,さばきの仕方を是正せよと告げておられます。それらのさばき人が,自分の職務を正しく行なっていないので,至上者であられる神がお立ちになって,地上の人々をさばく必要が生じたのです。
65 「もろもろの神」であるにもかかわらずそれらのさばき人にはどんなことが起きますか。そういう種類のユダヤ人の「もろもろの神」は,だれの死に責任をもちますか。
65 彼らがいかに「もろもろの神」と呼ばれていても,また彼ら自身が自分たちは「至上者の子」あるいは神の子たちであると考えていても,そのことはこのさばき人たちを救うものではありません。そのことが彼らに不滅性を与えるわけではありません。彼らはやはり滅びる者であって,他の人間と同じように死んでいきます。また,地上の他のさばき人である君たちと同じように死にたおれます。これは,神のさばきによります。神の言葉は,不正なさばきをとがめています。ローマ人の手でイエスを殺させたのは,ユダヤ人たちの間のこのような人間の神々でした。―出エジプト 22:28。
66,67 イエスはだれであることを主張しませんでしたか。み父とご自分とについて,イエスはユダヤ人に対し何を言われませんでしたか。
66 詩篇 82篇6節は,ある人間たち,すなわちいく人かのイスラエル人のさばき人を「もろもろの神」と呼んではいましたが,しかし,イエスは,彼を石で打ち殺そうとした者たちに向かって,自分は神だとかあるいは一つの神だとは主張しなかったと告げておられます。イエスはユダヤ人たちに,神のことをご自身の父として語られます。ということは,彼すなわちイエスが,神の子であったことを意味します。イエスは彼らに言われました,「彼ら〔わたしの羊〕をわたしの手から奪い去る者はない。わたしの父がわたしに下さったものは,すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から,それを奪い取ることはできない。わたしと父とは一つである」。
67 イエスがこう言われたのちに持ち出された論議は,彼が神であると主張していなかったこと,また,彼と彼の天の父とが一つの神,すなわち三位一体の神 ― 彼と父とが二つの位格で,「聖霊なる神」が第三の位格 ― であるとも言われなかったことを証明しています。イエスは,私と父と聖霊とは一つであるとは言われませんでした。「聖霊」についてはなにも言われていません。―ヨハネ 10:28-30。
68 イエスは,詩篇 82篇6節を用いて,「私と父とは一つである」と言ったことが,神であるという主張ではなかったことをどのように証明されましたか。
68 「わたしと父とは一つである」という声明は,神であると主張していることにはならないとイエスは論じています。なぜですか。なぜならイエスは,ご自分をみ父なる神よりも小さいものと呼び,そのことをユダヤ人たちに告げられたからです。詩篇 82篇6節のユダヤ人自身の律法は,神の言葉によって批判されている人間を「もろもろの神」と呼んでいます。ユダヤ人たちが,人間のさばき人を「もろもろの神」という名称で呼んでいるこの聖句を取り消すことはできません。またこの聖句がそういうことを言っているという事実を否定することも,この聖句を霊感された聖書から取り除くこともできないのです。イエスはこれらのことをユダヤ人に告げられました。それにもかかわらず,はなはだ多くのすばらしい良いわざをされたイエス・キリストが,ご自分の父として神のことを話し,ご自分を単なる神の子として語ると,ユダヤ人たちは彼は神を汚したと言い,神を冒潰した者として彼を石で打ち殺そうとしたのです。それでもイエスは,詩篇 82篇が「もろもろの神」と呼んでいる人間どもよりすぐれていました。なぜなら,彼すなわちイエスは,彼の天の父が聖別して世におつかわしになったかただったからです。アサフが,イスラエルのさばき人たちを「もろもろの神」と呼んで一つの詩を作っても,神を汚したことにならないのなら,イエスがご自分を一つの神ではなく単に神の子と言ったことは,なおさら神を汚したことにはなりません。―詩 82篇。(表題)
69 (イ)これまで資料として用いてきたヨハネの書物の中で,私たちはイエス・キリストに関し何を見出すことができませんでしたか。(ロ)読者も私たちと一緒に,ヨハネの書物を資料にさらに検討をすることをすすめられているのはなぜですか。
69 以上のようなわけで,ヨハネの書物から取った前記のすべての資料のどこにも,イエス・キリストがご自分を神と呼んだり,人にご自分を神と呼ばせたりしておられるところは見あたりません。しかし,三位一体論者は,ヨハネの書物の中のこれに関係した聖句は,まだ全部検討されていない。これらの聖句は,イエスが,ご自分を神と言われたこと,人にも自分を神と言わせたことを証明し,さらにヨハネ伝 1章1節を「言葉〔あるいはロゴス〕は神であった」と訳している点で,多くの聖書は正しいことを証明するというでしょう。それで,「言葉」に関するこの記事のつぎの三つの部分で,そういう聖句を取りあげてみます。読者の皆さんも私たちと一緒にそれらを検討して下さい。
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神の目的とエホバの証者(その48)ものみの塔 1962 | 10月15日
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神の目的とエホバの証者(その48)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる」― イザヤ 43:10,新世訳
トム: 法廷における公正な聴問の権利に対するこの恐ろしい打撃をうけて後に,エホバの証者と協会は戦いを断念しましたか。
ジョン: いいえ,彼らはだんことして断念しませんでした。協会の弁護士は,他の多くの件における妨害物を取りのぞこうとつとめました。その中の二つの件では,エホバの証者は列の終りに行って,就任局の役人と爪先立ったことがありました。南カロライナ州のスミスとペンシルバニア州のエステップの二人の証者は就任することを拒絶しました。彼らは告訴されて,二つの別々の控訴院が弁護を認めぬと述べたため,その後の処罰は確認されました。この二つの件は,それから最高裁判所に提出されましたが,その間に,戦争は終了しました。1946年2月4日,最高裁判所はエホバの証者に有利な判決をくだしました。最高裁判所は次のように裁定しました。すなわちエホバの証者に公正な聴問の権利を拒絶し,証者たちが弁論する前に中立を妥協して,まず軍隊にはいらねばならぬと裁定したアメリカ合衆国の下級連邦判所は間ちがっていたというのです。最高裁判所は次のようにも論じました。すなわち徴兵委員会は条例と規定に違反行為をなし,事実に反して奉仕者の類別を否定したので
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