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3ハ 継続的行為もしくは進行的行為を表わすヘブライ語動詞新世界訳聖書 ― 参照資料付き
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ベンジャミン・ウィルズ・ニュートンの訳(1888年)(角かっこは訳者自身による)
それから神は言われた[未来],“光”が生じるように。すると“光”があるようになった[未来]。
新世界訳(1953年)
3 それから神は言われた,「光が生じるように」。すると光があるようになった。
ジェームズ・ワシントン・ワッツの訳(1963年)(角かっこは訳者自身による)
3 その後神は言われた,「光があるように」。すると光が徐々に存在するようになった。
ベンジャミン・ウィルズ・ニュートンの訳(1888年)(角かっこは訳者自身による)
それから神は“光”をご覧になった[未来]が,それは良[かった]。それから神は“光”と闇を分けていかれた[未来]。
新世界訳(1953年)
4 そののち神は光を良いとご覧になった。そして神は光と闇との区分を設けられた。
ジェームズ・ワシントン・ワッツの訳(1963年)(角かっこは訳者自身による)
4 それから神は光を見て,それが良いのを[ご覧になった]。そこで光と闇を分けていかれた。
ベンジャミン・ウィルズ・ニュートンの訳(1888年)(角かっこは訳者自身による)
それから神は光を“昼”と呼び[未来],闇のほうは“夜”と呼んだ[「呼ぶことにした」ではない: 過去時制が用いられている]。こうして夕となり[未来],そして朝となった[未来]。一日目である。
新世界訳(1953年)
5 そして神は光を“昼”と呼ぶことにし,闇のほうを“夜”と呼ばれた。こうして夕となり,朝となった。一日目である。
ジェームズ・ワシントン・ワッツの訳(1963年)(角かっこは訳者自身による)
5 そうして神は光を“昼”と呼ぶことにし,闇のほうを“夜”と呼ばれた。こうして夕となり,朝となった。一日目である。
ベンジャミン・ウィルズ・ニュートンの訳(1888年)(角かっこは訳者自身による)
それから神は言われた[未来],水のただ中に天空が生じ,水と水との間を区別するものとなるように。
新世界訳(1953年)
6 次いで神は言われた,「水の間に大空が生じ,水と水との間に区分ができるように」。
ジェームズ・ワシントン・ワッツの訳(1963年)(角かっこは訳者自身による)
6 さらに神は続けてこう言われた,「水のただ中に大空が生じ,水と水との間に別れが生じるように」。
ベンジャミン・ウィルズ・ニュートンの訳(1888年)(角かっこは訳者自身による)
それから神は天空を造り[未来],天空より下に[ある]水と天空より上に[ある]水とを分けてゆかれた[未来]。
新世界訳(1953年)
7 そうして神は大空を造り,大空の下に来る水と大空の上方に来る水とを区分してゆかれた。そしてそのようになった。
ジェームズ・ワシントン・ワッツの訳(1963年)(角かっこは訳者自身による)
7 そこで神は大空の下の水と大空の上の水とを分けてゆかれた。するとしだいにそのようになった。
ベンジャミン・ウィルズ・ニュートンの訳(1888年)(角かっこは訳者自身による)
それから神は天空を“天”と呼ばれ[未来],こうして夕また朝があり,二日目となった[未来]。
新世界訳(1953年)
8 そして神は大空を“天”と呼ぶことにされた。こうして夕となり,朝となった。二日目である。
ジェームズ・ワシントン・ワッツの訳(1963年)(角かっこは訳者自身による)
8 その後神は大空を“天”と呼ぶことにされた。こうして夕となり,朝となった。二日目である。
新世界訳聖書は,ヘブライ語の動詞を翻訳する際,確かな根拠に基づかないワウ継続法に従いませんでした。この旧来の説に従えば,ヘブライ語動詞が元々の態において有する力や強さは伝えられません。ですから,新世界訳聖書は,ヘブライ語動詞の完了態と未完了態の区別を保つことにより,そのヘブライ語動詞に正確な意味合いとそれに伴う力強さを添えています。
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4イ 「魂」― 生物,人間,もしくは動物; 知性を有する人間としての命; 他の用法新世界訳聖書 ― 参照資料付き
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4イ 「魂」― 生物,人間,もしくは動物; 知性を有する人間としての命; 他の用法
ヘ語,נפש(ネフェシュ); ギ語,ψυχή(プシュケー); ラ語,a'ni·ma(アニマ)
ヘブライ語聖書中に,ネフェシュというヘブライ語は754回出ており,この語が最初に出て来るのは創世 1:20です。新世界訳聖書はこの語を一貫して「魂」と訳出しており,いずれの場合も,文脈に照らしてその意味を理解することが可能です。多くの異なる文脈にこの同一のヘブライ語が用いられていることは,聖書筆者たちがこの語を用いたときにそれが持っていた基本的な考えを確かめるのに役立ちます。このヘブライ語の持つ基本的な概念は,人格を有する者,個人,もしくは下等生物; 人格を有する者あるいは動物がそのようなものとして享受している生命,というものです。これは古代エジプト人,バビロニア人,ギリシャ人,ローマ人が宗教的また哲学的意味で魂と呼んだものとは全く異なります。
クリスチャン・ギリシャ語聖書中に,プシュケーというギリシャ語は単独の形で102回出ており,この語が最初に出て来るのはマタイ 2:20です。これには,「魂をこめて」という表現が用いられているエフェソス 6:6およびコロサイ 3:23も含まれています。さらにこの語は,フィリピ 2:2,19; テサロニケ第一 5:14などにおけるように,他のさまざまなギリシャ語と結合した形でも用いられています。新世界訳聖書はプシュケーを一貫して「魂」と訳出しています。一貫して日本語の同一の訳語を用いるこの方法は,霊感を受けた筆者たちがプシュケーをどのように用いたか,どんな特性をこれに付していたかを明らかにする点で大変啓発的です。
「魂」という語の用法を理解する助けとして,「魂」という語が出て来る聖句を種々の見出しのもとに区分けして以下に挙げます。
動物は魂
創 1:20,21,24,30; 2:19; 9:10,12,15,16; レビ 11:10,46,46; 24:18; 民 31:28; ヨブ 41:21; エゼ 47:9。
生きている人もしくは個人は魂
創 2:7; 12:5; 14:21; 36:6; 46:15,18,22,25,26,26,27,27; 出 1:5,5; 12:4,16; 16:16; レビ 2:1; 4:2,27; 5:1,2,4,15,17; 6:2; 7:18,20,21,25,27; 17:10,12,15; 18:29; 20:6,6; 22:6,11; 23:
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