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『死後の生存』についての聖書的研究 その1ものみの塔 1955 | 11月15日
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人間の将来についての神の定め,或は神の取り極めだけです。神の過分の御親切により,人間は下等動物よりも勝れたものを楽しみます。なぜなら,信仰を持つ従順な人類が,死ぬことの無い正義の新しい世で永遠の生命を楽しむようにと神は御意を定められ,かつ御準備をされたからです。それで人が死んで体が塵に戻るなら,そのような永遠の生命を楽しむことができません。というのは,その時神に戻る霊は,すべての特質を持つ死ぬべき体の目に見えない不滅の対当物ではないからです。人間の霊についてのそのような考えは,要するに『死後の生存』という教えを支持しようとするため,霊媒術者たちがつくり出した勝手な理論に過ぎません。彼らの『来世』は神の正義の新しい世界ではありません。
人間の魂は不滅ですか?
48 霊媒術者の主張のために,聖書は果して人間の魂不滅を教えているか,いないかということを,なぜはつきり確めねばなりませんか?
48 人間の魂が生きるためには,(1)人間の体と(2)神からの目に見えない活動力すなわち霊が,その体に組み合わされて体の呼吸を始めさせ,生かせねばなりません。このようにして生命を持つ人間は人間の魂です。(創世 2:7)人間の魂は,地の大気を呼吸して,地上の食物を食べねばならず,また人間の魂は引き裂かれたり,牢獄の中に入れられたり足械をつけられたり,剣で切られたり,坑の中に落されたりすることから見るとき,(詩 105:18。エレミヤ 4:10。ルカ 3:35)人間の魂は決して死なない不滅のものですか? 霊媒術は主として人間の霊不滅の信仰に基いています。『死後の生存』という霊媒術の教えは,魂の不滅に基いています。そして,聖書の中には,死後の生存ということや生者と死者のあいだの連絡ということが多く書かれていると,言います。霊媒術がそのように主張していることから,聖書は人間の魂不滅を教えていて,死後の生存を可能にしているか?という特別な質問を調べなければなりません。
49-53 不滅という言葉は,聖書に幾回出ていますか? それぞれの意味は何ですか?
49 聖書の中には,もちろん不滅という言葉が書かれています。しかし,人間の魂は不滅を持つていると聖書は述べていますか? 聖書を見てごらんなさい。『不滅』という言葉は只の一度もヘブル語聖書中に出ていないのに驚かれることでしよう。そして,キリスト教ギリシヤ語聖書の中では,『不滅』と訳されているギリシヤ語の言葉アタナシアは,僅か3回しか出ていません。いまその3回を検討してみましよう。
50 『朽ちるものは朽ちぬものをつけ,死ぬものは不滅をつけねばならない。しかし,朽ちるものが朽ちぬものをつけ,死ぬものが不滅をつけるとき,聖書(イザヤ 25:8)に書かれている言葉「死は永遠に呑まれる」は成就するであろう。』(コリント前 15:53,54,新世)ここで使徒パウロは,クリスチャンがうける死からの復活を論じています。そして,忠実なクリスチャンたちが死から,どのように甦り,またどんな体を持つかを示しています。彼らはもはや不滅性を持つているとか,不朽性を持つているなどと,パウロは言つていません。彼はロマ書 2章6,7節で,神は『その業に従つて各人に報いる。耐え忍んで善き業を行い,栄光と誉と不朽性を求める者たちには,永遠の生命を与える。』(新世)とクリスチャンたちに告げています。不朽性と不滅性は,将来に与えられる報いであつて,忠実なクリスチャン達が死人から復活されるときに与えられるのです。この復活および不朽性と不滅性をつけることは,死んだときになされるのではなく,イエス・キリストの再臨のときになされ,そのときイエスは御自分の忠実な弟子たちを死からよみがえします。『丁度アダムにいる者はみな死んでいるように,キリストにいるものはみな生かされるであろう。しかし,めいめいはそれぞれの順序がある。キリストは最初の実であり,後にキリストの臨在されるあいだ,彼に従う者たちとなる。死人の復活もそれと同じである。それは朽ちるものに播かれて,朽ちぬものによみがえされる。……私たちは変化をうけるであろう。』― コリント前 15:22,23,42,52,新世。
51 人間の魂について何も言われていないのに注意しなさい。前に二度出ているアタナシアつまり不滅という言葉は,人間の魂が生まれつき不滅であるということを教えているどころか,それとは全然逆のことを教えています。
52 残つている第3番目のアタナシアつまり不滅という言葉は,次の引用聖句の中に述べられています。『私たちの主イエス・キリストの現われる時まで,責むべきところのない正しい仕方でいましめを守りなさい。幸にしてただ一人の力ある方は,その定めの時になつて表われる。キリストは王の王であり,主の主であられる。彼はただひとり不滅を持つ。』(テモテ前 6:14-16,新世)ここで,使徒パウロはテモテに次のことを語つています。つまり,王や主として支配する地上の主権者で,不滅を持つていると主張しても,彼らの中のひとりとして不滅を持つている者はいない。しかし,『幸にしてただ一人の力ある方』イエス・キリスト,すなわち王の王,主の主だけが,死から復活された後に不滅を持つている,というのです。異教のバビロン人や,エジプト人や,ギリシヤ人や,ローマ人やヒンヅー人は,生まれつき不滅を持ち,かつ人間の魂は不朽であるという異教の教理を教えたのです。不滅にして「不朽の神」は,イエス・キリストを死人からよみがえして,彼に初めて不滅と不朽を与えました。このイエス・キリストはまた,神の御国についての良いたよりを伝道することにより,不滅と不朽に関する真理を始めて明らかにした方です。『さて,それは私たちの救い主キリスト・イエスの現われることにより明白にされた。彼は死をなくし,かつ良いたよりを通して生命と不朽を明らかにされた。』― テモテ後 1:10とテモテ前 1:17,新世。
53 この第3番目のアタナシア即ち不滅の使い方から,地的権力者にせよ,独裁者にせよ,王にせよ,主にせよ,あらゆる人間は生まれつき人間の不滅の魂を持つているなどということが,全く否定されています。ローマ・カトリック訳聖書の出所不明な経外書の『旧約聖書』の中に,『不滅』そして『不朽』という言葉はたしかに出ています。しかし,これらのところからも,人間の魂が生まれつき不滅であるということを示してもいなければ証明もしていません。例えば,伝道之書 17章29節(ドーエイ訳)は,明白に『これらのものは,すべて人の中にあらず。人の子は不滅にはあらず。』と述べています。また,伝道之書 6章16節と智恵之書 1:15; 2:23; 3:1,4; 4:1; 6:19,20; 8:13,17; 15:1,3を見てごらんなさい。これらの聖句は,みな不滅が将来に得られる褒賞であり,生まれながらに持つているものではないと,示しています。
人間の魂は死にますか?
54 聖書の新世訳は,人間の魂が死ぬということを,どの程度に示していますか?
54 人間の魂は,生まれながらに不滅であるという教えは,聖書の中に述べられていません。それでは,人間の魂は滅びるべきもので,死ぬものと,聖書は言うべきであります。聖書はそう述べていますか? たしかにそう述べています。しかも,子供でも理解できるような分り易い言葉で述べられています。霊媒術者や,ローマカトリック信者や,キリスト教国の他の宗教は,人間の魂が死なないもので不滅のものであると示す聖句をひとつも提出できません。それで,人間の魂が死ぬべきものと証する聖句をひとつでも提出するなら,全く十分なはずです。しかし,そのことを証する多くの聖句を提出することができます。創世記 1章20節の後にあるヘブル語ネペシとギリシヤ語プスケをいつも『魂』と翻訳している聖書の新世訳は,他のいかなる翻訳にも勝つて,人間の魂が死ぬという聖書の教えを良く示しています。
55-57 最初の人間の魂の死に関する聖書の教えの4つの基礎的原理とは何ですか?
55 エデンの最初の庭,つまりパラダイスで,完全な人間の魂であるアダムとエバは死ぬ必要はなかつたのです。この二人の完全な人間は,地上のパラダイスで永遠に生き得たのです。どのように? ヱホバがエデンの園で供給された自然の食物を食べることによつて,その人間としての有機体を保ち,かつ見えないところからヱホバが彼らに語つて供給される霊的な食物を従順に食べることにより,その心と気持を養うことによるのです。しかし,神は彼らに警告を与えられ,たとえ彼らが神の御準備を用いて,地上で永遠に生き得る能力を持つていようとも,しかし,彼らは死ぬべきもの,死に得るものと語られました。創世記 2章は,最初の人間の魂であるアダムをつくられた神の創造について述べてから,さらにこう述べています。それからヱホバ神は,その人間を取つてエデンの園に定住させ,人間に園を耕させ管理させた。ヱホバ神は,また次の命令を人間に与えられた。『園にあるどの木からも,満足するまで食べてもよい。しかし,善と悪を知る木については,その木の実を食べてはならない。なぜならば,その木の実を食べる日にお前は必らず死ぬであろう。』(創世 2:15-17,新世)もし魂であるアダムが神の命令に従わないなら,魂であるアダムは死ぬでしよう。もし魂であるアダムが神の命令に従つて,この禁ぜられた木をのぞき,エデンの園にあるすべての木の実を食べるなら,魂であるアダムは従順であるかぎり生き続けることができます。人間の魂は,永遠に生き続ける機会を持ちました。といつて,それは霊の世界の中ではなく,エデンの地的パラダイスの中で,人間としての完全さを保ちつつ生き続けることです。
56 アダムが神の命令に背いて,妻の手から禁ぜられた木の実をうけとり,そして食べた後に,神はアダムに死の宣告を与えて,こう言われました。『地に戻るまで,顔に汗を流してお前は食物を食べるであろう。なぜならば,お前は地から取られたからである。お前は塵であるから,塵に戻るであろう。』(創世 3:17-19,新世)神が次のように言われなかつた事に注意して下さい。「お前の体は塵に戻るが,お前の霊は体から自由に解放されて,私の住む見えざる世界で,意識を保ちつつ生き続けるであろう。なぜなら,お前の霊は不滅であり,私には亡すことができないからである。」神はそのようには言われずこう言われました。「お前(お前の体ではなく,魂であるお前)は,土から取られたのであるから土に戻るであろう。お前(魂)は塵であり,お前(死の宣告下にある魂)は塵に戻るであろう。」
57 生ける魂であるアダムは,活気づけられた塵,又は生気づけられ,かつ生命を与えられて生命力を持つ塵の形であつて,それが人間の形につくられたものに過ぎません。他の陸上の動物とまつたく同じものです。死の宣告を実施するため,神はエデンの園から人間を追放しました。なぜ?『ヱホバ神は言われた。「人間は私たちの一人のようになつて,善と悪を知るようになつた。それで,人間が手を出して生命の木の実を取つて食べ,永遠に生きることのないようにするため ―」そうヱホバ神は言われて,人間をエデンの園から追い出して地を開墾せしめられた。人間は地から取り出された(いまは,その地に戻らねばならない)ものである。このようにして,神は人間を追い出され,エデンの園の東にケルビムと剣の燃える刃とを置かれた。その燃える刃は,生命の木への道を守るために絶えず自転していた。』(創世 3:22-24,新世)神は生命の木からアダムを遠ざけました。それは,アダムの体だけが死んでも,その霊は霊の世界で生き続けて霊の世界で不滅の旅を始め,前よりも多くのことを知つて,より一層自由になり,かくして創造者に背いて死ぬことにより,実際の益を受けるなどということのないためです。神はエデンの園からアダムを追放して,生命の木から遠ざけましたが,それは人間の魂であるアダムが,どんな場所であろうとも生きることができず,その存在を止めて,丁度獣と同じく『必らず死ぬ』ためだつたのです。
58 アダムが930歳で死んだということは,どのように説明されますか?
58 人間の魂であるアダムは,人間の完全さを失つたものの,エデンのパラダイスの外にある呪われた地で,幾世紀ものあいだ生き続けました。『かく,アダムは息子,娘の父親になつた。アダムの齢は,九百三十年で,そして死んだ。』(創世 5:4,5,新世)アダムが罪を犯して,神が彼を罪に定めてエデンのパラダイスから追放したその日に,アダムは神の目から見ると死んでいる者であり,罪の中に死んでいる者でした。アダムは,不従順の父親になり,不従順の子どもを生じました。この理由のために,使徒パウロはクリスチャンたちにこう告げたのです。『あなた方は過ちと罪の中に死んでいた。その過ちと罪の中にあなた方はかつてこの世の組織制度にしたがつて歩み,また空中の権威を持つ支配者,すなわち不従順の子らにいま働きかけている霊者にしたがつて歩んだのである。』(エペソ 2:1,2,5,新世)その見方から見ると,アダムと同じくエバも『生きてはいても,死んでいるのである。』(テモテ前 5:6,新世)しかし,アダムとエバが罪の中に死んでいるということだけでは,全く死んだということにはなりません。彼らが呼吸するのを止めて,その霊つまり生命を生ぜしめる活動力が,与え主である神に戻つた時,最初の人間の魂であるアダムとエバは死にました。アダムは,千年より70年少い年数だけ生きました。もし,使徒ペテロの『ヱホバにとつて一日は千年のようであり,千年は一日のようである。』(ペテロ後 3:8,新世)という時の計算法を使うならば,アダムとエバはその禁ぜられた木の実を食べた『日に』確かに死にました。アダムは,人類存在の最初の千年の日に死にました。(次号につづく)
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ヱホバの証者間の神権制度ものみの塔 1955 | 11月15日
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ヱホバの証者間の神権制度
1919年以降の20年間,会衆制度の神権組織を学ぶため,証者たちは訓練され教育が与えられてきました。この間,ある『選出長老』は,この新しく神から与えられた指導権に,こと更に反対する気運を示してきました。ヱホバの聖霊又は活動力が制度の上に働いて,統治上の変化をもたらし,神権的な,神の指導し給う新世社会が形成されつつあつたことをそれらの人々は悟ることができませんでした。1922年以後のいずれの年度報告も制度という課題に言及し御国伝道者のこの問題に対する認識を深めさせました。また制度にいどんでいる最大の敵はサタンであることも,証者たちは悟つてきました。次に1932年8月15日及び9月1日号の『ものみの塔』は,連続して,『ヱホバの制度』を説明して居ます。そのうちで,会衆の票により選出された『長老』又は『執事』は聖書的に存在しないものであると指摘されました。そして正しい答は,神の目から霊的に円熟したものが,年上の者(長老)であって,それらの兄弟たちが監督(エピスコポス)として,又は奉仕の僕(ディアコノイ)として行動すべきことが説明されました。全世界の霊的に目ざめた会衆から,これら役員を会衆内から取除くとの決議が協会の本部に送られてきました。それら会衆は,協会により任命された奉仕指導者に信頼の念をただちに披瀝しました。そして『選出長老』に代るものとして票により,会の司会者と10名を越えない奉仕委員を選択するようになつたのです。これらの僕たちは,協会任命の指導者の援助にあたります。この伸びつづけていた野外奉仕に参加を拒絶した(そして彼らの活動範囲をたんに地方の会衆伝道にだけとどめていた)沢山の『選出長老』は,このときに,証者の列から脱落して行きました。
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