-
ニューファンドランド1977 エホバの証人の年鑑
-
-
にカーボニアで,1968年にショール・ハーバーでそれぞれ会衆が設立されることになりました。開拓者が勤勉に努力した結果,1969年にはスプリングデールとベイ・ベルテに他の新しい会衆が生まれました。以来ニューファンドランドの業の記録は神権的な進歩を物語っています。
ニューファンドランドにおけるエホバの民の記録を振り返ると,わたしたちの心はエホバに対する感謝であふれます。1916年に最初の会衆がマクミラン兄弟によって組織されてから1974年に至るまで,記録によれば,すでに360万冊を上回る文書が町や村や外港など同島全土で配布されました。また,その業に300万時間以上が費やされ,関心を抱く人々を養うために100万を超す再訪問が行なわれました。その結果はといえば,過去25年間だけで1,180名を上回る人々は神に献身し,水のバプテスマによってそれを象徴しました。1975年の5月には最高数である1,131名の伝道者が活動を報告しました。しかし,さらに多くの人が神の組織に引き寄せられています。なぜなら,1975年3月27日の主の晩さん式に2,041人が出席したからです。
この地の孤立した謙そんな人々に真理がもたらされ,かわってその人々が他の人々に伝道したことにはエホバのみ手の働きがあったのでしょう。(使徒 11:19-21と比較してください)良いたよりは遠く離れた場所にも広められました。王国をふれ告げるという偉大なわざにニューファンドランドの兄弟たちを用いることをわたしたちの神が今なお喜びとしておられることを知るのは励みとなります。他方,兄弟たちはそうしたすばらしい好意を受けていることを幸福に思っています。
-
-
第1部 ― 南アフリカおよび近隣の区域1977 エホバの証人の年鑑
-
-
第1部 ― 南アフリカおよび近隣の区域
雑踏している都会と未開で住民のまばらな奥地,近代的な住宅とアフリカ式の粗末なわらぶき小屋,こうした興味深い対照の見られる国へわたしたちといっしょにいらっしゃいませんか。いろいろな人種の人々の間を歩き,彼らが話すことばを聞いてください。この国の人口2,600万のうち数百万人は英語かアフリカーンス語(オランダ語の古語に起源を持つ)を話し,残りの人々はホサ語やズールー語のような言語を日常語としています。
これが南アフリカです。国土面積は約122万2,480平方㌔で,興味深い人々が住み,その多くは愛すべき人々です。その中には霊的に良い事柄を切望する人が少なくなく,彼らの願いはエホバのクリスチャン証人がふれ告げる聖書の真理によって満たされています。
まず歴史を簡単にお話しすると,18世紀と19世紀の2世紀間,南アフリカは激しい戦争の舞台でした。中央アフリカから南下する黒人の“潮流”とケープ州から北上する白人の“潮流”がぶつかって血みどろの戦争をしたのです。最もひどかったのは,オランダ系の農民であるブール人と英国人との間で1899年から1902年にかけて戦われたブール戦争でした。その結果,ナタール州,オレンジ自由州,トランスヴァール州およびケープ州の4植民地は英国の支配下に入りました。1910年にその4植民地はひとつの国になり,50年後の1961年にはそれが,白人の過半数票を得て南アフリカ共和国となりました。黒人は,彼らの“故郷”すなわちアフリカ人の各部族に指定されている広大な地域の一部以外の土地で投票権を持っていません。
短い旅行
では南アフリカをかけ足で旅行してみましょう。アフリカ大陸の南端に近いケープタウンから始めます。ケープタウンは立法上の都であり,この国最古の都市です。北東約800㌔余りの地点には,オレンジ自由州の州都で司法上の都と考えられているブルームフォンテーンがあります。さらに北東にあるプレトリアはトランスヴァールの州都で,南アフリカ共和国の行政上の都です。
南アフリカの地形で主な特徴となっているのは内陸台地です。土地は東部沿岸の平野から急に隆起しており,標高約1,500㍍から3,300㍍の大山脈をいくつか形成しています。台地は西に向かって次第になだらかになっています。かつてその大部分はインパラ,しま馬,とびれいよう,その他の美しい動物の大群がたくさんいるゆるやかな起伏の草原でした。今日では,内陸のかなりの部分が農地であり,野生動物のほとんどは,世界的に知られるクリューガー国立公園などの特別保留地にしかいません。しかし内陸北部は土地がさらに乾燥していてカラハリ砂漠になっています。北東部にはかん木の茂るブッシュフェルトがあります。
オレンジ自由州のキンバリーはダイアモンド採鉱の中心地として世界的に有名です。ケープ州には,一連の鉱工業の町を総称した“鉱脈<リーフ>”の“女王”として知られる,同国最大の都市ヨハネスバークがあります。リーフは1886年にヨハネスバークで金が発見されたことによって存在するようになりました。同市から南東に空路で約480㌔ばかり行ったインド洋岸にダーバンがあります。そこでは色彩豊かなサリーをまとったインド婦人をたくさん見かけます。
南アフリカには少なくとも9つの部族に分かれる1,250万人のアフリカ人が住んでいます。最大の部族はホサ族とズールー族で,それぞれ300万人を上回ります。次はバストー族,次いでツワナ族,ツォンガ族,スワジー族,ヌデベレ族,ヴェンダ族その他です。アフリカ人の“故郷”すなわち各部族に指定された広い地域には,アフリカの人口の半数余りが住んでいるにすぎません。そうした“故郷”や特別区の生活様式は普通きわめて原始的で,ほとんどの人は泥を主材とした壁とわらぶき屋根の小屋で生活しています。残りの人々は,ソウェトのようなアフリカ人の町で,地方自治体によって建てられたコンクリートとレンガの小さな家に住んでいます。アフリカ人の町はヨーロッパ人の市や町から数㌔離れたところにあります。政府は,人種集団をそれぞれ別個に独立して発展させるという政策を取っています。南アフリカはそのアパルトヘイトつまり人種差別政策のために厳しい批判を受けてきました。
アフリカ人は,キリスト教世界の主要な宗派のほかに彼ら独自の宗教を持っています。キリスト教世界の主流をなす教理を信仰する人々がいるばかりか,アフリカ人の説教者多数がそれぞれ独自の宗教を始めました。その結果南アフリカには世界で最も多くの宗派,少なくとも2,000の宗派があります。キリスト教世界の教会のひとつに帰依していると唱えながら,たいていのアフリカ人は何らかの形で先祖崇拝をし,死者を恐れて生活しています。そのことは“故郷”において見られるだけではありません。最新型の自動車に乗る多くの近代的なアフリカ人が死んだ先祖の霊を慰めるために時折やぎを犠牲にささげます。
世紀の変わり目にさかのぼる
20世紀になったばかりのころ,南アフリカは今よりも人口が少なく,のんびりしていて生活もずっと単純でした。国はブール戦争からちょうど回復しつつあり,この魅惑的な畑に良いたよりが届くのに機は熟していました。
1902年のこと,オランダ改革派教会のある牧師が,任命地であるトランスヴァール州のクラークスドープにオランダから派遣されました。彼は古本の宗教書を一箱携えてきたのですが,その中に「聖書研究」と題する本,英語の「シオンのものみの塔」,「聖書は地獄についてなんと教えているか」と題する小冊子が含まれていました。フランス・エバーソーンとストッフェル・フーリエはクラークスドープでその牧師に会いました。ふたりは彼の蔵書を見せてもらって,前述の出版物にたいへん興味を持ち,蔵書から持って行ってもよいとの許しを得ました。ふたりはその出版物に書いてある真理に深い感銘を受け,新たに会衆を組織することにしました。彼らが「ボルヒード・ヴァン・クリストス」(キリストの満ち満ちたさま)と呼んだその会衆は南アフリカにおける王国の音信の一番最初の足がかりでした。
そのふたりは集会を開いたり,戸別に訪問して良いたよりを広めたりし始めました。1903年にフランス・エバーソーンはものみの塔聖書冊子協会の初代会長C・T・ラッセルに手紙を書き,「巡礼者」すなわち協会の特別な代表者を南アフリカに派遣してほしいと頼みました。ラッセル兄弟は,今は事情が許さないが,できるだけ早く派遣しようと返事をしました。
1906年にスコットランドのグラスゴーからダーバンに移民したふたりの姉妹は良いたよりを非常に熱心に広めました。まもなく,他の人々がその町で真理に関心を抱き,1906年の末までには南アフリカに「シオンのものみの塔」の予約購読者が40名いました。
1907年にはジョセフ・ブースというある「尊師」が南アフリカにおける王国活動の舞台に登場します。彼は英国に生まれ,29歳の時にニュージーランドに移って牧羊業を営み,その後オーストラリアで商売を始めました。ブースはバプテスト教会に入り,しはらくしてアフリカで宣教師になること
-