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「なにごとでも人は自分がまいているものを刈り取るようになる」ものみの塔 1968 | 12月1日
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「なにごとでも人は自分がまいているものを刈り取るようになる」
「考え違いをしてはいけない。神はあなどるべきかたではない。なにごとでも人は自分がまいているものを刈り取るようになるからであって,自分の肉のためにまいている人は,自分の肉から腐敗を刈り取るが,霊のためにまいている人は,霊から永遠の命を刈り取るようになるからである」― ガラテヤ 6:7,8,新世訳。
1,2 (イ)ガラテヤ書 6章7節に述べられている原則は,文字どおりの種まきにかんして,どうして真実と言えますか。(ロ)パウロはこの原則をクリスチャンにどうあてはめていますか。
「なにごとでも人は自分がまいているものを刈り取るようになる」。文字どおりの種まきや刈り入れに関するかぎり,農業を営む人はこの原則の正しさをなんとよく知っているのでしょう! 畑にからす麦をまき終え,そして芽が出はじめてから,小麦をまけば良かったと考え直しても,もはやどうすることもできません。耕作者がどんなに切望したところで,別の穀物に変えることはできません。自分がまいたものを刈り取らねばならないのです。そこに働いているのは,自然界の不変の法則です。それは生きとし生けるものすべての創造者に由来する法則です。霊感の下にしるされた創造の記録に述べられているとおりです。「神言たまひけるは地は青草とたねを生ずる草蔬とその類に従ひ果を結びみづから核をもつところの果を結ぶ樹を地にいだすべしと」。(創世 1:11)自然界のこの法則の働くところ,「神はあなどるべきかたではない。なにごとでも人は自分がまいているものを刈り取るようになる」のです。―ガラテヤ 6:7,新世訳。
2 自然界のこの法則の必然性は,ガラテヤ人への手紙のこの章の8節にある。パウロのことばの力強さを如実に物語っています。「自分の肉のためにまいている人は,自分の肉から腐敗を刈り取るが,霊のためにまいている人は,霊から永遠の命を刈り取るようになるからである」。そうです,生活という土壌にまかれたものは,『その類に従って』,つまりわたしたちのまく種のよしあし,霊あるいは肉のためにまくかにしたがって,実を結ばざるを得ないのです。この点でも「神は,あなどるべきかたではない」ゆえ,自分は今どのようにまいているかを調べねばなりません。
3 個人個人の生活にかんしては,わたしたちのまく種子および,まく動機についてどんなことが言えますか。
3 個人個人の生活にかんして種子そのものと同様に大切なのは,それをまく目的です。良い「種子」があっても,まちがった動機,つまり「[その]肉のために」まくことがあり得るのです。そのために種子はいたみ,腐った実が生じます。健康,体力,時間,話したり聞いたりする能力,読書力,その他の生来の能力,他の人と交わる機会や他の人々に対する責任など,そのすべては善悪二様に用いられます。利己的な肉の満足あるいは自分と他の人々の霊的な生活を高めることのいずれにも供しえます。
4 「肉のためにま(く)」ことの一つは何ですか。
4 肉のめたにまけば腐敗を刈り取るのは事実ですから,そのような仕方でまくことは,ぜひ避けたいと望まれるでしょう。それにしても,どうして『肉のためにまく』のでしょうか。そのようなまきかたにまさしく類する幾つもの事柄がすぐ頭に浮かんできます。中でもかなり大きな事柄は物質の持ち物の追求それ自体を目的とする生き方です。あなたは自分の持っている物で満足していますか。他人のそれをねたましく,あるいはうらやましく思いますか。人に負けまいとしてみえを張ることに心を悩ましていますか。もしそうであれば,自分のまいている仕方を正直に吟味しなければなりません。もしかすると,肉のためにまいているかもしれません。
5 物質的なものに関してでさえ,どうすれば霊のためにまくことができますか。
5 物質的なものをある程度顧みることが誤っているというのではありません。家族のある人は,生活上の必要物,妻子のための適当な衣食住を備えることも考慮しなければなりません。このような備えを怠るクリスチャンは,「信仰をすてたる者にて不信者よりもさらに悪しきなり」と述べられています。(テモテ前 5:8)しかしクリスチャンは,世の人々が概してそうであるように,物質上の必要の充足を人生の目標として「せつに求むる」ことに没頭したいとは思いません。(マタイ 6:32)イエスは命じられました。「まず神の国と神の義とを求めよ,さらばすべてこれらのものは汝らに加へらるべし」。(マタイ 6:33)それで大切なのは,物質的なものを人生の目標にして「肉のためにま(く)」のではなく,まことの神エホバの賛美と奉仕を増し加える手段として物質の持ち物を用い,それらのものをそのあるべきところにいつもとどめておくことです。このようにして,わたしたちは自分の霊的な生活を益するようにまき,かつ,神の聖霊もしくは活動力の働きとその真理のみことばとによって明らかにされる偉大な霊者エホバの御心を考慮して生活してゆくことになるでしょう。
6 イエスのあとを追ったユダヤ人の多くは,彼の宣教にかんするまちがった見方をどのように明示しましたか。
6 しばらくの間イエスに従ったユダヤ人の多くは,霊的な事柄のためにではなく,「肉のために」従っていたことを自ら示しました。あるときのこと一群のユダヤ人がイエスのあとを追って,ガリラヤの海の東岸からカペナウムに行き,ついにイエスに追いついたところ,彼は人々にこう告げました。「まことに誠に汝らに告ぐ,汝らが我を尋ぬるは,しるしを見しゆえならで,パンを食ひてあきたるゆえなり。朽つる糧のためならで永遠の生命にまで至る糧のために働け」。(ヨハネ 6:26,27)奇跡的に備えられた5000人分のふんだんな食物にあずかったばかりだったので,人々は,イエスに従えば容易に飢えをしのげると利己的に考えたのです。そして,自分たちの目撃した奇跡の意義を少しも考えませんでした。実際のところ,それはイエスが待望のメシヤ,「活けるパン」そのものであることを証明する奇跡でした。―ヨハネ 6:41-48。
7 物質の富はどんな機会と危険をもたらしますか。どんな結果をもたらし得ますか。
7 物質の富を持つことによって,ある程度の喜びを味えるのは真実です。事実,裕福なクリスチャンは他の人々のためにそして特に神の国の事柄を推し進めるのに多大の善を行ない得る恵まれた立場にあり,そうすることから純粋の喜びと満足とが得られます。ところが,富を持つと往々にして利己的な快楽の追求,つまり『肉のためにまく』道に走ります。金があるとそれまでは手の届かなかった世の快楽を味う機会が開かれ,そしてその開かれているあいだに快楽に身をゆだねようとする強い誘惑に直面します。「財貨の惑」にひとたびとりつかれようものなら,真理に対する愛は押えつけられ,霊的な事柄にかんしてはたちまち「実らぬもの」となってしまいます。(マタイ 13:22。また1950年版,新世訳,脚注参照)「富まんと欲する者は,誘惑とわな また人を滅亡と沈淪に溺すおろかにして害あるさまざまの慾に陥るなり。それ金を愛するはもろもろの悪しき事の根なり,ある人々これを慕ひて信仰より迷ひ,さまざまの痛をもて自ら己を刺しとほせり」とあるとおりです。(テモテ前 6:9,10)ですから,この点で誤らないようにしてください。金に対する愛ゆえに肉のためにまく人は腐敗,そうです,滅びと破滅を刈り取らざるを得ません。いずれにしても,生活を律するこの法則にかんしては,「神はあなどるべきかたではない」からです。
まちがった性的欲求
8-10 (イ)まちがった性的欲求の種子はどのように心の中にまかれますか。(ロ)この種の欲求は,もし押えないと,必然的にどんな事態を引き起こしますか。
8 まちがった性的欲求をいだくのも,同様に「肉のためにま(く)」ことであり,もし押えないと,ついには必ず腐敗の実を結びます。使徒パウロはガラテヤ書 5章19節で,まちがった性的欲求の結ぶ実を,「肉の行為」の筆頭にあげています。それはつまり「淫行,けがれ,好色」です。
9 この点に関連して,畑に種子をまく農夫のたとえを思い返してみましょう。農夫が実際にまく種子はきわめて小粒で,土に落ちると,ほとんど目にもとまりません。まちがった性的欲求についても同じことが言えます。その種子は小さくて,たとえまかれても,他の人はおろか自分自身すら,おそらくそれと気づかぬほどです。今日,わたしたちは,まちがった性的欲求を促す誘惑をあらゆる方向から受けていますが,10代の人々の場合とくにそう言えます。“恋愛”小説や特に挿し絵入りの安い雑誌などは,“真実の愛”の名の下に淫行や姦淫を美しい行為として描き出し,ヒロインを“不幸な結婚”から救い出す主人公あるいは同類の人物をたたえます。今日ゆがんだ道徳観をいだく大多数の観客を喜ばせる扇情的な場面の一つもない映画はまずヒットしません。学校に通う子供たち,特に高校生は,級友のひわいな話を聞かされる羽目にあいます。それはたいてい性をもてあそび,文字どおりのあるいは想像上の異性との“楽しみ”をこととする話なのです。
10 年若いクリスチャンであれば,つい気をゆるめて,そのような話も聞くだけなら害はないと言ったり,「一方の耳からはいっても,他方の耳からすぐ出てしまう」などと言ったりするかもしれません。しかし油断しないでください! 話は一方の耳からはいって他方の耳から出て行くにしても,心の中を通るのです。そのとき汚れた考えの小さな種子は心に根ざし,後日,まちがった性的欲求の芽を吹き出し得るのです。性を売り物にする本に時間を費やし,書かれているひわいな事柄に喜びを見いだすのを許したり,扇情的な絵を見たりすれば,まちがった性的欲求とともに不潔な考えをいだく結果になります。このようにして「肉のためにま(く)」なら,それがたとえ自分の心の中だけの秘かなものであっても,やがて「肉の行為」つまり「淫行,けがれ,好色」の実を生み出します。それで,「考え違いをしてはいけない。神はあなどるべきかたではない」としるされているのです。そのような仕方でまく人は,同様に「自分の肉から腐敗」を刈り取ることになるからです。
11 (イ)性の不品行は,さらに重大などんな腐敗を招きますか。(ロ)ゆえにどんな適切な助言が与えられていますか。
11 性の不品行をしたからといって,梅毒や淋病その他の性病という文字どおりの肉の腐敗に必ずしも陥るわけではないにしても,「肉のためにま(く)」人は,神からの命をことごとく失うという,より重大な腐敗を招きます。つまり永遠の命の希望を喪失します。パウロはローマの人々にあててこう書きました。「肉の念は死なり,霊の念は生命なり,平安なり。肉の念は神に逆らふ……肉に居る者は神をよろこばすことあたはざるなり」。(ロマ 8:6-8)そうです,真理の光の下に来た人は,「肉のためにま(く)」ことを過去のものとしなければなりません。そしてもはや暗黒の実ではなく,光の実を刈り取ることを願っています。同じ使徒は書きました。「汝らもとは闇なりしが,今は主にありて光となれり,光の子供のごとく歩め,光の結ぶ実はもろもろの善と正義とまことなり……さればつつしみてその歩むところに心せよ,かしこからぬ者のごとくせず,かしこき者のごとくし,また機会をうかがへ,そは時悪しければなり」― エペソ 5:8-16。
正しい動機
12 まちがった動機はクリスチャンの霊的な生活にどんな影響を及ぼしますか。
12 しかし,「肉のためにま(く)」仕方にはそれとはっきりわからないにもかかわらず,クリスチャンとしての霊的成長に重大な影響を与え,致命的とさえ言える事柄がほかにもあります。たとえ行なっていることそれ自体は正しく,かつ良い事柄でも,もし動機がまちがっており,自分の行動が自分の正当化や自画自賛のため,あるいは嫉妬の念や対抗意識に基づくものであれば,わたしたちの霊的な生活は腐敗を見ることになるでしょう。―ロマ 10:3。箴言 14:30。
13 律法に導かれたにもかかわらず,ユダヤ人の大多数はなぜキリストを受け入れなかったのですか。
13 イスラエル国民を腐敗させたのはまさにこの態度でした。エホバ神は仲介者モーセを通してその国民に一連の法律つまり“律法”を与えられました。パウロはガラテヤの人々にあてたその書簡の中で,律法は「罪のために加へ給ひしもの」と述べています。またユダヤ人は罪人であって,文字どおり罪を取り除き,そして死の宣告下から解放し得る犠牲の必要を彼らに思い起こさせるためのものだったと説明しています。ユダヤ人はたしかに「律法の下に守られ…閉じこめられ」ており,その結果,「のちに顕れんとする信仰の時」を待ち望ませるはずでした。こうして律法は彼らを「キリストに導く守役」になるはずでした。(ガラテヤ 3:19,23,24)しかしユダヤ人は国民全体としてはそのように見なしませんでした。律法の多くの規定は守りましたが律法が導いていたその目標には到達しなかったのです。「イスラエルは義の律法を追求めたれど,その律法に到らざりき。何のゆゑか,かれらは信仰によらず,行為によりて追求めたるゆゑなり」とあるとおりです。ユダヤ人は,「肉において美しき外観をなさんと」求め,他の人々の「肉につきて誇らんがため」に,人に割礼を受けさせ,律法を守らせようと望みました。―ロマ 9:31,32。ガラテヤ 6:12,13。
14,15 (イ)イエスは,パリサイ人が自らを義とする態度をどのように説明しましたか。(ロ)今日でもクリスチャンは,自らを義とするこの同じわなにどのように陥ることがありますか。
14 イエスは当時のユダヤ教の指導者にこの精神のあることを見てとり,たとえを用いて次のように語りました。「二人のもの祈らんとて宮にのぼる,一人はパリサイ人,ひとりは取税人なり。パリサイ人,たちて心のうちにかく祈る『神よ,我はほかの人の,強奪・不義・姦淫するがごとき者ならず,またこの取税人のごとくならぬを感謝す。我は一週のうちに二度断食し,すべて得るものの十分の一をささぐ』しかるに取税人ははるかに立ちて,目を天に向くることだにせず,胸を打ちて言ふ『神よ,罪人なる我をあはれみたまへ』われ汝らに告ぐ,この人,かの人よりも義とせられて,己が家に下りゆけり。おほよそ己を高うする者は卑うせられ,己を卑うする者は高うせらるるなり」― ルカ 18:9-14。
15 クリスチャンは,今日モーセを通してイスラエル人に与えられた律法の下にありませんが,やはり不完全で罪の下にあるため,自らを義とする同じわなに陥り,肉の働きに基づき「人を偏りみ(て)」,「信仰によらず,行為に」よって義を追い求める場合もあり得ます。(ヤコブ 3:17。ロマ 9:32)ゆえに,神の御前で享受し得るいかなる義の立場も,それは御子イエスの贖いの犠牲に基づいて神の過分の恵みによってのみ与えられたものであることを決して忘れてはなりません。
16 エホバの証人は,宣教において成し遂げたわざの記録をなぜ保つのですか。宣教において目標を定めることには,どんな目的がありますか。
16 エホバの証人は忙しい人々です。そして「主のわざにおいて常にたくさんのなすべきわざを持ち」,また,その奉仕の動機を清く保ち,愛に基づくものとするかぎり,自分たちの「労苦が主にあってむだでないことを」確信しています。(コリント前 15:58,新世訳)また,「神はかたよることをせず,いづれの国の人にても神を敬ひて義をおこなふ者を容れ給ふ」ことを知って,神の国の福音を宣明するすぐれたわざに自分たちとともにあずかれるよう,あらゆる国の人々を招いています。(使行 10:34,35)そして,この御国のわざの進歩に深い関心をいだいているので,その活動に関する記録を保ち,伝道に費やされた時間および得られた結果を記録しています。この記録は,わざの進歩を指摘して励ましを与えるのに役だつほか,会衆が改善を必要としている点をすぐ見分け,宣教をいっそう効果的に行なうにはどうすべきかを知るのに役だつのです。それはまた,新しい奉仕者や宣教で思うように進歩できない人々に個人的な愛の援助を差し伸べるための基準ともなります。会衆全体としての進歩を考慮するためのある程度の基準を設け,平衡のとれた宣教を励ます一つの方法として,幾つかの平均が目標として提案されています。こうして,人々を再び訪問し関心のある人との家庭聖書研究を司会することはもとより,戸別訪問のわざによって,区域内で伝道が定期的に行なわれるように配慮されています。
17 仲間のクリスチャンの忠実さを判断する基準として何を用いてはなりませんか。なぜですか。
17 しかしクリスチャン個人の忠実さの度合いは,提案されている幾つかの目標を基準にして計れるものでは決してありません。また宣教における個人個人のわざを目安にして,他のクリスチャンのそれと比べ,自らを正しとし,誇るようなことをすべきではありません。多年にわたって全時間伝道を行ない,あるいはエホバの組織内の重要な地位にあったからと言って,それは,決して人をかたより見る根拠にはなりません。また,前述のたとえをイエスから聞かされた,「己を義と信じ,他人を軽しむ者」に類する人になってもよいとの理由にもなりません。(ルカ 18:9)すべての人がクリスチャン円熟への成長過程で同じ段階にいるわけではありません。また,クリスチャンの活動において,何を行なえ,何を行なえないかは,ある程度まで個人の環境および生来の能力に依存しています。それは,貧しいやもめが宮でささげた寄付にかんするイエスのことばに示されているとおり,神のわざを財政的に支持する点で,どれほどのことを行なえるかが,それらの要因に依存しているのと同じです。―ルカ 21:1-4。
18 クリスチャンは自分の宣教に対してどんな正しい態度を持つべきですか。
18 クリスチャン奉仕者は決して数字の奴隷になってはなりません。ある時間の目標を達成する,ただそれだけのために伝道して時間を入れたり,所属している会衆あるいは,ものみの塔協会に良く思われようとして,ある種の奉仕の記録を高めたりしてはなりません。平衡のとれた宣教のために提案されている目標を達成し,あるいは越えようと努めるのは,奉仕者にとってほめるべきことですが,そのことだけを目的とするのはたしかに愚かな考えです。クリスチャン奉仕者は,自分の行なう奉仕活動,そうです,会衆と関連して行なう事柄すべてのために正しい動機をいつも自分の心と考えの中に保ってください。「汝ら何事をなすにも人に事ふるごとくせず,〔エホバ〕に事あるごとく心より行へ,汝らは〔エホバ〕より報として嗣業を受くることを知ればなり」― コロサイ 3:23,24,〔新世訳〕。
19,20 伝道活動を始める前に祈るのは,なぜ適切かつ有益なことですか。
19 献身したエホバの証人の各自が,宣教に携わる前にいつも少しの時間をさいて祈るのは,前述の理由からきわめて適切なことと言えます。エホバの証人は,群れの伝道活動に携わる前に集合するときには,いつでもその活動にエホバの祝福がそそがれるよう,祈りをささげます。一つには,こうして祈ることによって,伝道の目的を心にとどめられます。第一のそして最も大切な目的はエホバの偉大な御名と御目的を宣明することです。それからまた伝道は,救いと命の道を見いだせるように心の正しい人々を助ける機会となり,同時に現在の悪い事物の体制に臨もうとしているエホバのさばきの警告を伝える機会ともなっています。さらに,わたしたち各自が全能の神への忠誠と忠実を表明する機会も宣教を通して開かれます。
20 このような考えをいだいて伝道すれば,音信に対する人々の態度にはかかわりなく,いつも喜ばしい満足感を味わえます。確かにこれは霊のためにまいてゆくことです。
21 クリスチャンの宣教がある人にとって重荷となるのはなぜですか。そうなると,どんな危険が生じますか。
21 ことによると,あなたは多年クリスチャン宣教に携わってきたものの,今はそのような喜ばしい満足感を見失っている人の一人かもしれません。神の国の福音の伝道があまりにも重荷に感じられ,この恵まれたわざを一切やめようとするせとぎわに立っているか,あるいはすでにやめてしまったかもしれません。それはいったいどうしたことでしょうか。あなたはかつて神への奉仕に喜びを見いだしていませんでしたか。確かに熱意と熱心に満たされていました。クリスチャン奉仕の“霊”を持っているとあなたは言うことができました。あなたは霊のためにまくことを始めたのです。しかしその後,霊のためにまく習慣をいつしか変えてしまいました。もしかすると,物事を肉の見地から見る習慣に自ら陥り,目標や数字だけを考え,真の目標を見失って,わざそのもののためにだけ働いてはいませんか。神のことばで心を養って自分の信仰を保つ努力を怠ったのではないでしょうか。幸いにして霊のためにまきはじめたにもかかわらず,今や霊的な円熟の完成を見ずに終わる重大な危険に面しているかもしれません。それは肉のためにまいては決して得られません。―ガラテヤ 3:2,3。
22 (イ)霊のためにまくどんな励みがありますか。(ロ)神の霊に一致してまく人は今どんな実を刈り取れますか。
22 次の質問を誠実な気持ちで考慮してください。あなたはどのような仕方でまいていますか。肉のため,それとも霊のためにまいていますか。あなたの願いは疑いもなく,霊のためにまくことでしょう。さもなければ,この雑誌をお読みにならないはずです。このことを確信してください。「自分の肉のためにまいている人は,自分の肉から腐敗を刈り取る」のと全く同様に,「霊のためにまいている」人も確かに何かを刈り取ります。何を刈り取るのですか。永遠の命です!(ガラテヤ 6:8)それは,わたしたちのまいている仕方をよく吟味し,霊的な生活の永遠の福祉のために神の霊に一致してまく方法を学ぶ,なんという励みでしょう! 霊のためにまくとき,今でも豊かな実を刈り取ることができるのです。では,全力を尽くして努力しましょう。「御霊によりて歩め……〔今でも〕御霊の果は愛・よろこび・寛容・なさけ・善良・忠信・柔和・節制なり……もし我ら御霊によりて生きなば,御霊によりて歩むべし」― ガラテヤ 5:16,22-25。
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「よいわざを行なうことをやめないようにしよう」ものみの塔 1968 | 12月1日
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「よいわざを行なうことをやめないようにしよう」
1 パウロは神の羊の群れを牧するどんな種類の監督であることを自ら示しましたか。そのクリスチャン兄弟たちは,どんな態度を示しましたか。
使徒パウロは,神の羊の群れの忠実な監督また牧者として,他の人々を助けて,霊的な生活における進歩を図ることにいつも心を砕いていました。彼はローマのクリスチャンにこう書き送っています。「われ汝らを見んことを切に望むは,汝らの堅うせられんために霊の賜物を分け与へんとてなり」。(ロマ 1:11)他の人々に対してこのような愛のある暖い関心をいだいていたからこそ,この使徒の宣教はそれほどの成功を収め,かつ,彼とともに奉仕した人々に豊かな祝福をもたらし得たのです。仲間のクリスチャン兄弟たちは彼の愛に感謝しました。自分たちのこのような兄弟を失うのはあまりにもつらいことであり,エペソの「会衆の古い人々」は,みな「大いに歎き」,泣いたほどで,彼に対する愛の思いに動かされて,おのずと「パウロのくびを抱(い)て接吻し」ました。―使行 20:17,37,38。
2 パウロはエペソの会衆の古い人々にどんな訓戒のことばを述べましたか。
2 この感動的な出来事の起こる直前,パウロはエペソから来た古い人々を励まして,その霊的な世話にゆだねられている人のため同じような愛の心づかいを示すように勧めました。また,「霊のためにま(く)」ことを行なえるように,全力を尽くして会衆の成員を助けてほしいと願っていました。そしてパウロは真剣に彼らに告げました。「汝らみづから心せよ,またすべての群に心せよ,聖霊は汝らを群のなかに立てて監督となし,神の〔ご自分の御子の〕血をもて買ひたまひし〔会衆〕を牧せしめ給ふ」― 使行 20:28,〔新世訳〕。
3 今日,神の民の会衆はどんな種類の監督を必要としていますか。
3 たしかに今日のクリスチャン会衆内にはこの種の監督が必要です。それは,単に宣教に熱心な人,公の戸別伝道で率先し,感動的な講演を演壇で行なえ,また聖書の教えのすぐれた知識を明示するだけの人ではありません。そのような能力を備えているのは,確かにほめるべきことで,会衆にとっても“福音”の伝道に耳を傾ける他の人々にとっても大変有益です。しかし,前述の聖書のことばに示されているとおり,監督としてのパウロの心づかいは,すでに集められた群れに対するものでした。彼は群れの人々の霊的な成長,つまり霊の人として「キリストの満足れるほどに至(り)」「全き人」になることを心にかけていたのです。それで,囚人としてローマに到着したのち,そのような表現を用いてエペソの会衆に返事をしたためました。(エペソ 4:11-13)ですから,今日のクリスチャン監督およびその補佐たちがおもに心を配るのは,会衆内の各人を助けて霊的な成長を図ること,つまり「よいわざを行なうことを」やめないで,「霊のためにまい」て「霊から永遠の命を刈り取る」ように,各人を助けることです。―ガラテヤ 6:8,9,新世訳。
4 霊的な進歩を遂げられるように他の人を助ける際,ガラテヤ人あてに書かれたパウロのどんなことばを心にとめるのは大切なことですか。
4 福音の伝道に多くの時間を費やすように助けることは,確かに,霊のためにより多くまくように会衆の成員を助ける一つの方法です。しかしいつもそうであるとは言えません。実際には霊的な成長にとってよりいっそう肝要なある点が欠けているにもかかわらず,霊的な進歩を遂げていると見なされる場合すらあり得るのです。それで,霊的な成長にかんしては,個人個人のクリスチャンも監督も,ガラテヤの人々にあてたパウロの手紙の次のことばを心にとめるのは大切なことです。「というのは,もしある人が,取るに足りない者でありながら,自分を何か偉い者と考えているなら,その人は自分の心をあざむいているのである。しかしその人に自分のわざを吟味させなさい。そうすれば,自分自身については誇ることができても,他の人と比べては誇れないであろう。人はみな自分自身の荷を負うからである」― ガラテヤ 6:3-5,新世訳。
5 ガラテヤに住むユダヤ人の一部のクリスチャンは,考え方の面でどのように「自分の心をあざむいて」いましたか。
5 割礼を受けたことに大きな誇りをいだいていたガラテヤ地方諸会衆のユダヤ人のクリスチャンは,確かに「自分の心をあざむいて」いました。かつてキリスト・イエスおよび,罪と死からの救いの手だてであるその儀性に対する信仰を言い表わしたのですから,今や「神の過分の恵みを押しのけ」ていることになります。「もし義が律法によるのであれば,実際のところキリストが死なれたのはむだなことになる」とパウロが彼らに対してあからさまに書いたとおりです。そういう見方をした彼らは「無分別」であり,「悪い影響を」受けていたのです。それで使徒はそれらの人々とこう論じました。「霊で始めたのに,あなたがたは今は肉で全うしようとしているのか」。それは不可能です! 永遠の命を目ざす霊の人が,肉の見地に立って物事を見るのでは,完成を見ることはできません。彼らは取るに足りない者でありながら,自分を何か偉い者のように考えていました。肉を基準にして自分と他の者を比べ,割礼を無割礼にまさるものと見なしても,霊的な円熟を目ざす成長にかんしては,割礼を受けていない仲間のクリスチャン兄弟たちより進歩してはいませんでした。逆に,そのような態度ゆえに,彼らがキリストの名のために苦しみを受けたのは,実際のところむなしいことでした。霊のためにではなく,肉のためにまくのですから,永遠の命を刈り取ることはできません。―ガラテヤ 2:21; 3:1-4。
6,7 (イ)今日,あるクリスチャンは,「霊で」始めたのちに「肉で」全うしようとするわなに,どのように陥っていますか。(ロ)それで,他の人を助ける場合,何をすべきですか。
6 それで今日でも,苦しみや迫害に耐え,公の宣教で伝道し教える良いわざを行なっても,神の過分の恵みのかわりに,義の基準としてそのようなわざを頼りにすればそれらはことごとくむなしくなります。そのうえ,取るに足りない者でありながら,自分を何か偉い者と考え,自分の心をあざむくことにもなりかねません。このようなわなに陥って,自分の働きやその記録を他の人のそれと比較して喜び,自分の立場を過信している人もいます。実際のところそのような人はクリスチャンとして,霊的な仕方ではなくて「肉で全うしよう」と努めているのです。
7 ですから,もしわたしたちが,クリスチャンの円熟に達する道を歩めるように他の人を助ける立場にあるなら,その目標に正しい仕方で到達できるようにそれらの人を助けましょう。霊のためにまいて,霊の実を刈り取り,かつ,永遠の命を目ざして真の霊的な進歩を遂げられるように各人を助けましょう。どうすればこのことを行なえますか。パウロはガラテヤ書 6章4節で一つの良い提案を述べています。「その人に自分のわざを吟味させなさい。そうすれば,自分自身について誇ることができても,他の人と比べては誇れないであろう」。
8 他の人を正しく助けるのに,思いやりはなぜそれほど大切ですか。
8 クリスチャンの監督は,会衆の仲間の成員に援助の手を差し伸べる際,この原則を心にとめなければなりません。それには,真の思いやり,あるいは同情の念が必要で,人の身になって考えることができなければなりません。会衆の成員の各自は,年齢,真理にあって得た経験,知識を把握し,保ち,そして使う能力,若い時に受けた訓練,現在の日常生活の諸問題その他のさまざまな要因により,それぞれ霊的な成長の度合いを異にします。そしてそれぞれの進むべき次の段階が何であるかは,おもに,クリスチャン円熟に達する道のどこに今立っているかによって左右されます。監督が,各人にその必要としている助言や励ましを個人的に与えるには,この点を悟らねばなりません。
9 わたしたちの願いは,他の人がどのような進歩を遂げることですか。それはなぜですか。
9 たとえば,集会にまだ定期的に出席していない人は,公の宣教の段階に歩みを進め,家々を訪問して福音を伝道できる立場に立っていないことがすぐわかります。そのような大きな一歩を踏み出そうとして精神的に努力することが,円熟に向かう霊的な進歩よりも,むしろ倒れて信仰をそこなう結果をもたらすかもしれません。もちろんそのような人は,会衆を正しく代表し得る立場に立ってもいなければ,まだ会衆の正式な仲間でもありません。神のみことばに関心をもつそれらの人々すべてが,クリスチャンの宣教に携わり得るまでに進歩することをわたしたちは確かに望んでいます。これはそれらの人に対するエホバの御心です。しかし必要なのは,良い霊的な取りきめにしたがって秩序正しく一歩一歩進むことです。
10 (イ)親が自分の子供の進歩を認め,適切にほめるのは,なぜ大切なことですか。(ロ)賢明な親は,どんな基準にしたがって子供の進歩を励ましますか。
10 自分が進歩していることを知るのは確かに大きな励みとなります。何をするにしてもこのことは真実ではありませんか。ごく幼い子供が腹ばいになって歩きはじめたり,初めて二,三歩歩いたり,ふたことみこと初めて話したりして,何か新しいことを覚える場合でもそうです。何事かを成し遂げて幼児はききとして喜ぶでしょう。進歩には時間がかかるため,時にはほとんどそれと気づかぬ場合もあります。このことはまた成長についても言えます。庭先に腰かけて何時間眺めていても,植物の成長には少しも気づきません。しかし成長しているのです! 二,三日家を留守にして帰宅してみると,庭の変化にすぐ気づきます。植物が成長しているので変化が生ずるのです。毎日自分の子供を見ている親は,子供の成長に気がつかないかもしれませんが,何か月かして帰って来た友人なら,その子供を見たとたんに,「大きくなったね!」と言って驚くものです。大きくなるにつれて,成長の色々な面について指摘してもらうのは励みとなります。学校の勉強でどれほど進歩したかを聞かされると,子供は励みを受け,たいていもっと一生懸命に勉強するようになります。そして,成し遂げた喜びと満足感を味わいます。また賢明な親は,子供の霊的な成長を心にかけ,場合に応じて適切なやさしいことばで子供をほめます。また,子供の個人個人の必要や能力に応じて霊的な成長を遂げられるように賢明な指導を施します。他の子供のことを取り上げて比較し,自分の子供を落胆させることはしません。そうではなく,それぞれの子供を助けて,「自分のわざを吟味させ」,どのように進歩したかを考えさせます。それで子供は「自分自身については誇ることができても,他の人と比べては誇れない」ことを知ります。他の子供と比較すると,気落ちさせたり,ある場合には,まちがった励みを与えることになったりします。
11 (イ)賢明な奉仕者は,自分が教えている聖書研究生をどのように励ますべきですか。(ロ)霊的な病気の人を助けるには,どんな援助が最も有効ですか。しかし,どのように施すべきですか。(ハ)どうすれば,新たに交わっている人や霊的な病気の人に,真の誇りをいだかせることができますか。
11 自分自身の進歩を少しも知らないと,ひどく落胆する場合もあります。クリスチャン会衆と新たに交わり,ある期間聖書研究を行なってきた人が,期待されているほどの進歩を遂げていないのではなかろうかと感ずるのはよくあることです。ゆえに賢明な教え手は,そのような人が実際に示している進歩のほどに気づかせ,適当な場合にはいつでも誠実な暖かいことばで進歩をほめます。同様に,監督は会衆と定期的に交わる人々を同じ仕方でほめてください。それは決してお世辞を述べることではありません。活発に奉仕してきた会衆内の仲間のひとりが,もし霊的な病気にかかるなら,その人には真心からの援助,愛の助けが必要です。そのような助けにより,自分のわざの実情や自分に何が欠けているかを悟り,自分の問題を克服するための具体的な提案を受け入れることができるでしょう。もしかするとその問題は,自分が何を行なうべきか,どう対処すべきかをよく知らないということかもしれません。その人の霊的な生活をしっかりとしたものにするため,何を行なうべきかについて助けや導きを与える人は後日感謝されます。確かにそのような援助はいつでも愛のある巧みな仕方で差し伸べられるべきですが,また誠実で実際的な助けでなくてはなりません。愛と思いやりの心からその種の助けが与えられるとき,援助を受ける人は,霊的な成長と円熟への道に正しく歩めるように助けられたことを感謝するでしょう。そのような人が前進しはじめたなら,心からほめてください。そして自分の進歩を知るように助けてください。そうすればそれらの人は,他の人に比べてではなく,自分自身について誇れるようになるでしょう。
霊の思いの欠如に注意する
12 もし,まくところから永遠の命の実を刈り取りたいと願うなら,何に注意しなければなりませんか。
12 霊のためにまく人は,霊的に成長します。霊のためにまくことをやめれば,霊的な成長もとまります。もっと悪いことに,肉のためにまくことに戻ってしまうと,よいわざを行なわないようになり,霊的な事柄に対する認識は失われます。その結果,霊的な無活動そして霊的な死が生じます。わたしたちはかつて「この世の習慣に従(っ)…て歩」んでいたことでしょう。「我らもみなさきには彼らのうちにをり,肉の慾に従ひて日をおくり 肉と心との欲するままをなし,ほかの者のごとく生れながら怒の子なりき」とあるとおりです。(エペソ 2:2,3)しかし,ひとたび神のみことばの真理で心を養いはじめ,また,エホバの聖霊によって明らかにされた,わたしたちに対するエホバの御心を悟り,かつ行ないはじめたとき,わたしたちは本当の意味で生きるようになったのです。(コリント前 2:11,12。コリント後 3:6)そして霊のためにまき続けるなら,「霊から永遠の命を刈り取るようになる」のです。永遠の命というこの祝福された収穫にあずかりたくない人がいるでしょうか。では,元に戻って肉のためにまこうとする傾向が少しでも心のうちにきざしたなら,それを見分けられるように,用心していなければなりません。
13,14 (イ)他の人との個人的な問題に対処する際,神の霊に一致して行動していることをどのように示せますか。(ロ)このような問題にかんして,神の霊と一致しない行動をとれば,どんな結果を招くことがありますか(ハ)霊の思いをもつことは,クリスチャン兄弟間のよい関係にどう貢献しますか。
13 親愛なる読者であるあなたは,あるいはすでにエホバの証人の会衆の成員かもしれません。では,仲間のクリスチャンをどう見ていますか。他の人をどう見るかによって,どのような仕方でまいているかが明らかにわかるということをご存じですか。自分は単に肉的な見地,それとも霊的な見地,そのどちらから物事を見ているかがすぐわかります。たとえば,エホバの奉仕における他の人々の努力を心の中で見くだし,欠点をさがしはじめるなら,これはあなたが肉のためにまくことに戻る危険な状態にあるという赤信号になります。もし,クリスチャン兄弟あるいは姉妹と一致できない何らかの原因がたしかにあれば,また,その人のために心を害されたと感ずるならば,『人の悪を念はない』,つまり完全に心から取り除き,恨みを少しもいだかないようにするか,あるいは,その兄弟を得るためにマタイ伝 18章15-17節のイエスの助言にしたがって事を運ぶかして,早く問題を解決してください。これは神の霊に一致した行動です。(コリント前 13:5)こういう過程を踏まないと,どんな結果が生じますか。その兄弟あるいは姉妹に対する恨みの気持ちが心の中に残ります。次にそれが災いして,その兄弟と自分との関係そのものがゆがんできます。その“違反者”が演壇で聖書の話をしたり,討議や実演に参加したりするのを見ると,不快に感じ,ともすると愛や感謝の思いよりはむしろ批判的な態度で話を聞くようになります。これは,「肉に属するもの」の態度であって,「霊に属する者」の態度ではありません。―コリント前 3:1-3。
14 そうかといって,人の弱点に気づかないというのではありません。神のみたまの実を結ぶ,霊の思いを持つ人は,あわれみと忍耐そして親切に富んでおり,相手の事情をよくくみとるものです。それに,会衆内の各人はエホバを喜ばせようと努める神のしもべであることを心にとめます。
15 ねたみや恨みの念をいだくのは,何の現われですか。ヤコブはどんな態度を勧めていますか。
15 霊の思いの喪失は,ねたみの感情となって現われることがあります。それは,自分に与えられるものと期待していた何かの割当てあるいは奉仕の特権が,自分ではなくて他の人にゆだねられたためかもしれません。「肉のためにまいている」『肉に属する人』は,恨みの念が心の中にわきあがってくるのを感じます。そしてこの恨みのために,喜びは失われ,任命された兄弟と協力することが困難に,ときには不可能になる場合さえ生じます。弟子ヤコブが次のように書いたのは,それ相当の理由があったからです。「汝らのうちかしこくして慧き者はたれなるか,その人は善き行状により柔和なる智恵をもて行為をあらはすべし。されど汝らもし心のうちに苦きねたみと党派心とをいだかば,誇るな,真理にもとりて偽るな。かかる智恵は上より下るにあらず,地に属し,情慾に属し,悪鬼に属するものなり。ねたみと党派心とあるところにはみだれとさまざまの悪しきわざとあればなり」― ヤコブ 3:13-16。
16 他の人からの励ましを拒む,あるいは助言をみくびる傾向は,なぜことごとく退けねばなりませんか。
16 円熟したクリスチャンから,しかも事情に適した励ましや助言が愛の心で聖書に基づいて与えられる際に,もし憤りをいだくなら,これは霊的な見方の失われた確かな証拠です。この危険信号に注意してください。「ああ,年寄りのだれそれさんの助言か」と,自分に言い聞かせて,助言をみくびる傾向はことごとく退けてください。それは助言を,しもべの一人を通して与えられるエホバからのものとせずに,単なる人間からのものと見なすことです。実際のところわたしたちは神のまことの組織に交わっているのですから,個人的な援助を受けまた必要に応じて助言や励ましが与えられるものと当然期待できるのです。「霊的な資格を持つ」人々は,群れを世話し,かつ「道を踏みはずした」人を柔和の霊をもって立ち直らせるようにと命じられているのです。(ガラテヤ 6:1,新世訳)そのような助けを喜んで受け入れてください。そうすれば,エホバの祝福につながる謙遜を表わすことができ,やがてエホバの過分の恵みに浴し,神の建てられる正義の新しい秩序で命を享けて高くされるでしょう。―ヤコブ 4:6,10。
17,18 (イ)霊の思いの欠如を示す他の徴候で,クリスチャンがその影響を免れ得ないどんなものがありますか。その状態は何によって助長されますか。(ロ)なぜ今は,良いわざを行なうことをあきらめるべき時ではありませんか。
17 霊の思いの欠如を示す一般的な徴候は,クリスチャンの宣教に対す熱心の喪失です。神の国の下で幸福に暮らす時が間近に訪れるという希望を知って燃えあがった“若いクリスチャン”の熱心の焔は消えるかもしれません。時は経ちますが,ハルマゲドンは期待したほど早く訪れません。心は再び日常生活の色々な問題でふさがれ,そのために自分の不完全さや弱点が目についてきます。あるいは,他の人々が浴している今の世の物質上の恩恵をうらやましく思っているかもしれず,また現在の生活の楽しみを見のがしたくないという誘惑に屈して,エホバのための献身の思いが弱められるかもしれません。
18 しかし今は,この「終わりの時」に住む神のしもべに与えられた良いわざを行なうことをあきらめるべき時でしょうか。いつの時にもまして今はエホバへの奉仕において忍耐を示すべき時です。待望の神の国は1914年以来,天で統治してきました。終わりの時代つまり現在の事物の体制の終わりの時は今やかなり経過しました。悪がことごとく終わる時は近く,それはわたしたちの世代のうちに訪れます。何百万人もの人々の生命が危機にひんしており,わたしたちの助けを緊急に必要としているのです。正直な心を持つ男女を,この世の狂気じみた歩みから引き離し,永遠の命に通ずる真の崇拝の道に導くのは,献身したクリスチャンにとってなんという特権でしょう! それで,「よいわざを行なうことをやめないようにしよう。あきらめないでいれば,時節が来て刈り取るようになるからである。それで,時に恵まれているかぎり,すべての人とくに信仰の仲間に対して良いことを行なおうではないか」との勧めに,ぜひ従いましょう。―ガラテヤ 6:9,10,新世訳。
19 各人はどんな“戦い”をしなければなりませんか。また,どんな重大な問題が関係していますか。
19 『肉のためにまく』傾向を,取るに足りないこととして見過ごさないでください。当然のことながら,わたしたちは依然として不完全ですから,今もなお肉の弱さに悩まされます。したいと願っていることが常に行なえるわけではなく,しなければよかったと思うようなことを行ないます。しかし肉に従(っ)て活き」ようとする肉の欲に屈してはなりません。たしかにわたしたちの内部では,エホバの霊の導きに一致しようとする心と,肉の自分とが互いに戦い合っています。(ロマ 7:18-23; 8:12,13)肉の自分に屈する,つまり肉のためにまきはじめれば,腐敗,そうです,死を刈り取らざるを得ません。しかし,「霊のためにまいている人は,霊から永遠の命を刈り取るようになる」でしょう。―ガラテヤ 6:8。
20 忍耐して良いわざを忠実に行なう人のために,ヘブル書 6章9-12節には,励みを与えるどんなことばがしるされていますか。
20 忍耐して良いわざを行なう人のために,聖書には励ましと助言を与える次のような愛のことばがしるされています。「愛する者よ,われらかくは語れど,汝らにはさらによきこと,すなはち救にかかわることあるを深く信ず。神は不義にいまさねば,汝らのはたらきと,さきに聖徒につかへ,今もなほこれに事へて御名のためにあらはしたる愛とを忘れ給ふことなし。我らは汝らがおのおの終まで前と同じ励をあらはして全き望を保ち,怠ることなく,信仰としのびとをもて約束をつぐ人々にならはんことを求む」― ヘブル 6:9-12。
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