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聖書の真理で自分を定期的に養いなさいものみの塔 1982 | 2月15日
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にわたしたちを宿した』ので,わたしたちの傾向は年若い時から悪いのです。(創世 8:21; 詩 51:5,新)このようなわけで,だれでも,使徒パウロと同じように嘆くことがあります。パウロはこう述べました。「自分の願う良い事がらは行なわず,自分の願わない悪い事がら,それが自分の常に行なうところとなっているのです」。(ローマ 7:19)こうしたものを受け継いでいるため,人間の心は気まぐれで不信実で,欺まんに満ちているのです。しかし,神の言葉,および聖書の原則を理解し適用するのに役立つ聖書の手引きの助けを得て,自分のうちに宿るこの敵に対処することができます。しかしそのためには,使徒パウロのように,自分の体を打ちたたき,奴隷として連れて行かなければなりません。―箴 3:32; エレミヤ 17:9,新。コリント第一 9:27。
そのための時間についてはどうか
クリスチャンの生活はぎっしり予定が詰まっています。読むべきものとして聖書があるのに加えて,毎週新しい雑誌を受け取ります。準備をして集会に出席し,喜んで耳を傾ける人々を弟子にする重要な業にあずかります。また,自分や家族を顧みる世俗的な日々の責務があります。各自は次のように自問できるでしょう。自分は一般の新聞や雑誌などを読むのにどれほどの時間をかけているだろうか。テレビを見たり,ポピュラー音楽を聴いたりするのにどれほどの時間を費やしているだろうか。こうしたことは確かに一種のレクリエーションや娯楽です。一方,クリスチャンの集会の準備やキリスト教の文書を読むことを『大仕事』とみなす人が少なくないようです。しかし,こうした準備や読書をそのようにみなす必要があるでしょうか。詩篇作者はこう述べました。「人が多くの分捕り物を見つけるときのように,わたしはあなたのみことばに歓喜しています」。(詩 119:162,新)ですから,わたしたちの歩みは自分が物質的な人ではなく霊的な人であることを本当に明らかにしているだろうか,と注意深く考慮してみる必要があります。―コリント第一 2:14-16。
このすべては,自分の霊的な必要を自覚している人は幸いであると語られたイエスの言葉を思い起こさせます。(マタイ 5:3)鳥,昆虫,哺乳動物,魚など,地上の下等生物には霊的な必要というものがありません。しかし人間には霊的な必要があります。それを無視することが今日の世界の悲しむべき混乱状態の一因となってきました。物質主義的な哲学や思想は人々をますます神から遠ざけています。衣食住といった物質的な必要や性,快楽,権力欲が生活の中で最も重要なものとなっています。しかし,もしわたしたちが自分の霊的な必要を真に自覚しているなら,聖書の真理で自分を定期的に養い,そのための時間を見いだし,聖書の真理に対する深い認識を示すことでしょう。その報いですか。敬神の専念の道を追い求める上での助けが得られます。敬神の専念は「すべての事に益があ(りま)す。それは,今の命ときたるべき命との約束を保つのです」。―テモテ第一 4:8。
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読者からの質問ものみの塔 1982 | 2月15日
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読者からの質問
● 困難な試練に遭ったり難しい仕事を果たしたりしなければならない時,エリシャがしたように,神の霊の「二倍の分」を求めるのはふさわしいことでしょうか。
ある状況下で神の霊を「二倍」求める必要があると考えるよりも,各々の必要に応じて神が聖霊を与えてくださるよう求めることを考える方がよいでしょう。
預言者エリヤがヨルダン川を渡った後,火の兵車によって天の方に連れ去られる直前,その仲間また後継者である預言者エリシャは一つの特別なことを求めました。ジェームズ王欽定訳によると,エリシャは去って行こうとするエリヤに対して,「我はなんじに祈る,なんじの霊の二倍の分を我に臨ましめよ」と言いました。(列王下 2:9)この表現に基づいて,「霊の二倍の分」を神に願い求める必要があると感じたり,実際にそう願い求めてきたりしたクリスチャンもいます。
しかし,新世界訳は次のように訳出しており,エリシャの求めを理解するのに役立ちます。「どうか,あなたの霊の二つの分が私に臨みますように」。(列王下 2:9)エリシャはエリヤの霊の長子の分を求めていたのです。どうしてですか。
エリシャの言葉は遺産の配分に関する古代イスラエルの慣行を根拠にしています。長子以外の息子たちには相続財産が均等に分けられましたが,長子もしくは生きている最年長の息子は家の頭としての責任と同時に相続財産の二倍の分を受けました。―申命 21:17。
イスラエルに対する主要な預言者としてのエリヤを当時の表舞台から移すことを神がご意志とされた時,エリシャがそのあとを継ぐことになりました。エリシャはその当時,あとに残されたただ一人の預言者であったわけではありません。「預言者の子ら」として知られる様々な人が共にいました。(列王下 2:3,5,新)しかしエリシャは,エリヤの筆頭後継者として,それらの人々の中でも最も際立った人物になることになっていました。(列王下 4:38; 6:1-3)ですから,それらの人々も同様に神の霊をある程度得て,預言者としての役割を幾らか担ってはいましたが,エリシャはエリヤの長子のような存在であり,エリヤの霊の二つの分を正当に求めることができました。
エホバ神はご自分の忠実な崇拝者たちにその必要や状況に応じて聖霊をお与えになります。民の数が多過ぎてモーセに助けが必要であった時,神は資格ある年長者70人を選んでその助けを得るよう指示されました。エホバはモーセにこう告げられました。「わたしはあなたの上にある霊の幾らかを取って,それを彼らの上に置くことになる。そして,彼らは荷となるこの民を担う点であなたを助け(る)」。(民数 11:16,17,新)といっても,これはモーセがその後,聖霊を十分に受けられなくなり,霊が不足することを意味していたのではありません。それどころか神は,モーセも70人の援助者も各々自分の前に置かれた仕事を果たせるよう十分の霊をお与えになったに違いありません。同様に,エリシャと「預言者たちの子ら」も,自らの務めを果たし,前途に控えている試みや試練に立ち向かうのに必要な十分の聖霊を得ることになっていました。
クリスチャンも,十分な量の神の活動力,すなわち霊を得ることができます。そのためには当然,聖霊の流れや活動を妨げることのない仕方で生活しなければなりません。(エフェソス 4:30と比較してください。)また,イエスの次の言葉を信じて,霊を祈り求めるべきです。「あなたがたが,邪悪な者でありながら,自分の子どもに良い贈り物を与えることを知っているのであれば,まして天の父は,ご自分に求めている者に聖霊を与えてくださるのです」。(ルカ 11:13)神は「霊を量って」つまり「惜しみつつ」「お与えになったりはしない」ことを確信できます。(ヨハネ 3:34,新世界訳,1950年版,百年記念訳新約聖書)神は「二倍の分」ではなく,わたしたちが生活上の諸問題に対処し,『王国の良いたより』を宣べ伝える重要な業にあずかり,神の言葉を理解して適用するのに必要とされるだけの量の聖霊を与えてくださいます。―マタイ 24:14。
● マタイ 26章74節は,圧力を受けた使徒ペテロが冒涜の言葉を用いたことを意味していますか。
そうではありません。この節には,イエスの捕縛後,その追随者の一人であるとして責められた時にペテロの取った行動が記されています。彼が3度目に否認した時のことについて,こう書かれています。「その時,[ペテロ]は,『わたしはその人[イエス]を知らないのだ!』と言って,のろったり誓ったりし始めた」― マタイ 26:74。
言語によっては,『のろい』や『誓い』という言葉が冒涜を指すこともあります。しかし「のろったり誓ったり」した時,ペテロは多くの人が腹立ちまぎれにするような,不敬な言葉もしくは冒涜の言葉を語っていたのではありません。
聖書に出て来る『のろう』という語は,原語のヘブライ語でもギリシャ語でも,人または物に災いを呼び求めることを意味しています。それは冒涜ではなく,怒りと関係のない場合さえあるようです。(創世 3:14,15; 4:11,12)ある陳述が真実であることを確証するために,人はのろいの言葉を口にするかもしれません。そうすることによって,その人は,『もしわたしの言っていることが真実でないなら,わたしがのろわれるように。災いがわたしの身に臨むように』と述べていることになります。同様に,人はある事柄について『誓う』つまりそれは真実であり,もし真実でないなら災難が自分の身に降りかかってもよいという誓いをすることがあります。
このように,ペテロは冒涜の言葉を口にしていたのではなく,恐れの気持ちから自分の否認の言葉が真実であることを周囲の人々に納得させようとしていたのです。もちろん,それは偽りであり,ペテロは悔い改めねばなりませんでした。(ルカ 22:61,62)一方,聖書は,「腐ったことばをあなたがたの口から出してはなりません」と述べて,クリスチャンが冒涜の言葉を口にすべきではないことをはっきり示しています。―エフェソス 4:29。
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