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  • 「あらたに生れ」るとはどういうことですか
    ものみの塔 1969 | 2月15日
    • 「あらたに生れ」るとはどういうことですか

      エホバの証人の一奉仕者が,アメリカ,ケンタッキー州のある町のとある家の戸口でノックしました。目的は聖書の音信を簡単に伝えるためでしたが,家の人は紹介のことばを聞くやいなや,こう尋ねました。「失礼ですが,あなたは『あらたに生まれ』ましたか。聖霊をお持ちですか」。

      もし読者がその任命された奉仕者の立場にあるとしたら,何と答えますか。彼は落ち着いてこう答えました。「もちろんわたしは神の霊を持っています。ですから,ここで聖書についてあなたと話し合っているのです」。

      単に「はい」とか「いいえ」と答えなかったことに注目してください。そのような仕方で答えたのでは,正しい意味をありのままに答えられない質問があるのです。「サタンという名の全能の神を信じていますか」と質問されたとします。その場合,「はい,全能の神は信じていますが,その方はサタンではありません」と巧みに答えねばならないでしょう。では,前述の家の人が何を考えていたか,また,その証人は何を念頭に置いてそう答えたかを分析してみましょう。

      「あらたに生れ」るのはだれか

      西暦30年の過ぎ越しの終わった夜のこと,ニコデモというユダヤ人の一支配者がイエスのもとに来ました。そのいきさつはヨハネ伝 3章3-5節にこうしるされています。「イエス答へて言ひ給ふ『まことに誠に汝に告ぐ,人あらたに生れずば,神の国を見ることあたはず』ニコデモ言ふ『人はや老いぬれば,いかで生るることを得んや,再び母の胎に入りて生るることを得んや』イエス答へ給ふ『まことに誠に汝に告ぐ,人は水と霊とによりて生れずば,神の国に入ることあたはず』」。

      教会に通う人の多くは,この記録に基づいて,救いを得たいと願う人はみな「あらたに生れ」,また「水と霊によ(っ)て生れ」なければならないと考えています。そして,永遠の命を得る道は天に行くことだと信じています。それは一面正しいことです。確かに,霊の被造物として神の国の成員となる者は永遠に生きるのです。しかしとこしえの命と幸福を得る人類の大多数はほかならぬこの地上で生活することを,エホバ神はご自分のみことばの中で明らかにしておられます。(詩 37:29)それらの人は「あらたに生れ」る必要がありません。どうしてですか。

      人類に対する神の最初の目的は,人間が地上の楽園で永遠に生きることでした。地上におけるイエスの宣教以前の神の忠実なしもべたちは,ひとりとして天に行く希望を持ってはおらず,また死んで天に行った人はひとりもいません。たとえばダビデ王について使徒ペテロは述べました。「それダビデは天に昇りしことなし」。(使行 2:34)しかしダビデは神の霊を受けていたのです。彼はこう述べています。「エホバの霊わがうちにありて言たまふ」― サムエル後 23:2。

      このことはバプテスマのヨハネについても言えます。彼は「母の胎を出づるや聖霊にて満され(た)」と聖書にしるされています。(ルカ 1:15)しかし「あらたに生れ」たわけではなく,また,将来の天国にはいるように召されることもありませんでした。イエスご自身この点を明らかにしてこう言われました。「女の産みたる者のうち,バプテスマのヨハネより大なる者はおこらざりき。されど天国にて小き者も,彼よりは大なり」― マタイ 11:11。

      国家について言えば,政府を構成する選ばれた少数の人々が国民の代表者として奉仕するように,神は人類の中から14万4000人の人々を選んで,天の御国の成員にさせることを定められました。これらの成員はイエスとともになって楽園の地を統治します。(黙示 5:9,10; 14:1-3; 20:6)キリストが死に,そして天の命に通ずる道を開かれたのちになって初めて,神はそれらの人々を選び始められました。(ヘブル 10:19,20)しかしアダムの子孫のこれら不完全な人間が神の霊的な子となるには何が必要でしたか。イエスは,ニコデモと話した時,このことについて述べられたのです。

      「水と霊とによりて生れ」る

      前述のケンタッキーの一市民がひとこと引用したのは,イエスの次のことばでした。「人あらたに生れずば,神の国を見ることあたはず」。(ヨハネ 3:3)天の御国の成員となるように選ばれた人は,かつて「肉によりて生(れ)」た者であり,血肉のからだで天の御国にはいることはできません。(ヨハネ 3:6。コリント前 15:50)それで,エホバ神は,キリストのあがないに対するその人の信仰に基づいて罪を許し,その個人を完全な人間と見なしたのちに,その人を生み出し,霊的な相続物を与えられます。この後半の処置はイエスの場合でさえ彼が天に行けるようにするため講じられました。イエスが水でバプテスマを受けたのち,エホバはご自分の霊をイエスに注がれました。こうしてイエスは霊によって生まれ,神の霊的な子となる権利を受け,「あらたに生れ」ました。―マタイ 3:16,17。

      同様に,天の御国の成員となるように召されたクリスチャンはそれらの段階を経,「水と霊とによ(っ)て生れ」ねばなりません。ユダヤ人であるニコデモは,聖霊が実際のもの,つまり神の活動力であることを知っていたでしょう。またイエスは,このユダヤ人の一支配者が「水」を文字どおりのものと考えたことを知っていました。バプテスマのヨハネが水でバプテスマを施していたこともニコデモはおそらく知っていました。ヨハネのわざを調べさせるため,ユダヤ人は「エルサレムより祭司とレビ人とを……遣し」たとあるからです。(ヨハネ 1:19。マタイ 3:5)そのうえ,イエスの弟子たちは水でバプテスマを施していました。(ヨハネ 3:22; 4:1,2)それでイエスが「水」について述べたとき,ニコデモにとってそれは何か別のことを意味したのです。しかし聖霊によって生まれることについてはいかがですか。イエスの弟子たちにかんしてこの段階がまだとられていない以上,ニコデモがこの点を理解するのは困難だったでしょう。

      バプテスマのヨハネは,イエスが『聖霊でバプテスマを施す』ことを約束しましたが,イエスは西暦33年の五旬節にそのことを行なわれ,すでに水のバプテスマを受けていた弟子たちに聖霊を注ぎました。(ヨハネ 1:33。使行 2:1-4,33,38)こうしてそれらのクリスチャンは,人が生まれる時のように「あらたに生れ」,天の霊の命の見込みを与えられました。その命は,彼らが死ぬまで忠実を保ち,よみがえった時に受けるのです。彼らは,霊の証しを持つゆえに,自分が「あらたに生れ」たことを知りました。使徒パウロは後日こう書きました。「御霊みづから我らの霊とともに我らが神の子たることをあかしす」― ロマ 8:16,17。コリント後 1:22。

      ところが,バプテスマのヨハネやダビデが神の霊の幾らかを受けたにもかかわらず,天の御国の成員になるよう召されなかったと同じことが,今日の数多くのクリスチャンについても言えるのです。彼らは,自ら神に献身し,水のバプテスマを受けましたが,天の命の希望は与えられていないことを認めています。あたかもあらたに生まれるときのように,天における霊の命の希望を理解するということはありません。なぜなら,神に忠実であることを証明すれば,地上の楽園で永遠に生きられるように神は取り計らわれているからです。ケンタッキーの前述の家を訪れたその奉仕者は,そうした楽園を待ち望んでいる人のひとりなのです。

      では,このような人々は神の恵みを今受けていないということですか。決してそうではありません! バプテスマのヨハネの場合と同様,神の是認を得ています。その証拠の一つは,エホバが彼らに聖霊を与えられ,クリスチャンの宣教を行なわせるとともに,霊の実を生み出させているという事実です。(ガラテヤ 5:22,23。ルカ 12:11,12)したがって,前述の家の人の質問に対するその奉仕者の答えがいかに正確で正しいかを知ることができます。

      その奉仕者が携えていた,神の天の御国と来たるべき地上の楽園にかんする聖書の音信を,もっと詳しく知りたいのでしたら,あなたの住む地域のエホバの証人とともに聖書を討議する機会を利用なさるようお勧めします。

  • 福音の伝道を第一にする
    ものみの塔 1969 | 2月15日
    • 福音の伝道を第一にする

      「福音は先もろもろの国人に宣伝へらるべし」a と言われたこの福音は,何を意味しますか。それは,「神はそのひとりごを賜ふほどに世を愛し給へり,すべて彼を信ずる者のほろびずして永遠の生命を得んためなり」という福音ですか。それが福音であることには一点の疑いもありません。クリスチャンは,イエスが最後にお与えになった次の使命を忠実に果たし,多年その福音を人々に知らせてきました。「往きて,もろもろの国人を弟子となし……教へよ」― マルコ 13:10。ヨハネ 3:16。マタイ 28:19,20。

      しかしマルコ伝 13章10節の前後の文脈からすれば,イエスは特別な種類の福音について考えておられたことがわかります。どうしてですか。この福音の伝道は,ご自分の臨在と,この事物の体制の終わりが近いこととを示す大きなしるしの一部であるとイエスは述べられたからです。この福音が伝道されてきたのは特に1919年以来のことです。この福音は,神の国が天に建てられ,サタンは天から追い落とされ,神のハルマゲドンの戦いが迫り,そして,まもなく神の国の祝福を受けて地は楽園となり,記念の墓に眠る死者さえよみがえってくることを人々に告げています。

      イエスは,建てられた御国のこの福音がまず伝道されなければならないことを予告して,事の緊急さを示されました。ゆえにエホバの証人は福音の伝道を緊急な事柄としなければなりません。残された時はまさに縮まっているからです。サタンは,自分のために残された期間がごくわずかしかないことを知って,懸命に働いているのです。(黙示 12:12)では,イエスの真の追随者がそれ以上に懸命に働くのはまさに当然ではありませんか。彼らもまた,この御国の福音の伝道のために残されている時がますます少なくなっていることを知っているのです。福音の伝道にとって恵まれた現在の状態が,いつまでも続くと期待するのはまちがっています。そのうえ,この世代は,すべてのことが成就するまで過ぎ去らないと,イエスは言われませんでしたか。詩篇 90篇10節によれば,一世代とは70年ないし80年です。1914年における異邦人の時の終わりを目撃した世代に残された年月はごくわずかです。―ルカ 21:24,32-36。

      ゆえに物質を追い求めるのはむなしいことです。昨年の9月末,アメリカの一テレビ番組で行なわれた,ボクシング界のかつての一チャンピオンとのインタビューは,この点を明らかにしています。彼はプロボクサーとして100万ドルの富を得ましたが,そのすべてを失ったのです。ところが今や神の真理を得たため,かつてないほど幸福に暮らしていると述べました。福音の伝道を第一にすれば,確かに幸福を見いだせます。これは否定できない事実です。それは人に与える生活だからです。「与ふるは受くるよりも幸福なり」とあるとおりです。―使行 20:35。マタイ 6:33。

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