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ヒンズー教 ― 人の霊的必要を満たすことができますか目ざめよ! 1976 | 3月22日
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神の一部であること,また肉体的生存は魂が肉体の中に監禁された結果であることを知ると,人はこれ以上肉体的生活を続けることへの欲望を捨てることができます。次の輪廻でより向上した生活を確保するための行ないをやめます。そのような人には,普通の意味での業がないので,転生のサイクルから脱します。そのような状態を獲得した人は「涅槃」に到達した,と言う人もありますが,この語は仏教においてさらに広く用いられるようになりました。
しかしながら,神とのこの奇妙な「合一」の自覚は,通常の知的過程によって得られるのではありません。ノス教授によるとそれは,「深い瞑想のさなかに突然わき起こる,我を忘れるほどの確信」によって生まれます。古いヒンズー教教典バガバッド・ギタ(主の歌)は,クリシュナ神の述べたことばとして,そのような瞑想の仕方を次のように説明しています。
「信者は,人目につかぬ場所に一人でいて雑念を除くことに絶えず専念し,……自分の鼻の頭を見つめて心を落ち着かせるべきである。……思念を抑制してわたしにそれを集中すべきである。……思念を抑制する信者はかの寂静を得,その極に達して最後の解放を得,かつわたしに同化する」。
この行法は,ヒンズー教の「ヨーガ法」と関係があります。別のヒンズー教文献によると,ヨーガは「忘我の境」をもたらし,「その中で思念は今やその内容を全く空にし,対象と自我のいずれをももはや意識せず,絶対者に同化し,絶対者と一つに」なります。この境地に達する人は,平穏な気持ち,または法悦をさえ経験するかもしれません。この特殊の型の瞑想から,千里眼,空中浮揚などの超人的な知力や体力が得られることも知られています。
このような行を強調した中国の仏教徒の一派は,瞑想(ドーヤナ)に相当する梵語を「禪<チャン>」と発音し,日本ではそれが「禅」となりました。今人気のある「超自然的瞑想」(TM)という行のことを聞いたことはありませんか。これも前述のヒンズー教の見解と関係があります。
転生の繰り返しから自由になり,神との『合一』の自覚を得る別の方法はバクチと呼ばれています。これはヒンズー教のある神に対する特別の勤行の方法で,有頂天の踊りや「マントラ」として知られている呪詞もしくは祈祷の読唱を伴うこともあります。クリシュナ意識国際協会発行の雑誌の一記事は,次のように述べています。
「バクチ・ヨーガ(絶対帰依の実践)は,[クリシュナ]意識のレベルにまで自己を高める過程である。……このハレ[クリシュナ]の読唱は……[クリシュナ]意識を発達させるための最も簡単で最も適切な手段である。……この読唱を習得し,その名を絶えず声高に唱えることに専念するなら,クリシュナは魂の目に現われ,またあなたの舌の上で踊るであろう。そのときあなたは最高者を味わい,あなたの思念は[クリシュナ]に同化して,あなたの意識は完全になる」。
あなたは「解脱」に関するヒンズー教のこうした見地が,あなたの霊的必要を満たし得ると思いますか。人によっては恍惚状態になるこの種の瞑想や儀式的踊り,読唱などを行なうことはあなたの益になるでしょうか。
あなたの必要を満たすことができるか
こうした事柄に関して聖書の見解を考えてみると多くのことを教えられます。聖書の歴史的正確さ,神話が含まれていないこと,また人間関係に関する比類のない原則は,世界中の学者を感動させてきました。聖書は,使徒 17章26,27節(口)で,人間の最も基本的な必要を示し,次のように述べています。神は「また,ひとりの人から,あらゆる民族を造り出し……人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば,神を見いだせるようにして下さった」。
あなたがしたいと思っているのはこのことではありませんか。しかし,はっきりしない「究極」の実在を語ったり,無数の神話的男神や女神を崇拝することを勧める文献の中に真の神を「捜し」て「見いだせる」でしょうか。
ヨーガ型の瞑想,またバクチ型の踊りや読唱の実践に関しては,次のことを忘れないでください。つまりそれらは,人の内部には,輪廻することも「絶対者に同化する」こともできる,目に見えない「魂」がある,というヒンズー教の根本理念に基づいているということです。しかしその教えは真理を説いているでしょうか。
死に際して肉体を離れる霊魂が人間にあるかどうかを証明するための科学的調査は,かなり盛んに行なわれてきました。しかし,勤勉な努力が払われ,多額の費用が費やされたにもかかわらず,そのような魂の離脱を証明する証拠はまだ挙がっていません。人が死ぬとき,自動的に生き残るものは何もなく,依然として完全に死んでしまうように見えます。
興味深いことに,聖書の述べるところはこれと一致しています。人間には死ぬとき肉体から離れる不滅の魂があるなどと聖書が言っていないことに,あなたはお気づきでしょうか。反対に聖書は,人間の魂とは人全体のことである,と明言しています。(創世 2:7。出エジプト 1:5。ペテロ第一 3:20。ペテロ第二 2:14)したがって,人が死ねば魂も死にます。(エゼキエル 18:4,20)そして聖書によると,『死者は,何事も全く意識していません』― 伝道 9:5,新。
ゆえに,瞑想や他の密儀を通して魂が超自然の実在と「合一」するという考えは決して事実ではありません。そのような合一に達する別個の魂は人間にはありません。あなたは,宗教上の偽りに基づく行為から,永続的な益が得られるでしょうか。
聖書は,「天の場所にある邪悪な霊の勢力」の存在を警告し,「完全にそろった,神からのよろい」を身につけることによって彼らに抵抗することを,人々に勧めています。(エフェソス 6:11,12)この種の戦いに勝利を収めるには,「思いをこめ」,「理性」をもって神に奉仕することが求められます。(マタイ 22:37。ローマ 12:1)では,正常な意識を抑圧する事柄を行なうことによってその助言に従うことができるでしょうか。そのような行為は,悪霊の勢力の影響を受ける危険にあなたをさらす恐れはないでしょうか。例えば,人は催眠術にかかると,他の理知のある人,すなわち催眠術者に支配されるようになります。そして,大英百科事典(1974年版)によると,人が催眠術にかかる最初の段階は,「気持ちよくくつろいだ状態で,ある対象を凝視する」ことです。それはヒンズー教の瞑想の初めのほうの段階と同じではありませんか。
聖書は,修業を積んだヨーガの行者たちが持っているような透視力を,はっきり悪霊と結びつけています。(使徒 16:16-18。申命 18:10-12)たとえわずかでも,段階が進めば悪霊の影響を招くような行為に毎日時間を費やすのは賢明なことですか。こうしたことは確かにあなたの霊的必要を本当に満たす方法ではありません。
創造者と良い関係を持つことを願う人は,神ご自身の条件に従ってそれを求めなければなりません。その条件は聖書に記されています。神の真理に関する聖書の論理的で事実に基づいた説明が,神のことばであることを確信できるかどうか,ご自分で調べてごらんになるのはいかがですか。(テモテ第二 3:16)聖書の基本的な真理を学ぶ際に援助を望まれるなら,エホバの証人は喜んでご援助いたします。
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進化は起こらなかった目ざめよ! 1976 | 3月22日
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進化は起こらなかった
● 進化論者は,聖書に述べられているように,神が「種類にしたがって」生物を創造したのではなく,様々な生命形態が数百万年もの間に変化を重ね,しだいに進化したと主張する。しかし,こうした説を信じる科学者は,現在生きている生物と全く同一の古生物の化石が発見される度に当惑する。最近,このような化石がまた発見されたとの報告があった。今回発見されたのはラン藻類の化石である。サイエンス・ニュース誌はこう述べている。「ハーバード大学の古生物学者の一チームにより発表された新しい証拠は,ラン藻類の化石が現在のものとほぼ完全に一致することを示している。この化石はまた,これまでに発見された中で最も複雑なものである」。長い期間を経ているにもかかわらず,この生物形態は異なったものに変化しておらず,“進化”していない。実際,生物は,「種類にしたがって」のみ繁殖するのであって,進化はかつて起きたことがない。―創世 1:11,21,24。
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