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どうすれば女性はほんとうに解放されますかものみの塔 1974 | 10月1日
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ているのを私は知りました。よく考えてみたとき,それは私にも道理にかなったことに思えました。創造者は,この世界のいたるところにはなはだしい利己主義と不道徳が広まっているのをごらんになって,驚きあきれておられるにちがいありません。この状態を人間が自力で是正することは決してできないと私は信じていました。
聖書の勉強を続けるにつれ,私は,神が成し遂げられることはわたしたち女性解放運動家が希望することよりもはるかにすぐれたものであることを,ますます確信するようになりました。なぜなら,神の王国のもとでは,女性の問題が解決されるだけでなく,創造者は,病気や死をも含めあらゆる種類の抑圧から全人類を解放してくださるからです。聖書の中で創造者が約束しておられるのはこのことです。そして創造者がその約束を果たされることを信ずる理由は十分にあります。
以上のようなわけで,私は今でも男女両性の解放のために戦っている者ですが,いまは違う方法で戦っています。毎週「討論会」や,法律上の女性の権利の向上のために戦うことに多くの時間を費やす代わりに,幸福な生活への真の希望は,神のことばのすぐれた原則を自分の生活にあてはめることにしかないことを人びとに示すことに,自分の時間を用いています。これだけが,神の義の王国の支配下の楽園となった「新しい地」における真の解放に通ずる道です。(ペテロ第二 3:13)― 寄稿。
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像を使うことが人に与える影響ものみの塔 1974 | 10月1日
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像を使うことが人に与える影響
人間は宗教的な特質を備えた被造物です。人類史のどの時代においても,人類の大多数はなんらかの宗教を実践してきました。
人がそれぞれ自分の神に仕える方法は文字どおり幾千にも上ります。そして幾億もの人が,崇敬の助けとして像を使用しており,その中には,仏教徒,ヒンズー教徒,いわゆる“未開”人のほか,キリスト教世界の多くの人もいます。
崇拝のさいに像を使用することを,神はどうご覧になるでしょうか。崇拝の対象として用いる像を作ることは,神の律法の中で禁じられていました。―出エジプト 20:4,5。コリント第一 10:14。
“相対的”な崇拝も偶像礼拝
多くの人は,崇拝のさいに像を使用することそのものは偶像礼拝ではないと唱えます。例えば,カトリック教徒の中には,像の前で頭を下げたり,ひざまずいたり,祈ったりしていても,実際にはその像を崇拝しているのではない,と言う人がいます。これは像が表わす者に対する“相対的”な崇拝にすぎないというのです。
しかし,幾世紀も昔の非キリスト教徒がこれと同じ主張をしていたことをご存じですか。(四世紀の)“教父”ラクタンティウスによると,当時の異教徒は,「われわれは像そのものを恐れるのではなく,その像の型となり,その像のささげられた者を恐れるのである」と論じていました。ヒンズー教徒や仏教徒の多くも,像を用いたその崇拝を正当化するために今日同様の言い方をしています。
神は,ご自身に対する崇拝のしかたとして,像を用いて相対的な崇拝をささげることを是認しておられますか。もしそうであれば,預言者の一人にご自分の姿を見ることを許して,その形状を聖書の中に書き記させたのではないでしょうか。しかし聖書には,「だれも神をみたものはない」と書かれています。(ヨハネ第一 4:12,バルバロ訳)イスラエル人がエホバに“相対的”な崇拝をささげるための像を作った時,神は,それを「背教」の行為と呼んで,それを強く非認する態度を示されました。―出エジプト 32:7,エルサレム聖書。
像そのものは特別のものではなく,相対的な崇拝をささげるための助けにすぎないという主張は,ほとんどの場合きわめて疑わしいものです。どうしてですか。実際のところ同じ人物の幾つかの像がある場合,そのうち特定のものがより多くの尊崇を受けたり,ある特定の事がらに関しては他の像よりよく“かなえてくれる”と思われたりしているのではないでしょうか。このことは,人々が,実際にはある特定の像に現実の力や崇拝を帰していることを示しています。
ローマ・カトリックの神学者トマス・アクィナスは,「キリストご自身に対すると同じほどの崇敬の念がキリストの像に対しても示されるべきである」とまで言いました。しかもカトリック教徒は,誤りの信条ながら,a イエス・キリストは全能の神であると信じていますから,これは,神に対すると同じほどの尊崇の念をキリストの像に対して示さなければならないということになります。こうして,像を用いた“相対的”な崇拝と偶像礼拝との間には実質的になんの相違もありません。
神以外のものを崇拝することについてはどうですか。崇拝の問題に関してサタンに答えたさい,イエスは申命記 6章13節を引用してこう言われました。「あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならず,彼だけに神聖な奉仕をささげなければならない」。(マタイ 4:10)後にイエスは,真の崇拝者はただ「父」のみを崇拝するとも言われました。(ヨハネ 4:23,バ)この点を深く認識していたみ使いは,自分に対して崇拝の行為をしようとした使徒ヨハネを戒め,「そうするな。……神を礼拝せよ!」と言いました。―啓示(黙示)22:9,バ。
自分のため神に“取りなし”をしてもらうため,イエスの地的な母親マリアやある特定の聖人に祈ることについてはどうですか。それに対する直接の答えとして,聖書はこう述べています。『神と人間との間の仲立は,人間であるキリスト・イエズスただ一人である』― テモテ第一 2:5,バ。
像の崇拝が人に与える影響
像の崇拝は,神のことば聖書の原則に反するものですから,人が神の是認や救いを得る上で助けとはなりません。それとは反対に,とこしえの命は,神を「知る」こと,つまり神の比類のない特質やお目的,また人類に対して神のなされた事などを親しく知ることに依存している,とイエスは言われました。(ヨハネ 17:3,バ)見ることも,感じることも,話すこともない像は,人が神を知り,神を正しく崇拝するのを助けるものではありません。(詩 115:4-8,バ)その最も重要な教育は,神のことば聖書を強勉することによってのみ得られます。
像の崇拝はなんの益ももたらさないだけでなく,有害でさえありえます。どうしてですか。最も重要な点として,像の崇拝はエホバとの関係を損う結果になります。「いとわしい〔偶像〕について,主のいかりを買った」イスラエルに対し,『私は顔をかくす』と神は言われました。(申命 32:16,20,バ〔新アメリカ聖書〕)神との関係を取り戻すためには,「罪深い……ぐうぞうを,すてる」ことが必要でした。―イザヤ 31:6,7,バ。
使徒パウロは,像の崇拝のもたらす別の有害な影響を指摘しました。パウロは,像に対してささげられる相対的崇拝は,実際には「神にではなく悪魔たちに」ささげられている,と語りました。(コリント第一 10:20,バ)時には,宗教的な絵や像や呪物を持っていることが,見えない領域からの攻撃を招く場合さえあります。
像の崇拝は神の是認を得るように人を助けるものではありません。神は,像を用いて行なわれる“相対的”な崇拝を,ご自身に対してではなく,悪霊に対してささげられるものとみなされます。像の崇拝は神との関係を危うくするだけであり,時には,悪霊からの直接の攻撃を招くことさえあります。ですから,「小さな子らよ,偶像を警戒せよ」という聖書の助言はなんと適切でしょう。―ヨハネ第一 5:21,バ。
[脚注]
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