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サタン崇拝 ― キリスト教世界のただ中で?目ざめよ! 1971 | 8月8日
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しかし,ご自分の定められた滅びの時まで彼らを生かしておられるのです。イエス・キリストの地上における宣教期間中にも,彼らは人間に乗り移ったり宿ったりして,倒錯した傾向を表わしていました。―創世 6:1,2。マルコ 1:32-34。ルカ 8:26-34。ユダ 6,7。ペテロ後 2:4。
知性を備えた被造物である天使がこのような倒錯に陥り,みずからを堕落させるということがどうしてありうるのですか。この点は,知性を備えた人間が不義の性関係を持つばかりか,同性愛や獣姦にさえふけるのを考えると,それほど理解しがたいことではありません。―レビ 18:22,23。
適切にも,聖書は心霊術の行為を「肉の行為」と呼んでいます。(ガラテヤ 5:19,20)したがって,ある礼拝式に関する次のような報告を読んでも驚くにはあたりません。いわゆる“悪魔のミサ”は“情欲のミサ”の形式で祝われ,自分のからだを祭壇としてささげた裸体の女と司祭が性交をします。次いで会衆内の各男子が司祭にならって同じ行為をし,その後,会衆内の男女は乱淫に身をゆだねます。
根本的には神への敵対
悪魔崇拝の指導者たちの発言から明らかなのは,神への崇拝を愚弄するためにできるだけショッキングなことをしたいとの欲望です。これは言うまでもなく,サタンと悪鬼の意志を遂行するものです。彼らは神から造られた,知性を持つ者がこのように自らを堕落させるのを見て,さぞかし喜んでいることでしょう。しかしながら,その“崇拝者”は危険な道を歩んでいると言わねばなりません。
サタンの崇拝者は神のことば聖書の戒めを破るショッキングなことをするばかりでなく,倒錯にふけってみずからの人間性と良心に反する道をたどります。(ロマ 2:14,15)さらに,彼らは自分たちの住む社会の良俗の規準を犯しているのです。
聖書はそのような人々,特に以前は神に仕えていたと主張する人々(サタン崇拝者の多くはそうであり,キリスト教世界の諸教会から出ている)を次のように描写しています。
「神を知りつつも尚これを神として崇めず,感謝せず,その念は虚しく,その愚なる心は暗くなれり。自ら智しと称へて愚となり,朽つることなき神の栄光を易へて朽つべき人および禽獣,はふ物に似たる像となす。この故に神は彼らを其の心の欲にまかせて,互にその身を辱しむる汚穢に付し給へり。彼らは神の真を易へて虚偽となし,造物主を措きて造られたる物を拝し,且これに事ふ…之によりて神は彼らを恥づべき慾に付し給へり…(彼らは)その迷に値すべき報を己が身に受けたり。また神を〔正確な知識において〕存むるを善しとせざれば,神もその邪曲なる〔精神の状態〕の随に為まじき事をするに任せ給へり」― ロマ 1:21-28,〔新〕。
致命的な危険
そうした悪の影響と接触する事態に引き込まれることは,たとえ好奇心からといえども賢明ではなく,むしろ致命的な危険を招きます。堕落した肉の行ないのわなに陥る危険を犯していることになります。しかしさらに悪いことに,真の神であるエホバ,創造者,宇宙の主権者を冒とくする人々と故意に交わるようになります。そうした闇のわざに加担する者に神の怒りが激しく臨むことを,聖書は明確に警告しています。―エペソ 5:3-7。
これと全く同じ忌むべき行ないのゆえに,神はカナン人を約束の地から一掃し,イスラエルにこう告げられました。「汝ら他の神々…に従ふべからず汝の中にいます汝の神エホバは嫉妬神なれば恐くは汝の神エホバ汝にむかひて怒を発し汝を地の面より滅し去たまはん」。(申命 6:14,15。レビ 18:24,25)いったいだれが全能の神に対して,自分をそのような立場に置きたいと願うでしょうか。―コリント前 10:22。
他方,悪魔崇拝者でない人でも,聖書研究による啓発を受けていないために,それとは知らずにサタンに崇拝をささげている場合があります。どうしてそのようなことがありうるのですか。
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それとは知らずにサタンを崇拝することがありえますか目ざめよ! 1971 | 8月8日
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それとは知らずにサタンを崇拝することがありえますか
公然と悪魔サタンを崇拝するそれら少数の「悪魔崇拝者」のほかに,自分ではそれと認めずに,あるいはそれとは知らずにサタンを崇拝する者がいます。
聖書を調べるなら,そうすることの危険が容易にわかります。聖書はこう述べています。「全世界は悪しき者に属する」。また,『この事物の体制の神は不信者の思いを盲目にした』。(ヨハネ第一 5:19。コリント後 4:4,新)さらに聖書は,サタンの主要な武器の一つが欺きであることをも告げています。―テモテ前 2:14,黙示 12:9,新。
サタンは聖書の中で「この事物の体制の神」として描かれていますから,彼は当然この世の政治・商業・社会事情に圧倒的な力を及ぼしています。ゆえに,神に敵対して戦おうとする彼は有力な人物を配下に抱き込みます。さもなければ,真理と,神の目的に関して人々を啓発させるわざとに対する組織的な反対を続けることは決してできないでしょう。
では,自分の支配する者すべてが放とうに身をやつして,動物の水準にまで完全に堕落してしまうか,または悪鬼につかれて狂気になれば,それでサタンの益になるというのですか。そうでないのは明らかです。それに,そうした極端に走る人は多くはありません。また,そうした人たちすべてが悪魔を崇拝していることを認め,あるいは知ることさえ,サタンの目的にそぐいません。彼は欺まん的であるゆえに,自分の利己的な霊を持っていながらも,少なくとも外見は,尊敬に価する,節操のある人として映る,知性と能力を備えた者を多く擁したいと望んでいるに違いありません。なぜですか。なぜなら,そういう人は自分と交わる者たちをいっそう容易に感化し,動かせるからです。
神に奉仕していると考えながら,どうしてサタンの支配下について,実際にはサタンに崇拝をささげるようなことになるのですか。
独立の精神
宗教心を持ち合わせていながらも,聖書は「時代おくれ」であると考えたり,それを無視したりする人がいます。そういう人は聖書の規準を捨てて,何が善か何が悪かに関して自分自身の規準を設けます。
こうした態度の一例として,ある“戦闘的同性愛者”の議論をあげることができます。彼はニューヨーク・タイムズ紙の中でこう書いています。「“道徳”および“不道徳”という語は,時と場所さらに大多数の人々の必要と相対関係にある判断上のことばである。たとえば,反ユダヤ主義や反黒人運動を道徳的とする社会や時代がいろいろあったし,それを非とするものもあった」。
もしこのことを認めるなら,殺人者でさえ自分を道徳的と呼べることになります。しかし,この“戦闘的同性愛者”の議論は,前述の自己決定の精神を表わしているにすぎません。彼は同性愛を非とする神の律法を拒絶しています。(コリント前 6:9,10。レビ 18:22)この議論はそうした自己決定の道が正しいことを証明するどころか,個人
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