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悪霊に立ちむかうものみの塔 1963 | 7月1日
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悪霊に立ちむかう
悪鬼に悩まされるとき,どうすべきですか。勝利を得るかぎはどこにありますか。
神のことばは,人間を悩まし,惑わす悪鬼に対してクリスチャンが立ちむかうべきことを強調しています。クリスチャン使徒パウロは助言しました,「わたしたちの戦いは,血肉に対するものではなく……やみの世の主権者,また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから,悪しき日にあたって,よく抵抗し……うるために,神の武具を身につけなさい」。―エペソ 6:11-13,新口。
この「終りの時」の悪しき日において,悪鬼はクリスチャンまた神のことばの真理を学び始めた人に対して,とくに攻撃を激しくしているように見えます。神のみ心を行なおうとする人は,眠りを妨げて肉体的にも精神的にも消耗させようとする悪鬼からの攻撃を受けていると知ったとき,あるいは「良い霊」と思われるものからのささやきを聞くとき,どうしますか。その「声」が神の国と神の国の証者たちから人をひき離そうとするならば,どうしますか。
悪霊から攻撃されるとき,鎮静剤,トランキライザーその他精神病に使われる薬を服用しても効果はありません。その原因は悪鬼の力にあるからです。この悪しき日に悪霊に立ちむかうことのできる手だては神の備え給うもの,「神の武具」の他にはありません。それで「キリスト・イエスの良い兵卒」は,この武具を着けて立ちむかい,悪しき日にあって悪霊と戦います。―テモテ後 2:3,新口。
霊媒術,うらない,「ささやき」を避ける
悪霊から攻撃されていると思う人は,興奮せずに落着いて反撃にとりかかることが必要です。まず自分の行いを吟味して,悪魔の働きである霊媒術と何のかかわりも持っていない事を確かめねばなりません。魔術に手を出していながら,悪鬼と戦うことはできません。
それで必要なのは自分のすべての活動を詳細にしらべることです。たとえばこっくり占い板,プランセットなどを使ったり,あるいはこのような器具を家においていませんか。たとえ軽度のものでも催眼術にかかることがありますか。いわゆる精神集中の運動また悪鬼の宗教に特有な姿勢をして,自らこうこつ状態にはいることをしますか。病気をなおす目的で心霊的また超自然的な診断や治療をする医者にかかっていますか。
時に悪鬼は夢やうらないに人の関心をひき,占いを生活のみちびきにするように人を欺きます。このような欺きにかかると,鳥や動物あるいは他の物体を見て,自分のとるべき行動を判断するようになるかも知れません。このようなうらないを避けなさい! うらないに頼ってはなりません。全能の神は「占いをする者」を罪に定める事を知り,神の言葉を導きにしなさい。
同様に一切の易断を避け,振子,占い棒などを使って紛失物,水,鉱物などを探すたぐいの事を避けなければなりません。水晶,占い者,星占い(その天宮図),超感覚的の知覚を有する者などに頼ってはなりません。―申命 18:10,11,新口。
悪鬼が人を欺き,悩ますためによく使うのは「声」です。この見えない者の声は,死んだ縁者あるいは神から遣わされた良い霊のふりをします。しかしそれはとんでもない偽りです!「声」が何と言おうと,声の主は良い霊の仮面をかぶって人を欺く悪い霊です。神のことばは,ある人々が「惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて,信仰から離れ去る」ことを預言していました。(テモテ前 4:1,新口)それで神が特別なおぼしめしによって霊者を自分に遣わされたと考えるのは,大きな間違いです。エホバは御言葉と制度によってご自分の民を導かれています。(マタイ 24:45-47)ゆえに神から遣わされたふりをする「声」に警戒すべきです。悪鬼は偽りを語る欺きの霊であり,欺きの天才です。「偽りの力と,しるしと,不思議」は,悪鬼の働きにほかなりません。(テサロニケ後 2:9,新口)霊界からのさ,やきに耳を傾けてはなりません。欺きの霊に打ち勝つことのできるよう神に求めつつ,あらゆる誘いに抵抗しなさい。
環境と交わり
見えない者の声や,眠りを妨げる寝室の奇怪な現象に悩まされている人があるとします。自分の活動一切をしらべて,霊媒術的なものと少しも関係のないことがわかれば,今度は自分の環境と交際をしらべなければなりません。まじない師,こっくり板を使う者,霊媒など,悪鬼との媒介をつとめる人と同じ家に住んでいるかも知れません。あるいは神秘的な行いをする人が家の中にいますか。そうとすれば,霊媒が近くにいない場所に引越すほうが賢明です。
また交わりにも十分注意しなければなりません。何らかの面で霊媒となって悪鬼に影響されている人と交際しているかも知れません。それが魔術,占いと関係することになり,あるいは心霊的な力によって「解脱」をはかることなどに通じていることもあります。悪霊に悩まされている人は,悪霊と関係している者と交わっている場合が多く,時には意外な人が霊媒の働きをして他の人に悪霊のとりつくことがあるのです。ゆえに悪い交わりを絶ちなさい。「悪い交わりは,良いならわしをそこなう」と,聖書は警告しています。(コリント前 15:33,新口)真のクリスチャンを友にしなさい。
悪鬼に悩まされている人は,悪鬼の攻撃を受け始めるとき,何かの物を与えられていないかどうかに気をつけるべきです。魔術使いは,人を魔術にかけるとき,何かの物をその人の前に持ってこさせます。それが悪鬼との連絡を可能にするのです。ブーズー教の魔術師から送られた服を着るときまって悪鬼の攻撃を受け,それを脱げば何でもない人がいました。それで身近にある物体または別の人を通して悪鬼がつき,その人を支配して精神的にも肉体的にも消耗させてしまうことがあります。
それで悪鬼に悩まされている人は環境や交わりをしらべるほうが良いでしょう。そうするとき,神の導きを求めて下さい。
神の武具を着ける
また神のことばに従って生活するという点において,積極的に行動しなければなりません。クリスチャンは血肉を相手に戦っているのではなく,悪霊と戦っている以上,これに勝つには「神の武具」が必要です。使徒パウロはエペソ書 6章11-18節において,「真理の帯,正義の胸当」をあげています。神の真理を否定して不義の行いに走り,エホバに不従順な人は,このような霊的武具を自ら捨てています。サムエルがサウル王に告げた言葉に留意して下さい。「従うことは犠牲にまさり,聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しい!」。(サムエル前 15:22,23,新口)エホバにそむいたサウロ王は聖霊を失い,その代りに悪鬼につかれました。この事からわかる通り,エホバの御霊に満たされていない人は,悪霊にとりつかれやすいと言えるでしょう。
ゆえに悪霊に立ちむかうには,神に従うことがまずもっていちばん大切です。エホバの戒めにそむく人は聖霊を失い,神の保護を失います。コリント前書 7章39節とコリント後書 6章14節は,クリスチャンが不信者とくびきを同じくしてはならないと述べています。ここに述べられた神のみ心を無視して不信者と結婚した一人のクリスチャンがいました。その不信者である配偶者の親類に悪鬼崇拝者がいて,このクリスチャンに呪いをかけ,大きな身体的害をこうむらせたという例があります。エホバの戒めに背いて勝手な行動をするのは,エホバの力を無視することであって,神の目に見てそのような人は悪鬼の力による占いをする者と等しいのです。それでこのような人は実際には悪鬼と戦っているのではなく,悪霊や霊媒と力を合わせています。神にそむく人は神からの保護を得られません。悪しき日にあって立ちむかうには,神に従うことが肝心です。
クリスチャンが悪鬼に攻撃されたとすれば,神の備え給う霊的な武具で十分に身を守っていないと言えるかも知れません。「救のかぶとをかぶり,御霊の剣,すなわち,神の言を取りなさい」と命ぜられています。聖書を学んでクリスチャンの希望をつちかっていない人の心は,攻撃を受ける空白な状態になっています。常に神のことばを読んで学び,エホバの備えられた多くの聖書研究の手引きを学んで,悪鬼の攻撃から心を守って下さい。悪鬼に悩まされる人は聖書の勉強を怠り,しかも神の原則にさからう事で心をみたしているかも知れません。使徒パウロは教えました,「すべて真実なこと,すべて尊ぶべきこと,すべて正しいこと,すべて純真なこと,すべて愛すべきこと,すべてほまれあること,また徳といわれるもの,称賛に値するものがあれば,それらのものを心にとめなさい」。―エペソ 6:17。ピリピ 4:8,9,新口。
神はまた足の備え,「平和の福音」を与えています。(エペソ 6:15,新口)それで神の国の福音を他の人に伝えるため,「御霊の剣,すなわち,神の言」を使いなさい。神の真理を学び始めた人あるいは霊媒術から離れようとする人は,その人を偽りの崇拝にひき戻そうとする悪鬼からとくに攻撃されます。エホバの御国と御国の証者からひき離そうとする「ささやき」に耳を傾けてはなりません。悪鬼は時に一晩中眠りを妨げてその人を疲労させ,翌日には「平和の福音」を伝道する力がないようにさせます。悪霊との戦いにどんなに疲れても,クリスチャンの宣教をやめてはなりません。御国の福音,真理を伝道して,悪鬼に立ちむかいなさい。真理は人に「自由を得させる」とイエスは言われました。この事は悪鬼の攻撃に打ち勝つのを助けます。―ヨハネ 8:32,新口。
信仰と祈り
「その上に,信仰のたてを手に取りなさい。それをもって,悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう」。(エペソ 6:16,新口)エホバに真の信仰をおくことが必要です。悪霊に悩まされるとき,悪魔の手先である霊媒術者に助けを求めるのは,信仰のないことを示す行いであり,悪魔とのかかわりが生ずるだけでなく,エホバの恵みを失います。エホバが悪鬼の力を砕くことを確信して,エホバ神に助けを求めなさい。エホバは幾度となく悪鬼の力を破りました。恐れを捨てなさい。エホバはご自分の僕を悪鬼から守るという事に信仰をもち,聖書が神の民に与えている次の励ましを心に留めなさい。「ヤコブには魔術がなく,イスラエルには占いがない」。―民数 23:23,新口。
ですから本当の信仰を抱き,神への奉仕に励み,絶えず祈ることによって,敵の力を破り,攻撃されても強く立つことができます。神のことばを学び,「絶えず祈と願いをし,どんな時でも御霊によって祈り」なさい。悪鬼から攻撃されたとき,神のみ名によって祈りなさい。「エホバの名はかたき櫓のごとし,義者は之に走りいって救を得」ます。悪鬼の声に悩まされるとき,声を出してエホバに祈り,その助けを信頼しなさい。「そうすれば,人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が,あなたがたの心と思いとを,キリスト・イエスにあって守るであろう」。―エペソ 6:18。箴言 18:10。ピリピ 4:7。
夜間に悪鬼の攻撃を受けたならば,電燈をつけるとよいかも知れません。どんな場合にも恐れたり,あわてふためいてはなりません。それは神経をまいらせ,悪鬼の思うつぼにはまることです。詩篇 119篇など,神のことばを学びなさい。ヨブやイエス・キリストも悪魔から攻撃されて,それに打ち勝ちました。あなたも勝利を得られます。
また一人で悪霊に立ち向かおうとしてはなりません。ドン・キホーテのような孤立主義者になってはいけません。クリスチャンには,イエス・キリストの兵卒である仲間の助けが必要です。霊的に十分な武具を身につけていた使徒パウロでさえも,兄弟たちに祈ってほしいと求めました。(エペソ 6:19,20)ですから円熟したクリスチャンの祈り,助け,導きをすすんで受け,集会を怠らずに神の民と親しく交わりなさい。
悪霊に襲われたならば,それに打ち勝つかぎは抵抗することです。それを心に留めて下さい。悪霊に抵抗しなさい! 立ちむかうことにあきてはなりません。戦いつづけなさい。悪鬼の圧迫にあってもクリスチャンの特権を手放してはなりません。「悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば,彼はあなたから逃げ去るであろう」。(ヤコブ 4:7,新口)エホバを求めつづけて,悪魔に立ちむかいなさい。そのときエホバは,私心なく神につかえ,ひたすらに神を恐れる,心の清い人,神に対して全き心を持つ人を救って下さるでしょう。エホバ神のみ心とみわざ,その言葉に,たえず心と思いを向けなさい。霊的な武具で身を固めなさい。それは神の国がすべての悪霊に対して勝利を得るときまで,「悪魔の策略に対抗して立ち得る」ためです。―エペソ 6:2,新口。
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読者よりの質問ものみの塔 1963 | 7月1日
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読者よりの質問
● なぜエホバの証者はお互いを「兄弟」,「姉妹」と呼び合うのですか。そのような呼び方をする聖書的な根拠を見つけた事がありません。イエスは弟子たちをいつも,「ペテロ」,「ヨハネ」と呼び,「ペテロ兄弟」とか「ヨハネ兄弟」とは呼びかけませでした。―アメリカの一読者より
献身したクリスチャンがたがいに,「兄弟」,「姉妹」と呼びかける正当な理由があります。福音書や使徒行伝の中でこれらの言葉が使われる場合には,2,3の例外を除き,ほとんど血縁の近親者を呼ぶ際に用いられたというのは事実です。しかし,イエスは共に信者となった者たちを呼びかける際に,広い意味で「兄弟」という言葉を使いました。たとえばイエスは次のように語った事があります。「みよ,これ我が母,わが兄弟なり。誰にても天にいます我が父のみこゝろをおこなふ者は,即ち我が兄弟,わが姉妹,わが母なり」。また,「もし汝の兄弟,罪を犯さば,ゆきてたゞ彼とのみ,相対していさめよ。もし聴かばその兄弟を得たるなり」。―マタイ 12:49; 18:15。
イエスの使徒や弟子たちも,もっとはっきりした意味で,「兄弟」という言葉を使っており,彼らが残した記述全体にそのような例はくりかえし見られます。「兄弟ととなえる者の中に或は淫行のもの……あらば,斯る人と交ることなく」とパウロは述べました。忠実な弟子アナニヤは迫害者サウロに対して,彼が一度悔い改めた後には,「兄弟サウロ」と呼びました。その後パウロ自身も,「兄弟ソステネ」,「兄弟アポロ」,「兄弟テトス」,「我らの兄弟テモテ」と言いました。またペテロもパウロの事を,「我らの愛する兄弟パウロ」と呼びました。また使徒行伝 21章20節には,「彼ら聞きて神をあがめ,またパウロに言ふ『兄弟よ,なんぢの見るごとくユダヤ人のうち,信者となりたるもの数万人あり』」という言葉があります。これらの数々の例を考慮すれば,クリスチャンが共に信者となった者に対し「兄弟」,「姉妹」と呼ぶのを妨げる確かな理由はなにもありません。―コリント前 5:11。使行 9:17。コリント前 1:1; 16:12。コリント後 2:13。ヘブル 13:23。ペテロ後 3:15。
第1世紀には行なわれていませんでしたが,今では名前と共に家族の姓も使われるようになっているので,今日行なわれているように,家族の姓と共に兄弟という言葉を付す事が便利になりました。この言葉を使うことによって極端な遠慮と極端になれなれしい呼び方との双方を避ける事ができます。大人の人をその個人の名前で呼ぶ事はお互いの間の親密さを表わしますが,どんな場合にも許されるわけではありません。特に,若い人が年上の人に話しかける場合や,まだ面識もない人同志の間では使えません。一方,「― 様」という言い方は親密さの欠けた感じがし,献身したクリスチャンの間ではあまり通用しない疎遠な感じを与えます。献身したクリスチャンはお互いを霊的,ないしは宗教的な家族の一員と見なしますから,「兄弟」,「姉妹」という呼び方は聖書的な呼び方であるばかりでなく,相互の間柄を示すために適当なものです。
● 1963年2月15日号ものみの塔,115頁(日本語は,1963年6月1日号339頁)に「祈りの特権は,神のみこころを行なうために,正確な知識にもとづいて献身した人々のものです」とあるのはなぜですか。―イランの一読者より
だれが祈れるかという事について,一般のクリスチャンの間には多くの誤解があります。事実上,普通のクリスチャンの大部分は,だれが祈っても,また,聞かれるという期待を抱いて祈るならどんな事柄を祈っても聞き入れられると考えています。しかしそうではありません。(箴言 15:29。ヤコブ 4:3)祈りは無制限の特権ではなく,制限つきの,限定された特権です。ヘブル書 11章6節に,「信仰なくしては神に悦ばるること能はず,そは神に来る者は,神のいますことと神の己を求むる者に報いを給ふこととを必ず信ずべければなり」,と書いてある通りです。他の言葉で言えば,人が神に聞かれるためには,神の存在を信じているだけでなく,熱心に神を求めていなければなりません。それこそエホバ神が不忠実なイスラエル人に,その祈りを聞かないと言われた理由です。またイエスは,独善的な人の祈りやうわべをつくろった祈りは聞かれない事を教えました。―イザヤ 1:15。マタイ 6:5-8。ルカ 18:11-14。
これらの点はいずれも祈りが制限的なものである事をはっきり示します。すでにものみの塔協会の出版物の中で要約されているように(「すべての事をたしかめよ」307~314頁),祈りが聞かれ,答えられるためには,正しい方,エホバ神,創造者,聖書の神に対してなされねばなりません。第二に,その祈りは正しい方法でささげられねばなりません。「我によらでは誰にても父のみもとにいたる者なし」とイエスは言われました。(ヨハネ 14:6)正しい仕方という事の中には,誠実さ,信仰,忍耐なども含まれて
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