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アテネ ―“多くの神々の都”ものみの塔 1981 | 10月1日
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「あなたがたの中で,自分はこの事物の体制において賢い者であると考える人がいるなら,その人は愚かな者となりなさい。こうして,賢い者となるためです。……『エホバは,賢い者たちの論議がむだなことを知っておられる』」。(コリント第一 3:18-20)単にその論議がむだなものであるだけでなく,その手の業も消えうせてしまいます。アクロポリスを見るとよいでしょう。金で飾られたアテナの像は消えうせてしまいました。今ではパルテノン神殿のごく一部分が残っているに過ぎません。また,アテナとポセイドンを一緒に祭ってあるエレクティウム神殿はどうなっていますか。かつての威容の面影はほとんど残っていません。
アクロポリスをあとにして,見上げるようなプロピラエ城門の階段を降りながら,私たちはアテネの法廷で使徒パウロの語った次の言葉を思い起こしました。「わたしたちは……神たる者を金や銀や石,人間の技巧や考案によって彫刻されたもののごとくに思うべきではありません」― 使徒 17:29。
真のキリスト教は依然として衰えていない
この小旅行を通して,古代および現代のアテネに見られる精神の幾らかをうかがい知ることができたでしょうか。この精神を余すところなく膚で感じるには,言うまでもなくその地の人々と交わらなければなりません。アテネ人が本当にもてなしの精神に富んでいることを感じ取った訪問者は少なくありません。ギリシャ語で見知らぬ人を意味する語が同時に客をも意味するのは決して偶然の一致ではありません。ギリシャ人は見知らぬ人を非常によくもてなすからです。
そうであれば,そのような精神を特徴とする真のキリスト教がアテネをはじめギリシャ全土に再び定着しているのも少しも不思議ではありません。アテネだけでも,7,000人以上のエホバの証人が110の会衆に交わっています。ギリシャ全土には2万人のエホバの証人がいます。パウロ同様,彼らも「異国の神々を広める者」とみなされますが,アテネやギリシャ全土の住民に,「知られていない神」エホバを宣明し続けています。
私たちの訪問は終わり,自分たちの歩みを振り返ってみました。遠くから,アクロポリスを最後にもう一度振り返ると,入り日が同市を見下ろす大理石の建造物をまばゆいばかりの黄金色に染めています。実に見事な景色です。しかし,私たちにとって特に喜ばしかったのは,この古くからの“多くの神々の都”アテネで,今や非常に大勢の人々が真の霊的な啓発を受けていることでした。
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読者からの質問ものみの塔 1981 | 10月1日
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読者からの質問
● 献身し,バプテスマを受けたクリスチャンが,プロボクシングに従事しながら,会衆内で良い立場にとどまることができますか。
クリスチャンがプロボクサーになるなら,神の諭しと真っ向から対立することになるでしょう。聖書の助言を幾つか考慮してみましょう。
聖書が明らかに示すところによると,献身したクリスチャンには,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,柔和,自制という神の霊の実を生み出す責務があります。(ガラテア 5:22,23)プロボクシングはこうした実すべてに公然とさからっています。聖書は,「すべての人に対して平和を求め」,争うことなく,「すべての人に対して穏やか」であるべきことを勧めています。(ローマ 12:18。テモテ第二 2:24)同様に,ヤコブ 3章18節には,「義の実は,平和を作り出している人たちのために,平和な状態のもとに種をまかれます」と述べられています。さらに『隣人を自分自身のように愛する』ようにと,また愛は自分の隣人に対して「悪」を行なわないので,隣人に危害を加えたり精神的苦痛を与えたりすることはないと告げられています。―ローマ 13:9,10。
プロボクシングを単に悪気のないスポーツと見ることはできません。ボクサーが,相手を傷付けようという強い衝動を抱いてリングに上がることはよく知られています。一時的に相手に殺意を抱くことさえあるかもしれません。こうした精神は,ボクシングの試合を観戦している人々の反応の仕方からしばしば分かるように,それを見ている人たちにも感じ取れる場合があります。時折,「殺せ,殺せ」という叫び声が聞かれます。
ですから時々,ボクサーがリングでひん死の重傷を負ったと新聞で報道されるのも不思議ではありません。ボクシングには,選手の一方が殺人者になりかねない危険が常に潜んでいるのです。そして使徒ヨハネが述べているように,「人殺しはだれも自分のうちに永遠の命をとどめていないことをあなたがたは知っています」。(ヨハネ第一 3:15)この見解を裏付けるものとして,経験の豊富なあるボクシング関係者は,ボクシングが「合法的な殺人」であり,それは法律によって禁止されるべきであると語りました。それはまた「故意の殺人」とも表現されています。プロボクシングにまつわる別の汚れた面は,そのスポーツの興業に関係する人々の種類です。多くの場合,それは暗黒街の犯罪分子によって管理されています。
こうした事実を考慮に入れ,会衆の長老たちは,プロボクシングに従事する献身し,バプテスマを受けたクリスチャンに対してどんな態度を取るべきでしょうか。まず第一に,前述の聖書的な原則に調和して,そうした兄弟に助言を与えたいと思うでしょう。(ガラテア 6:1)長老たちは優しく,しかもき然として,なぜこうしたボクシングが「平和の君」であられるイエス・キリストの献身した追随者であることと矛盾するのか,その理由について説明すべきです。(イザヤ 9:6,新)クリスチャンは「ほねおって働き,自分の手で良い業をな(す)」べきであるということも示せるでしょう。ボクシングリング上で敵を倒すことによって,プロボクサーとしての生計を立てるのは,「良い業」とは全く言えません。―エフェソス 4:28。
忘れてならないのは,プロボクシングによってかなりの額の生活費を得られるとしても,クリスチャンはそこまで身を落とす必要はないということです。なぜなら,神の言葉は,ヘブライ 13章5,6節で次のような保証を与えているからです。「あなたがたの生活態度は金銭に対する愛のないものとしなさい。そして,今あるもので満足しなさい。『わたしは決してあなたを離れず,決してあなたを見捨てない』と言っておられるからです。こうして,わたしたちは大いに勇気を持って,『エホバはわたしの助け主,わたしは恐れない。人はわたしに何をできようか』と言います」。
したがって,こうした人には,クリスチャンとしてふさわしくない職業をやめるための理にかなった期間が与えられるべきです。その人がその仕事をやめないなら,長老たちの取るべき道は,その人を会衆から除き去ること以外にないでしょう。―コリント第一 5:11-13。
● マタイ 4章1節には,「イエスは,悪魔に誘惑されるため,霊によって荒野へ導かれた」と書かれています。これは神の聖霊のことを言っているのですか。
イエスがバプテスマを受けられたあと,イエスを荒野へと導いたのはエホバの聖霊でした。イエスは断食をされましたが,これは祈りと黙想の機会になったことでしょう。(マタイ 4:2; マルコ 1:35; ルカ 5:16と比較してください。)エホバはこの時を用いて,ご自分の独り子に意思を伝達され,様々な指示や,一層の啓発や,心温まる保証の言葉を与え,前途に横たわっている事柄に対する準備をおさせになったものと思われます。
エホバは,ご自身の目的に関連してみ子を荒野に導くなら,そのあとに悪魔からの誘惑が臨むことを予知することがおできになりました。それでもイエスが荒野にいた40日間の最後の部分で誘惑を受けることは,神が取り決められたことではありません。そうすることが単に許されたに過ぎません。
イエスの経験がモーセの経験に類似していることには重要な意味があります。預言者モーセは,律法契約や仲介者としての役割に関する様々な指示を受けた際,40日間山の中にいました。(出エジプト 24:18; 34:28)モーセよりも偉大な預言者であられるイエスは,ご自分の追随者たちが霊的イスラエル人として結ぶことになっていた,またご自分が仲介者を務めることになっていた新しい契約に関し,荒野で様々な指示を受けたに違いありません。(申命 18:18,19。ルカ 22:20,28-30)モーセは山から降りて来た時に,イスラエル人が金の子牛を崇拝し,エジプトに帰りたいと言っているのを見て忠節と忠誠に関する厳しい試練に直面しましたが,同じようにイエスも,40日間の最後の部分で,厳しい試練にさらされたのです。―出エジプト 32:15-35。
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