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スポーツ ― それはなぜ人を興奮させるのか目ざめよ! 1982 | 8月22日
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スポーツ ― それはなぜ人を興奮させるのか
スポーツ ― なぜ暴力行為が増えているか
それは1981年10月25日の午前10時38分のことでした。長距離走者のいでたちをした1万4,000人以上の人々が米国ニューヨーク州にあるベラザーノー・ナローズ橋のスタテン島側の端に並んでいました。突然,大砲の音が響き渡り,人々の列が2本の川のようになって橋を渡りだしました。どのような催しがあって,これほど大勢の参加者が集まったのでしょうか。それは1981年度のニューヨーク・マラソンでした。
約200万人が42㌔に及ぶ沿道に並んでこの競走を見物し,さらに無数の人々がテレビでそれを見ました。57か国から選手が参加しました。ニューヨーク市は大いに肩入れし,無数のニューヨーク市民や他の人々が手に汗を握りました。
スポーツのことで興奮するのは世界的な現象です。例えば,最近のニュース報道は中国でスポーツ熱が高まっていることを伝えています。ニューヨーク・タイムズ紙(1981年11月18日付)はこう伝えています。「昨夜,幾万もの中国人が[北京の]その下町の広い地区に繰り出し,お祭り騒ぎをした。……人々は,中国の女子バレーボール・チームが米国……および日本を破って,……初めて世界選手権を勝ち取ったことの喜びに酔っていたのである」。平常は落ち着いている中国人でさえスポーツのことで興奮しました。バレーボールは北京の新聞の第一面のニュースになりました。
スポーツが人々を興奮させることを示すもう一つの顕著な例は,1982年6月13日から7月11日までの期間にスペインで開かれる予定の1982年度ワールドカップ・サッカーの決勝で,これは予選を通過した24か国の間で争われます。過去2年間に100以上の国々が最終的な予選通過国24か国のうちに入る名誉を得るために競い合ってきました。世界中の無数の支持者たちがこれらのサッカーの試合の行方を深い関心を抱いて見守っています。ナイジェリアのラゴスでは,ナイジェリア対アルジェリアの試合の始まる8時間前に,競技場は大観衆で埋まっていました。同様に,中国のサッカーチームがワールドカップ・シリーズへの出場権の懸かった試合でクウェートを降したことを大勢の中国人のファンが祝いました。
スポーツが大衆を引き付け,興奮させるのは確かです。しかし,それはなぜでしょうか。
現代の生活の基本的な一つの要素は,コンピューターで物事が制御されているこの社会の中で,幾百幾千万もの人々が退屈で単調な生活を営むことを余儀なくされている点です。その結果,手に汗を握るようなスポーツ幻想の世界に入ることにより,つらくて単調な決まりきった仕事から抜け出そうとする人が少なくないのです。少数の人は参加することによりその願いを実現しますが,大多数の人は観客になることによって,その願望を実現させるのです。しかし,皆,興奮を求めており,それは不確実性から生じます。スポーツでは不確実性,つまりだれが勝つか,がかぎなのです。それで,大勢の人々がスポーツの試合に集まったり,テレビに釘付けになったりするのです。
では,スポーツは有益ですか。それとも有害でしょうか。参加するにしても観客になるにしても,スポーツはあなたに益をもたらすものですか。小中学校や高校,大学やプロなどのレベルのスポーツはどうですか。スポーツに関連した暴力行為が増えているのはなぜでしょうか。それが競技場の特別観覧席にまで広がってきたのはなぜでしょうか。
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スポーツに暴力行為が見られるのはなぜか目ざめよ! 1982 | 8月22日
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スポーツに暴力行為が見られるのはなぜか
スポーツ ― なぜ暴力行為が増えているか
下に掲げたのは,近年様々な国々で新聞のスポーツ欄や論説欄に載せられたほんの幾つかの見出しです。競技場の内外を問わず,スポーツは暴力行為と同一視されるようになってきました。しかし,どうしてでしょうか。
暴力行為は増加したか
米国のボストン大学医学部精神科の準教授であるスタンレー・チェレンは最近次のように書きました。「人々が暴力行為に慣れれば慣れるほど,暴力的な刺激を求める願望を満たすために,さらに極端な暴力行為がなお一層必要になってくる。……人々は他の人が傷つくのを見るために大金を払うであろう。……人々が飽きるにつれて,それはエスカレートする。1930年代には,人々はジェームズ・ケグニーが映画の中で女性を平手打ちするのを見て衝撃を受けたものである。今ではそんなことは何でもない。興奮を求めて,それよりもはるかにゆゆしい暴力行為が要求されている。……それで,リングの上で殺されるボクサーがいるという事実があるにもかかわらず,ファンはもっと戦い合うことを求めた。……飽き足らなくなった我々は,選手が死の危険を冒すのを許すほどになってしまった」。
この点を北アメリカで人気のあるフットボール(サッカーではない)を例に取って見てみましょう。アメリカン・フットボールといえば身体的な接触のあるスポーツとして知られてきました。これは英国のラグビーの方式に倣ったものですが,身体的な接触はラグビーをさえ上回ります。ところが,最近では,一層暴力的なプレーが一般に標準的な事となってきました。多くの場合,身を守る装備は攻撃用の武具と化しています。例えば,選手たちは岩のように硬いプラスチック製の保護用ヘルメットを使って自分の頭を飛び道具に変え,相手をひどい目に遭わせるのです。
プロ・フットボールの選手であるジャック・テータム(オークランド・レーダーズ)が最近出した「暗殺者と呼ばれる男」という本の中で述べた次の言葉は,フットボールの試合にかかわる暴力行為をよく要約しています。
「プロ・フットボールは凶暴で,残忍なもので,感傷的になる暇などほとんどない」。
「ダウンにするだけのためにタックルするということは決してない。私は自分が追い掛けている相手をひどい目に遭わせ,私の方に来ればその度に痛い目に遭うことを思い知らせてやりたいと思うのである」。
「“殺る”という言葉を使ってきたが,私は人を殴るとき,本気で殺ろうとしているのである。もっとも,本当に殺してしまうという意味ではない。つまり,私はそのプレーあるいはパスを殺ろうとしているのであり,人を殺そうとしているのではない。……フットボールの構造は相手をひどい目に遭わせることを基盤にしている」。
「私は自分の一番良い当たりが重い暴行罪すれすれのものであると考えたいが,同時に私のすることはいずれも,規則集に反してはいないのである」。
テータムの最後の言葉は重大な意義を持つものです。この選手の一度のタックルで,ある人の体がまひして再起不能に陥りましたが,それも「規則集に反してはいない」行為だったのです。ほかの所で行なえば重い暴行罪に当たる行為が,競技場では合法的な行為になるのです。あるスポーツ評論家は,「ユニホームを着ていれば治外法権の下に置かれる」と述べたのも不思議ではありません。
テータムの意見は,単に一人の特定の選手の態度を反映しているのではありません。ピッツバーグ・スティーラーズ(米国のフットボール・チーム)のヘッドコーチ補佐であるジョージ・パーレスは,「[フットボール]はそれはそれは乱暴な生き方で,卑劣で,激烈で,残忍で,男性的なものだ」と述べています。著述家のウィリアム・B・ファーロングは,ニューヨーク・タイムズ・マガジン誌に寄せた記事の中でこう述べています。「[スクリメージ]ラインのセンターは地獄の生活と呼ばれているが,その名の通り常に激しい暴力行為があり,暗い部屋の中でナイフを使ってするけんかと同じほどの暴力行為が見られることもある。……多くの場合,パンチをあびせたり,ののしったり,目玉に親指を突っ込んだり,け飛ばしたりすることさえある」。
クリーン・ベー・パッカーズというフットボール・チームの攻撃側のラインマンであるジェリー・クレイマーは,自著「即座に返報」の中でこう書いています。「私は試合のために卑劣で,厳しくなろうと決意してその日一日を始めた。これは[試合間際の]土曜日や日曜日になってやれるようなことではない。月曜日か火曜日[試合の1週間前]からしていなくてはならない。……徐々に怒りをつのらせ,次いで憎しみへと持ってゆき,感情をいよいよ激しく燃え立たせ,日曜日には爆発寸前になるまで感情を高めておくのである。……ある人を憎みたいと思う場合,試合前に相手のチームを見ないようにしている。……相手を見なければ,相手を憎む気持ちが幾らか強まるように思える」。
この同じ暴力的な精神はサッカーでもますますあらわになってきています。ブラジルのサッカー・チームであるサンパウロ・コリンティアンズのかつてのゴールキーパーであったエイトール・アモリムはこう述べています。「私は1970年にサッカーをやめましたが,当時サッカーは変遷期に入っていました。技術を重んじるゲームから力のゲームへと変わりつつあったのです。業や技術は暴力に道を譲るようになりました。ペレ[史上最大のサッカー選手と言える人物]が今日まだ現役で活躍していたなら,60年代に見せたあのすばらしいプレーの50%をやってのけることができなかっただろうと思います。暴力行為に阻まれたでしょうし,ファンもそれに同調したでしょう。彼らは暴力行為を好むようです」。
かつてはフェアプレーと紳士的な振舞いの粋とみなされていたテニスやクリケットのようなスポーツにさえ,言動両面の暴力が忍び込んでいます。かつてテニスは,スポーツマンシップを実践することを学んだ礼儀正しい人々のゲームと考えられていました。ここ10年ほどの間に,一流のプロ選手のある人々が見せた攻撃的な言葉遣いや,むかっ腹を立てる態度や,ひわいな言葉などのために,その哲理も消えてなくなってしまいました。
学校はその影響を受けているか
プロスポーツのレベルでそのような暴力行為があるとすれば,大学や高校のレベルにも似たような態度が浸透して行ったとしても不思議ではないのではありませんか。米国ニュージャージー州出身のがっちりした体つきの24歳のマービン・ビッカーズは,ノース・ブラウンズウィックの高校でフットボールの選手をし,大学でフットボールの選手になるようにとの勧めを幾つか受けました。ビッカーズは学校でのスポーツに見られる暴力行為についてどんなことを述べているでしょうか。「コーチは私たちに汚いプレーをするよう勧めました。例えば,相手があばら骨を痛めていることを知っていれば,『あの傷ついたあばら骨をたたけ!』という指令が出されます。実のところ,相手の選手を二,三人傷つけて引っ込めなければ,本当の試合とは言えませんでした」。
高校のレベルでさえ,若者たちに憎しみと暴力が吹き込まれています。大学と高校の教官であるフレッド・F・ポーレニッヒはこう書いています。「若者たちは勝利という名の神のために,傷つけ,だまし,ひどい目に遭わせることを教えられている。コーチたちは高校や大学のチームに暴力映画を見せ,敵に対する感情を高ぶらせる」。
荒々しいスタイルのプレーで有名な,カナダのアイスホッケー選手,デーブ・シュルツは最近こう語りました。「僕のやり方やプレーを模範にした若い選手たちにおわびしなければならない。……僕がそのようなプレーをしたのは,コーチもファンもマスコミも皆が皆僕にそうするよう期待していると思えたからである」。
この最後の言葉から,当然次のような質問が生じます。
暴力行為が増加したのはなぜか
「コーチも,ファンも,マスコミも」。スポーツに見られる暴力行為を引き起こす主要な要因となったのはこの三者です。これらの人たちの間には需要と供給の法則が成り立っています。ファンは刺激と興奮を求めます。これが需要です。コーチは大抵,自分たちのフランチャイズが財政的に潤うことを望む実業界の大立て者に雇われています。これはファンを常に喜ばせておかなければならないことを意味しています。それで,コーチは一般大衆の要求を満たす行動へと走ります。マスコミ,それも特にテレビが傍観者の立場でそれに加わり,暴力行為を称揚したり非難したりします。
何年か前,米国のフットボール・チームのグリーン・ベー・パッカーズのプロ・コーチ,ビンス・ロンバルディは,今では使い古された次の言い回しで自分のスポーツ哲学を言い表わしました。「勝つことがすべてではない。勝つことしかないのである」。この考え方は確かにロンバルディが初めて思い付いたものではありません。このコーチはプロ・スポーツ界に広く行き渡っている物の見方を短い言葉でまとめ上げたにすぎないのです。
しかし,勝つことがなぜそれほど重要なのでしょうか。上記のニュース報道はその答えを示してさらにこう述べています。「[米国の]諸大学は,様々な理由から,第一線級の運動プログラムに幾百万ドルものお金をつぎ込む(その大半は奨学金を受けている運動選手のためのものである)が,中でも,フットボールやバスケットボールのチームが成功を収めれば,ばく大な利益をもたらす可能性があるということは,決して小さな理由ではない」。
大企業と利益とが問題のかぎになっています。スポーツはかつてないほどお金を生み出すものとなっています。1981年9月に行なわれた,シュガー・レイ・レナードとトーマス・ハーンの対戦は,「単一のスポーツ行事としては史上最も収益の多いもので,総額3,700万㌦(約85億1,000万円)が見込まれていた」とのことです。最近,米国の8人の野球選手が,「年俸平均50万㌦(約1億1,500万円)から92万6,000㌦(約2億1,300万円)」の契約にサインしました。ロサンゼルス・ドジャースの有名なメキシコ人投手,フェルナンド・バレンズエラは,品物の推薦広告料からだけでも1シーズンに30万ないし50万㌦(6,900万ないし1億1,500万円)をかせいだと伝えられています。アルゼンチンの日刊紙ラ・ナシオンによると,ボーカ・ジュニアーズ・サッカー・クラブは,アルゼンチンの花形サッカー選手の一人である「ディエゴ・アルマンド・マラドーナを確実に獲得するための第1回の支払い」として約2億3,000万円相当の手付金を支払いました。オーストラリアからは次のような報告が寄せられています。「今や,フットボールは天井知らずの利潤を生む大企業になっており,ビクトリア州のフットボール・リーグの12のクラブは各々幾百万オーストラリアドルの年間総売上げがある」。
大企業がスポーツにかかわるようになった最終結果は何ですか。暴力行為の増大です。なぜでしょうか。それは,スポーツが今や観客やテレビ局からばく大な収益を上げることが求められるようになったからです。それは,大量の現金が絶えず確実に流れ込んで来るようにするため,消費者とも言える人々をスポーツ中毒者に変えなければならないことを意味しています。それはどのように行なわれるでしょうか。客の求めるもの ― 興奮 ― を与えることによってです。そして,その興奮は普通暴力行為を意味します。このようにして独自に回転するサイクルが出来上がります。ファン(“fanatics”[熱狂者]の略)が暴力行為を望むので,コーチはそれを教え,また要求しなければなりません。また,実業界の大立て者も利益を求めます。一方マスコミは,自分たちの販売部数を飛躍的に伸ばすために,賛辞と非難を織り交ぜます。この悪循環のただ中で身動きが取れなくなっているのは,刺激や興奮や暴力行為という商品を提供しなければならない選手たちです。
観客の暴力行為が起きるのはなぜか
スポーツ界の今日の法外な俸給や賞品は,暴力行為を引き起こす第二義的な動因を生みました。どのようにでしょうか。観客は高い俸給を受けているプロ選手を見るために高いお金を支払います。そのため,観客は常に完全なものを求めます。失敗や休みは認められません。ボストン大学のジョン・シェファーズ教授は,この過程を見事に説明してこう述べています。「俸給を受け過ぎていると思われ,時にはつむじ曲がりであると見られ,確かに腐敗しているとスポーツ・ファンからみなされている選手に対する敬意が減少するのは当然の帰結である。結果として,プロ・スポーツ界の人々は芸当をするアザラシよろしく,何をするにしてもいつも完全であることが求められ,選手たちは人間として扱われず,経営者や観客の目には商品とみなされる」。
論理的に言って,この過程はどんなことに行き着きますか。観客の暴力行為です。でも,どうしてそうならなければならないのでしょうか。では,スーパーマーケットで不良商品を買わされたらどうしますか。支配人か生産者に苦情を言って,補償を期待します。では,演技が意に満たない場合,スポーツの行なわれている競技場でどのようにして苦情を述べるのでしょうか。補償を求める公式の経路がないので,失望したファンは感情を爆発させ,自然に暴力行為を引き起こすのです。
過去20年間に,観客の暴力行為はさらに二つの要素,つまり麻薬とアルコール飲料により増し加えられてきました。ファンの多くがスポーツの行なわれる競技場にやって来る時には,すでに酔っていたり,麻薬に陶酔したりしているか,あるいはそうなりつつあります。しかも,試合中そのような気分を保つために余分のビールやマリファナを準備してきているのです。試合が進むにつれて群衆は暴徒と化し,抑制力は消失し,その結果「狂気の暴力ざた」という見出しが次の日の新聞に載るのです。
ヨーロッパでは観客の暴力行為が目に余るようになったため,多くの国々は試合に特定のファンが来ることを望まないほどです。「イングランドのファンは金輪際お断り!」 これはスイスの静かな都市バーゼルでイングランドを応援する人々が荒れ狂った後,スイスのその都市から出されたメッセージです。スペインのバルセロナ市の下町に住む人々は,1972年にその町の街路をパニック状態に陥れる種をまいた,グラスゴー・レンジャーズのファンのことを考えるとぞっとします。事態が悪化しているという事実は,恥ずかしい思いをした一人のイングランドの後援者の次の言葉に示されています。「私は13年間というもの我が軍の海外遠征に同行したが,事態が悪化の一途をたどっているのを目にしてきた。今では,チェルシー市やウエスト・ハムやマンチェスターあたりからの不作法者[無頼漢]がもめ事を起こすだけのためにやって来ている。こうしたやからは試合を見ることさえしない」。
解決策はあるか
競技場の内外を問わず,スポーツにかかわる暴力行為は今や一種の世界的な疫病になっています。ありとあらゆる種類の一時しのぎの解決策が提案され,試されてきました。世界各地の競技場の多くでは,今ではファンが動物園の野獣のように,堀で隔てられた上,金網で囲われています。中には,相対するチームのファンが別個の区画の観客席に座るよう規制されている競技場もあります。警官や機動隊も強化されています。当局者の中には,暴力行為をする選手や観客を対象とした厳しい法律と罰則を設けるよう提案している人もいます。スポーツマンは,アイスホッケーのようなスポーツにおける特定の暴力的なプレーを禁止するよう提唱してさえいます。「しかし,これが入場券の売上げにどんな影響を及ぼすかを恐れるチームのオーナーは,決してそれに基づいて行動しようとしなかった」。
明らかに,法律を制定することによってスポーツマンシップやフェアプレーの精神を人々の心や思いに入れることはできません。それは,生活に対する平衡の取れた取り組み方に欠くことのできないものとして教えられなければなりません。しかし,それは可能でしょうか。もし可能なら,読者やお子さんはどうすればその益にあずかれるでしょうか。どうしたら,スポーツを命懸けの苦しい体験ではなく,健全で楽しい活動にすることができるでしょうか。
[4ページの図版]
スポーツと暴力の災禍
ニューヨーク・タイムズ,1981年10月18日
乱闘騒ぎを顧みる
ガーディアン,1981年11月7日
試合中の暴力事件: フットボール選手死亡
オーストラリアン,1980年9月15日
ファンの暴力行為の示
ニューヨーク・タイムズ,1980年7月27日
暴力的になるファン
デーリーニューズ,1981年10月16日
ゴールデン・グローブ賞のボクサー死亡 試合に敗れた直後
エクスプレス,1981年3月2日
[5ページの図版]
これがもたらした結果
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スポーツと家族 ― 平衡の取れた見方目ざめよ! 1982 | 8月22日
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スポーツと家族 ― 平衡の取れた見方
スポーツ ― なぜ暴力行為が増えているか
「この女の人はみだらな言葉で大声を上げながら,こちらへ走って来たんです。私が引き下がると,この人は私をけ飛ばし,ひっかいたんです」。一方の側はこう答えます。「わたしがそこへ行くと,この女の人が殴りかかって来たので,わたしはこの人をけ飛ばそうとしました。でも,どちらも外れました。当たっていたらよかったのに。もう一度同じことがあったら,同じことをしてやるわ」。
さて,一体何が起きたのでしょうか。女子プロレスの試合ですか。いいえ,二人のカナダ人の母親が10歳になる息子たちのサッカーのトーナメントの際にけんかをしたのです。
これはある子供たちがスポーツに関して抱えている問題の一つをよく示していると言えるかもしれません。つまり,親たちが問題なのです。自分の子供がリトル・リーグの野球に参加していることについて一人の母親は次のように書いています。「わたしたちは息子たちにこれを楽しみ,また特権として与えました。……ところが,それに夢中になったのはわたしたちの方でした。わたしたちは自分の競争心をこれらかわいそうな子供たちに押し付けたのです。そうなると当然子供たちは,自分が楽しむためではなく,わたしたちのほほ笑みを絶やさないために野球をするようになります」。
オーストラリアでは,「まだ5歳か6歳にしかならない子供たちが,非常にストレスの多い,競争心むき出しのスポーツの環境の中に押し込まれている。多くの組織,ラグビーやサッカーやクリケットなどの組織が,10ないし12歳になるまで始めるべきではないという公式の見解を表明しているにもかかわらず,そうしたことが行なわれている」ということです。オーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ州のW・W・イーウェンズ博士によると,「幼い子供たちには大人のスポーツをする備えが生理学的にも,心理学的にも,社会学的にも,できていないことを示す[証拠]は決定的であると言っても不当ではないであろう」としています。
では,親やコーチは子供たちになぜそれほどの圧力を掛けるのでしょうか。ニューヨークの児童心理学者,レナード・ライヒはこう語っています。「親が自分の子供を自分の身代わりにしようとし過ぎたり,子供たちを通して自分が生きようとしたりする時に,親は分を越える。ある親たちにとって,それは自分の若かりし日に戻る機会になるからである」。ただ問題となるのは,そのような大人たちが子供たちの試合に大人の基準を当てはめる傾向があることです。その結果,遊ぼう,楽しく,おもしろくという精神が,負けるな! 負けるな! 負けるな! という精神に取って代わるのです。
平衡の取れたかかわり方
親が子供たちのレクリエーションに関心を示すことは確かに必要ですが,そのかかわり方は平衡の取れた,建設的なものであるべきです。アイスホッケーの花形選手,ボビー・オールが,「父はホッケーをするよう私のしりをたたくようなことは決してしませんでした。私は自分が好きだからホッケーをしていたのです」と説明している通りです。ニューヨークの陸上競技のコーチ,ビンセント・チアペッタは息子に対する自分の考え方についてこう語っています。「私は陸上競技をしてはいましたが,息子を無理に走らせようとはしませんでした。……息子の試合には出掛けて行きましたが,それは息子が自分の子であり,私には責任があったからです。しかし,コーチが子供たちに圧力を掛けているのを見て,そのコーチに息子をやめさせたいと告げました。私に関する限り,勝つことがすべてではないとコーチに知らせてやりました。しょせんゲームはゲームにすぎないのです」。
では,お父さんやお母さんが子供たちと一緒に何らかの形式張らない野外のゲームに加わるなら,若い人たちはどのように感じるでしょうか。6人兄弟の一人であるリック・リッテンバッハは次のように思い出を語っています。「子供が6人いたので,よくソフトボールやバレーボールをしたものです。そして,お父さんやお母さんが加わってくれると,みんな夢中になって喜んだものです。それに両親も楽しんでいることがはっきり分かりました。これは家族としての一致を保つのに役立った数々の要素の一つだったに違いありません」。
スポーツをすると,年齢を問わずだれでも元気付けられるものです。しかし,特に子供たちはレクリエーションを何よりの楽しみとみなしており,それが親との良い関係と結び付けられるなら,その益は増し加わります。そうすれば,幸福で,健全で,一つに結び合わされた家族になります。では,そのようになるための秘けつは何ですか。平衡です。レクリエーションやスポーツは気晴らしにとどめられるべきであり,命懸けの争いや分裂を生じさせる戦場であってはならないのです。
身体の訓練 ― 有益?
聖書はスポーツの分野について何らかの実際的な指針を与えているでしょうか。
まず第一に,聖書の次の有益な基本的助言を銘記しておきましょう。「あなた方が道理をわきまえていることをすべての人に知らせなさい」。(フィリピ 4:5)これを読むと,すべての物事に平衡の取れた見方が必要であることがすぐに分かります。例えば,使徒パウロは運動を重んずる当時のギリシャ世界にあって,一人の若いクリスチャンにこう書き送りました。「自分を霊的に訓練しなさい。体の運動は確かに有益ですが,霊性の有用さには限りがありません」。(テモテ第一 4:7,8,エルサレム聖書)別の聖書はこの箇所をこう訳出しています。「体の訓練は限られた益をもたらします」― 新英訳聖書。
では,その益が限られたものなら,スポーツに全時間没頭するのは賢明なことでしょうか。人生の真の価値はスポーツを基にしているのでしょうか。そして,スポーツが『自分自身のように隣人を愛しなさい』とか『自分が他の人にしてもらいたいと思うような仕方で他の人にも行ないなさい』という基本的なクリスチャンの原則に反する場合にはどうでしょうか。課外活動でスポーツをすることがクリスチャンの原則を共にしない人々との不必要な交わりを意味する場合はどうですか。それは霊性を損ないますか。コリント第一 15章33節は“損ないます”と答えてはいませんか ―「惑わされてはなりません。悪い交わりは有益な習慣をそこなうのです」。
レクリエーションとしてのスポーツは確かに「限られた益」をもたらしはしますが,それを真剣に取り上げ過ぎる場合に危険があるという可能性に気付いていなければなりません。聖書はこの点に関して一つの指示を与えています。「自己本位になって,互いに競争をあおり,互いにそねみ合うことのないようにしましょう」。(ガラテア 5:26)この前の記事は,競争の度が過ぎると暴力行為を引き起こしかねないことを示していました。競争の精神の度が過ぎると,最終目標である勝つことだけが意義を持つようになり,ゲームの楽しみのほとんどが相殺されてしまいます。
ほかの翻訳はこの聖句を次のように訳出しています。「わたしたちはむなしい名声を求める欲望を持ってはなりません」。(バークレー訳)「名声や人気を得……る必要はなくなります」。(リビングバイブル)若い人々はスポーツの分野での成功の幻想に引かれます。若い人たちは花形選手や優勝者や注目の的になることを夢見ています。大半の人にとってそれは実現不可能な夢です。“恵まれた”少数の人にとって,その代償は高く,しばしば恐ろしく高価なものになります。米国の元フットボール選手のダリル・スティングレーはそのことを身にしみて感じました。1978年8月に激しいタックルを受けた結果,それ以来首から下が麻痺してしまったのです。
ブラジルのサッカーの花形選手,エイトール・アモリムは,この点に光を当て,こう語っています。「花形選手になって,名声を一身に集め,成功をものにするのはごくごくわずかな人であることを決して忘れてはなりません。トップクラスの選手になる人一人に付き,幾千人もの人が失意に沈むことになるのです。そうした人たちは勉強の点では落第し,スポーツで失敗し,そしてやめて行きました。離れて行く時に何を受けましたか。冷たいあしらいです。敗北者について知りたいと思うような人は今日一人もいません」。
では,基本的にいって,スポーツに関して従うべき最善の助言はどのようなものでしょうか。オーストラリアの元フットボール選手,ピーター・ハニング(1964年から1975年までスワン・ディストリクトのプロ選手)にこの質問に答えてもらいましょう。「運動を楽しみなさい,というのが若い人々への私の助言です。スポーツは,人がいつも健康で楽しい気分でいられるようにその気晴らしとなるレクリエーションです。しかし,プロのスポーツとなると話は別です。それにはほかのすべてのものを排除し,ただスポーツだけに打ち込むこと,つまり全き献身が求められます。そして,そのための代償は高くつきます。人との関係であれ,神との関係であれすべての関係が損なわれます。追従・不道徳・そねみ・誇り・強欲などのそろった世界の一部になります。しかも,障害の残るようなけがをする危険に絶えずさらされているのです。あるいは,良心的な人にとってはそれ以上にいやなことかもしれませんが,他の人にひどい傷を負わせる結果にもなりかねません。私自身が負傷した記録を列挙してゆくと,腕の骨折1回,鼻(4回)およびほほ骨の骨折,ひざの軟骨の切除,背中の負傷,2度の脳しんとうなどがあります。ところが,他の人々と比べれば,私は割合軽くすんだ方なのです」。
ですから,確かに「若い人の栄えはその力」(箴言 20:29,口語訳)とはいえ,人生における様々な関係の基は力にではなく知恵にあることを忘れてはなりません。では,スポーツを平衡の取れた仕方で楽しみましょう。スポーツで気をまぎらすことはしても,決してそれに取りつかれてはなりません。それによって気分転換を図ることはしても,決してその奴隷になってはなりません。
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