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  • サッカー界の花形から敬神の道へ
    目ざめよ! 1980 | 3月8日
    • するまたとない機会がありました。私は試合の時の観客を見,それからその人たちを,日曜日にエホバの証人の大会に出席した8万2,000人の人々と比べてみました。その週に,私はサッカーの花形選手としての生活と敬神の道との間にある大きな相違を,痛切に感じました。

      それでもなお,私は自分がフットボールをすることと,エホバの証人になることとは矛盾しないと思っていました。ある晩,私のプレーを見に来るよう自分の会衆の主宰監督を招待しました。私たちのチームが勝ち,私はゴールを一度入れました。その晩の後刻,主宰監督が私の家に来て,少しの間談笑しました。最後に,その日の試合をどう思ったかと尋ねてみました。グラウンドにいるときの私は,王国会館の集会に出席している私とは別人のようだと言われてショックを受けました。私はどの試合の前にも冷静さを保てるよう助けてください,とエホバに祈っていることを説明しました。それでも,私はグラウンドで剣闘士のように振る舞うことがあると言われました。しかし,私は納得しませんでした。

      その後,マンチェスター・ユナイテッドとの試合に出た際,観衆は私に大きな声援を送ってくれました。「ノールズへ渡せ,ゴールを入れさせろ!」と叫ぶのです。そして,私がゴールを入れると,観衆は熱狂して,それまで以上に私の名前を連呼しました。徐々にではありますが,会衆の監督の言う通りであることを悟るようになりました。観衆の多くは私を神であるかのように扱っていました。それは偶像崇拝の一種であり,それが間違っているのは分かっていました。それでもサッカーをあきらめ切れませんでした。ある試合の前にこんな風にエホバに祈ったのを覚えています。「二つを両立させられるよう助けてください。自制心を保てるようどうか助け,そしてエホバ,どうぞ3点入れさせてください。イエスのお名前を通して祈ります。アーメン」。しかし,心の中で,サッカーの花形選手としての日々は終わりに近づいていることを悟っていました。

      私の選択 ― その結果

      ある日,全国紙のスポーツ記者のインタビューを受けた際,私は引退を考えていることに少し触れました。その記者はあわててカメラマンを呼びにやり,翌朝のその新聞のスポーツ欄はそのことで持ちきりでした。「ピーター・ノールズ,エホバの証人になる ― 引退も考慮中」。その後,物事はとんとん拍子に進みました。エホバの証人になって,敬神の専念をもってエホバに仕えるなら,永遠の命の報いがもたらされることは分かっていました。サッカーの花形選手であることはそうした報いを決してもたらしません。そこで,私はわずか数週間ほど後のある日を引退の日と決めました。ノッティンガム・フォーレストとの試合が最後の試合になりました。

      三週間後,私とジーンはエホバへの献身の表われとしてバプテスマを受けました。後日,約束を果たすため,肉親のシリルの記念試合に出たほかは,サッカー界に二度と戻りませんでした。

      当時会衆には聖書の全時間の教え手が二人いたので,私たちはその二人に加わり家から家へ神の王国の良いたよりを宣べ伝える業に多くの時間を費やしました。私たちはしばしば家へ招じ入れられ,度々「真理」の本を配布しました。しかし,聖書について話すのは困難で,二年以上の間聖書研究を始めることができませんでした。どの人も,話したいと思っているのはフットボールのことばかりでした。フットボール界に復帰するよう私を説得するために数々の圧力が,様々なところからかけられました。しかし,もう一度ユニフォームを着てほしいという手紙に加えて,信仰を捨てないようにと励ます手紙が世界各地のエホバの証人から数多く寄せられました。私たちは,今や本当に世界的な兄弟姉妹たちの交わりの一部とされたことを膚で感じました。私たちはその中にとどまり,六か月しないうちに神の王国の良いたよりを宣べ伝えるために全時間をささげる特権を与えられ,そして九年後,私は会衆で長老として奉仕する特権を与えられました。

      もしエホバに仕えるようになっていなかったとすれば,私とジーンはもう一緒に生活していなかったに違いありません。信仰によって,私たちは本当に結び合わされました。今では,将来の事柄を知っているので,満ち足りた気持ちでいます。もちろんいまだに浮き沈みはありますが,神のみ言葉の助言のおかげで,今では生じ得るどんな問題にも首尾よく対処できるようになりました。

      私に深い感銘を与えた聖句の一つは,テモテ第一 4章8節で,そこにはこうあります。「身体の訓練は少しの事には益がありますが,敬神の専念はすべての事に益があるからです。それは,今の命ときたるべき命との約束を保つのです」。「きたるべき命」については,父と幼い妹の両人が他の無数の人々と共に,近い将来,この地上に復活するのを楽しみにしています。「今の命」はと言えば,フットボールをしていた時期よりもはるかに満ち足りています。

      プロ・フットボールの選手とクリスチャンという二足のわらじをはくことができると思う人もいるでしょうが,私にとっては不可能です。試合中に自制心を保つことは,不可能といわないまでも,困難なことです。試合は闘争心をむき出しにさせ,しばしば偶像崇拝を促進します。観衆が私の名を唱え,私をあたかも神のようにみなしていたときのことを思い起こすと,それがいかに危険をはらんでいたかがひしひしと感じられます。今では,足が地に着いてきたように思います。エホバへの崇拝によって,思いの平安と数多くの真の友を得ました。その崇拝のおかげで,自分自身だけでなく,妻を,そしてとりわけエホバ神を愛するよう助けられました。―マタイ 22:37-39。

      私はサッカー界の花形としての生活を経験しました。しかし今,私は敬神の専念を全うする生活を送りたいとしか思いません。―寄稿。

  • 熱狂的な観客
    目ざめよ! 1980 | 3月8日
    • 熱狂的な観客

      英国の「ニュー・サイエンティスト」誌は,一国のスポーツ活動がどれほどその国の社会を反映しているかについて論じた際,次のように述べました。「サッカーでは,[選手間の]攻撃的な行動は最小限にとどめられるが,その闘争的な役割は観客のほうに移るようである。……選手や審判員を彼らが楽しませている相手から守るために,ある場所では必要であるとみなされる武装した警備員,鉄条網でできたフェンス,避難用トンネルなどは,刑務所の方に似つかわしい保安体制を思わせる」。この観客が示す狂気の一部は,毎年発行される,ブリタニカ百科事典の「年鑑」の最近の版に収められています。

      「サッカーにまつわる暴力行為の話は1975年にも続き,英国がその最悪の犯人の温床となっているようである。……しかし,この現代病は英国の専売特許ではない。チリのサンティアゴでは,6月25日に,グラウンド上での争いのため少なくとも19人の選手が[退場を]命じられたが,その後,選手たちは観客の投石のために15分ほどグラウンドから出られなかった。……南米各地やイタリアからも暴動に関する報告が寄せられている」― 1976年版(英文),350ページ。

      1977年版(英文): 「サッカーにまつわる暴力行為の再発は,世界の相克する党派心の副産物である。[ウェールズの]カーディフで行なわれたヨーロッパ選手権の際,……観客は東ドイツの審判の幾つかの判定に対する怒りを表わすために,グラウンド内にビールのカンを投げ込んだ。……マルタでは乱闘に加わった選手幾人かに懲役刑が科された。また,南米で行なわれた試合の一審判は,選手たちに襲われて死亡した」― 350ページ。

      1978年版(英文): 「観衆の引き起こす問題は世界各地で衰えることを知らない。囲いをして無頼のやからが入れないようにする国はいよいよ多くなっている。スペインのバルセロナ市は,ファンをグラウンド内に入れないために,15万㌦(約3,000万円)をかけて堀を造った」― 394ページ。

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