-
第2部 ― 南アフリカおよび近隣の区域1977 エホバの証人の年鑑
-
-
れることは,過去における他のご行動と同様にきわめて重要です。兄弟たちは詩篇作者の次のことばをふさわしくも自分たちのことばとすることができます。『これエホバの成したまえる事にしてわれらの目にあやしとする所なり』― 詩 118:23。
-
-
スリランカ1977 エホバの証人の年鑑
-
-
スリランカ
インド洋の宝石。あなたがこれから訪れる島を多くの人はこう呼んでいます。この島をセイロンという名でご存じかもしれませんが,1972年以来それはスリランカと呼ばれています。
広さが約6万4,750平方㌔のスリランカは多くの切子面のある“宝石”です。海岸沿いはぐるりと熱帯低地で,中央部は丘や山を頂いています。丘へはココナッツの栽培園を通り抜けて行きます。ココナッツの栽培園の多くは現在美しい茶の木で覆われています。
人種やカースト制度,言語そして宗教のことを考えると,多くの切子面のあることがわかります。島の3分の2,すなわち中部と南部の人々はその大半がアーリア人であると唱えており,セイロン語を話し,小乗仏教の一部派テーラバーダをならわしにしています。彼らは親しみ深くてもてなしのよい人々です。スリランカの北部と東部にはドラビダ人のタミル語を話す人々がおり,そのほとんどはヒンズー教を信奉しています。彼らは勤勉さで知られています。
昔,交易の見込みを当てにして,はるかかなたのモロッコから回教徒がやって来ました。16世紀初頭には,ポルトガル人が香料に目をつけて海岸部を取りました。彼らとともにローマ・カトリックの僧職者が来ました。仏教からカトリックに改宗させるため大きな努力が払われました。その方法といえば,人々に物質的な利点を与えたり,強制したりしたのです。今日多くの海岸都市ではカトリックが優勢です。
1世紀ほど後になってオランダはこの“宝石”を取って,海岸地区だけを押えました。支配力の維持を助けるため彼らはマラヤとジャワから兵士を連れてきました。それによってまた別の人種がこの島に加えられることになりました。
征服の手段によるよりむしろ外交手腕によって,英国は1796年にセイロンを取りました。こうして人種や他の多くのプロテスタント教会というような他の切子面が現われました。しかし,事態は進展して,セイロンは1948年に独立しました。
英国もオランダも島民との結婚を非常に厳しく戒めていました。にもかかわらず,島民と結婚した人は少なくなく,バーガーとして知られる多数のその子孫たちはキリスト教国の様々な教会に属しています。実際,スリランカの人口の約10%はクリスチャンであると称しているのです。ところで,真のキリスト教はこの“インド洋の宝石”へどのようにして渡来しましたか。
良いたよりが聞かれる
伝説によれば,使徒のトマスがセイロンを訪れたことになっています。(ルカ 6:12-16)しかし,1910年にふたりの熱心なクリスチャンの婦人がここで良いたよりを伝道したというのは伝説ではありません。
ふたりはコロンボ港の船員監督職員であった,バーガーのE・W・デ・Z・ヴァン・トウェスト氏に出会いました。そして,ものみの塔協会の初代会長チャールズ・テイズ・ラッセルが著した「代々にわたる神の計画」と題する本ともう1冊の本を読むように彼を説得しました。やがてヴァン・トウェスト氏は自分が学んでいる新しい事柄を他の人々に話していました。好意的に反応した人のひとりに,メソジスト教会の牧師でD・N・ピエリスという名前のシンハラ人がいました。ヴァン・トウェストの助手であるH・W・ヴェントもそのひとりでした。
今の時代に関する良いたよりを喜んで受け入れた他の人々の中には,さらにふたりのシンハラ人の“クリスチャン”,エディリシンゲ氏とバプテスト氏がいました。また,バーカーのA・B・チャップマンもいました。彼はかつてカンディにあるクイーンズ・ホテルの馬と馬車の管理をする馬丁でしたが退職していました。公衆衛生検査官,T・E・カルナチッレキも真理を受け入れ,他の人々に良いたよりを分かち始めました。そうした活動すべてからして,増加が見込まれました。
ラッセル師がセイロンを訪問
1912年の初頭,それらの家族は,世界旅行の一環としてラッセル師が訪れるのを切望していました。その時ヴァン・トウェスト兄弟は病気でしたが,ラッセル兄弟はわざわざ彼の家に行って,短いながらも霊的に強める会話をしました。金持ちとラザロに関する良く宣伝された講演が,古い公会堂で900名を超す聴衆を迎えてラッセル兄弟により行なわれました。ピエリス兄弟はその会場でラッセルの2番目の講演をシンハラ語に通訳したので,すべての人は理解することができました。
ラッセル兄弟も,コロンボから川をひとつ隔てたヘンダラにあるらい病
-