-
黙示時代の監督たちものみの塔 1958 | 5月1日
-
-
彼らに与えられている約束は,朽ちないこと,『第二の死』からの解放,支配の冠,諸国民をハルマゲドンで打ち砕く権威,天の宮と新しいエルサレムにある地位,そして天の位にあるイエス・キリストと共に坐ることです。(黙示 2:7,10,11,17,26-28; 3:5,6,11,12,21)七つの燭台のそれぞれは,『小さい群』を形成しているこれらの人々の会衆を表わします。天の父はこの小さい群に御国を与えることをよしとされました。―ルカ 12:32。
30 話す者が七つの燭台の間を歩むことは,今日何を表わしますか。1931年以来の今日,誰が七つの象徴的な燭台と交わつてきましたか。
30 聖書に用いられている七という数字は,霊的に完全なものを表わすゆえに,七つの燭台はこれら御国相続者のすべての会衆,あるいは未だ地上にあるこれら御国相続者の全部を表わします。これら御国相続者はイエス・キリストを霊的な頭とする唯一つで分けることのできない会衆です。それで,イエス・キリストが七つの燭台のあいだを歩むことは,今日彼が見えないさまで地上の会衆全体と共に居られ,その間を歩んで彼らを調べ,裁きを表明されているさまを描いています。まだ地上に残つている彼の御国相続者の会衆には,他の羊の『大ぜいの群衆』がいま交わつています。正しい羊飼イエス・キリストは1931年の夏以来,この群衆を集められてきました。この『大ぜいの群衆』は黙示録 7章9-17節に描かれていました。
31 イエスは右の手に何を持つていますか。それらは何を表わしますか。ここで霊者が意味されていないのはなぜですか。
31 しかし,栄光を受けたイエスが彼の右の手に持たれているのは何ですか。七つの『星』です。これらの星は七つの燭台に関係があります。七つの燭台が,御国相続者として油注がれた残れる者の七つの会衆を表わすように,七つの星は『七つの会衆の御使』を表わします。では,七つの会衆のこれら御使たちは誰ですか。栄光を受けた人の子イエス・キリストが天の御国の栄光のうちに来られるとき,彼に従う天の見えない霊の御使ですか。そうではありません。油注がれた残れる者の,地上の各会衆にそれぞれ天の御使がいて,光を投げかけていると,理解すべきではありません。そうではないのです。もしそうであるとすれば,天のイエスは七つの会衆に関して天使たちに直接知らせを送ることができるでしよう。これとは全く反対に,イエスは,各会衆の状態についてそれぞれの会衆の各御使に書き送るよう使徒ヨハネに命ぜられています。地上のヨハネが天にいる見えない霊の御使に書くことはできません。どの御使がどの会衆の星であるか,ヨハネにどうして分りますか。また,イエスからの知らせをそれぞれの星,しかも正しい星に伝えることがどうしてできるでしようか。
32,33 では七つの星は誰を表わしますか。『ものみの塔』にどんな知らせが出て以来,『他の羊』も監督とされてきましたか。
32 従つて,イエスの右手にある七つの星全部は,油注がれた御国相続者で未だ地上に残れる者の会衆全体の監督の集まり,あるいはすべての監督を表わしています。これは論理的に明らかなことです。それぞれの星は,油注がれた残れる者の各会衆を委ねられている監督あるいは監督の群を表わします。どの星の場合でもこれこれの名を持つ特定の個人を表わしていません。監督の地位にある個人は,死亡その他の事情によつて時がたつうちには変るかも知れないからです。しかしそれぞれの星が表わしているのは,監督の地位であつて,それは空席にならず,要求にかなう誰かが実際に占めます。星は霊によつて油注がれた監督を表わします。彼らはその会衆と同じく,イエスと共に天の御国を継ぐ共同相続者です。正しい羊飼イエス・キリストが『他の羊』を集め始められて何年か後に,他の羊のある者は,その時の必要に応じ,『忠実な慧い奴隷』の手によつて初めて監督の地位につけられました。1937年5月1号の「ものみの塔」(130頁)(英文)に,初めて次の知らせが出ました。
33 『会の僕 ― 御国の音信を宣明することは,いま最も重要である。誰が会の僕たるべきかを投票するのは,油注がれた者の義務である。しかし,『薪を斬り水を汲むことをする者』(ヨシユア 9:21-27)が奉仕できる。(申命 16:12-15; 29:11)会の僕あるいは奉仕の委員の能力を持つ者がいないとき,そして能力を持ち熱心なヨナダブがいるならば,ヨナダブを奉仕の委員となし,彼らに奉仕の機会を与えよ。会の中に熱心を欠く者がいるからとて,業を停滞させてはならない。福音はいま宣明されねばならないのである。―マタイ 24:14。』
34 聖所の燭台の目的は何でしたか。では象徴的な燭台の目的は何ですか。
34 家また宮の中にいる人々を照らすために,人は燭台に油を満たして火をともします。予言者モーセがシナイの荒野に建てた聖なる幕屋の最初の仕切り,すなわち聖所には,一つの燭台が置かれていました。しかし,ソロモン王の建てた宮の聖所には北側に五つ,南側に五つ,すなわち10の金の燭台がありました。(出エジプト 25:31-40; 26:35; 40:24,25。歴代史略下 4:7,20。列王紀略上 7:49)象徴的な燭台,すなわち,油注がれて御国を共に相続する者の会衆も,光を照り輝かすというその目的を果さねばなりません。そして,象徴的な七つの燭台の間を歩むイエス・キリストは,地上に法王を持つ必要のない大祭司であつて,これらの会衆がかならず輝くようにされます。
35 どのように監督は燭台と比べた星のように輝くべきですか。会衆の成員全部はどんな光を輝かさねばなりませんか。
35 空の星は地上の燭台よりも遙か上に輝きます。それと同じく,会衆を預る監督の地位を占める者は,会衆の他の人々の上に,また,他の人々以上に輝やくべきです。会衆の成員と『他の羊』,既に集められた人々と, これから集められて油注がれた残れる者と『一つの群』になる人々,に対して,監督は星のようにひときわ目立つて神の御国の良いたよりという光を照らさなければなりません。(ヨハネ 10:16)もちろん,普通の意味において,会衆の成員全部は天から霊的な光を受けて輝かなければなりません。『それは,あなたがたが責められるところのない純真な者となり,曲つた邪悪な時代のただ中にあつて,傷のない神の子となるためである。あなたがたは,いのちの言葉を堅く持つて,彼らの間で星のようにこの世に輝いている。』(ピリピ 2:15,新口)とりわけ,世の『終りの時』に関して神の御使はダニエルに予言しました,『さとき者は空の輝きのごとくに輝かん。また多くの人を義に導ける者は星のごとくなりて永遠にいたらん。』(ダニエル 12:3)この予言にたがわず,会衆のさとい成員すべては,灯の光と比べた星のように,輝かなければなりません。しかし,監督たちは特にそうすべきです。灯の光は余り遠くまで届きませんが,星の光は遠くを照らします。監督は光を掲げる者の模範とならねばなりません。
-
-
キリストの右の手にある監督たちものみの塔 1958 | 5月1日
-
-
キリストの右の手にある監督たち
1 ヨハネはまずどの会衆に書き送るよう命ぜられましたか。その監督たちのある者は,使徒パウロのどんな別れの言葉を聞いたものと思われますか。
『エペソにある会衆の御使に書き送りなさい。これらは,右の手に七つの星を持つ者,七つの金の燭台の間を歩く者が言われる事柄である。』(黙示 2:1,新世)栄光を受けたキリストのこの命令に従つてヨハネはエペソにある会衆の監督あるいは監督の群に間違いなく書き送りました。ヨハネの時代のこれら古い人々の中には,何年も前に使徒パウロと会つて次の別れの言葉を聞いた人があつたかも知れません。『どうか,あなた自身に気をつけ,またすべての群に気をくばつていただきたい。聖霊は,神が御自身の(御子の)血であがない取られた神の会衆を牧させるために,あなた方をその群の監督に任命したのである。私が去つた後,狂暴な狼が,あなた方の中に入りこんできて,容赦なく群を荒すようになることを,私は知つている。また,あなた方自身の中からも,いろいろ曲つたことを言つて,弟子たちを自分の方に,ひつぱり込もうとする者らが起るであろう。だから,目を覚ましていなさい。』(使行 20:28-31,新世)エペソからほど遠くないパトモス島に流されていたヨハネは,小アジヤにあつてその名を挙げられている他の会衆の監督たち,そしてエペソの監督たちが,黙示録の全部を受け取るように取り計らいました。この黙示録には各会衆にそれぞれ宛てた特別の知らせが書かれていたのです。
2 イエスは冒頭の言葉によつてエペソの監督たちに何を思い起させましたか。当時の会衆の状態は今日,何を表わしていますか。
2 イエス・キリストは冒頭における挨拶の言葉によつて,他の会衆の監督たちと共にエペソの監督たちに対し,彼らがイエス・キリストの右の手にあつて,彼の力と支配および恵みと保護のうちにあることを思い起させました。『彼らをわたしの手から奪い去る者はない。』とイエスは言われました。(ヨハネ 10:28,新口)同じく,今の黙示時代に神の群の会衆を監督する者たち,とりわけ,霊で油注がれた監督たちは,彼らがキリストの手の中にあり,キリストの手によつて導かれ,用いられねばならないこと,彼の手に逆らつたり,反抗してはならないことを知らされます。エーゲ海沿岸に近いエペソに,今日ヱホバの証者の会衆はありません。しかし,当時そこにあつた会衆の状態が予影した有様は,今日のヱホバのクリスチャン証者の会衆あるいは諸会衆において確かに見られるかも知れません。名の挙げられている小アジヤの七つの会衆の状態は,今日,神の群のあちらこちらの会衆にある状態を予影するために用いられたのです。従つて,すべての会衆の『星』油注がれた監督たちが,小アジヤの七つの会衆に宛てたキリストの知らせの中に予影されたと同じ状態を知らされるのは良いことです。それから,キリストの右手にある者としてキリストの教訓に従い,悪い状態を正し,すべての成員が,終りの日にあるこの古い世に打ち勝つよう援助することに努めなければなりません。
3 当時,会衆の『星』はヨハネを通して受け取つた知らせをどうしましたか。それは今日のどんな行いの手本ですか。
3 その当時,ヨハネを通してキリストから特別な知らせを送られた会衆の『星』は,その知らせを会衆に読みました。その知らせは会衆の益を図つて書かれたのです。今日でも同じく,会衆の監督は『忠実にして慧い奴隷』の統治体から受け取る通信をそれぞれの会衆に読みます。
エペソにある燭台
4 そのほめるべき事にも拘らず,イエスはエペソ会衆に何を責めましたか。この点において,今日の会衆もどのように援助を必要としていますか。
4 古代エペソの会衆と似て,今日の会衆もほめるに足る行いと勤勉な働き,そして忍耐の記録を持つているかも知れません。彼らは悪い人々を容赦することもなかつたでしよう。使徒また使徒の後継者と主張する人々については彼らは霊感の聖書を用いてその人々を調べ,その主張の偽りを見抜きました。『聖徒たちによつて,ひとたび伝えられた信仰のために戦』つた彼らは,使徒の教えと物事をなす使徒的な方法に帰りました。(ユダ 3,新口)何年ものあいだ,彼らはキリストの名のために耐え忍び,倦むことがありませんでした。しかし,質問はこうです,彼らは初めに持つていた愛を離れましたか。キリスト教国に不法が増したため,彼らの愛は冷えましたか。彼らの愛は,物質主義の古い世のものに引かれて移りましたか。キリストへの愛を示すこと,すなわちキリストの羊を養い,キリストと同じ心の態度を持つことに飽きましたか。彼らが初めに持つていたひとすぢの愛と熱心と熱さをなくしたとすれば,キリストは彼らに対してそのことを責められます。もし,そうであるなら,元のところに帰り,失つたものを取り戻すために,彼らは助けを必要としています。
5 (イ)最初の愛を失つた者たちについて,監督は何をするべきですか。(ロ)どのように彼の燭台は除かれるかも知れませんか。
5 最初の愛を失つてキリストから責められる人々の道を照らしてひきもどすのは,監督,会衆の『星』の責任です。彼らは処置を講じて,これらの人々の中に最初の愛を燃え立せなければなりません。キリストの羊に対する愛に動かされて監督は出かけて行き,集会から離れている人,あるいは無関心になつた人々を連れ戻そうとするでしよう。彼らはイエスの予言された危険をふせごうと努めます『また不法がはびこるので,多くの人の愛が冷えるであろう。』(マタイ 24:14,新口)彼らは,最初の愛を失う者が一人として神の会衆の成員として留まり得ないことを悟つています。ゆえに,何から落ちたかを思い,悲しんで心を改め,戻つて以前の行いをするのは今です。そうしない人は,燭台の一部として働いて居らず,光を輝かせていません。燭台の役目を少しも果していないことになるでしよう。すべての羊が愛をなくし,離れ去つて光を輝かさなくなるのを監督が許すならば,キリストは実際に燭台を取り除かれるでしよう。彼は燭台すなわち会衆の無い監督になります。それゆえに,監督は,燭台である会衆が輝き照らすべき場所すなわち世界の,その部分で輝くようにしなければなりません。
6 かつてパウロの警告を受けたエペソ会衆と同じく,監督と会衆は今日でも常に何を憎むべきですか。なぜ?
6 エペソの監督たちに別れの言葉を告げたとき,パウロは,背教した教師たちが宗派を起して弟子を自分たちの方にひき入れることを警告しました。エペソの会衆と同じく,監督とその会衆は『ニコライ宗の人々のわざ』のような分派主義を何時でも強く憎まねばなりません。見えない一つの体の頭,イエス・キリストも,分派主義すなわち地上のこの人やあの人に従うことを憎まれるからです。
-
-
アフリカの酋長は知恵を示すものみの塔 1958 | 5月1日
-
-
アフリカの酋長は知恵を示す
二人のヱホバの全時間奉仕者が,伝道のためにナイアサランドのある村に派遣されました。このため,中央アフリカにあるユニバーサル・ミッションズの代表者は,両方の組織が同じ村の中で働く事はできないということを前提として,証者たちを追放するよう酋長に請願しました。上役の者たちと討議した後その酋長は,次のような裁断を下しました,『もし中央アフリカ・ユニバーサル・ミッションズがヱホバの証者と一緒にいるのが厭なら,この村から出て行つてもよろしい。私は,ヱホバの御名が私の村で伝道されるのを非常な喜びとします。』この村では今でもやはり一つの宗教グループが活発ですが,それはヱホバの証者です。―1958年のヱホバの証者の年鑑より。
-