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    ものみの塔 1981 | 11月15日
    • 他の人々に対する敬虔な振舞い

      「わたしがこれらのことを書くのは……神の家[すなわち会衆]の者たちの中でどのように行動すべきかをあなたに知ってもらうためです」― テモテ第一 3:14,15。

      1,2 わたしたちが他の人々と接する際に,聖書はどのように助けになりますか。

      クリスチャンは聖書を勉強して数多くの益を得ますが,その一つとして,敬虔な態度で人と接することを学びます。キリスト教や聖書をよく知らない人でさえ,「自分にして欲しいと思うとおりに,人にも同じようにしなさい」という諭しの知恵と実際性を認めています。―ルカ 6:31。

      2 聖書には,他の人に対するわたしたちの行動について,大まかな一般論以上のものが示されています。自分と特定な関係にある人々や,ある状況下の人々に対してどう行動すべきかに関する諭しがあるのです。例えば,未信者の夫に対してクリスチャンの妻はどう振る舞うべきかについて助言があり,身分の低い人,身体障害者,異性に対する振舞いについての諭しがあります。(ペテロ第一 3:1-6。詩 41:1。レビ 19:14。テモテ第一 5:1,2)聖書はさらに,『神の家の者たち,つまり会衆の中でどのように行動すべきか』について多くの健全な諭しを与えています。―テモテ第一 3:15。

      3 わたしたちは自分の振舞いについて,なぜ神の導きを必要としますか。

      3 神からのこうした諭しを適用するのは肝要なことです。聖書は,他の人々に対する行動の仕方をある程度根拠にして神がわたしたちを裁かれると記されているからです。(マタイ 18:35; 25:40,45。啓示 2:23)ですから,あなたはこうすべきだ,というある人間の言葉や,自分の感情や,自分にとって正しいと“感じられる”ことを導きとするのではなく,ダビデが取った次のような態度に倣うべきです。「エホバよ,あなたの道をわたしに知らせてください。あなたの進路をわたしに教えてください。あなたの真理のうちに歩ませ,わたしに教えてください。あなたはわたしの救いの神なのです」― 詩 25:4,5,新; 139:17,21。

      罪を犯した人々と接する

      4 なぜ,罪を犯した人々と接する方法について知っておく必要があるのですか。

      4 アダムの子孫である全人類は,「罪を犯しているので神の栄光に達し(ません)」。(ローマ 3:23; 5:12)それでも,わたしたちの状況は希望のないものではありません。「キリスト・イエスが罪人を救うために世に来られた」からです。そのことを認める人,またキリストに信仰を働かせる人はだれでも,過去に罪深い生活を送っていたとしても,許しを得ることができるのです。―テモテ第一 1:12-16。コリント第一 6:9-11。使徒 10:43。ローマ 6:12-14。

      5 あるクリスチャンが重い罪を犯した場合,何がなされるべきですか。

      5 しかし,ある人が悔い改め,キリストに信仰を置き,バプテスマを受けたクリスチャンとなってから,弱さに負けて重大な罪を犯した場合はどうですか。その人も,使徒ペテロがイエスを否んだことを許されたように,許されることでしょう。仲間のクリスチャンが重大な罪を犯してしまったことを知ったなら,あなたはどうしますか。真実の愛ゆえに,その人が霊的な助けを得るのを見たいと願うに違いありません。会衆内の献身的で霊的な長老つまり監督たちは,多くそうした助けを与える手だてとなります。その助けはどんな目的で与えられますか。それは,過ちを犯したクリスチャンを霊的に立ち直らせることです。―ガラテア 6:1。ヨハネ第一 5:16。テモテ第二 2:23-26。ユダ 23。

      6 重大な罪を犯した人が悔い改めないなら,どんな処置を取らなければなりませんか。

      6 しかし,真のキリスト教の道を幾年か歩み続けた人がその道から逸脱し,不敬虔な行動に走り,援助を与えようとする長老たちの誠実な努力をしり目に悔い改めないことがあります。聖書によると,こうしたことは西暦1世紀にもありました。また今でも生じています。(ペテロ第二 2:10-20)では何がなされるべきですか。神は,会衆の霊的,道徳的清さを守るため,毅然とした処置を講ずべきことをその完全な知恵と公正さをもって指示しておられます。そうした処置は,悪行者に衝撃を与え,本心に立ち戻らせることになるでしょう。神の言葉聖書には,「その邪悪な人をあなたがたの中から除きなさい」という命令があります。それはその人をクリスチャン会衆から追放するという意味です。―コリント第一 5:13。テモテ第一 1:20。申命 17:7と比較してください。

      7 会衆から追放された人に関してどんな質問が生じますか。

      7 ある人の行動や態度がこうした処置を必要とするというのは悲しいことですが,その人がいったん追放されたなら,会衆の忠節な成員はどのようにその人を見,また扱うべきでしょうか。近所の人,同僚,道でたまたま出会う人などに対するように振る舞うべきですか。追放されたその人と道で擦れ違った時などに,「こんにちは」と言ったり,わずかな時間雑談したりしますか。その人に雇われたり,その人を雇ったりすることはどうですか。クリスチャンの親や他の親族は,どの程度までその人と意思を通わせ,また交わりますか。こうした質問が数多く生じます。実にありがたいことに,エホバ神は追放された悪行者と接する際の導きをわたしたちに与えてくださっています。

      悪行者に関するイエスの諭し

      8,9 (イ)罪を犯してしまった人についてイエスはどんな諭しを与えておられますか。(ロ)イエスはここで,どんな種類の罪について述べておられますか。

      8 神がユダヤ人をまだご自分の民として扱っておられた時,イエスは罪を犯した人に関するある諭しをお与えになりました。自らもユダヤ人であった,キリストの弟子たちは,ユダヤ人の地域社会内に存在していた状況に照らして,この助言をよく理解したことでしょう。わたしたちも益を得られます。イエスがお与えになった諭しは,クリスチャン会衆が神によって設立された時以降に適用されるからです。(マタイ 21:43)キリストは次のように話し始められました。「もしあなたの兄弟が罪を犯したなら,行って,ただあなたと彼との間でその過ちを明らかにしなさい。彼があなたの述べることを聴くなら,あなたは自分の兄弟を得たのです」― マタイ 18:15。

      9 イエスは,フィリピ人への手紙 4章2,3節に記されているような,ささいな個人的なとがという意味での「罪」について語られたのではないようです。(箴 12:18と比較してください。)むしろ,詐欺や中傷など,人が会衆から追放される可能性をはらんだ重い罪のことを言っておられたようです。a 被害者が,個人的な交渉によって問題を解決できた場合,その人は「自分の兄弟を得た」ことになります。罪を犯した人が心から悔い改めた証拠を示し,その悪を正す努力を払っているなら,問題をそれ以上進める必要はありません。

      10,11 この最初の処置が効を奏さなかった場合,次に何を行なうべきですか。

      10 この処置が効を奏さなかった場合はどうですか。イエスは続けて述べられました。「しかし,もし [罪を犯した人] が聴かないなら,自分といっしょにあとひとりかふたりを連れて行きなさい。いっさいのことがふたりまたは三人の証人の口によって確立されるためです」― マタイ 18:16。

      11 連れて来られる人は,単に和解を図ろうとする,中立な立場の人ではなく,「証人」であるべきでした。彼らは,金銭上の取決めが設けられた時のことを知っていて,詐欺行為の有無を証言できるような,悪行の『目撃証人』だったと思われます。あるいは,悪行の証拠が契約に類するものであれば,こうした状況に関する経験を有し,霊的な資格を持つ兄弟たちが連れて来られる場合もあります。彼らは,最後的処置を取らなければならない場合に,この会合中に見聞きした事実と,告発された人が述べた事柄の証人となれます。

      12 イエスが説明されたように,最後の処置とはどんなものですか。

      12 イエスは罪を犯した人に関連した最後の処置として,こう述べられました。「もし彼がそれらの人たちの述べることを聴かないなら,会衆に話しなさい。もし会衆の告げることにさえ聴かないなら,彼を,あなたにとって,諸国民の者のような,また収税人のような者としなさい」。(マタイ 18:17)そうです,罪を犯した人をその道から引き戻す最後の努力として,問題は会衆の霊的な年長者たちの手にゆだねられます。これらの人々は事実を聞き出し,証人たちの証言を得ることができます。そして,神の言葉で悪行者を戒めることができるでしょう。しかしその人が悔い改めようとしないなら,年長者たちは会衆を益することを目的としたその人を懲らしめるための行動を取り,会衆がその人の危険な影響を受けないように,その人を追放することによって会衆を守ります。

      他の人に対して不親切なことではない

      13,14 イエスが,他の人に不親切にすることを是認しておられたのでないことをなぜ確信できますか。

      13 このような人に対してどう振る舞うべきかを決める助けとして,「彼を,あなたにとって,諸国民の者のような,また収税人のような者としなさい」というイエスの言葉を理解する必要があります。のちの世紀になって,ユダヤ人のラビの中には,異邦人が死の危険に直面していても,ユダヤ人は異邦人を助けるべきではないという極端な意見を示した人が確かにいました。このような無情な態度は異邦人にだけ示されたのではありません。例えば,真の隣り人としてのあり方に関するイエスのたとえ話の中では,レビ人も祭司も傷を負った仲間のユダヤ人を助けようとしませんでしたが,サマリア人がそのあとで助けを与えています。―ルカ 10:29-37。

      14 しかし,事故の場合や事態がひっ迫している場合にも,弟子たちは人間味のある親切を示す行為を避けなければならないという意味でイエスがマタイ 18章17節の言葉を語られたとは考えられません。イエスはそのような親切を幾人かの異邦人に示しておられます。例えば,スロフェニキア人の女にそうされました。その女が異邦人で,イエスがユダヤ人に遣わされていたことから,その女の状況が異例のものであることはイエスにも弟子たちにも分かっていました。女もその点をわきまえていました。しかしキリストは女の娘をいやされたのです。(マタイ 15:21-28。マルコ 7:24-30)ローマの士官から,体がまひして苦しんでいる奴隷をいやしてほしいと懇願された時にも,イエスは同様の人間味のある親切を示されました。その士官は,ユダヤ人の教師であるイエスに自分の家に入っていただけるとは思ってもいないと言いました。それでも,「ユダヤ人の年長者たち」はこの立派な異邦人に憐れみを示されるようイエスに懇願し,イエスはそうされました。(ルカ 7:1-10。マタイ 8:5-13)したがってイエスは,「諸国民の者のような,また収税人のような者」について話された時,憐れみ深く親切にすることを禁じられたのではありません。ではイエスは何を言わんとしておられたのでしょうか。

      「収税人のような」

      15 ユダヤ人は収税人をどのようにみなし,どのように扱いましたか。

      15 まず最初に,ユダヤ人は収税人をどのようにみなし,どのように扱っていたでしょうか。

      「新約聖書に出て来る古代ローマの収税吏[収税人]は,異教徒とのひんぱんな接触によって神聖さを汚された背教者,裏切り者,圧制者の言いなりになる手先とみなされていた。彼らは罪人……売春婦……異教徒と同格に扱われていた。人々から相手にされず,品位ある生活をしていた人々は彼らに近づかなかったので,彼らに残された友人や仲間といえば,彼ら自身のような,のけ者の中にしかいなかった」― マクリントクとストロングの「百科事典」,第8巻,769ページ。

      そうです,イエスの話を聞いていた人々は,一般のユダヤ人が収税人を遠ざけていたことをよく知っていました。ユダヤ人は法律によって要求されていた税を支払うために,不本意ながら彼らと事務的な接触を最小限に行なっていたに過ぎません。

      16,17 イエスは幾人かの収税人たちに対し,どんな行動を取られましたか。

      16 『それはそうだが,イエスは収税人と交わりを持たれたではないか』と尋ねる人がいるかもしれません。では事実を調べてみましょう。

      17 「世の罪を取り去る,神の子羊」であられたイエスは,地上で奉仕の務めに携わっていた間ユダヤ人に努力を集中されましたが,すべての人々の光でした。(ヨハネ 1:29; 8:12。イザヤ 42:1,6,7。マタイ 10:5,6; 15:24)イエスは医師のように,イエスを最も必要としていたユダヤ人たちすべてに援助をお与えになりました。その中には,不正な手段を用いることも珍しくなかった売春婦,大酒飲み,収税人などの罪人が含まれていました。イエスがもたらされた新しい救いの音信に応じた人の中に,さげすまれていた収税人マタイ・レビがいました。マタイは自分の家にイエスを招いて宴会を催したので,マタイや関心のある他の収税人たちが,すばらしい新しい真理についてより多くのことを聞くことができました。(ルカ 5:27-32; 19:1-10)“無知ゆえの罪”を犯していたとはいえ,これらの人々はその罪を「消していただく」ための処置をすぐに講じた人々でした。―使徒 3:19。ヘブライ 9:7。

      18 一部の収税人たちに対するイエスの接し方が,マタイ 18章17節でイエスが言われていることの手本とならないのはなぜですか。

      18 しかし,イエスが,『彼の話を聞こうとして近づいて来た』,そして『イエスのあとに従った』収税人たちに証言を行なおうと努められたことは,悔い改めない罪人の扱い方に関する手本ではありません。(マルコ 2:15。ルカ 15:1)なぜそう確信できますか。キリストはこのような収税人と食事をされましたが,使徒パウロは,会衆から追放された罪人たちと「食事をすることさえしない」ようクリスチャンに命じています。(コリント第一 5:11)また,イエスはご自分の弟子たちに,彼らが当時の収税人を見ていたのと同じ見方をもって,悔い改めない悪行者を扱うように告げておられます。これは道理にかなったことです。R・F・ウェイマスの翻訳はこのようになっています。「あなたが異邦人や収税吏を見る同じ見方で,彼を見なさい」。―新国際訳; 新英訳聖書と比較。

      異邦人はどのように見られ,また扱われたか

      19 ユダヤ人と非ユダヤ人の関係について聖書は何を示していますか。

      19 マタイ 18章17節に記されているイエスの言葉を聞いた使徒たちはユダヤ人であり,自分たちの同国人は異邦人との交わりを持たないことを知っていました。モーセの律法ではユダヤ人と異邦人は区別されており,それはイスラエル人を周囲の諸国民から隔てておく上で役立ちました。(申命 7:1-4。民数 15:37-41。エフェソス 2:11-14)西暦33年の過ぎ越しの日,ユダヤ人は『身を汚さないようにと』ローマ知事の官邸内に入ろうとしませんでした。(ヨハネ 18:28)さらに,ユダヤ人と,モーセの五書を受け入れていたサマリア人とが大きく隔てられていたからこそ,サマリアの井戸のほとりで一人の女は,イエスが『ユダヤ人であるにもかかわらず』,自分に水を求めたので驚いたのです。―ヨハネ 4:9。

      20 諸国民の人々に対するユダヤ人の接し方について,コルネリオに関するペテロの経験から何が学べますか。

      20 さらに,西暦36年,無割礼の異邦人がその時から王国の相続人として受け入れられることを示す目的で,神は使徒ペテロをローマの士官コルネリオのもとに遣わされました。しかしペテロはコルネリオに,「ユダヤ人にとって,別の人種の人といっしょになったり近づきになったりするのがいかに許されないことか,あなたがたはよく知っています」と言いました。(使徒 10:28)ペテロの言葉から,ユダヤ人が,諸国民の者と心から親しく交わってはいけないとどれほど本気で考えていたかが分かります。同時に,ペテロがコルネリオのところに行ったことが明らかになった時,ユダヤ人のクリスチャンの中には,ペテロが「割礼を受けていない者たちの家にはいっていっしょに食事をした」として,強硬に異議を唱えた人たちがいました。確かにユダヤ人は,「諸国民の者」と席を共にし,食事をすることを衝撃的な事件とみなしていました。―使徒 11:1-3。ガラテア 2:12と比較してください。

      21 では,悔い改めない罪人で,「諸国民の者のような,また収税人のような」人についてイエスが語られたことを,あなたはどのように理解しますか。

      21 聖書はこのように,会衆に聴こうとしない,悔い改めない悪行者を,「諸国民の者のような,また収税人のような者」として扱うようにとのイエスの助言を理解する助けとなります。キリストの諭しを今日適用するということは,決して悪行者を地域社会内の普通の人として見るという意味ではありません。イエスの弟子たちはイエスの言葉をそのようには理解しなかったからです。それは,クリスチャン・ギリシャ語聖書中に付け加えられている諭しを調べてみれば一層よく理解できることです。その助言は,クリスチャン会衆から追放された人々に関する,今日の現実の状況を扱う際の助けになります。

  • 排斥 ― それに対する見方
    ものみの塔 1981 | 11月15日
    • 排斥 ― それに対する見方

      「エホバよ,……だれがあなたの聖なる山に住むのでしょうか。それは,とがなく歩み,義を行な(う)……人です」― 詩 15:1,2,新。

      1,2 神がご自分の崇拝者たちに,ご自分の規準を擁護することを期待しておられるとどうして分かりますか。

      エホバは義なる方,聖なる方であられます。エホバは不完全な人間に対し憐れみ深く,理解をお示しになりますが,ご自分を崇拝する人々が,ご自分の義の規準を擁護する努力を払ってご自分の神聖さを反映するよう期待しておられます。―詩 103:8-14。民数 15:40。

      2 背教,姦淫,殺人などを禁ずる神のご命令に故意に背いたイスラエル人は,切り断たれ,死に処されることになっていました。(民数 15:30,31; 35:31。申命 13:1-5。レビ 20:10)このように,神の定めた道理にかなった公正な規準を擁護する点で妥協が許されなかったことは,イスラエルの民全員にとって良いことでした。それは,会衆の清さを保つのに役立ったからです。そしてそれは,神のみ名を負っていた民の中にだれかが腐敗を浸透させることを阻む助けになりました。

      3 会堂から追放されたユダヤ人はどんな立場にありましたか。

      3 西暦1世紀当時,ローマの支配下にあったユダヤ人に死刑を執行する権限はありませんでした。(ヨハネ 18:28-31)しかし律法に違犯したユダヤ人は,会堂から追放することができました。この厳しい刑罰の結果,他のユダヤ人たちが追放された人々を遠ざけ,避けるようになりました。その人に生活必需品は売りましたが,それ以外には,その人とは商取引きさえしなかったと言われています。a ―ヨハネ 9:22; 12:42; 16:2。

      4,5 クリスチャン会衆は,悔い改めない罪人をどのように扱うべきでしたか。

      4 クリスチャン会衆が形成されてからは,クリスチャン会衆がユダヤ国民に代わって神のみ名を負うことになりました。(マタイ 21:43。使徒 15:14)したがって,クリスチャンがエホバの義を擁護すると期待されるのは当然なことです。使徒ペテロはこう書いています。「あなたがたを召された聖なるかたにならい,自らもすべての行状において聖なる者となりなさい。なぜなら,『あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしは聖なる者だからである』と書かれているからです」。(ペテロ第一 1:14-16)エホバはご自分の民を愛しておられ,クリスチャン会衆の清さを保つことを願っておられます。それで神は,神に恥辱をもたらし,会衆を危険にさらす歩み方を改めない人を退け,追放するための規定の概略を示してくださいました。

      5 使徒パウロは次のように助言しています。「分派を助長する者については,一度,またもう一度訓戒したのち,これを退けなさい。あなたが知るとおり,そのような者は道から外れて罪を犯し,自責の念をいだいているのです」。(テトス 3:10,11)そうです,テトスのような霊的な長老たちは,まず悪行者を親切に助けようとします。もしその人が長老たちの援助に応ぜず,『罪を犯す』道をかたくなに歩み続けるなら,長老たちには,「団体の成員を裁く」ために長老たちの委員会を招集する権限があります。(コリント第一 5:12,今日の英語聖書)神を愛し,その民が清くあることを願うなら,「団体」すなわち会衆の中の人々は,その人を退けなければなりません。

      6 悔い改めない罪人を追放するのはなぜ正しくふさわしいことでしたか。

      6 西暦1世紀に,この種の悪行者が幾人か現われました。ヒメナオとアレクサンデルはその部類に属する者で,「自分の信仰に関して破船を経験しました」。「冒とくすべきでないことを懲らしめによって学ぶよう,わたしは彼らをサタンに渡しました」とパウロは述べています。(テモテ第一 1:19,20)この二人の追放は厳しい懲罰,つまり懲らしめ,また罰でしたが,それは,神聖な生ける神を冒とくすべきでないことを学ばせるものとなったでしょう。(ルカ 23:16と比較してください。そこではしばしば「懲らしめ」と訳される基本となるギリシャ語が用いられています。)これらの冒とく者たちがサタンの権威に渡され,サタンの影響力の下にある世の暗やみの中に投げ込まれるのはふさわしいことでした。―コリント第二 4:4。エフェソス 4:17-19。ヨハネ第一 5:19。使徒 26:18と比較してください。

      追放された人々を扱う方法

      7,8 追放された人に対してどう行動すべきか,どのように決められますか。

      7 しかし,以前のメンバーで排斥された人々をどのように扱うべきかについて,疑問も幾つか生じるでしょう。感謝すべきことに,神はそのみ言葉聖書の中に,完全で義にかない,公正であると確信できる答えと指示を与えてくださっています。―エレミヤ 17:10。申命 32:4。

      8 コリント会衆にいたある人は,一時期不道徳を行なっていました。そしてそのことを悔い改めていなかったようです。パウロはこの男を,『彼らの中から取り去るべきである』と書きました。その人は,固まり全体を発酵させ,あるいは腐敗させる可能性のある小さなパン種のようだったからです。(コリント第一 5:1,2,6)しかし,いったん追放された人は,クリスチャンが近所で,あるいは普段の生活で出会う,世の普通の人であるかのように扱われるべきでしたか。パウロの述べたことに注目してください。

      9 一般の不義の人々との接し方に関するパウロの助言はどんなものですか。

      9 「わたしは,……淫行の者と交わるのをやめるようにとあなたがたに書き送りましたが,それは,この世の淫行の者,あるいは貪欲な者やゆすり取る者,また偶像を礼拝する者たちと全く交わらないようにという意味ではありません。もしそうだとすると,あなたがたは実際には世から出なければならないことになります」。(コリント第一 5:9,10)パウロはこのように述べて,わたしたちが日常の営みの中で接触する人々の大部分が,神の道を全く知らず,それに従ってもいないという,現実に即した認識を示しました。彼らは淫行の者,ゆすり取る者,偶像を礼拝する者であるかもしれません。ですからクリスチャンがいつも親しく交わろうとする人々ではありません。それでもわたしたちはこの地上の人類の中で生活しており,そういう人々の近くにいなければならないかもしれず,職場で,学校で,隣り近所でそういう人々と話をしなければならないかもしれません。

      10,11 罪を犯して追放された人に対してクリスチャンが異なった行動を取るべきなのはなぜですか。

      10 次の節でパウロは,この状況と,クリスチャン「兄弟」だったにもかかわらず悪行ゆえに会衆から追放された人に対するクリスチャンの振る舞い方と対照させています。「しかし今わたしは,兄弟と呼ばれる者で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交わるのをやめ,そのような人とはともに食事をすることさえしないように,と書いているのです」― コリント第一 5:11。

      11 追放された人は,神を知らず,敬虔な生き方を追い求めてもいない世の普通の人ではありません。その人は真理と義の道を知っていたのにその道を離れ,悔い改めないで追放されるところまで罪を追い求めたのです。ですからその人は異なった仕方で扱われるべきです。b ペテロはこうした元クリスチャンが,普通の“一般人”とどう違うかについて注解しています。同使徒はこう述べました。「主また救い主なるイエス・キリストについての正確な知識によって世の汚れから逃れたのち,再びその同じ事がらに巻き込まれて打ち負かされるなら,そうした者たちにとって,最終的な状態は最初より悪くなっているのです。……真実のことわざの述べる次のことが彼らの身に生じました。『犬は自分の吐いたものに戻り,豚は洗われてもまたどろの中で転げ回る』」― ペテロ第二 2:20-22。コリント第一 6:11。

      12 (イ)「排斥」という語はなぜ適切であると言えますか。(ロ)初期の時代,クリスチャンであると公言する人々が罪を犯した人をどう扱ったかに関し,歴史は何を示していますか。

      12 そうです,聖書はクリスチャンが,会衆から追放された人と交際したり交わりを持ったりしないように命じています。エホバの証人はこうした悔い改めない悪行者を追放し,その後その人を遠ざけることを適切にも「排斥」(英語の字義通りの意味は,交友を中止する)と呼んでいます。彼らが,霊的なレベルであれ親ぼくのレベルであれ,追放された人との交友を一切拒むのは,神の規準に対する忠節と,コリント第一 5章11,13節にある命令に対する従順を反映することです。この点,当時のユダヤ人が「諸国民の者」を見ていたその見方でそうした人を見るように,とのイエスの助言と一致します。使徒たちの死後しばらくは,クリスチャンであると公言する人々は聖書的な手順に従っていたようです。c しかし,現在どれほどの教会が,この点に関する神の明確な指示に従っているでしょうか。

      自ら交わりを絶つ人々

      13 弱くなり,不活発になった人の場合には何がなされるべきですか。

      13 神の言葉を定期的に勉強しないため,あるいは個人的な問題を抱えていたり迫害に遭ったりしてクリスチャンが霊的に弱ってしまうことがあります。(コリント第一 11:30。ローマ 14:1)こうした人はクリスチャンの集会に出席することをやめるかもしれません。何がなされるべきですか。思い起こしてください。イエスが逮捕された晩,使徒たちはイエスを見捨ててしまいました。それでもキリストはペテロに対し「ひとたび立ち直ったなら,[やはりイエスを見捨てた]兄弟たちを強めなさい」と勧められました。(ルカ 22:32)ですから,クリスチャンの長老や他の人々は,弱くなり不活発になった人を愛の気持ちから訪問し,援助を与えるでしょう。(テサロニケ第一 5:14。ローマ 15:1。ヘブライ 12:12,13)しかしながら,ある人がクリスチャンであることを否認し,自ら交わりを絶つなら,それはまた別問題です。

      14 人はどのように自ら交わりを絶つことがありますか。

      14 真のクリスチャンであった人が,私はもう自分をエホバの証人とは考えていない,あるいはエホバの証人として数えられることを望まないと言って,真理の道を放棄するかもしれません。こうしたことはまれにしかありませんが,この場合,その人はクリスチャンとしての自分の立場を放棄しているのであり,会衆との交わりを自ら故意に絶っているのです。使徒ヨハネはこのように書きました。「彼らはわたしたちから出て行きましたが,彼らはわたしたちの仲間ではありませんでした。わたしたちの仲間であったなら,わたしたちのもとにとどまっていたはずです」― ヨハネ第一 2:19。

      15,16 (イ)ほかにどんな方法で,交わりを絶つ人がいますか。(ロ)クリスチャンは交わりを絶った人をどのようにみなし,どのように扱うべきですか。

      15 また,聖書と相反する目的を持つゆえにエホバ神の裁きの下にある組織の一員となるなどの行為によって,クリスチャン会衆内の自分の立場を放棄する人もいます。(啓示 19:17-21; イザヤ 2:4と比較してください。)ですからクリスチャンであった人が,神から是認されていない人々に加わることを選ぶなら,会衆は,その人が自ら交わりを絶ち,もはやエホバの証人ではないことを簡単に発表し,そのことを認めるとよいでしょう。

      16 考えた上でエホバの証人の信仰と信条を退け,『わたしたちの仲間でなく』なる人々は,当然ながら悪行ゆえに排斥された人と同じようにみなされ,同じように扱われるべきです。

      会衆と協力する

      17,18 排斥に関して会衆と協力することにはどんな事柄が含まれますか。

      17 クリスチャンは,兄弟たちや関心を持つ人々と聖書について話し合い,聖書を学んで霊的な交友を持ちますが,罪を犯して追放された人(あるいはエホバの証人の信仰と信条を放棄して自ら交わりを絶った人)とはそのような交友を持ちたいと思いません。追放された人々は「罪を犯し」たゆえに「退け」られており,『自責の念を抱いています』。そして会衆内の人々も,神の裁きを受け入れ,それを擁護します。しかし,排斥には霊的な交友を中止する以上の意味があります。―テトス 3:10,11。

      18 パウロは,「交わるのをやめ,そのような人とはともに食事をすることさえしないように」と書きました。(コリント第一 5:11)食事はくつろぎと親ぼくの時です。ですから聖書のこの部分は,追放された人を加えてピクニックに行ったり,パーティーを開いたり,野球をしたり,海岸や劇場に出掛けたり,共に座って食事をしたりするような,親ぼくのための交友をも非としているのです。d (親族が排斥されるという特殊な問題については,次の記事で検討します。)

      19 排斥の取決めを擁護し難く思える時があるのはなぜですか。しかしわたしたちが擁護するのはなぜ重要なことですか。

      19 あるクリスチャンが,聖書のこの助言を無視させようとするかなりの圧力を感ずる時があるかもしれません。自分自身の感情が原因で圧力が生じることもあれば,知人から圧力を加えられることもあります。例えば,ある兄弟は,排斥された二人の人の結婚式を執り行なうように圧力をかけられました。その務めは,単なる親切として正当化できるものでしょうか。そう考える人もいるでしょう。しかし,町長や他の結婚登録官ではなく,その人の務めが望まれたのはなぜですか。その人が神の奉仕者という立場にあり,結婚に関する助言を神の言葉聖書から与え得る能力があったからではないでしょうか。そのような圧力に屈するなら,自らの不敬虔な行状ゆえに会衆から追放されたその二人との交友に巻き込まれることになるでしょう。―コリント第一 5:13。

      20 仕事上の仲間が排斥された場合,わたしたちはどう反応すべきですか。

      20 仕事や雇用に関係して問題が生ずることもあります。会衆から追放された人に雇われていたとか,雇っていた人が追放された場合などはどうですか。そのあとはどうなるでしょうか。契約上,あるいは経済上の理由でしばらくは仕事上の関係を解消できないとき,あなたは排斥された人に対して,以前とは異なる態度を示すに違いありません。仕事上の事柄をその人と話すことや職業上の接触が必要となるかもしれませんが,霊的な事柄についての話し合いや,親ぼくのための交友はすでに過去のものとなります。そのようにして,神に対する従順を示すことができ,自分自身のためにも保護となる防壁を築くことができるのです。またこのことにより本人も,自分が罪を犯したために様々な面でいかに多くの代価を払うことになったかを痛感させられるでしょう。―コリント第二 6:14,17。

      排斥された人,あるいは交わりを絶った人と話す?

      21,22 排斥された人と話すことについて聖書にはどんな助言がありますか。

      21 神の義と排斥に関する神の取決めを擁護するということは,クリスチャンは追放された人とひと言も話してはならない,「こんにちは」というあいさつさえできないという意味でしょうか。『自分の兄弟たちだけにあいさつする』のではなく,敵を愛するようにとのイエスの助言を考え,この点に疑問を抱いた人もいます。―マタイ 5:43-47。

      22 神が,生じ得るあらゆる状況を取り上げようとされなかったことは,実際には神の知恵の表われです。わたしたちに必要なのは,排斥された人々の取り扱いについてエホバが述べておられる要点をつかむことです。そうすれば,神の見方を擁護するために力を尽くせます。神は使徒ヨハネを通して次のように説明しておられます。

      「先走って,キリストの教えにとどまらない者は,だれも神を持っていません。……この教えを携えないであなたがたのところにやって来る者がいれば,決して自分の家に迎え入れてはなりませんし,あいさつのことばをかけてもなりません。その者にあいさつのことばをかける者は,その邪悪な業にあずかることになるからです」― ヨハネ第二 9-11。

      23,24 追放された人と話すことを避けた方が賢明であるのはなぜですか。

      23 賢明なこの警告を与えた使徒はイエスと親しく,他の人へのあいさつについてキリストが言われたことをよく知っていました。この使徒はまた,当時の一般のあいさつが「平和」を意味することも知っていました。個人的な「敵」や,権威を持つ世の人でクリスチャンに敵対する人とは異なり,独自の背教的な考えを助長し,正当化しようとする人,あるいはその不敬虔な行動を続ける人は確かにわたしたちが「平和」を願うべき人ではありません。(テモテ第一 2:1,2)そして多年にわたる経験からわたしたちすべてが知っていることですが,「こんにちは」という簡単なあいさつがきっかけとなって会話に発展したり,場合によっては友情に発展したりすることがあるものです。わたしたちは排斥された人に対し,そのようなきっかけを作りたいと思うでしょうか。

      24 『でもその人が悔い改めているように見え,励ましを必要としている場合はどうでしょうか』と尋ねる人もいるでしょう。こうした状況に対処するための規定があります。会衆の監督は霊的な牧者,また羊の群れの保護者として仕えています。(ヘブライ 13:17。ペテロ第一 5:2)排斥された,あるいは交わりを絶った人の求めがあれば,またその人が神の恵みの下に帰りたいという願いを明確に示していれば,長老たちは当人と話すことができます。長老たちは,当人が行なう必要のあることを親切に説明し,適切な訓戒を与えることでしょう。長老たちは本人の過去の罪と本人の態度に関する事実に基づいて,その人を扱うことができます。会衆の他の人には,そうした情報が欠けています。ですから排斥された人,あるいは交わりを絶った人が「悔い改めている」と感じられても,それは正確な情報というより,単なる印象に基づいた判断ではないでしょうか。その人が悔い改めており,悔い改めの実eを生み出していると長老たちが確信するなら,その人は会衆に復帰することを許されるでしょう。それが許されてから会衆の他の人々は,コリントで復帰することを許された人に関してパウロがコリント人に勧めたように,集会でその人を温かく歓迎し,許しを示し,慰め,その人に対する愛を確証することができます。―コリント第二 2:5-8。

      邪悪な業にあずからない

      25,26 排斥された人に「あずかる」ことについて,神はどんな助言を与えておられますか。

      25 すべての忠実なクリスチャンは,神がヨハネに霊感を与えて書かせた次の重大な真理を心に銘記する必要があります。「[誤った教えを広め,不敬虔な行状をやめようとしない,罪を犯して追放された人]にあいさつの言葉をかける者は,その邪悪な業にあずかることになる(の)です」― ヨハネ第二 11。

      26 キリスト教世界の注釈者の多くは,ヨハネ第二 11節に異議を唱えます。彼らは,それが『我らの主の霊とは反対の,キリスト教らしからぬ助言である』とか,それは狭量を助長するとか主張します。しかしそのような意見は,「その邪悪な人をあなたがたの中から除きなさい」という神の命令を適用しない宗教組織,だれもが知っている悪行者でさえも自分の教会から追放することなどまずしない組織から出ているのです。(コリント第一 5:13)彼らの“寛大さ”こそ聖書的ではなく,クリスチャンらしからぬものです。―マタイ 7:21-23; 25:24-30。ヨハネ 8:44。

      27 クリスチャンはどのようにして,その『あずかる者』となる可能性がありますか。それにはどんな結果が伴いますか。

      27 しかし,聖書の神,義と公正の神に忠節であるのは間違ったことではありません。神が『その聖なる山』に受け入れるのは,とがなく歩み,義を行ない,真実を語る人だけであると述べられています。(詩 15:1-5,新)しかし,神から退けられて排斥された人や自ら交わりを絶った人と進退を共にするつもりのクリスチャンは,『私も神の聖なる山の中に居場所など欲しくない』と言っているも同然です。排斥された人と定期的に交わりを持ち,そうした方向に歩んでいる人を見た長老たちは,親切にまた辛抱強く,その人が再び神の見方を得られるよう援助しようとします。(マタイ 18:18。ガラテア 6:1)その人を訓戒し,また必要であれば『彼を厳しく戒めます』。長老たちはその人が『神の聖なる山』にとどまれるよう助けることを願います。しかし本人が排斥された人との交友をやめないなら,その人は自ら『その邪悪な業に(それを支持したり行なったりして)あずかる者』となるのであって,会衆から除かれなければ,つまり追放されなければなりません。―テトス 1:13。ユダ 22,23。民数 16:26と比較してください。

      神の見方に対する忠節

      28 わたしたちはどのようにエホバの見方に忠節を示せますか。

      28 エホバ神とその規定に対する忠節は幸福の源です。エホバ神の道はすべて義であり,公正であり,善だからです。悔い改めない悪行者を排斥するという規定についても同じことが言えます。この取決めに協力の精神を示す時,わたしたちは「エホバがご自分の忠節な者を必ず見分けられることを知れ」というダビデの言葉を信じることができます。(詩 4:3,新)そうです,神と神の道に忠節な人々を神は取り分けられ,その人に誉れと導きを与えられるのです。そうした忠節を示すことによってわたしたちは数多くの祝福を得ますが,神から是認され,『その聖なる山』に迎え入れてくださる人々の中に数えられるという喜びもその一つです。―詩 84:10,11。

      [脚注]

      a 「ゆえにその人は死者も同然だった。他の人と共に学ぶことも許されず,[親ぼくのための]交流も持てず,その人には道を教えることさえできなかった。実際,生活に必要な物を買うことはできたようだが,そうした人と飲食を共にすることは禁じられていた」― A・エダーシャイム著「メシア,イエスの生涯とその時代」,第2巻184ページ。

      b 聖書のこの教えと調和してアダム・クラークはこの相違を強調し,こう述べています。「聖俗の別を問わずどんな事においても,[罪を犯して追放された人]とは親交を持ってはならない。世の事に関しては,その人の道徳的特性のいかんにかかわらず,神を知らず,キリスト教徒であると公言しない人と取り引きしてよいが,クリスチャンであると公言しながら,行動において破廉恥な人はそこまで認めてはならない。その人には,あなたがたがあらゆる罪を憎んでいるというこの特別なしるしを身に付けさせよ」。

      c 教会史家ジョセフ・ビンガムは,西暦の最初の数世紀間のことについて次のように書いています。「教会の規律は,人々を教会という社会および教会との交わりから追放することによって,バプテスマの益と特権をすべて剥奪する権力にあった。……そしてだれもが彼らを遠ざけ,彼らを避け,日常会話を交わさなかったが,それは一つには彼らを非とする教会の譴責と手続きを確立するため,一つには彼らを恥じ入らせるため,一つにはその悪影響を受ける危険から自らを守るためであった」。「……破門された人を自分の家に迎え入れたり,食卓を共にしたりすることはだれにも許されていなかった。彼らが生きている間,彼らと親しく話すことはできなかった。また死んでも彼らのために葬式を営むことはできなかった。……これらの指示は,悪名のある違犯者の肩を持つことをクリスチャンに禁じた使徒たちのあの規定の型に基づいて設けられたものである」―「キリスト教会古代史」,880,891ページ。

      d 本誌の1981年11月1日号で,無秩序な行動を改めないクリスチャンに『特に注意する』必要がある,と述べる聖書のテサロニケ第二 3章14,15節が説明されました。その人は今なお兄弟であり,兄弟として訓戒しなければなりませんが,他のクリスチャンは『その人と交わるのをやめ』なければなりません。その人との親ぼくのための交わりを避けるべきであれば,悪行を犯して排斥された人,あるいは交わりを絶った人の場合には,もっとはっきりとした絶縁状態が見られて然るべきです。

      e 悔い改めの問題については,「ものみの塔」誌1981年11月1日号をご覧ください。

      これらの要点を覚えていますか

      ユダヤ人が会堂から追放された時,彼らはどのように扱われたか

      パウロは次に挙げる人々の扱いにどんな違いがあることを示したか

      (1)世の不道徳な人

      (2)会衆から排斥された不道徳な人

      自ら会衆との交わりを絶つ人をクリスチャンはどう見るべきか

      「排斥」は,どんな種類の交友を絶つことを意味するか

      クリスチャンが排斥された人にあいさつをしたり,そうした人と話をしたりしないのはなぜか

      『神の聖なる山』にとどまるため,わたしたちは排斥に関して何をする必要があるか

      [21ページの図版]

      排斥された人「とはともに食事をすることさえしないように」

  • もしも親族が排斥されたら……
    ものみの塔 1981 | 11月15日
    • もしも親族が排斥されたら……

      1,2 (イ)家族の宗教について神は何を意図しておられましたか。(ロ)コラの時代に,幾つかの家族はどんな決定に直面しましたか。

      しばらく独りでいたアダムに,神は「人が独りのままでいるのは良くない」と言われました。それから神はエバを造られ,人間の結婚を創始されました。(創世 2:18,21,22,新)以来,地球の人口は増加することになりました。ですからどんな人も数多くの親族を持つことになります。子供など,家族の一部が近くに住んでいない場合でも,彼らを訪問して,楽しい時を共にすることができました。―創世 1:28。ヨブ 1:1-5。

      2 神が意図しておられたのは,家族が真の崇拝で一つに結ばれ,宗教信条ゆえに分裂などが生じないようにすることでした。しかし宗教が元で家庭争議の生じたことが何度かあります。その一つは,コラとダタンとアビラムが反逆した時のことです。エホバはご自分がモーセとアロンを通して交渉を持ち,これら宗教上の反逆者を間に立てることはないという点を確証されました。それでモーセは人々に,反逆者の天幕から離れるよう命じました。コラ,ダタン,アビラムの家の者や子供たちはどうしましたか。彼らはエホバとその会衆に対する忠節よりも家族に対する忠節を優先しましたか。この反逆者たちと密接な関係のあった人々の大多数は神よりも家族の方を優先しました。エホバはこれらの親族を反逆者共々処罰されました。―民数 16:16-33。

      3 コラの家族の幾人かはどんな賢明な選択を行ないましたか。

      3 ところが,コラの息子たちの幾人かは神とその民に対する忠節を保ちました。彼らはコラの家の者およびダタンとアビラムの家族の残りの人々と共に処罰を受けることはありませんでした。(民数 26:9-11)実際,コラの家族の生き残った人々の子孫は後代,祝福を受け,神殿での特別な奉仕にあずかり,聖書の中で敬意をもって語られています。―歴代下 20:14-19。詩 42,44-49,84,85,87篇。

      4 イスラエルでは,家族の忠節は他のどんな点で試練に直面する可能性がありましたか。

      4 あるイスラエル人が背教者になる時も,家族と神,そのどちらに対する忠節を選ぶかという同様の問題が生じました。その人の家族は人間的な感情や血のつながりに動かされ,本人が切り断たれないようにその人をかばおうとするでしょうか。それともその兄弟,息子や娘たちさえも,神と会衆に忠節であることの方が正しく賢明な道であることを悟るでしょうか。(申命 13:6-11参照。)今日のキリスト教の取決めにおいては,罪を犯した人が処刑によって絶たれることはありませんが,親族が懲らしめを受けることでクリスチャンが試練に直面することはあります。

      親族が問題を起こすことがある

      5,6 (イ)どのように,宗教をめぐる家族の分裂が生じるかもしれませんか。(ロ)こうした状況で,クリスチャンが妥協してはならないのはなぜですか。(詩 109:2-5)

      5 家族の結びつきと愛情は非常に強いものとなり得ます。これは自然なことであり,神の取決めと一致しています。(ヨハネ 16:21)しかしこの強いきずなはまた,クリスチャンに困難な試練をもたらすこともあります。イエスは,人がクリスチャンになる結果,親族の反対に遭う場合があると説明されました。イエスはこう述べておられます。「[わたしは] 平和ではなく,剣を投ずるために来たのです。わたしは分裂を生じさせるため,男をその父に,娘をその母に,若妻をそのしゅうとめに敵対させるために来たからです。実際,人の敵は自分の家の者たちでしょう。わたしに対するより父や母に対して愛情をいだく者はわたしにふさわしくありません。また,わたしに対するより息子や娘に対して愛情をいだく者はわたしにふさわしくありません」― マタイ 10:34-38。

      6 このような憎しみの存在することを願うクリスチャンは一人もいません。清く,道徳的で正直な,神の僕になったからといって,親族がそうした人々に反対したり憎しみを抱いたりすべき理由はありません。それでも真のクリスチャンは,神よりも家族を優先することはできないとはっきり理解しています。結局は,すべての人に最大の益をもたらすのは,クリスチャンが神に忠実を保つことなのです。時たつうちにクリスチャンは,親族が救いに至る道を歩むように感化を与えることができるかもしれません。―ローマ 9:1-3。コリント第一 7:12-16。

      7,8 排斥によって家族の問題が生じるかもしれませんが,それはだれのせいですか。(申命 32:4)

      7 親族は他の面でも,真のクリスチャンを煩わす様々な問題を引き起こすかもしれません。親族が排斥されるときにもそうしたことが生じ得ます。前の記事で学んだように,会衆内でゆゆしい罪を犯しながら悔い改めない人がいるなら,神はその人を排斥することを求めておられます。(コリント第一 5:11-13)悪行者のその行動によって,本人とエホバとの関係,およびその結果として本人とエホバの証人である家族の成員との関係に変化が生じました。こうした結果について神に責任はありません。神の規準は義にかなっており,公正だからです。(ヨブ 34:10,12)それに,その忠実なクリスチャンの親族のせいで,その間違いが生じたわけでもありません。コラ,ダタン,アビラムの場合と同じように,自分自身と親族に問題をもたらしたのは,排斥された人自身なのです。

      8 二つの異なる状況について調べる必要があります。最初は,家族の中の,排斥された,あるいは交わりを絶った成員と同じ家でクリスチャンが生活している場合です。2番目は,その親族が身近な家族ではない場合です。

      身近な家族

      9 配偶者がクリスチャンではない場合,あるいは排斥されている場合,家族の責務はどうなりますか。

      9 家族が一人も信仰を受け入れず,自分だけがクリスチャンになる人もいるでしょう。その一例として,妻はエホバに仕えていても,夫がそうではないという場合があります。それでも,妻はやはり夫と「一体」であり,夫を愛し,敬う責務があります。(創世 2:24,新。ペテロ第一 3:1-6)あるいは,献身したクリスチャンだった夫が,後になって会衆から追放されたという場合もあるでしょう。しかし二人の結婚のきずなは,そのことによって断ち切られるわけではありません。結婚のきずなを絶つのは,死と聖書的な理由に基づく離婚だけです。―コリント第一 7:39。マタイ 19:9。

      10,11 排斥は,家庭内の霊的なきずなにどんな影響を及ぼしますか。

      10 同様に,親,息子,娘などの親族が排斥されたり自ら交わりを絶ったりした場合でも,血のつながりと家族のきずなは残ります。では,家族の一員が排斥されたときでも,家族内の物事はすべて以前と変わらないことになりますか。明らかにそうではありません。

      11 排斥された人は,会衆から霊的には切り断たれました。以前存在していた霊的なきずなは完全に断ち切られました。この点は,すぐ身近にいる家族を含め,その親族に関しても真実です。ですから,家族の成員は,家族のきずなを認めながらも,本人との霊的な交友はもはや持ちません。―サムエル前 28:6。箴 15:8,9。

      12 家族の成員が排斥される場合,霊的な交わりに関して,どんな変化が生じるかもしれませんか。

      12 これは,家庭内に存在していたであろう霊的な交友に変化が生じることを意味します。例えば,夫が排斥された場合,家族の聖書研究をその夫が司会したり,聖書朗読や祈りで指導したりすると,妻や子供たちは気持ちよくありません。排斥された人が食事の時などに祈りをしたいと思えば,自宅でなら祈る権利はあります。しかし妻や子供たちは声を出さずに自分で神に祈りをささげることができます。(箴 28:9。詩 119:145,146)家族が聖書を一緒に読んだり,聖書研究をしたりする時に,家庭内にいる排斥された人が出席することを望むならどうですか。家族を教えようとしたり,宗教的な考えを述べようとしたりしない限り,出席して耳を傾けることは許されるでしょう。

      13 親は,家にいる排斥された子供にどのように接しますか。

      13 未成年の子供が排斥される場合,親はやはり本人の身体的な必要を満たすように世話をし,道徳的な訓練と懲らしめを与えるでしょう。親は子供に参加してもらい,子供と直接に聖書研究をすることはしませんが,それは,家族研究の時にそばに座っているように求めてはならないという意味ではありません。そして親は,本人が必要としている諭しを含む聖書やキリスト教の出版物の一部分に注意を向けさせるでしょう。(箴 1:8-19; 6:20-22; 29:17。エフェソス 6:4)親は子供が聖書の諭しを心に取り入れることを望み,クリスチャンの集会に子供を伴い,一緒に座ることができます。

      14,15 排斥された親が家に戻って来ることについては,何がなされるべきですか。

      14 では家にいない息子や親などの肉親が排斥され,その結果家に帰ることを願っている場合はどうですか。家族は状況に応じ,どうすべきかを決定することができます。a

      15 例えば,排斥された親は病気で,経済的にも身体的にも自活できない状態にあるかもしれません。クリスチャンである子供には,親の面倒を見る聖書的また道義的責任があります。(テモテ第一 5:8)一時的にせよ永久的にせよ,親を家に呼ぶ必要があるように思えるかもしれません。あるいは,医療関係者はいますが自分たちが訪問しなくてはならない所に両親の世話を依頼するのが賢明だと思えるかもしれません。どうするかは,親が本当に必要としている事柄や親の態度,家の者の霊的福祉に対する家族の頭の心遣いなどによって決まるでしょう。

      16,17 (イ)親は,排斥された子供が家に帰って来そうなとき,どのように対応しますか。(ロ)わたしたちはこの点について,放とう息子のたとえ話から何を学びますか。

      16 家を離れていて,今では排斥されるか交わりを絶っている子供についても同じことが言えます。クリスチャンの親が,身体的に,あるいは感情的に病気になった排斥された子供をしばらくの間家に戻すこともあります。しかし親は必ずその子の状況を慎重に考慮します。排斥された息子は自活してきたでしょうか。今はそれができないでしょうか。本人が戻りたがっているのは,主に,その方が生活が楽だからですか。本人の品行や態度はどうですか。家庭内に「パン種」を持ち込むことになりますか。―ガラテア 5:9。

      17 放とう息子に関するイエスのたとえ話の中で,父親は走って会いにゆき,帰って来た息子を迎え入れました。子供の哀れな様子を見て,父親は親としての自然の情を示しました。しかし,息子が家に売春婦を連れて来ることもせず,父親の家に戻って罪深い生活を続けようという気持ちもなかったことに注目できます。そうです,この息子は心からの悔い改めを表明し,明らかに,もう一度清い生活に戻る決意を抱いていたのです。―ルカ 15:11-32。

      家の中にいない排斥された親族

      18,19 (イ)身近な家族ではない親族が排斥された場合,その人と交わることをクリスチャンはどう見るべきですか。(ロ)そのような立場を取るのはなぜ適切ですか。(テモテ第二 2:19)

      18 考慮する必要がある2番目の状況は,排斥された親族,交わりを絶った親族が,身近な家族ではない,あるいは家に一緒に住んでいない場合です。このような人ともまだ血のつながりや婚姻によるつながりがあるので,家庭内の必要な事柄をある程度世話しなければならないかもしれません。しかしこの状況は,同じ家で生活していて接触や会話をどうしても避けられないという状況とは異なります。霊感を受けた聖書の次の指示を,わたしたちははっきりと思いに留めているべきです。「兄弟と呼ばれる者で,淫行の者,貪欲な者……がいれば,交わるのをやめ,そのような人とはともに食事をすることさえしないように」― コリント第一 5:11。

      19 したがって,自分の家の外に住んでいる排斥された人と親類関係にあるクリスチャンは,不必要な交わりを避け,事務的な接触も最小限にとどめる努力を払うべきです。こうした行き方が理にかなっていることは,次の報告から明らかになります。それは,『彼は排斥されたけれど,私たちは親族だから,以前と同じように彼を扱うことができる』という誤った見方を親族が持ったために生じた出来事に関するものです。ある地方から次のような報告が寄せられました。

      「排斥されたある人は,会衆内の3分の1ほどの人と親類関係にありました。その人の親類は全員その人と交わりを続けました」。

      さらにまた,非常に尊敬されているひとりのクリスチャンの長老は,このように書いています。

      「私たちの地域では,大家族を抱える排斥された人々が王国会館のロビーに入って来ると,人々は(排斥された人が今なお不道徳な生活を送っていることは知っていても),これみよがしに背中をたたいたり握手をしたりして彼らを迎えます。私は本当に心配しています。排斥された人は,自分の歩みがエホバとその民から憎まれていることを悟る必要があります。また誠実に悔い改める必要を切実に感じるべきです。彼らの行ないを知っているそれらの大家族全員が,彼らをこれからも歓迎するなら,排斥された人々が変化を遂げるのに何が助けとなるでしょうか」。

      20,21 排斥された親族には注意が必要です。なぜですか。(テモテ第二 2:22)

      20 多くの人が親族関係にあるという会衆は,西暦1世紀にも存在していたに違いありません。しかしだれかが排斥された場合,その排斥された人と聖書的な事柄を話し合わない限り,親族はみな普段と変わりなく振る舞えましたか。そうではありません。もしそうしたなら,「その邪悪な人をあなたがたの中から除きなさい」という命令を本当に適用することにはならなかったでしょう。―コリント第一 5:13。

      21 罪を犯して排斥された人の立場を大目に見たり,軽視したりしないよう,非常な注意が必要です。コラの子たちの例が如実に示しているように,わたしたちの忠節は第一にエホバとその神権的な取決めに対するものであるべきです。神の規準を擁護し,悪行者との交わりよりも,神の組織された民との交わりを選ぶなら,わたしたちは神の保護と祝福を得ることを確信できるのです。―詩 84:10-12。

      親ぼくのための集まりと排斥された親族

      22 家族が集う時,排斥された親族に関して特別な問題の生じることがあるのはなぜですか。

      22 普通の場合親族は,食事,ピクニック,家族会その他の親ぼくのための集まりでよく一緒になります。しかし,罪を追い求めて悔い改めず,排斥されなければならなかった人がいれば,その人はこのような集まりに関連してクリスチャンの親族に難しい問題を投げかけるかもしれません。その人が依然として親族であることは認めますが,忠実なクリスチャンは罪を犯して追放された人と「交わってはならない」,というパウロの助言を無視してはなりません。

      23 排斥された親族がクリスチャンの結婚式に出ると,どうなりますか。

      23 排斥された親族が出席している集まりに出る家族の成員について,何らかの規則を探そうとするのは無益なことです。それは関係者が,パウロの諭しに基づいて決定すべきことでしょう。(コリント第一 5:11)それでも,排斥された人が,親族でない証人たちが招かれている集まりに出席する意向であれば,それが他の人の行動に影響を及ぼし得るということも十分に知っておかなければなりません。例えば,二人のクリスチャンが王国会館で結婚するとしましょう。排斥された親族が結婚式のため王国会館に入って来るとしても,その人は明らかに新郎新婦の付き添いをしたり,花嫁を“花婿に渡し”たりすることはできません。では,結婚の祝宴や披露宴がある場合はどうでしょうか。イエスが出席されたカナの場合と同じように,それは楽しい親ぼくの機会となり得ます。(ヨハネ 2:1,2)しかし,排斥された親族がそこに来ること,あるいはその親族を招待することは許されるでしょうか。その人が出席する意向であれば,親族であるかどうかにかかわりなく,多くのクリスチャンは,コリント第一 5章11節のパウロの指示に照らして,その場にいてその人と一緒に食事をし,交わることはできないと結論付けるかもしれません。

      24 忠節なクリスチャンが,最も楽しめるのはどんな交わりですか。(箴 18:24)

      24 そういうわけで,普通には家族の成員が出席する集まりに,排斥された,あるいは交わりを絶った親族に出席してもらうことはできないとクリスチャンが感ずることもあるでしょう。それでもクリスチャンは,「神のご意志を行なうのがだれであっても,その者がわたしの兄弟また姉妹また母なのです」というイエスの言葉を念頭に置き,会衆の忠節な成員との交わりを楽しむことができます。―マルコ 3:35。

      25,26 排斥された親族が死亡する場合,葬式に関してどんな状況が生じますか。

      25 事実からすれば,クリスチャンが罪にふけって排斥を余儀なくされる時,その人は本当に多くのものを失います。神のみ前における是認された立場,幸福なクリスチャン会衆の成員としての立場,以前クリスチャンの親族との間で保たれていた多くの交わりを含め,兄弟たちとの喜ばしい交友などを失うのです。(ペテロ第一 2:17)その人がもたらした苦しみは,本人の死後も残ります。

      26 排斥期間中に本人が死亡した場合,その葬式の取決めが問題となるかもしれません。クリスチャンの親族は,それが土地の習慣であれば,王国会館で話をしてもらいたいと思うかもしれませんが,会衆から追放された人に関してそれはふさわしいことではないでしょう。罪を犯すことをやめ,クリスチャンの集会に出席するなどして,本人が悔い改めと,神の許しを望んでいる証拠を示していたなら,幾人かの兄弟たちの良心は,葬儀場や墓地で聖書の話をすることを許すかもしれません。死者の状態に関するこうした聖書的な説明は,未信者に対しては証言となり,親族にとっては慰めとなるものです。しかしながら,排斥された人が依然として偽りの教えや不敬虔な行ないを唱道していたのであれば,こうした話をすることさえ適切ではないでしょう。―ヨハネ第二 9-11。

      わたしたちすべてに対する教訓

      27 わたしたちは神の裁きをどう見るべきですか。

      27 わたしたちはみな,重要なのはエホバの裁きであるということを認識する必要があります。(箴 29:26)憎むべき行ないについても同じことが言えます。聖書の中に,これらの事柄は神が忌み嫌われることであると述べられているからです。(箴 6:16-19)個人個人に対する神の裁きについてもやはり同じです。エホバの言葉は,「肉の業」を行ない続ける「不義の人々」が神の王国を受け継ぐことはないと明確に述べています。(コリント第一 6:9,10。ガラテア 5:19-21)このような人々には天にも場所がなく,王国の地的領域の中にもふさわしい場がありません。したがって,今日,神の清い会衆内にとどまりたいと願う人はみな,神の規準にかなっていなければなりません。神は,「パン種」がご自分の聖なる民の中に残り,その腐敗的な影響を及ぼすことを絶対にお許しになりません。―コリント第一 5:6-13。

      28 排斥の問題によって,わたしたちの忠節はどのように試されるかもしれませんか。

      28 人間には感情があるので,肉親が排斥される場合には,当然ながら大きな試みが生じます。親子の間の感情と家族のきずなは特に強いものがあります。そして配偶者が排斥される場合もやはりそのきずなは強力です。それでも結局は,わたしたちが感情の赴くままに神の賢明な諭しと導きを無視するようなことになれば,だれも益することができず,神を喜ばせることにもならないということを認識する必要があるのです。悔い改めない悪行者を排斥するという神の規定を含め,神の方法が全く義にかなっているという点に全幅の信頼を示す必要があります。神と会衆に対して忠節であり続けるなら,悪行者はやがてそのことから教訓を得,悔い改め,会衆に戻ることを許されるかもしれません。しかしそうなるかどうかにかかわらず,わたしたちはダビデが晩年に述べた次の言葉から,慰めと力を得ることができます。

      「[神の] すべての司法上の裁きはわたしの前にあ(る)……それで,エホバがわたしの義にしたがい,その目の前のわたしの清さにしたがって,わたしに報いてくださるように。忠節な者には,あなたは忠節をもって行動し,とがのない,力のある者には,とがのない仕方で対処されます。自らを清く保つ者には,あなたはご自分が清い者であることを示し……そして謙遜な民を,あなたは救われます」― サムエル後 22:23-28,新。

      [脚注]

      a 長老や奉仕のしもべの状況に関する注解は,1978年5月1日号の「ものみの塔」誌,「読者からの質問」に載せられています。

      [28ページの図版]

      排斥された親は,クリスチャンの子供の家で世話をしてもらう必要があるかもしれない

      [29ページの図版]

      放とう息子は自分の罪深い生活を続けるために家に戻ったのではなく,悔い改めていた。父親は息子を迎え入れた

  • 覚えていますか
    ものみの塔 1981 | 11月15日
    • 覚えていますか

      最近の数号の「ものみの塔」誌を興味を持って読まれましたか。次の幾つかの点を思い起こせるかどうか試してみてください。

      □ 無数のカトリック教徒とプロテスタント信者は,聖書の千年期の希望をどのように奪われましたか。

      魂の不滅性というギリシャの教えの浸透に伴い,背教したクリスチャンは地的な“パラダイス”を天的なものに変え,聖書が示す千年期の希望を捨て去りました。西暦前の時代に,ユダヤ人の間でも同様の背教が生じました。復活の希望の代わりに,不滅性に関するギリシャの考え方を取り入れたのです。―7月15日号,11,12ページ。

      □ クリスチャンの生活に生じる様々な問題は,当人にとってどのように励ましに変わりますか。

      インフレや汚染や病気といった日常の諸問題に直面すると,クリスチャンは聖書の比類のない助言に従い,それが本当に役立つことを悟ります。これはその人にとって大きな励ましとなり,自分の知恵にではなく常に神の知恵に頼ることを教えられます。(詩 119:105)―8月1日号,7ページ。

      □ 家から家の活動はどうしてエホバからの祝福と言えますか。

      家から家に宣べ伝えるために時間を用いるなら,エホバのクリスチャン証人は世の誘惑にさらされないよう守られます。(ヨハネ第一 2:15,16)この活動にあずかることにより,他の人々に役立つことを行ない,一層同情心に富み,感情移入をすることを学びます。また,自分のために天に宝を積み,エホバ神とキリスト・イエスを友とすることになります。(マタイ 6:19-21。ルカ 16:9)そして,謙遜さを培うことにもなります。―8月15日号,15,16ページ。

      □ 神の王国政府に対するわたしたちの信仰を試すために,どんな個人的な質問をしてみるとよいでしょうか。

      わたしたち個人としてはこの世をどう見ているでしょうか。その中にあって,自分を『外人』,また『外国人』とみなしていますか。地域社会の他の人々はわたしたちを異なったものと見ていますか。自分にはその政府の臣民になる見込みがあると考えることができますか。他の人々にその王国を忠節に唱道していますか。―8月15日号,17,27ページ。

      □ より小さい者として行動するのはなぜ賢明であると言えますか。

      聖書は,そのような知恵の道がエホバ神,仲間のクリスチャン,自分の家族の成員などとの良い関係に寄与することを示しています。さらに,他の人に有利な立場や優先権を与えると,生活は一層幸福なものになります。(使徒 20:35)―9月1日号,25ページ。

      □ 他の多くの人々とは異なり,エホバの証人は強制収容所の中でもどうして信仰を失わずにすんだのでしょうか。

      神とそのみ言葉に対する全き信頼は,1日1日生きてゆく際の基準を与えるものとなりました。それは精神および道徳の面での平衡を保つのに役立ち,そのおかげで心配して健康を損なったり,絶望感によって力を失ったりすることが避けられました。―9月15日号,11,12ページ。

      □ どうすれば結婚生活で神を考慮に入れることができますか。

      その秘けつは配偶者同士が各々神と個人的で緊密な関係を持ち,親切や寛容,辛抱強さなどの神の特質を反映することにあります。―10月1日号,13-15ページ。

      □ 預言者ミカは今日のエホバの証人にとってなぜ立派な模範と言えますか。

      ミカは霊的な弱虫ではありませんでした。霊的な力に満たされ,罪を罪として明らかにしました。“だれがヤハのようであるか”という意味を持つその名は,偽りの神々すべてに対する裁きの挑戦的な音信にふさわしいものでした。(ミカ 3:8)―10月15日号,11-13ページ。

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