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あなたがたはもはや諸国民と同じように歩んではいないものみの塔 1979 | 9月15日
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たちよりも優れた影響を受けていることを,喜んで示しました。そして「[自分たちの]思いを活動させる力において新たにされ」たことを実証しました。それはなんと異なった「力」だったのでしょう! ほかの人々はそれに注目しないわけにはいきませんでした。わたしたちは,こういう人のようになりたいのではないでしょうか。口でどんなことを言っても,わたしたちは「光の実」を示すか,諸国民のように歩むかのどちらかです。―エフェソス 4:23; 5:9,11。
21 どういう理由で今日わたしたちは娯楽の選択について現実的な見方をすべきですか。
21 では,今日におけるわたしたちの娯楽の選択についてはどうでしょうか。わたしたちや子供たちは,テレビをつけたり,映画に行ったりするとき,何を見ているでしょうか。わたしたちが選ぶものは,『破廉恥なローマの演劇や競技場の野蛮な行為』と本当に異なっているでしょうか。幾つかの実例は,一部のクリスチャンがどのように注意を怠り,見ることを習慣にしていたもののためにどのように不道徳のわなにかかったかを示しています。
22 (イ)一世紀のクリスチャンたちが,光の子どもとして歩むのはやさしいことでしたか。それでも彼らは何をすることができましたか。(ロ)さらにどんな質問に答えが必要ですか。
22 それに引き替え,初期クリスチャンたちはなんという道徳的な強さを発揮したのでしょう! 人々の心が,罪を犯していることに気づかないほど無神経になり,恥も外聞も全く忘れ去られた世に住んでいながら,彼らは,『真実なこと,まじめなこと,義にかなっていること,貞潔なこと,愛すべきこと,よく言われること,徳とされること,賞賛されること』に思いを集中し得たのです。(フィリピ 4:8)不道徳な環境のただ中にあって,その強さをどのように維持したのでしょうか。彼らも今日のわたしたちと同じように血肉の人であったことを,忘れないようにしましょう。娯楽は彼らにとっても欠かせないものでした。彼らの『ほかの楽しみ』とは何だったのでしょうか。どうすればわたしたちは「光の子どもたち」の堅実な模範に一層よく倣うことができるでしょうか。次の記事ではこれらの重要な質問について検討します。
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光の子どもとして歩みつづけるものみの塔 1979 | 9月15日
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光の子どもとして歩みつづける
「あなたがたはかつてはやみでしたが,今は主との関係で光となっているのです。光の子どもとして歩んでゆきなさい」― エフェソス 5:8。
1,2 (イ)この例えでは,風に逆らって歩くことはどうして重要ですか。(ロ)なぜクリスチャンは諸国民のように歩むのを避けることに極力努力しなければなりませんか。
その人は強風と戦いました。骨折りながら一歩一歩,しっかりした足どりで前進しました。なぜそれほどの努力を払ったのでしょうか。なぜ向きを変えて風下に向かって歩かなかったのでしょうか。なぜならその人のすぐ後ろに,深い暗い割れ目が気味悪く口を開いていたからです。もし死にたくないならほかに道はありませんでした。風に逆らって必死で歩いたのは当然です。
2 今日,サタンの牛耳る「世の霊」はひどい風のように,全人類をある道に誘い込もうとしています。それは神の怒りが表明されるとき,必ず破滅という“割れ目”に至る道です。(コリント第一 2:12。エフェソス 5:6)その怒りを避けるには,クリスチャンはいわば『風に逆らって歩く』ことが要求されます。『光の子ども』として歩き,『諸国民が歩く』ように歩く,あるいは振る舞うつもりがないならば,一生懸命に戦わなければなりません。―エフェソス 4:17; 5:8。
内面の強さが必要
3 (イ)エフェソス 3章16節によると,諸国民のように歩むのを首尾よく避けるには,どこに努力を向けなければなりませんか。(ロ)わたしたちはどのように『内なる自分』を強めますか。
3 この戦いに勝利を収めるには,どこに努力を向けなければならないでしょうか。パウロはこれに答えて,「[神の]霊による力をもって,あなたがたの内なる人を強くして」いただくようにと勧めます。わたしたちが努力を傾けなければならないところはここにあります。つまり『内面の人』,内なる人,「心の中の秘められた人」です。これを強めなければなりません。どんな方法で? その秘けつは次の節の中にあります。「あなたがたの信仰により,あなたがたの心の中に,愛をもってキリストを住まわせてくださるように」― エフェソス 3:16,17。ペテロ第一 3:4。
4 (イ)『わたしたちの心の中にキリストを住まわせる』ことには,どんなことが含まれますか。(ロ)わたしたちはひとりびとり,実状を明らかにするどんな質問を考えてみるべきですか。
4 『わたしたちの心の中にキリストを住まわせる』ということは,まず世の霊を追い出さなければならないことを意味します。もしサタンすなわち「不従順の子らのうちにいま働いている霊」がわたしたちのうちで依然働いていたり,わたしたちの生活に再び忍び込みはじめているなら,どうしてキリストの霊は『内面の人』に浸透し得るでしょうか。(エフェソス 2:2)それで,「わたしは心の中でまだこの体制のサタン的な霊を楽しんでいるだろうか。道徳観念が全く見られない事柄をおもしろがるところがあるだろうか」と自問してみましょう。現実の内なる自分とはかなり異なる外観を他の人々に見せることは容易です。キリストは,ご自分の模範や教えがわたしたちの感情や行動に影響を及ぼすようにすることによって,わたしたちの心の中に住まわれます。一例を挙げるなら,イエスは追随者たちに情欲を抱いて異性を見てはならない,とおっしゃいました。わたしたちはこの言葉に従うことを考えますか。そういう感情をかき立てそうな事柄をまじめに避けますか。次のように考えてみましょう。イエスは,わたしたちが追い求めているような娯楽を楽しむ気分になられるでしょうか。わたしたちは,イエスの持っておられた『義を愛する』精神のみならず『不法を憎む』精神をも抱いているでしょうか。もしその精神を抱いているなら,キリストの精神を内なる自分に満ちるようにしており,キリストと「同じ精神の意向」を持っていると言えます。―マタイ 5:27,28。ヘブライ 1:9。ペテロ第一 4:1。
5,6 (イ)『内面の人』を強めるのになぜ個人研究と黙想は大切ですか。(ロ)頭に知識を取り入れるだけで十分ですか。そうでないとすれば,ほかに何が必要ですか。
5 したがってわたしたちが「しっかり根ざして土台の上に堅く立」ち,「すべての聖なる者たちとともに」神の言葉の真理の「幅と長さと高さと深さがどれほどであるかを悟る」ためには,聖書の個人研究と聖書の教えを黙想することが肝要です。神の言葉の真理がイエス・キリストの生活と教えによって示された愛の模範と関係がある場合は特にそう言えます。根を深く下ろしているものは容易には抜き取られず,堅固な土台の上に立っているものは容易には動かされません。ですからわたしたちは,キリストの知識を「[わたしたちの]内なる人」に深く流入させることによって,わたしたちの霊的な『根と土台』を強く保たねばなりません。―エフェソス 3:17,18。
6 しかし,キリストを心の中に住まわせるとは,聖書に記されているいくらかの事実を勤勉に頭につめ込むだけのことだ,と考えてはいけません。使徒パウロは,頭に収めた知識だけに基づく信仰の危険を熟知していました。ですからさらにこう述べています。「知識を超越したキリストの愛」を知ることもじゅうぶんできるようになり,こうしてあなたがたが,いっさいの事において,神が与えてくださる満ち満ちたさまにあますところなく満たされるためなのです」。『頭で学ぶ』以上のことが必要です。交わりを多くすればそれだけ相手の考えがよくわかるようになることは事実です。しかし,他の人々に対するその人の接し方や生き方に倣うようになって初めて,本当にその人の気持ちがわかるようになります。それと同じで,本を読むだけではキリストの愛は理解できませんが,キリストのようになるなら,同情から発する経験によって,「知識を超越した」ものを知ることができます。―エフェソス 3:19。
7 次の説明は正しいですか,間違いですか。―キリストは完全な方でしたから,キリストのようになることをわたしたちに期待するのは無理です。あなたの答えはどんな聖書的理由に基づいたものですか。
7 なんと高い目標でしょう! 到達すべきなんと高度の模範でしょう! 確かにそれは大事業に思えるかもしれません。しかし,わたしたちの能力は不完全でも,神の助けで成し遂げられるのです。神は「わたしたちが求めまた思うところのすべてをはるかに越えてなしうるかた」であると,パウロは述べています。問題は,わたしたちが自分の分を行なっているかどうかということです。―エフェソス 3:20。ペテロ第一 2:21およびコリント第一 11:1もご覧ください。
『古い人格をその欺きの欲望とともに脱ぎ捨てなさい』
8 (イ)「古い人格」にはどんな欲望がつきまとう,とパウロは述べていますか。(ロ)ある人たちは,人を堕落させるような娯楽を選んだことをどのように正当化しましたか。そういう推論は聖書的に見て健全ですか。
8 エフェソス 4章22節で使徒パウロはこのように勧めています。古い人格をつぎはぎするのではなく,「脱ぎ捨てる」,つまり除き去るのです。(コロサイ 3:9)なぜでしょうか。古い人格が持つ「欺きの欲望」がわたしたちの「不信実な」心の中にいつまでもあるなら,古い人格はそれによって『腐敗』するかまたは一層悪くなる可能性が強いからです。(エレミヤ 17:9,新)人を堕落させるものであることが歴然としている娯楽に興味を持っていることを正当化しようとして,『それをしたからといってわたしは良心の責めを感じません。だから何が悪いのですか』というような言い方をしたクリスチャンたちがいました。そういう人たちは,良心が正しくなくて,心の欲望に欺かれているのかもしれません。単に良心の責めを感じないということだけでは,自分の行ないが正しい証拠とはなりません。使徒パウロでさえ,「わたし自身,責められるようなことは何も意識しないからです。でもそれによって,わたしは義にかなっていると証明されているわけではありません。わたしを調べるかたはエホバなのです」と述べています。(コリント第一 4:4)初期クリスチャン会衆内の多くの人の良心は非常に鈍感になり,自分たちのただ中で行なわれている不道徳な行ないを大目に見,それを自慢することさえしていました。なんとまた誤った良心でしょう!―コリント第一 5:1,2,6。テトス 1:15。テモテ第一 4:2。
9 良心が徐々に変えられてしまうことを示すどんな憂慮すべき報告がありますか。
9 「欺きの欲望」に良心を徐々に汚されるのは容易なことです。ヨーロッパのある国にあるエホバの証人の支部事務所から,次のような憂慮すべき報告が届いています。
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