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「真理のことばを正しく扱う」ものみの塔 1973 | 7月15日
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でしょう。エホバは不完全で罪深い被造物に絶対の公正を要求するかたであり,思いと心の罪深い状態ゆえに人を直ちに罪に定めるかたであると考えて,天の父に不健全な恐れをいだくべきではありません。とはいっても,悪を行なうことを大いに喜びとしながら,その後エホバに近づいて許しを求め,そのようにしてエホバの憐れみにつけ込んでもよいと言うのではありません。しかし,エホバは個々の人について知るべきことはすべてご存じだからといって,天の父に近づいて不正な事がらを正し,自分の不完全な考え,もしくは行動を矯正しようとするのを恐れる必要は確かにありません。―詩 139:1-3,15-18,23,24。
12 ヨハネ第一の書 4章18節を正しく理解すると,わたしたちは個人個人どのように益にあずかれますか。
12 ヨハネ第一書 4章18節に関するこうした正しい理解を得ると,創造者エホバとの自分の霊的な関係の優れた価値をほんとうに理解できるようになります。そして,心底からエホバに語りかけ,自分の生活がエホバに喜ばれるものであるよう,生活上の導きをエホバに求めます。このようなわけて,「愛の点で完全にされて」いるというのは,自分の内にある神への愛が何らかの点で十分に発達していないというのではなくて,むしろ完全な愛ゆえに,天の父である創造者に対する全き確信をいだいて心をこめてみ父の意志を行なうよう絶えず動かされているという意味です。その結果,今度は,なおいっそうはばかることなく祈りを通して神に近づけるようになります。―エペソ 3:12。ヘブル 4:16。ヨハネ第一 5:14。
預言的な聖句を正しく扱う
13 (イ)ヘブル語聖書の数多くの預言に関しては何を念頭に置くのは大切なことですか。イザヤ書 35章1,7節の預言に関連して,このことはどのように示されていますか。(ロ)古代のエホバの民の上に預言が成就したことは,どんな事がらの確かな保証となっていますか。
13 神のみことばを研究し,そのうるわしい音信や実生活におけるその意義に精通するにつれて,エホバの意図しておられる仕方でみことばを理解するのは自分をいっそう豊かにし,ためになるものであることがよくわかります。神の義の新秩序における人類のために備えられている祝福に関するヘブル語聖書の預言をわたしたちは何と頻繁に引用してきたことでしょう。そして,それはもっともなことです。しかし,それらの預言の多くは古代イスラエルに関連して縮図的な規模ですでに成就したものであることをしばしば見落としているかもしれません。たとえば,イザヤ書 35章1,7節のことばを取り上げてみましょう。こうしるされています。『荒れ野とうるおいなき地とはたのしみ 砂漠はよろこびて番紅の花のごとくに咲きかがやかん やけたる砂は池となり うるおいなき地は水の源となり 野犬のふしたるすみかは蘆よしのしげりあう所となるべし』。この聖句の文脈を調べると,それは総督ゼルバベルの時代にユダヤ人の流刑者たちが帰ってきた当時の事態に適用されるものであることがよくわかります。10節は,『エホバに贖いすくわれし者……帰りてシオンにきた(らん)』と述べています。その地を彼らのために縮図的な意味での楽園とするのはエホバの目的でした。それには,エホバが荒れ野やうるおいなき地はもとより砂漠を蘆のしげる所また水の源とする必要がありました。神の言われたこれらのことを正しく適用すれば,古代のご自分の選民のためにエホバが奇跡を行なわれたのは,そのみ子,主イエス・キリストの支配下でそうした約束がそれ以上のいっそう大規模な成就を遂げる保証であることが十分に理解できます。キリスト・イエスによる王国の支配下でエホバはこの地にほんとうに祝福を注ぎ,砂漠を『番紅の花のごとくに咲きかがやか』させるだけでなく,この預言の述べるとおり,めしいの目を開き,みみしいの耳をいやし,あしなえを再び健やかにさせてくださるということが容易にわかります。―イザヤ 35:5,6。
14 真のクリスチャンはすべて,神の真理のみことばを正しく扱いたいと願うべきです。なぜですか。
14 確かに,『神のことばは生きていて,力を及ぼす』と言えます。(ヘブル 4:12,新)神は生きておられます。そして,その生きた本である聖書のページを通して人類に語りかけており,そうすることによって,ご自分のしもべたちに力を与え,ご自身と人類に対するご自分の目的に関する深い真理の理解を与えておられるのです。エホバ神のクリスチャン証人はすべて,そのようなことばを正しく扱いたいと願うべきでしょう。それは,他の人びとを教えるさいに,また大いなるバビロンつまり偽りの宗教の世界帝国に捕われている無数の人びとの思いや心をめくらにしている宗教上の偽りの教えを切り倒すさいに,みことばを効果的に用いられるようになるためです。パウロはテモテにこう述べました。「聖書はみな神の感動によるものにして教えと譴責と矯正と義を薫陶するとに益あり。これ神の人の全くなりて,もろもろのよきわざに備えを全うせんためなり』― テモテ後 3:16,17。
15 神のみことばを理解し,正しく評価するためには,わたしたちはどんな努力を払うべきですか。
15 神のみことばを正しく用いるためには,それを読んで研究し,その中に秘められている宝を求めなければなりません。その種の理解や認識は自動的にもたらされるのではありません。かえって,一生懸命勉強し,真剣に尋ね求めなければなりません。箴言はこう述べています。『わが子よ汝もしわがことばをうけ わが誡命を汝のこころに蔵め かくて汝の耳を知恵に傾け汝の心をさとりにむけ もし知識を呼び求め聡明をえんと汝の声をあげ 銀のごとくこれを探り かくれたる宝のごとくこれを尋ねば 汝エホバを恐るるをさとり 神を知ることをうべし』。(箴 2:1-5)これまでに考慮してきたことからすれば,神のみことばにしるされている事がらはどうしてそのように述べられているのか,またそれらのことばはどのように適用できるのかを知りたいと願うべきであることがわかります。わたしたちは常に,物事がなぜそのような仕方で説明されているかを究明し,神のみことばを正しく扱うよう努力すべきです。
16 さらにどんな資料を考慮すれば,神のみことばを正しく扱う助けが得られますか。
16 次の記事をお読みになれば,聖書全巻はそれぞれ特定の人びとや伝えるべき特定の音信を念頭において書きしるされたものであることがわかります。神のこの貴重なことばを正しい仕方で扱う上で,この問題に関する資料を求め,霊感のもとにしるされたことばの背景や目的また価値を知るのは有益なことでしょう。
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禁令下のドミニカ共和国での活動ものみの塔 1973 | 7月15日
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禁令下のドミニカ共和国での活動
● 1950年以後の,迫害が厳しかったころ,霊的必要物を定期的に供給することがおもに考慮されました。「ものみの塔」誌が,郵便や使いによって,また他の方法によってわたしたちのところに届いたことはエホバの愛あるすばらしいご準備を示すものです。検閲が厳しくなるにつれ,個人的に運んでもらうのが唯一の確実な方法になりました。そのように運ぶ人のひとりはどんなことが起きるかをこう述べています:
「サント・ドミンゴにある空港では,旅行者が税関を通るさいに,その職員は旅行者を一定の場所に立たせ,そこの壁にかかっているサインを読ませます。その壁のうしろには蛍光透視器があり,旅行者が武器を携帯していないかどうかを調べる仕掛けになっているのです。私は雑誌の止め金がその装置にどう映るだろうか,とよくいぶかったものです。ところが何年にもわたって,一冊の文書も探知されませんでした。ちょうどソドムの男たちが明らかに盲目にされたような,また,預言者エリシャをとりこにして連れ去ろうと試みたシリア軍のある者もそうされたような方法でエホバが彼らを盲目にされたように思えたことも時々ありました。(創世 19:4-11。列王下 6:15,18-20)ひとたびエホバの証人の手に渡ると,雑誌の研究記事は謄写版で印刷され,国中に配布することができました。―「1972年のエホバの証人の年鑑」から。
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