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左の手に知らせるなものみの塔 1959 | 1月1日
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名をたたえます。しかしわれわれがこのように喜んでささげることができても,わたしは何者でしよう。わたしの民は何でしよう。すべての物はあなたから出ます。われわれはあなたから受けて,あなたにささげたのです。』またパウロが自分のとつた行動と,クリスチャン奉仕者として,宣教者また使徒として,苦しみを耐えしのんできたことを詳しく話したのも,他の人々が自分と同じように行うよう励ますためのものだつたでしよう。彼は次のように言うことができました,『わたしがキリストにならう者であるように,あなたがたもわたしにならう者になりなさい。』― 歴代志上 29:3,4,13,14。コリント前 11:1。コリント後 6:3-10; 11:12-33,新口。
偉大な師,神の御子は,人間の性質を見抜くまことに鋭い理解力を持つておられました。彼,は『心はよろずの物よりも偽るもので,はなはだ悪に染まつている。』だれがこれをよく知ることができようということをよく知つておられたのです。神の御言葉と,聖霊または活動力の助けによつて,イエス・キリストは人間の心を知ることが出来ました。―エレミヤ 17:9。
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『あなた方は教える者になりなさい』ものみの塔 1959 | 1月1日
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バプテスマを施し,あなた方に命じておいた一切のことを守るように教えよ。見よ,私は世の終りまで,いつもあなた方と共にいるのである。』(マタイ 28:19,20,新口)たしかに,この組織制度の終りにあたる今,彼らはイエスの命じた事柄を教える者にならねばならぬと,学びます。
教える者になるための訓練
13 教える者の隊伍は拡大されると,使徒パウロはどのように示しましたか。今日,誰がそのような業をしていますか。
13 他の人々を教えるべきだと人々に告げるだけでは十分でありません。その仕事を十分良く為し行うためには,その人々を正しく教えねばなりません。パウロはテモテを宣教の業に連れて行くことにより,そのような訓練をテモテに与えました。後日,パウロは忠実なテモテに手紙を書き送り,そのクリスチャンとしての進歩をつづけ,是非行わねばならぬ教える業に他の者を訓練するよう,特に注意を払いなさいと励ましました。『そこで,私の子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによつて,強くなりなさい。そして,あなたが多くの証人の前で私から聞いたことを,さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に,ゆだねなさい。』(テモテ後 2:1,2,新口)今日,テモテの為した業と同じような業をしている協会は,真理を教える者になるよう他の者に訓練を与えつづけて来ました。
14,15 すべての者を教える者にならせる為に協会のつくつた取り極めのいくらかは何ですか。それぞれの御準備は,その目的にどう貢献していますか。
14 協会は,『時間というものを考えてみると,あなた方は教える者となるべきである。』という助言に良く気をつけています。そして,すべての人を援助してそのクリスチャン円熟の程度に達せしめるための定期的な取り極めをつくつています。(ヘブル 5:12,新世)各地方の監督は,このプログラム内で重要な役割を保つ故,各監督に対する聖書的な要求は,彼が『教える資格を持つ』ということです。(テモテ前 3:2,新世)全地にある1万6883の会衆で,協会は聖書といつしよに『ものみの塔』雑誌の記事を定期的に研究する取り極めを設けました。それは,教える業にすべての人々をおくらせないものです。研究すべきところが研究されるだけでなく,出席している人々は註解を述べ,また他の人の註解をも聞きます。このことは,彼らに他の者を教える為の備えを与えます。御自分の民を教えるヱホバの径路を真実に認識している献身者や,他の善意者は,どんなことがあろうとこの集会の一つをも欠かすまいと思います。―ヘブル 10:25。
15 それから毎週1度の宣教学校があります。教える者とは,一時にひとりの人または多ぜいの人に語ろうとも,ともかく話をする人です。また参考の書物から資料を掘り出すことができねばなりません。これらの事柄を良く行うことは,宣教学校で学びます。奉仕会は,得た知識の実際の使用について助言を与えます。そして,その後には野外奉仕における円熟した奉仕者によつて実際の訓練を受けます。一般公衆の為の教訓的な聖書の話にも,証者たちは熱心に出席します。聖書の予言と現代の世界の出来事との関係,および現代生活の諸問題に対するクリスチャン原則の適用を学び証者は強められます。『すべての種類の人々』を教え得る為には,そのような知識を自由に駆使できねばなりません。毎週の会衆の書籍研究は『ものみの塔』研究の型に従つて司会されます。しかし,大抵の場合は『ものみの塔』よりも遙かに小さな群であつて,どれ丈研究せねばならぬという定まつた量がありませんから,研究する諸点についてもつと綿密に討議することができます。これに加えて巡回,地域,国家,そして国際大会があります。家庭で『目ざめよ!』誌を定期的に読むことにより,広い範囲の知識を得ることを考えてごらんなさい。神権制度は,神の民を援助して資格ある教訓者にならせよという聖書の助言を心に銘記しましたか。まさしく,然り!であります。
家庭教育
16,17 家族は神権的な教育という分野でどんな役割を果しますか。これに対する必要性は,イスラエル人にどう強調されましたか。
16 しかし,会衆は新世社会内の教育を施す家庭と入れ代つてはいません。また教育の中心地を省くこともできません。両方とも新しい世の教育制度の重要な部分です。両親は自分の子供たちを一日中教える者です。良く取り極められたクリスチャン訓練のプログラムを家庭で行うとき,家族の人々やまた共に交際をなすすべての人々は,その有益な結果を楽しみます。
17 子供たちを教えるという両親の責任は,イスラエル人がヨルダン河を渡つて約束の地に入る前に,心に深く銘記させられました。申命記 4:9,10節にその助言が録されています,『なんじ深く自らつつしみ,なんじの心を善く守れ,おそらくは汝その目に観たることを忘れん。恐らくは汝らの生き存うる日の中に,それらのこと汝の心を離れん。なんじそれらのことを汝の子,汝の孫に教えよ,汝がホレブにおいて,汝の神ヱホバの前に立てる日に,ヱホバわれに言いたまいけらく,我ために民を集めよ。我これにわが言葉を聞かしめ,これをしてその世に存うる日の間,我をおそるることを学ばせ,またその子女を教うることを為さしめんとす。』また第6章では,次のことに留意するよう注意されています,『つとめて汝の子供に教え,家に坐する時も,路を歩む時も,寝る時も起る時も,これを語るべし。』そして第11章では『これを汝らの子供に教えよ』と告げられています。それが重要であつたために,モーセはその事柄を数度述べたのです。
18 良く組織されたクリスチャンの家庭では,クリスチャン教育のどんな定期的なプログラムがありますか。
18 良く組織されたクリスチャン家庭でなされる家庭教育の一プログラムは,英文の年鑑か,あるいは他の言語の『ものみの塔』に出ている聖句を,定期的に毎日研究することです。父親が全家族の論議をみちびいて,家族の各人に論議に加わる機会を与えることは一番良いことです。しかし,両親の片方が真理に入つておらず,その論議に参加しなくても,信者はこの準備から子供たちが毎日の益を得るように取り計います。更に又,両親が1週間に1時間かそれ以上の時間を割いて,子供たちと定期的な家庭聖書研究を司会するとき,それは子供たちの霊的な必要物に対して深い関心を示すことになります。他の人々の家庭に行つて,その家の人々に聖書を教えるための時間を取ります。それなら,自分自身の家族の者に対して,同じ奉仕をするのは如何ですか。それは他の野外奉仕と同じく重要なものです。そして,まだ献身していない自分の子供たちに定期的な研究を司会することは,一つの家庭聖書研究として会衆に報告することができます。
19 教える者である両親は,どんな性質を自分の子供たちにつちかおうと努めるべきですか。それには,どんな益がともないますか。
19 もちろん,子供たちが成長するにつれて,他の多くの事柄をも教えねばなりません。例えば,他の人々に対する敬意です。家庭にいる時の子供から敬意を要求するなら,家庭の外にあつて敬意を持つことは自然のものです。両親自身が敬意を払うということを行うなら,子供たちは見ならいをする良い手本を持ちます。(エペソ 6:1-3。テモテ前 5:17)信頼性は重要なものです。子供たちが品物を使用した後とか,自分に与えられた仕事を為し終えた後に,両親がそれらの品物を投げ散らかすなら,子供たちは信頼性というものを学びません。責任を引き受けるように両親が子供を教えるとき,その結果は極めて幸福なものです。(マタイ 25:14-30)信頼の置ける仕方で考え,正しい決定をつくる仕方を教えることは,良いことです。子供たちと事柄を論じ合いなさい。正しい行に導くクリスチャン原則,悪行をするときに身に及ぶ害,そして正しい行の後に得られる祝福を子供たちの心に印象づけなさい。(エレミヤ 10:23。シンゲン 3:5,6)『これをしなさい!』とか『それをしてはいけません!』と命ずるだけでは,その目標を達成しません。これらの性質や他の多くの性質を正しく発展せしめることは,体の正常な発育と同じ程に大切なものです。両親は,教えを施すという重要な役割りを委ねられています。
20 新世社会内の誰が『教える者になるべき』ですか。
20 新世社会内のすべての者は,ヱホバ神とキリスト・イエスを大いなる教訓者,および彼らを永遠の生命と成功に導く方と仰ぎ見ます。この教訓者たちの述べておられる霊感のさとし,『あなた方は教える者になるべきである』を彼らは心に銘記します。両親であろうと子供であろうと,宣教に全時間を費そうと又は一部の時間を費そうと,監督であろうとなかろうと,彼らは自分たちの参加し得る教えの業のあることを知つています。そして,今はそれを行う時なのです。
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