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光の子として見張りつづけなさいものみの塔 1961 | 5月15日
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持ちます。肩をすくめて「宗教のことは牧師にまかせておく」と言うことはできません。イエスの時には,宗教家たちはイエスがメシヤであることを示すしるしについて知っているよりも天候のほうを良く知っていました。彼らはイエスの行なった奇跡を信じようとしませんでした。同様に今日でもイエスは同じ級に次のように言えるでしょう,「あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら,時のしるしを見分けることができないのか」。(マタイ 16:3,新口)それゆえ,各人は他の人に依存せずむしろ正しい道にしたがうように気をつけるべきであります。これは命にかかわる問題です。―ヨハネ 3:9-15。
12 ある人々は次のように論じます。すなわち宗教教育をうけていないので,ちょうどお医者さんにおねがいして医療の忠告をうけるように,宗教のことを研究した人々におねがいして導いてもらわねばならぬ,というわけです。しかし,神の御言葉の研究においては,このことはあてはまりません。聖書は,すべての人が読んで理解するために書かれました。イエスは言われました,「永遠の命とは,唯一の,まことの神でいますあなたと,また,あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」。(ヨハネ 17:3,新口)あなたのかわりに別の人に知識を得させるなら,あなたは生命を得ると,イエスは言われませんでした。各人は,神の要求せられていることについて学ばねばなりません。エホバは御自分の制度をとおして,御自分の民を教えておられます。エホバは次のように言われています,「わたしによく聞き従え。……耳を傾け,わたしにきて開け。そうすれば,あなたがたは生きることができる」。(イザヤ 55:2,3,新口)この組織制度のための限られた時間は急速に終りに近づいています。この事実からしても,私たちは生命を得させるこの知識を得ることをいつまでもぐずぐずのばしてはおられないはずです。いまこそ,この地に対する神の目的と,神が私たちに要求せられていることを学ぶ時であります。
13 なぜ新しい世の教育はそんなにも大切ですか。
13 各人はめいめいエホバ神についての知識を得ようといっしょうけんめいつとめるべきです。私たちが生活中第一に置く教育については,選択することができます。すなわち古い世の教育か,新しい世の教育か,私たちはそのどちらかを選ぶことができます。しかし,イエスがすすめられたように,もし私たちが御国のことを第一に置くなら,私たちは聖書を研究します。そして,真の光があかるく輝くにつれて真理のましくわわる理解と歩調をそろえて行きます。今日,諸国家は古い世の教育を強調して政治組織の生存をはかり,現在の勢力の均衡を保とうとしています。しかし,信仰を持つ人々は新しい世の教育によってのみ,生きのこって永遠の生命を得ることができます。
14 人はどのようにクリスチャンとしての円熟に進歩することができますか。
14 私たちは,古い世の教育の標準から見るとき,知的な面で賢明な者かもしれませんが,最初は神の御言葉の深いことの理解については子供のようであります。子供のように私たちは,真理の清い言葉を私たちに話すことのできる人,私たちの聖書の質問に答えることのできる人,研究の仕方と答の見出し方を私たちに示すことのできる人と交わることが必要です。エホバの証者は,すべての信仰を持つ人々にこの奉仕をいたします。エホバの証者は昨年中毎週1時間の無料の聖書研究を全世界にわたり64万6108以上も司会していました。しかし,聖書の研究だけが目的ではありません。ちょうど,子供たちを学校に行かせるだけが生活の目標でないのと同じであります。子供がその教育を応用して,社会の産出的な成員になり,自分自身と家族をやしなう時がきます。同じことは,聖書を学んで神に信仰を持つ人についても言えます。彼は新しい世の社会の一員として宣教をはじめ,学んだことを他の人々に教えます。彼はエホバを自分の父とみとめ,エホバの制度を自分の母とみとめます。彼は神の律法の光にめざめ,生命の道をあるきます。(箴言 6:20)生徒が定期的に教室へ行かず,そして授業を良くうけないなら,学業は進歩しません。同じく,聖書の知識の面で急速に進歩するためには,エホバの証者の無料の聖書研究会で考慮する資料を研究し,集会に定期的に出席しなければなりません。このようにして,彼はクリスチャン円熟にむかって努力していると示します。彼は自分ひとりでそうすることはできません。なぜなら,宗教的な言伝えと混乱にみちる真くらな迷路のなかを手さぐりして光を見ようとするのと同じだからです。しかし,エホバは私たちに光を示し,光の子になることをのぞむ者たちに新しい世の社会を通して啓発的な研究の課程を与えます。クリスチャンとして円熟するにつれて,人は自分の得た知識を用いて,他の人を助け,神への奉仕に進歩させるようにします。なぜなら知識を得ることには責任がともない,そして責任をとると共に,申しひらきする義務が生じます。
15 どんな道は,エホバの御前における恵みにみちる立場を私たちに与えますか。
15 各人はエホバの御前で立つか倒れるかであります。もし私たちが自分の責任に目ざめて,エホバがその御言葉の中で私たちに与えられている教訓にふかい興味を示すなら,私たちはエホバのめぐみの中に立ちつづけます。(ロマ 14:4)多くの人々は真理を聞くと,その真理なることを認めます。しかし,真理に伴う責任を取ることはのぞみません。彼らは隣人に真理のことを語るわざをするとか,あるいは家庭聖書研究によって他の人を教えるというようなことはとうていできないと感じます。実際には,彼らは教える御方エホバに信仰のないことを示し,自ら機会を持とうとはしないのです。箴言によると,ありでさえもたとえ指揮者はいなくとも,夏のうちに食物を準備することに忙しくはたらきます。それで,箴言を書いた人は次のようにたずねています,「なまけ者よ,いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか」。(箴言 6:9)あなたは他の人々に真理を分かちあたえることができるとき,自分の特権に眠っていて,宣教に用いることのできる霊的な食物を集めず,何の仕事もしませんか。将来に生ずることを知るため,私たちはいつまでもぼんやり待つことはできません。ある人々は,ノアの日の大洪水前にそのような行いをしましたが,警告に答え応じようとせず,神がそのときに与えたわざに参加しなかったため,生命を失いました。
16 人は『光の子』なることを,どのように示すことができますか。
16 真理の正確な知識を得てのち,私たちにはなすべき仕事があることを知ります。もちろん,その状況に目ざめておらず,なすべきことを知らないなら,私たちにはその仕事をすることができません。「しかし兄弟たちよ,あなたがたは暗やみの中にいない……あなたがたはみな光の子であり,昼の子なのである」。(テサロニケ前 5:4,新口)それでパウロは次のことを示しました。すなわち,この古い組織制度の終りの日には,たいていの人々はくらやみのなかにいます。しかし,神の僕たちはキリストの御国支配の新しい日の光を反映しているでしょう。彼らは神の目的や神の御言葉の理解については暗やみの中にいません。彼らは目ざめつづけて,正しい平衡を保ち宣教を生活の中の第一のものにするでしょう。そのような人は,真理を知ることによって他の者を援助する責任が課せられることを認めます。彼らは神に答えて申し開きをしなければならず,また自分たちのうけた知識に対して責任を負わねばなりません。各人はそれぞれの生活の仕方について神に答えねばなりません。各人の生活は,神にさんびを帰して,自分自身および彼の奉仕する者たちに祝福と幸福をもたらすものか,あるいは方向,目標または目的のない愚かなものか,そのどちらかです。
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心理学者は罪を嘲笑するものみの塔 1961 | 5月15日
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心理学者は罪を嘲笑する
「精神療法には,罪という概念の入りこむ余地は全くない。そして,この概念を紹介すると害がある」。これは,ニューヨークの有名な精神療法学者の言ったことです。しかし,「すべての人は罪を犯したため,神の栄光を受けられなくなって」いるという真理はいつまでも変わりません。―ロマ 3:23,新口。
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