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学び方を学びなさいものみの塔 1956 | 12月15日
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学び方を学びなさい
成長するにつれて,学び方を学ばねばなりません。霊的に成長するため,クリスチャンは学び方を学ぶことが必要です。なぜと言えば,キリスト教では,学びつづけなければならないからです。真のクリスチャンは,いつも生命の知識を取りつづけなければなりません。神をよろこばすために,そのことを是非する必要があるのです,『神の御意は,あらゆる種類の人が救われて,真理の正確な知識に至ることである。』― テモテ前 2:3,4,新世。
年を取り過ぎていて学ぶことができない,などということは決してありません。クリスチャンは,そのことを学ぶべきです。また,学んだことは,だんだんとつけ加えられて行くものである,と学ばねばなりません。学べば学ぶ程真理の正確な知識を増さねばならない,と悟ります。また,それだけでなく,学ぶことは,木のごとく何時かは実を結ばねばなりません。それで,学んでいるクリスチャンは,霊的な良い業に多くの実を必らず結ぶはずです。学ぶ目的は何ですか。『あなた方が,知恵においても,霊的な分別においても,神の御意の正確な知識に充ちることである。それは,ヱホバにふさわしく歩み,そしてあらゆる良き業を行つて実を結び,神の正確な知識を増して,ヱホバを全くよろこばせるためである。』― コロサイ 1:9,10,新世。
クリスチャンと自称している或る人々は,いつも学んでいるように見えます。しかし,真理の正確な知識を決して得ることができず,実を結ぶことができません。それらの人々は,神の言葉なる聖書を用いて,その深い意味を他の人々に教えることができません。それらの人々は,使徒の述べている人々のようです。すなわち,『常に学んではいるが,いつになつても真理の正確な知識に達することができない。』(テモテ後 3:7,新世)それは,どういうわけですか。
自分の受ける教えが,真理に正しく導かないなら,だれも真理の正確な知識に達することができません。現在の『終りの日』には,偽りのクリスチャン教師たちが沢山いるであろう,とイエスは言われました。それですから,学び方を学んだクリスチャンは,『すべてのことを確め』ます。そのクリスチャンは,自分が正確な知識を持つているかどうか,そして『信仰に』いるかどうか,を『験しつづけ』ます。そのためには,すでに学んだことが果して正しい種類の教えであるか,どうか,また正確な知識である聖書の標準に一致しているか,どうかを進んで調べねばなりません。―テサロニケ前 5:21。コリント後 13:5,新世。
或る人は正しい教えを学びながらも,すこしも成長していません。それはどういうわけですか。聖書はこう述べています,『愚者は言葉を多くす。』しかし,『知恵ある者は知識を貯う。』恐らく話が多過ぎるのでしよう。或る人々は,話を非常に好みます。そして話を聞くよりも語る方を好むのです。知識を貯えることよりも話をする方に多くの時間を費すならば,常に学んでいようとも『真理の正確な知識に達する』ことができません。話をする時と折があります。話ばかりして,聴くこともしなければ,熱心な個人の研究もしない,というようなことがあつてはなりません。―伝道之書 10:14。シンゲン 10:14。
常に学んでいても実を結ばない人は,たいてい好奇心だけで学んでいます。つまり利己的な目的のために知識を欲しているのです。或は,学んだものを良く理解するのに必要な時間をかけようとは,しないのです。良く理解するためには,考えることが必要であり,また学んだことを自分自身に適用することが必要なのです。時折,好奇心に,弱い意志が結びつく場合もあります。決定する為に学ばねばなりません。一生の最大の決定とは,ヱホバとその御子に仕えるか否かを決定することです。イエスは,『私の味方でない者は,私に反対するものであり』と言われました。真理の側に立つ決定をするためには,勇気が必要です。しかし,神が私たちに下さるのは,『臆する霊ではなく,力と愛と慎みの霊なのである。』― マタイ 12:30。テモテ後 1:7,新口。
生命は,霊的に生長することに依存しています。時間を浪費してはなりません。学び方を学びなさい。
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埃にまみれる聖書,笑い事でないものみの塔 1956 | 12月15日
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埃にまみれる聖書,笑い事でない
クリスチャンの家庭にある聖書が埃にまみれているなどと言えば,まつたくこつけい千万のように聞えます。基本的な教科書を読まないクリスチャンたちは,或る人々の笑い草になつています。そんなクリスチャンは,丁度工学の本を一度も研究しない技師のようなものです。でも,その技師のつくる橋を渡ることは笑いごとでありません。そのようなクリスチャンは解剖術の本を全く読まなかつた外科医と同じようです。しかし彼が手術室に入つて来て,あなたの盲腸を探そうとして,ナイフをでたらめに動かして体内を切り始めたならば,あなたの笑いは止まるでしよう。
キリストの歩まれた道を知らないクリスチャンが,どうしてキリストの足跡に従うことができるでしようか。キリストがなされ,云われた事を学ばないならば,どうしてキリストがなさつたように行い,キリストが語られたように語ることができますか。人は聖書だけによつて,キリストの言葉と行いを学ぶことができます。有名な山上の垂訓の後でイエスは云われました。それで,『私のこれらの言葉を聞いて行うものを,岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り,洪水が押し寄せ,風が吹いてその家に打ちつけても,倒れることはない。岩を土台としているからである。』キリストの云われたことを知らなかつたり,またそれを行わなかつたなら,どうしてあなたは安全な岩の基礎の上にクリスチャン生活の仕方を建てることができますか。―マタイ 7:24,25,新口。
もし聖書が人に読まれずに埃をかぶつているとすれば,その聖書は,採掘されない黄金の鉱山のようなものです。聖書を持つていても読まないならば,イエスの云われたことを,どうして知ることができますか。さらにイエスの言葉を知らないならば,どうしてイエスの言葉に従うことができますか。多くの人々は聖書を開かず,ひもどきません。聖書を開く多くの人も,理解して読むことができません。正しい心をもつていたエチオピヤの宦官はイザヤ書を読んでいましたが,理解できなかつたのです。読んでいることが理解できるかどうかをピリポが尋ねたとき,彼はこう答えました。『だれかが,手びきをしてくれなければ,どうしてわかりましよう』そこでピリポは手びきをし,エチオピアの人は理解して浸礼をうけました。―使行 8:31,新口。
この必要な手びきは,エチオピア人の場合のように口で話す伝道ということもあります。あるいは,ものみの塔協会が出版している聖書の手びきのように印刷物の場合もあります。この雑誌はそのような聖書の手びきの一つです。これはヱホバの証者の正式の定期刊行物です。この雑誌はイエスの言葉に私たちの注意を向け,イエスの言葉に従うことの大切さを指し示しています。「ものみの塔」を開いて読むと,私たちは聖書を理解できます。ある人々の聖書は埃をかぶつていますが,ヱホバの証者は「ものみの塔」に埃をためるようなことを決してしません。クリスチャンであると思つている人の中で,外見のために家に聖書を備える人があります。しかしヱホバの証者は家の中に置いて見せびらかすために,「ものみの塔」を備えるのではありません。証者は「ものみの塔」を初めから終りまで読み,研究するのであつて,一部分に限ることをしません。クリスチャンと言いながら聖書の最後の4分の1を読むだけで,初めの4分の3を時代遅れと言つて読もうとしない人とは違います。
聖書の手びきから益を得るためには,それを開いて読まなければなりません。危い橋を渡ることや,能力のない外科医に手術をしてもらうことは笑い事ではありません。私たちの聖書に埃をためた結果,永遠の生命を得る機会を危うくすることは,全く笑い事ではないでしよう。
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