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勉強によって円熟することは喜びものみの塔 1966 | 10月1日
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についてはどうですか。規則的に聖書を勉強して絶えず霊の栄養を取り入れることは同じように大切ではありませんか。この規則的な勉強は完全な律法を一心に見つめるために特に必要です。ヤコブはこう述べました。「完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は,聞いて忘れてしまう人ではなくて,実際に行う人である。こういう人は,その行いによって祝福される」。(ヤコブ 1:25)聞いて忘れてしまう人でないなら,絶えず知識を取り入れることによって真実の満足と喜びを得るでしょう。そして,それによって円熟に進みます。しかし幸福は知識を得ることだけにあるのではありません。他の人も同じ喜びに与るよう得た知識を人に伝えることにも幸福があります。喜びを他の人と分つことにはさらに大きな喜びがあります。クリスチャン奉仕者の良い働きに対する報いがさらに多くの仕事と責任であるのと同じです。
円熟 ― 生涯の目標
19 (イ)円熟への進歩を助けるものは何ですか。(ロ)円熟性をつちかうのにどんなことが役だつか例をあげて説明しなさい。
19 個人勉強という規則正しい食事によって物事を明確に理解する能力は高まり,人は円熟に進みます。時間の予定を立てる際には,真理を人に伝えることをも組み入れねばなりません。パウロはエペソ人への手紙4章15節で真理を伝えることについて述べていますが,そのことばに注目してください。「愛にあって真理を語り,あらゆる点において成長し,かしらなるキリストに達するのである」。他の人に真理を語り,神のことばを説明する時,その事柄に対する話す人自身の理解と認識が深まるのは注目すべきことです。研究の際,討議に参加した「ものみの塔」の記事の内容はほかよりずっとよく覚えていることに気づいておられますか。ただ他の人の注解を聞いているより,自分自身が討議に加わることによって,記事の考えを心に深く収めることができます。もとより,人の注解を聞いているだけでも大きな益があります。しかし,問題について語り,自分の考えを述べる時にはさらに大きな益があるのです。このことは,円熟した奉仕者が神権宣教学校で聖書のある本について話す場合を例に見ても理解できます。話は聴衆にとって大きな益になります。しかし,十分な下調べをし,何度も練習して話を自分のものとした話し手自身は,聴衆以上に話の要点を銘記しているのです。そうした話のあとに,『自分が話した本だけでなく,聖書のすべての本について同じほどに知りたい』と言う人はたくさんいます。勉強と練習,また他の人に知識を分けるために余分の努力を払うならそれも円熟のための貴重な踏み石となるのです。
20 (イ)目標を目ざしての自分の進歩をパウロはどう見ましたか。(ロ)年の経過とともに人はどのように円熟に進めますか。どんな結果がありますか。
20 わたしたちすべては使徒パウロが円熟したクリスチャンであったことをすぐに認めます。しかし,ピリピ人にあてたパウロのことばは,パウロがさらに円熟の絶頂を目ざしていたことを物語っています。パウロは,円熟が不断の進歩の過程であることを示してこう述べています。「わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち,後のものを忘れ,前のものに向かってからだを伸ばしつつ,目標を目ざして走り,キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めている。だから,わたしたちの中で全き人たちは,そのように考えるべきである。しかし,あなたがたが違った考えを持っているなら,神はそのことをも示して下さるであろう。ただ,わたしたちは,達し得たところに従って進むべきである」。(ピリピ 3:13-16)円熟は生涯の課題です。一例として,若い時代を勤勉にすごし,30歳になるまで注意深く神のことばを学んだ人のことを考えましょう。この時までの個人的な勉強によって,その人は多くの知識を得ているでしょう。そして,円熟した人とみなしてもよいでしょう。巡回区,また地域の監督,あるいはどこかの支部における監督の仕事をゆだねることができるかもしれません。しかし,この人にあと10年間勉強を続けさせ,40歳になるまでにどれだけのものを得るか見てごらんなさい。この人が同じことを10年間続けるなら,50歳になるまでにどれだけの進歩を遂げているでしょう。そして60歳の時にはどうですか。円熟は生涯の仕事であり,その道を進むに従って喜びは大きく,感謝と満足は深くなるのです。そして同じことは怠らずに勤勉に勉強する人すべてに約束されています。その者は「全き人」となり得るのです。
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円熟性は身の守りものみの塔 1966 | 10月1日
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円熟性は身の守り
「こうして,あなたは安らかに自分の道を行き,あなたの足はつまずくことがない……これは〔エホバ〕があなたの信頼する者であり,あなたの足を守って,わなに捕われさせられないからである」― 箴言 3:23-26
1 円熟した考え方と判断は今日のわたしたちになぜ貴重ですか。それによってわたしたちは何ができます。
円熟した考えと判断のできることは,神のみ心を行なおうとする者にとってきわめて貴重です。それによって,今日の古い秩序から来る不断の誘惑を退けることができるからです。世の終わりの時である邪悪な今の時代に,クリスチャンの誠実さを試みるものとして物質主義,陰口,非難,圧迫,不道徳への誘惑,血液の乱用などがあります。またしだいに高まる国家主義的な風潮は,クリスチャンが国旗に敬礼し,国家に忠誠をつくし,国家のために命をささげることを求めます。このほか,安逸でごうしゃな生活を求め,物質をよりどころとし,法網をくぐるようなずるいしかたでもうけようとする商業主義の絶えざるいざないがあります。ここでクリスチャン各自に問題となるのは,「こうした誘惑に面する時,自分はどんな決定をするか」ということです。人はこうした問題についていつもはっきりした考えをもっていますか。あるいは時に考えの動揺することがありますか。
2 ヨハネによる福音書 14章15節のイエスのことばに従うことはどのように『わたしたちの守り』となりますか。
2 わたしたちは世の圧迫に耐えねばならず,そのためにはあらゆる能力を使って忠実さを守らねばなりません。イエスはこの原則を次のことばで示されました。「もしあなたがたがわたしを愛するならば,わたしのいましめを守るべきである」。それゆえ,世の誘惑にうち勝つためには,エホバを愛し,エホバに従うことが絶対に必要です。いつもエホバのみことばに従って歩もうとすることが身の守りとなります。不断の勉強,およびそれに伴う円熟への進歩によって人の思考能力は高められています。それが「あなたを守り」ます。
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