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ヱホバをよろこばす正確な知識ものみの塔 1956 | 8月1日
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ヱホバをよろこばす正確な知識
『神の御意の正確な知識に充ちよ。……それは,ヱホバにふさわしく歩みそしてあらゆる良き業を行つて実を結び,ヱホバを全くよろこばせるためである。』― コロサイ 1:9,10,新世。
1 どのような型の人はヱホバの導きを求めますか。そして,なぜですか。
正しい心持の人は神によろこばれることをなす必要性を悟つています。この世はいろいろの圧迫を加えて,そのような人に,大多数の認める道に従わせようとしますが,彼らはかたく立つて,全能の神に献身しています。そして,賢明にも次のことを認めます,『人の道は己によらず,かつ歩む人は自らその歩みを定むること能わざるなり。』(エレミヤ 10:23)罪を持つ人間の目に正しいと見える事柄も,神の目から見て正しくはありません。それで,賢明でありなさい,『こころをつくしてヱホバに倚頼め,おのれの聰明に倚ることなかれ。汝すべての道にてヱホバを認めよ,さらばなんぢの道を直くしたまうべし。』― シンゲン 3:5,6。
2 神の御言葉に対する正しい態度について,イエスと詩篇記者は何を示しましたか。
2 すべてのことにおいて,どのようにヱホバを認めることができますか。謙遜な態度でヱホバを求め,かつキリスト,イエスを通してヱホバの認め給うた仕方に従う祈りの中に,ヱホバに近づくことによるのです。自分の意志を神に押つけてはなりません。イエスの教えられた次の祈りを思い出しなさい,『天にいますわれらの父よ,御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天に行われるとおり,地にも行われますように。』(マタイ 6:9,10,新口)正しいことを行うために,神の御意を知るということ,これこそ私たちの心からの願いでなければなりません。ダビデは謙遜な態度で,『ヱホバよ,なんぢの道をわれに教えたまえ』と語りました。(詩 27:11)それで,つねに神に願い求めなさい。そして,神の備え給うた教科書である聖書を研究しなさい。また,聖書の良い助言に従いなさい。『なんぢの御言葉はわが足の燈火,わが路のひかりなり。われ汝のただしき審判をまもらんことをちかい,かつかたくせり。……ヱホバよ,ねがわくは誠意よりするわが口の献物をうけて汝の審判を教えたまえ。わが魂はつねに危険を冒す。されど我なんぢの法を忘れず。悪しき者わがために罠を設けたり。されど,われ汝のさとしより迷い出でざりき。われ汝のもろもろの証詞をとこしえにわが嗣業とせり。これらの証詞はわが心をよろこばしむ。われ汝のおきてを終までとこしえに守らんとてこれにこころを傾けたり。』(詩 119:105-112)私たちが聖書を注意深く研究して,心を真理で充たし,その真理が溢れ出て他の人々の前でヱホバを讃美するようになるなら,私たちもその詩篇記者の正しい言葉と一致していることになります。
3 宗教と聖書の原則に対する古い世の見方は,なぜ賢明でありませんか。
3 しかし,現代における宗教の傾向は何ですか。それは,『父なる神のみまえに清く汚れのない信心』を行つていますか,それとも「自分の好む教会に出席する」ことですか。(ヤコブ 1:27,新口)賢いとうぬぼれている人々は,神の言葉を選り分けて,その一部分をうけ入れるが,大部分を無用のもの,好ましくないものとして,排斥しています。『自分のごとく隣人を愛せよ』という助言は,この現代の世界では実際的なものでないと彼らは考えて棄ててしまうのです。また,彼らは新聞や雑誌に記事を寄稿して自分自身の名声を高めます。そのような記事の中には,心理学的に良いと思われる二,三の聖句が,引用されているだけです。そうすると,多数の人々は,その人に従い,かつその人を『すばらしい人』と考え,その人の仕事によろこびを感じます。しかし,次の聖句を考えて下さい,『人の歓心を買おうと努めているのか。もし,今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば,私はキリストの僕ではあるまい。』(ガラテヤ 1:10,新口)神の言葉の中に述べられている良い助言に従うことは,一番良い事柄です『汝の神ヱホバの言葉を聴き,我が今日汝に命ずるそのすべてのいましめを守り,汝の神ヱホバの善と見たまうことを行え。』― 申命 13:18,新世。
4 真理を自由に語ることについて,イエスがどのように正しい模範を残されたかを示しなさい。
4 イエスの伝道は,正しいものでした。しかし,その伝道はイエスの話を聞いた人をみなよろこばせなかつたのです。イエスが当時の宗教指導者たちを強く非難して,彼らの教理は神を瀆す人間の言伝えである,と明示されたとき,彼らは怒りを感じました。イエスの伝道した明白な真理を更に聞いてからは,真理を全く好まぬ宗教指導者たちはイエスの死を図つたのです。しかし,イエスはすこしも妥協せずに伝道し続けました。そして,イエスの言葉に聞き従う人々に,次のような保証の言葉を告げられました,『もし私の言葉のうちにとどまつておるなら,あなた方は,ほんとうに私の弟子なのである。また真理を知るであろう。そして,真理は,あなたがたに自由を得させるであろう。』(ヨハネ 8:31,32,新口)これとは反対に,もし清い言葉を棄てて,人間の空しい智恵を求めるなら,私たちは神の与え給う自由を失います。
5 ヱホバはどのように正しい崇拝の形式を,イスラエルに示されましたか。しかし,彼らはどんな道に従いましたか。
5 ヱホバ神は,どのような崇拝の形式を認められるか,ということをいつも御自分の民に明らかに示されてきました。ヱホバ神はエデンの時,またノアの大洪水の時にも,示されました。そして,イスラエルの子孫たちに対しても,たしかに示されました。イスラエルの子孫たちがエジプトの奴隷の境遇にいたとき,ヱホバ神は彼らを顧みられ,すばらしい救をもたらされたのです。彼らは,エジプトの偽りの神々を散々に打負かした十の災を目撃しました。彼らは,紅海を渡る際にヱホバのなされた勝利の救を経験しました。そして,ヱホバこそ真の神である,という事実を強く銘記したにちがいありません。しかし,彼らが不従順にも,エジプト人たちの偶像崇拝である動物崇拝を模倣して,金の犢を崇拝したのは,そのときから僅か二,三ヵ月後に過ぎなかつたのです。そのとき,彼らはシナイ山の麓に集まり,モーセは山に上つていました。それは神の御意に反する,と彼らは知つていましたが,反逆の気持を持つ彼らは自分自身の楽しみ事に従つたのです。もちろん,ヱホバを全く忘れた,というわけでありません。しかし,その汚しい祝いを『ヱホバの祭り』と呼んだ彼らは,ヱホバをすこしも崇めなかつたのです。(出エジプト 32:1-5)ヱホバの声に聞き従わなかつたことは,度重つたため,その世代の者はみな荒野で死にました。彼らは約束の地に入れなかつたのです。たしかに,彼らの子孫は約束の地に入りましたが,モーセはその前に,先祖たちの行つた不忠実な行をなさぬよう強くいましめ,次のように言いました,『汝の神ヱホバの言葉を聴き我が今日汝に命ずるすべてのいましめを守り,汝の神ヱホバの善と観たまう事を行え。』― 申命 13:18,新世。
6 タルソのサウロは,なぜ1世紀のクリスチャンたちの行つていた神の認め給う崇拝に反対しましたか。
6 キリスト死後の1世紀中,ガマリエルに師事した一パリサイ人,タルソのサウロは,ひろく知られていました。サウロは自分の宗教に格別に熱心であつて,クリスチャンたちをひどく迫害した者です。実際,彼が真理に改宗したのは,ダマスコにいるクリスチャンたちの逮捕を許可する大祭司の許可状を所持して,ダマスコに行く途中でした。しかし,ヘブル語聖書を良く理解していたにちがいないパリサイ人,サウロは,なぜクリスチャン信仰を保つ人々にかくも烈しく反対したのですか。クリスチャンたちもヘブル語聖書の全部を認めて信じているのです。サウロ自身次のように答えています『ユダヤ教を信じていたころの私の行動については,あなたがたはすでによく聞いている。すなわち,私は激しく神の教会を迫害し,また荒しまわつていた。そして,同国人の中で私と同年輩の多くの者にまさつてユダヤ教に精進し,先祖たちの言伝えに対して,だれよりもはるかに熱心であつた。』(ガラテヤ 1:13,新口)サウロは人間の言伝えに従つたため,真理に反対したのです。
7 聖書を良く知つている者でも神をよろこばし得ないということを,使徒パウロはどのように力強く示しましたか。
7 パウロは,自分の経験を一度も忘れず,むしろ他の者に対する正しい助言に自分の経験を採り入れたのです。(コロサイ 2:8)パウロは,次のことに気づきました,すなわち,聖書を持つていて,聖書の事柄を知つていても,人間の言伝えに影響されるため聖書の教えを正確に理解することはできない,ということです。ローマ人に宛てた力強い手紙の中で,パウロは当時の他のユダヤ人たちも同じような状態にいる,と指摘しました,『私は,彼らが神に対して熱心であることを証する。しかし,それは正確な知識によるのでない。彼らは神の義を知らず,自分自身の義を立てようと努めるため,神の義に従わなかつた。キリストは,信仰を働かせるすべての者に義を得させるため,律法の全き終となられた。』(ロマ 10:2-4,新世)。パウロの言うとおり,彼らは自分たちの信仰に対して熱心でした。また,会堂で毎週聖書の読まれるのを聞いていたのですから,聖書の知識を持つていたにちがいありません。しかし,キリストが律法を成就して,いまやキリストに信仰を働かすことが必要である,という事柄を正確に理解し得なかつたため,彼らは神から離れてしまつたのです。彼らはヱホバ神の善と見たまうことを行わなかつたのです。
8 正確な知識の不足していることは,現代の世界宗教にどのような影響を与えますか。
8 今日の世界の宗教制度にも,同じものが不足しています。今日に対する神の御意の書かれた啓示,すなわち聖書をたしかに持つていますが,正確な知識に不足しているのです。霊感をうけた使徒は,適切にもこの状態を次のように述べています,『彼らは神を知つていながら,神としてあがめず,感謝もせず,かえつてその思いはむなしくなり,その無知な心は暗くなつたからである。彼らは自ら知者と称しながら,愚かになり,不朽の神の栄光を変えて,朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。そして,彼らは神を認めることを正しいとしなかつたので,神は彼らを正しからぬ思いにわたし,なすべからざる事をなすに任せられた。』(ロマ 1:21-23,28,新口)たしかに,彼らは神を知つている,と主張し,大きな宗教制度を支持しています。そして,御子の名によつて祈りを捧げています。創造は最高至上者の存在を証明している,と多くの人々は認め,また聖書は最高至上者の言葉である,ということに同意もしています。しかし,実際には,彼らは神である最高至上者を崇めていないのです。『彼らは神を知つていると,口では言うが,行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者,また不従順な者であつて,いつさいの良いわざに関しては,失格者である。』(テトス 1:16,新口)彼らは神に栄光を捧げようとはせず,むしろ神の御名と言葉に非難をもたらしています。彼らは神の言葉を自分の宗教の基礎にしている,と口先では言いますが,クリスチャン愛と公正の原則を守り行わないのです。彼らはさらに事態を逆にし,神を自分の快楽に仕えさせる都合の良い一手段にしようとしています。彼らは,自分の慾望の達成を図り,それから神にその慾望達成を是認せしめようとしているのです。これらの人々は,この世の標準に従えば賢明であると主張していますが,その愚かなることは真の神の最高至上権を認めないことから明らかに分ります。彼らはつねに学んでいますが,『真理の知識に達することができない。』― テモテ後 3:7,新口。
正確な知識のために道を開く
9 真の変化は,誠実な気持から真理を求める人々の生活にどのようになされますか。
9 すべての人がこの道に従わないことは,たしかです。誠実な心で真理を求める人々は,それを見出します。そのような人々は,コロサイ書 3章9,10節(新世)に記されている実際的な智恵の道に従います,『古い人格をその行と共に脱ぎ棄て,そして正確な知識により造り主の像に従つて新しくなる新しい人格を着なさい。』神の御意を正確に理解するため,神の言葉を注意深く研究すると,この世の放縦な生活をひんぴんに行うにしても又は時々に行うにしても,それはクリスチャン生活にふさわしくない,ということをはつきり知ります。それで,彼らは次の訓しの言葉に注意を払います,『以前の生活に属し,その惑しの慾にしたがつて腐敗して行く古い人格を脱ぎ棄てなさい。しかし,あなた方の心に働きかける力によつて新しくされなさい。』(エペソ 4:22,23,新世)彼らは,自分の心に働きかける力を変えて,事態の最奥にまでも達します。『その心に思うごとく,その人となりも又しかなればなり。』(シンゲン 23:7)それで,彼らは古い世の哲学とか汚れで心を充さず,神の与え給う清い真理をくわしく知るようになります。いまや彼らは『神の御意にしたがい,真理の義と愛のうちにつくられた新しい人格を着ます。』(エペソ 4:24,新世。詩 119:9-16)これは,魅力的な個性をますます発達させることでないことに注意して下さい。むしろ,神の備え給うものを受け入れ,それを新しい状態に保つて行くことなのです。それには,毎日の生活指針である正確な知識の倉から定期的に取出さねばなりません。聖書についての不明瞭な理解では,この結果は得られないでしよう。神の御言葉の正確な知識のみが十分の深さに達してこの変化を生ぜしめるのです。
10 生活上の大変化は,どのように行われますか。
10 生活に及ぼす影響は,極めて大きく,話す事柄や,行いや,また行の背後の動機をも牽制します。聖書を研究することにより,新しい世が眼前に開けてきます。彼らはその新しい世について学び,新しい世に入るよう生活しなければなりません。彼らは,もはや利己的な事柄を追い求めることに興味を持たず,次のような詩篇記者の言葉を述べます,『ヱホバは大にましませば,最もほむべきかな。その大なることは尋ねしることかたし。』― 詩 145:3。
11 (イ)ヱホバはどのような方法により,人々が『心を合わせてヱホバに事え』させることを可能にしましたか。(ロ)正確な知識と不明確な知識とのちがいは,シシ記 12章にどう示されていますか。
11 いまヱホバ御自身もゼパニヤ書 3章9節に記録されている御自分の約束を成就されることにより,その変化を起させています『そのとき,われ国々の民に清き唇を与え,彼らをしてすべてヱホバの名を呼しめ,心を合せて之に事えしめん。』ヱホバ神は御自分の神権制度を通して,多くの知識を与えておられ,善意者はよろこんでその知識を受け入れています。(ダニエル 12:4)彼らは,パウロの述べたクリスチャンに対する要求を認めています,『さて兄弟たちよ。私たちの主イエス,キリストの名によつて,あなたがたにすすめる。みな語ることを一つにし,お互の間に分争がないようにし,同じ心,同じ思になつて,かたく結び合つていて欲しい。』(コリント前 1:10,新口)そのクリスチャンの標準に達するためには,真理についての明白な理解を必要とします。私たちはエフタに反対して戦つた4万2000人のエフライム人のようになりたい,とは決して欲しません。彼らは敵の陣営から来たのではない,と強く言張りましたが,その語る言葉からエフタの側の者でないことが分りました。合言葉の『シボレテ』を言え,と命ぜられたとき,『セボレテ』としか言えなかつたのです。それは似ていますが,同じものではありません。彼らは生命を失いました。今日でも,聖書を良く知つていない人々には,キリスト教国の牧師の教えが,ヱホバの証者の教えと良く似かよつているように見える場合があります。しかし,正確な知識により真理の清い響きを耳に聞くと真理を愛する人々は,真の崇拝を擁護する為に戦つている人々と同じ立場を取ります。―シシ記 12:1-6。
12 キリスト教国の多数の教会員には何が不足しているため,自分たちの信仰を熱心にひろめることができませんか。
12 キリスト教国の多くの宗教牧師は,ヱホバの証者の熱心な活動を認めており,それは良い手本である,と指摘すると共に自分の教会員にもつと活撥な活動をするようにとすすめています。しかし,大体に言つて,牧師のすすめは功を奏しません。なぜですか。その理由は,彼らには正確な知識が不足しているからです。神を信ずるようにと教えられますが,彼らは間ちがいにも神を奇妙な三位一体者と考えています。(イザヤ 42:8。ヨハネ 14:28)イエスの教えた模範の祈りを祈るよう彼らは学びますが,しかし『天にいますわれらの父よ,御名があがめられますように。』と祈つても,父は名前のない主または神である,と教えられているのです。その結果は,あやふやで不確かです。彼らは,祈りをつづけて『御国が来ますように。みこころが天に行われるとおり,地にも行われますように。』と言います。しかし,自分たちの宗教が,人間の設立した国際連合を支持している,と彼らは良く知つているのです。人々は国際連合を讃めそやして「地上における神の国」と言いますが,聖書によると神の御国は神によつて設立されるのであり,人間によつて設立されるのではありません。(ダニエル 2:44)かくも不十分で不正確な知識を持つ彼らに,どうしてクリスチャンの義務を熱心にすることができますか。『もしラッパがはつきりした音を出さないなら,だれが戦闘の準備をするだろうか。』― コリント前 14:8,新口。
13 多数の善意者は,なぜ新しい世の社会と共に奉仕の召に答え応じますか。彼らは今どんな道を追い求めねばなりませんか。
13 王キリスト,イエスの隊伍によろこび加つて奉仕をなせ,との召は,善意者で成り立つ大群衆の耳に,今や明白に鳴り響いています。(マタイ 24:14。黙示 22:17)彼らは,新しい世の社会と交わることにより,その召に答え応じます。新しい世の社会は,進歩的で前進して行く社会であるため,新しい世の社会の何処で為す奉仕にも活動は必要です。新しい世の社会は,この古い世の亡びの後に来る新しい世の生命の祝福を見こしています。そして,いま新しい世の社会と交つている人々は,その正義の制度下における生命を頂くため,積極的に準備をしています。毎年,幾千人という人々は制度と交わり,そして幼児のごときそれらの人々は,御言葉の乳を飲んで成長します。しかし,新しい世の社会内にいながら,いつまでも幼児でいることは不可能です。『すべて乳を飲んでいる者は,幼な子なのだから,義の言葉を味わうことができない。しかし,堅い食物は,善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。そういうわけだから,私たちはキリストの教の初歩をあとにして,完成を目ざして進もうではないか。』(ヘブル 5:13–6:1,新口)新しい世の社会は前進します。私たちは,新しい世の社会と共に進まなければなりません!
14 真の崇拝のどんな特質のために,研究を絶えずすることは必要であり,また興味深いものですか。
14 長年ヱホバの制度と交つている者たちでも,研究は止めてはならぬ,ということを悟つています。彼らは研究をすればする程,ますます熱心にパウロの述べた次の言葉を語ります,『ああ深いかな,神の知恵と知識との富は。』(ロマ 11:33,新口)その聖書研究は,興味がつきず,まして無必要に繰り返しているものではありません。なぜなら,『義者の道は旭光のごとし。いよいよ光輝をまして昼の正午にいたる。』(シンゲン 4:18)第1世紀のクリスチャンたちが,聖書予言の理解や,この世の政府との関係,制度の責任,そして教義上の真理に進歩したと同じく,現代のクリスチャン社会でも聖書真理の光はますます光り輝いているのです。(使行 2:16-21; 5:29; 15:13-20。コリント前 5:9-13)『忠実にして慧き奴隷』級により,彼らは御国が西暦1914年に誕生し,また地上における永遠の生命という見込を持つ忠実な『他の羊』級の存在していることを,認識しています。(黙示 12:1-5。ヨハネ 10:16)彼らの学んだそのような『他の羊』は,ハガイ書 2章7節で『万国の願うところのもの』と述べられています。ゼパニヤ書 2章1,2節についての彼らの理解は明白になりました。すなわち,それはヱホバの民にむかつて述べられた言葉でなく,キリスト教国に適用するものです。また今では次のことを悟つています,つまりペテロ前書 3章19節でイエスが『獄にある霊』に伝道したことは,タルタロスの霊的な暗やみに閉じこめられている不従順な霊者に裁きの伝道をしたのであつて,それはイエスが復活して昇天した後になされたにちがいない,ということです。全く,真の崇拝は停滞しているものでなく,また中世紀の宗教的な教義に束縛されるものでありません。真の崇拝は生きているもので,進歩的なものです。
15 どんな特性により,クリスチャンは他の者たちから特別に区別されていますか。その使用を指示するのに正確な知識が必要である,と何が示していますか。
15 イエスの弟子たちは,愛という特性により,他の者たちから明白に区別されるであろう,とイエスは言われました。(ヨハネ 13:35)しかし,人々にうけ入れられるためには,その愛を正しく導くことが必要です。『私はこう祈る。あなたがたの愛が,深い知識において,するどい感覚において,いよいよ増し加わり,それによつて,あなたがたが,何が重要であるかを判別することができ,キリストの日に備えて,純真で責められるところのないものとなり,』(ピリピ 1:9,10,新口)たしかに,クリスチャン愛は神の御意についての正確な知識と判別によつて,導かれねばなりません。そして,私たちはより重要な事柄に注意を向けるべきです。誰を先ず第一に愛さねばならないか,については,はつきりと次のように述べられています,『心をつくし,魂をつくし,思をつくしてあなた方の神であるヱホバを愛さねばならない。』さらに,イエスは,『自分自身のごとく隣人を愛さなければならない。』とつけ加えられました。(マタイ 22:37-39,新世。ヨハネ第一書 5:2,3; 3:14)しかし,古い世を愛すべきではありません。『世と世にあるものとを,愛してはいけない。もし,世を愛する者があれば,父の愛は彼のうちにない。』(ヨハネ第一書 2:15,新口)聖書によると,真の愛は『不義を喜ばないで真理を喜ぶ。』(コリント前 13:6,新口)それで,正確な知識を持つとき,私たちはヱホバ神と,ヱホバ神の認められる人々,そしてヱホバ神の愛せられるものを愛することができるようになります。また,正確な知識を持つとき,私たちは神に反対しているこの世に感傷的な注意を向ける,という罠を避けることができます。
16 もしヱホバをよろこばしたいなら,何が必要ですか。それを得るため,ヱホバはどのように御準備を設けられましたか。
16 もしあなたの創造主をよくよろこばしたいと望まれるなら,あらゆる機会を捉えて神の御言葉の正確な知識に進むようにしなさい。『これは,私たちの救主である神のみまえに良いことであり,また御こころにかなうことである。神はすべての人が救われて,真理の正確な知識に至ることを望んでおられる。』(テモテ前 2:3,4,新世)神は初期のクリスチャン会衆内に,使徒,予言者,そして宣教者を備えられましたが,それは宣教の業をなさせるために兄弟たちを訓練し,その業に対する備えができるよう彼らをして正確な知識に進ませるためでした。(エペソ 4:11-13)神は現在でも僕たちの必要物に考慮を払われ,真理を供給せられると共に,制度を備えられています。それは奉仕者である僕たちが自分の業にたいする準備を助けるためです。ヱホバを十分によろこばすため,あなたはヱホバの御意を正確に知らねばなりません。『あらゆる智恵において,また霊的な事柄の判別において,神の御意の正確な知識に充ちよ。それはヱホバにふさわしく歩み,そしてあらゆる良き業を行つて実を結び,神の正確な知識が増し加つて,ヱホバを全くよろこばせるためである。』(コロサイ 1:9,10,新世)ヱホバをこのようによろこばすため,あなたは御言葉を注意深く研究しなければなりません。この研究という事柄を考えるとき,どのように良い研究をし得るかを考えなさい。
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あなた個人の研究ものみの塔 1956 | 8月1日
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あなた個人の研究
『あなたは真理の言葉を正しく教え,恥じるところのない錬達した働き人になつて,神に自分をささげるように努めはげみなさい。』― テモテ後 2:15,新口。
1 今日,ヱホバは御自分の民の霊的な立場をどのように豊かに祝福されましたか。
御言葉の中に記されている新しい世についてのすばらしい幻を,御自分の民に示されている方は,ヱホバ御自身です。また現在新しい世の社会としての奉仕の特権を示されている御方もヱホバ御自身です。そして,ヱホバは御自分の民を現在の立場に導かれました。それで,真実の新しい世に入る彼らの用意は整つているです。現在の危険な時にあつて,忍耐に対する彼らの必要物をヱホバは良く知つています。そして,次のような予言的な約束を成就しているのです,『万軍のヱホバ,この山にてもろもろの民のために肥たるものをもて宴を設け,久しく蓄えたる葡萄酒をもて宴を設く。髄おおき肥えたるもの久しく貯えたる清める葡萄酒の宴なり。』(イザヤ 25:6)『忠実にして慧き奴隷』の愛に充ちる管理により,私たちは力を与えるこの御馳走を定期的に頂きます。(マタイ 24:45-47,新世)それは,『ものみの塔』の記事,書籍や冊子を通して豊かに与えられます。また,会衆の集会や,ヱホバの民の大会でも教訓を受けることができます。
2 食事の招待に誰が答え応じますか。豊かに充ち溢れている御準備に対する彼らの態度はどんなものですか。
2 ヱホバの備えられるこの食卓に集まり,永遠の生命にみちびく食物を頂く人々とは,ただ『自分の霊的な必要物を意識している人々』『義に飢えかわいている人たち』だけです。(マタイ 5:3,6。ヨハネ 17:3,新世)それらの人々は,次の約束が成就されているのを見て,心からよろこんでいます,『わが殿に食物あらしめんために,汝ら什一をすべて我倉にたずさえきたれ。しかして,これをもて我を試み,わが天の窓をひらきて容べきところなきまでに恩沢を汝らにそそぐや否やを見るべし。万軍のヱホバこれを言う。』(マラキ 3:10)近くに来てこのすばらしい御準備を見た彼らは,去りますか。ヱホバは彼らから多くのものを要求し過ぎており,集会は多過ぎ,また研究するものは沢山あり過ぎる,と彼らは言いますか。彼らはヱホバの食卓をはねつけますか。あるいは,ヱホバのこの御準備をうけ入れながらも,その目的を失するようなことをしますか。つまり,目前に霊的なものを豊かに持ちながら,その御馳走を取る時間を設けようとしないのですか。(詩 23:5。コリント後 6:1)そのようなことはいたしません。私たちは神の過分の御親切に対して,神に心からの感謝を捧げます。そして,私たちの杯には神の愛ある御準備が充ち溢れていることに対して,幸いを感じています。私たちの感謝の気持が誠実なものである,と示すため,私たちは会衆においても,または個人的にも熱心な研究をしてこの霊的な食物を消化します。
3 (イ)真理を研究すると,私たちはどんな影響をうけますか。(ロ)研究しているものが難しいとき,何をするべきですか。
3 古い世の書物を多く学ぶことは,体を疲れさすのみです。しかし,神の御座から流れ出る真理の生命の水は,心身を爽快ならしめます。私たちは,よろこんでその水を取ります。(伝道之書 12:12)たしかに最初は難しいかもしれません。しかし,スカルの井戸のところでイエスがサマリアの女に語られたごとく,もし私たちが,イエスの与え給う真理の水を飲むなら,私たちは二度と再び渇かないでしよう。(ヨハネ 4:13,14)イエスの使徒たちも,初めはイエスの教えが理解しにくかつたのですが,イエスが『永遠の生命の言葉』を語られていることを認め,イエスにつき従いました。(ヨハネ 6:68)イエスの教えの要点が分らない時には,彼らはそのままにしておかず,『その譬を説明してください』と言いました。(マタイ 15:15,新口)『ものみの塔』の中の大切な論議が,十分理解できない時とか,聖句の意味が分らないとき,丁度97歳のヤコブが祝福を受けるために,一晩中御使と角力したように,そのところをとばさずに良く研究しますか。そして,増し加わつた理解という祝福を受けますか。(創世 32:24-28)制度を通して与えられるヱホバの教えが,最初は理解できなくても,私たちは昔のパリサイ人のように躓こう,とは欲しません。むしろ,円熟した兄弟にお願いして,そのところをはつきり説明してもらいなさい。
4 霊的な食事を正しく取る必要性を説明しなさい。
4 ヱホバの食卓から滋養物を正しく取るためには,統一のある方法が是非必要であることは明白な事実です。走りながら食物を食べて,急いで呑みこむなら,健康体を楽しむなどと期待はできないでしよう。規則的に食物を食べる習慣と,食物を咬みこなすことは極めて必要なものです。私たちの霊的な食物についても同じことが言えないでしようか。私たちは毎日研究の時間を設けるべきです。できるなら,私たちの頭が澄んでいるときに,その時間を設けなさい。それは,定期の時間に,正しい方法でされるべきです。その時間を設けてからは,それを守り行いなさい。あなたの霊的な健康は,それ次第に依るのです。食事をしているときに友人が来る場合,食事を傍に押しやつて,そして友人と無意味な会話をいたしますか。そのようなことはしないでしよう。多分,その友人にも一緒に食事をするよう,お誘いすることでしよう。『ものみの塔』か聖書の研究をしているときに友人が来て,『何をしていますか。』と聞く場合,『何もしていません』と答えて研究しているものを傍に押しやつてしまいますか。むしろ,友人にも研究に加わるようすすめては如何ですか。霊的な健康の為に,霊的な食物を取る習慣を軽々しく取扱つてはなりません。
5 (イ)有益な会衆の集会に何が先要条件ですか。(ロ)私たち個人としても,また会衆としても,それはどのような益を私たちに与えますか。
5 会衆と共にする研究は,新しい世の社会に対する要求です。しかし,個人の研究は,有益な会衆の研究に対する先要条件です。あなたは,宣教学校で聖書の一部分を読むという恵まれた特権を持つていますか。(黙示 1:3)それでは,その聖句の教えを正しく伝えるために,そのところを前もつて注意深く研究しなさい。聖書は生きている言葉であることを忘れてはなりません! 生きている言葉にふさわしい仕方で読みなさい。あなたは,奉仕会で学ぶ事柄を,前もつて定期的に研究しますか。もしそうするなら,その教えを記憶し適用する力は,ずつと増すでしよう。会衆の書籍研究や,『ものみの塔』の研究や,宣教学校や奉仕会に出席するとき,あなたは十分に楽しみますか。真理を取りいれることは幸福です。しかし『受けるよりは与える方が,さいわいである。』(使行 20:35,新口)会衆の集会であなたの信仰を口に言表わし,あなたの希望を公やけにしつかりと述べ表わすなら,あなたもこの幸福を持つことかできます。研究に参加することにより,兄弟たちに思い遣りを示しなさい。そして,与えるときには最善のものを与えなさい。『何をするにも,人にではなく,ヱホバに仕えるよう心から働きなさい。』(ヘブル 10:23-25。コロサイ 3:23,新世)これをするために,あなたは個人的の研究を前もつてしなければなりません。
6 個人の研究は,どのように私たちの奉仕に影響しますか。実際にその必要な研究を確かにするための唯一つの方法とは何ですか。
6 クリスチャン会衆は,奉仕者の制度であつて,『御国のこの良いたより』は,この制度によつて証のため全世界に伝道されているのです。この制度は,いまや十分に成長しており,その任務を成し遂げる準備は良く整つています。あなたについては,どうですか。あなたは制度と共に歩調を揃え,御国宣教に参加する備えができていますか。伝道の業に積極的に参加しているかもしれませんが,あなたの奉仕がいちばん多くの実を結び,ヱホバ讃美に捧げられるよう努めなさい。パウロは,次のように訓しています,『あらゆる事に平衡を保ち,……あなたの宣教を全うせよ。』(テモテ後 4:5,新世)宣教を全うするためには,それに対する正しい備えをしなければなりません。それには,真理の研究が必要です。そして,野外奉仕のために時間を設けるのと同じく,あなたは真理の研究のために時間を設けねばなりません。―テモテ後 3:16,17。
7 会衆内の僕は個人の研究をどのように見なすべきですか。
7 聖書を読んだり『ものみの塔』や『目ざめよ!』の各号を注意深く読んだり,また会衆の集会の準備をする,という風に,個人の研究の大きな必要性を考えてみるとき,それら全部はとうていできない,と多分感ずるかもしれません。会衆内の僕であれば,奉仕活動や僕の義務などがあるために,そのような個人研究を全部する時間はないと感ずるかもしれません。しかし,これに反して,個人的な研究を神権的な活動の別の分野と考えなさい。そして,率先して模範を示し,他の人々を助けなさい。監督に対する要求は,『教える資格を持つ』ということを忘れてはなりません。このため,監督には個人的な研究が必要になつてきます。『自分のことと教えのこととに気をつけ,それらを常に努めなさい。そうすれば,あなたは自分自身とあなたの教を聞く者たちとを,救うことになる。』(テモテ前 3:2; 4:16,新口)あなたの良い模範は,主の羊の他の者たちを正しい道に導き,神の奉仕者として,奉仕や研究における良い習慣を得るのを助けるでしよう。それで,ペテロ前書 5章2,3節(新口)に述べられている教えに従い,自分に課せられている責任に細心の注意を払いなさい,『あなた方にゆだねられている神の羊の群を牧しなさい。しいられてするのではなく,神に従つて自ら進んでなし,……群の模範となるべきである。』
そのための時と機会を見出す
8 全時間奉仕をしている人々は,個人の研究についてどんな見方を取るべきですか。
8 あなたは野外奉仕で全時間奉仕をしているか,ベテルの家で全時間奉仕をしていますか。一日中熱心に宣教を行つているため,必要な研究をおろそかにしていることがあるかもしれません。しかし,『あなたの宣教を全うするため』,個人的な熱心な研究は絶対に必要です。研究しないために医科学の進歩からおくれて行く医者は,患者から見ると値打の少い医者です。それと同じく,たえず個人的な研究を定期的に注意深く行わない人の宣教は,力と効果が少いものです。悪しき者の罠にかかつてしまうことさえあるでしよう。『それだから,悪しき日にあたつてよく抵抗し,完全に勝ち抜いて,かたく立ちうるために,神の武具を身につけなさい。』― エペソ 6:13,新口。
9 たとえ忙しかろうと,個人の研究はなぜ必要ですか。
9 新しい世の社会内におけるあなたの立場がどんなものであろうと,また家族の事柄とか御国の事柄のためにどれ程忙しかろうといつも神権的な戦をなす状態にいなさい! 戦に出かけて行つたギデオンの300人の戦士のことを想い出してごらんなさい。彼らは水を飲むのに膝をかがめませんでしたが,しかし水を飲んで元気を恢復しておいたのです。彼らは将来の仕事を見通しており,その仕事をするためには用意が必要である,と知つていました。それで,私たちも用意が必要です。―シシ 7:5-7。
10 神権的な家族は,どのように自分たちの研究を取極めますか。
10 自分一人だけでも個人的な研究は良くできます。しかし,或る人々は『共に励まし合うため』親しい友だちや,結婚配偶者と一緒に研究することから大きな益を受けます。(ロマ 1:12,新口)この場合,それは会衆の研究集会に代るものではなく,会衆の集会により良く参加するための備えをなすものです。両親はヱホバのいましめと権威ある訓しに従つて子供たちを育てよ,という聖書のいましめに注意を払い,家族が一つの群になつて研究することはたいへん良い,と知ります。日々の聖句を研究したり,『ものみの塔』を研究したり,『目ざめよ!』の記事を討議したり,会衆の集会に対して準備をしたり,また聖書そのものを定期的に続けて読むなどしたりすれば,家族の研究で沢山のものを学ぶことができます。父親は家族の生計を立てるだけでなく,また家族の霊的な成長にも注意を払うべきです。そして,家族の研究を組織して,計画どおりに為されているかどうかに注意すべきです。(エペソ 6:4。申命 6:6,7)しかし,家族の全員が真理に入つていないときは,母親がその義務を持つようになるでしよう。(テモテ後 1:5)神権的な子供たちも,この準備をよろこんで善用します。そして,その若き日に創造主を憶えます。若いということを口実にして無関心な態度を取らず,かえつて同じ年頃の者たちや,年上の者たちに対して信仰と奉仕の模範になろうと欲します。神権的な子供たちは,テモテに与えられた次の良い助言をうけ入れます,『あなたは,年が若いために人に軽んじられてはならない。むしろ,言葉にも,行状にも,愛にも,信仰にも,純潔にも,信者の模範になりなさい。私がそちらに行く時まで,聖書を朗読することと,すすめをすることと,教えることとに心を用いなさい。』― テモテ前 4:12,13,新口。
11 ある人は,他の人々よりもなぜ早く覚えますか。
11 若い人も年を取つた人も,いま次のような問題に面しています。すなわち一番有効な仕方で個人的な研究をするには,どうすれば良いか,ということです。ある人が,他の人よりも新しい考えを早く学んで理解するのはなぜでしようか。生まれつきの能力は別問題として,その人はたいていの場合正しい研究の習慣を持ち,不注意なことをせずに秩序立つた努力を払うからです。悪い仕方でゆつくり研究するよりも正しい仕方で研究する方が容易です。
12 研究したものを記憶する仕方についての参考意見を述べなさい。
12 研究事項を早く呑みこめる能力は,しばしば好ましいものです。しかし,その能力が必らずしも一番良いものではありません。私たちの読むものを記憶して用いることの方がはるかに重要なのです。しかし,練習することにより,読書力を改善することができます,そしてついには言葉を読まずに句や考えの読み方を学ぶでしよう。その結果,研究事項の多くを正しく理解するだけでなく,単なる言葉の代りに考えが頭に刻みいれられます。私たちの学ぶものは,頭に永く残らねばなりません。そのためには,思いを集中させることが必要です。つまり,一時に一つのことに注意を集中させることです。この点について或る人々は一つの事柄に頭を無理やりに向けなければならないという間ちがつた見方を持つています。しかし,強制されて緊張している頭は,効果的に働くでしようか。頭を強制的に集中しようとはせず,むしろいま取扱つている事柄に深い関心を持つようにしなさい。そうすれば,自ずとその事柄だけに没頭してしまい,無関係な考えとか,煩いごとは頭から消えてなくなるでしよう。そして気持を容易に集中することができます。研究をする際には,どのようにしたらその事柄を応用し得るかを知るため,たえずその研究の事柄を細かく調べなさい。そのようにして,興味を保ち続けて行きなさい。また,実際的などのような益があるかを,たしかめなさい。それにより,世の中のことが良く理解できますか。それにより生活の諸問題を克服することができますか。それにより,以前には答えが分らなかつた問題が理解できますか。その中の譬と論議を用いるなら,神の言葉の真理を他の人々にはつきり教えることができますか。私たちは,特別に興味深いことがらを記憶します。この世の人々は,隣人についての興味深い噂話を記憶します。ヱホバの民の興味は,正義の新しい世にあります。それで,ヱホバの民は新しい世の生活に関する事柄や,新しい世の創造者であるヱホバ神に関する事柄を記憶します。―ペテロ後 3:13。
13 他のどんな事柄は,思いを完全に集中させますか。
13 想像を働かすことによつて,頭は一層よく集中することができます。聖書の大部分には,歴史的な物語や予言的な譬が書かれています。それで,聖書の研究をする際には,想像力といくつかの感覚を用い,その事柄をはつきり頭に浮かばせなさい。例えば,ピラトの前に立たされたイエスの裁きを考えてごらんなさい。単に言葉だけを読もうとせず,その場合のあらゆる事柄をまざまざと思い起してごらんなさい。(ヨハネ 19:1-6,新世)肌寒い朝の大気を身に感じなさい。イエスは紫の衣服を身につけ,頭には茨の冠が被せられています。兵士たちが無礼にもイエスの頬を打ちます。その殴打の痛みを感じなさい。エルサレムにあつた総督官邸の前の道に,あなたが立つていると考えてごらんなさい。群衆の圧力を感じますか。ひしめき合う群衆の足もとから立ちのぼるほこりを味いなさい。外衣を身につけたパリサイ人に導かれる暴民共が,『殺せ,彼を杭につけよ!』と叫ぶのを聞きなさい。『私たちには,カイザル以外に王はありません』と彼らが言うのを聞くとき,あなたは憎悪の気持で充ちるでしよう。事態の空気が,ますます緊迫するにつれてあなたの胸は動悸を打つでしよう。全く,ひしひしと身に泌みて感じなさい。そうするなら,記憶するでしよう。あなたの思いは,触解,味覚,視覚,嗅覚,そして聴覚の五官で養われます。それですから,想像を働かすときには,すべての感覚が自由に働くようにいたしなさい。そうすれば,あなたの頭はそのことに全く没頭してしまい,気持の集中は完全になるでしよう。そして,頭に残る印象は深いもので,永続するでしよう。
14 証明や議論は,どのようにしたなら,一番良く記憶できますか。
14 教理を支持する議論とか論理は,なかなか難しくてはつきりしない場合もあるでしよう。しかし,議論の語られるのを聞いたり,印刷された議論を見たりするなら,記憶を強める連想の要素を結びつけることができます。読む記事の合理的であること,その記事のつくられている理由,その真実なることを裏書する証明,そしてその適用の実際方法などを考えなさい。よく考えながら,これらの事柄を結びつけなさい。他のものと関係づけて,それぞれの要素を考えなさい。そうすれば,一つのものを想い出すとき,他のものも想い出されて,全体がはつきりしてきます。
15 (イ)なぜクリスチャン奉仕者は,反対を打破るための研究時間を持つべきですか。(ロ)たとえ忙しい場合であろうと,どのようにしてこのことをなす時間が見出せますか。
15 みなさんの区域に住む人々は,偏見のためか,又は宗教的な教理のために,反対を申し立てるかもしれません。そのような反対は,御国の音信の伝道を阻げます。何を為しますか。『あなたの宣教を全うする』ために,それらの反対に打ち克つ能力を養うべきです。しかし,何時そうすることができますか。多分,研究の始まる10分か15分前に会衆の集会所に来るか,あるいは他の人々よりも少し早めに奉仕中心地に来る時でしよう。その間の時間を賢明に用いることは如何ですか。いろいろの参考意見を交換しなさい。お互いに実際行つてみなさい。敵対心を起させず,むしろ私たちの業に対する好奇心と興味をひき起すことによつて,どうしたら反対に打ち勝つかを論じなさい。適切な譬話をするなら,偏見を打破して恐らく要旨を伝えることができるでしよう。使用したいと思う聖句をこまかく調べなさい。そうすれば,最も効果的な仕方で聖句を示すことができます。同じように,家から家の伝道や再訪問の業に対する新しい聖書の話を研究しなさい。あなたの個人的な研究の一部にそのようなことがらを論ずるには,余分の時間は殆ど必要でなく,実際のところ仕事のようには見えない程です。かえつて,それは楽しいものであつて,気分を一新し,同時に円熟した伝道者になる備えを,あなたに与えるものです。―シンゲン 27:17。
知識を印象づける
16 賢明に学ぶ人は,単に暗記する代りに何をしますか。
16 ある人々は暗記することによつて知識を得ようとします。しかし,それは骨の折れる仕事であり,無理なものです。暗記すれば,自分の望むところのものを一語一語くり返して言えるかもしれませんが,しかし若し十分に理解しないなら,それを効果的に用いることはできません。そのわけで,言葉を暗記しないで,考えを十分理解する方が良いのです。新しい考えをよくよく思案し,いろいろの面から検討し,その価値を考え,そして自分自身の言葉に直してごらんなさい。そうすれば,その新しい考えは自分のものになります。例えば聖句のようなものを記憶したいと思われるとき,先ずその聖句の考えと価値を必らず理解するようにしなさい。もしそうするなら,覚えて記憶することは,ずつと容易なものとなります。
17 どのように研究事項の傍に線を引きますか。それにはどのような益がありますか。
17 研究をする時,読んでいるものが自分のものであるなら,要点の傍に線を引くのは有効な事かもしれません。そのようなしるしは,自分で良く呑みこめなかつた点を示すのに用いられたり,又はその記事の主要な考えを示すのに用いられます。しかし,過度に為すべきではありません。主要な言葉や句を一見すると,そのところの考えが想い起されます。傍に線を引くことは,会衆の討議の際の復習とか参加の時に特別に役立つものです。そのように傍に線が引いてあると,要点が何処にあるかが分り,そして研究事項の肝腎なところが直ぐに思い起せます。
18 なぜ,ある人々は聖書について間ちがつた見方を持つているのですか。
18 研究している事項について近視眼的な見方をとる人が多数います。多くの偽りの宗教制度は,聖書について近視眼的な見方を取つており,二,三の離れ離れの聖句だけを見て,自分の信仰を打ち建てます。彼らは前後の文脈というものを考えません。また聖書全部を神の霊感し給うた言葉とは見ません。御国の主題は創世記から黙示録まで一貫して流れていますが,彼らはその御国の主題を見ないのです。神についての彼らの考えは歪んでいて間ちがいのものです。それで,彼らがいくら学んでも,真理の正確な知識には決して至らないでしよう。彼らを真似てはなりません。―テモテ後 3:7。
19 宣教に用いるための要点を十分理解して,記憶するために,私たちは『ものみの塔』の記事をどのように正しく研究すべきですか。
19 研究するとき,研究事項の全部を見るように努めなさい。それぞれの考えを中心の主題に結びつけなさい。そして,相対的な重要性をたしかめなさい。『ものみの塔』の一つの節の質問に対する答が得られるなら,その特定の答と研究主題との関係について注意しなさい。節が進むにつれて,主題が発展し,そして議論と説明が論理的に組み立てられているのに注意しなさい。それは良く平衡が取れていて,詳細の事柄はみな正しく,しかも適当に配置されており,一つの事柄を完全に表わし示しているのです。その記事を読み終つた後に,すこし休止しなさい。それから,副主題や,主要な文章や,頁の傍にある質問や,また読書中に傍線を附した中心の考えを使用することにより,その事柄を頭の中で想い起しなさい。その主題を発展せしめた論議の概略とか聖句に従つて考えなさい。それから雑誌か本を閉じて,印刷物を見なくてもそれができるかどうかを試してごらんなさい。その為の時間は,ほんの1分か2分ですが,それは頭の中にしつかり刻み込まれます。それはすつかり自分のものになります。神の御言葉と神の制度から学ぶ事柄が,いつも身を離れずに私たちのクリスチャン生活の導きとなり,また宣教の際に用いる備えになるよう,私たちは欲します。『こういうわけだから,私たちは聞かされていることを,いつそう強く心に留めねばならない。そうでないと,おし流されてしまう。』― ヘブル 2:1,新口。
20 研究についてのこれらの原則は,日々の聖句を読んだり,聖書を読んだりするのに,どう適用されますか。どんな益をもたらしますか。
20 これらの原則を,ある程度まで応用することができるでしよう。毎週行われる会衆の書籍研究が終つてから,本を閉じて学んだところの大切な諸点を復習しますか。『ものみの塔』の研究司会者は,研究中に1回か2回註解をして,研究事項のある部分を特別に説明しますか。それでは,それらの原則を別のものにも行うようにするのは如何ですか。みなさんが『ものみの塔』の各記事を読むとき,同じことをいたしなさい。年鑑(英文)の日々の聖句を研究してから,本を閉じなさい。そして,その中心の考えを一つの文章で簡明に言い表わせるかどうかを試みなさい。自分一人で聖書を読むときにも同じことをしなさい。各章を読み終える毎に,そのところを自分で摘要するようにいたしなさい。その章の中心の主題,または聖書の各々の本全部の中心思想をしつかり自分のものにするように努めなさい。それから,各節と中心の思想との関係に注意いたしなさい。それぞれの本全部を,良く整えられたものと見なし,お互いの思想の関係に注意しなさい。書かれている事柄の配置,背景,そして関係が理解できるため,学んだことについての認識はずつと深まることでしよう。こうすることにより,聖句の在り場所を知つたり,論議を記憶したり,論議を効果的に用いて偽りの教理を打ち破り,正しい崇拝を設立することはたいへん容易になります。―コリント後 10:4,5。
21 なぜ新しい世の社会にいる者は,みな熱心に研究し,研究の習慣を改善するよう努めますか。
21 あなたは新しい世の社会と共に前進したいと欲しています。あなたは宣教に効果的な参加をするための備えを持ちたいと欲しています。それでは,今まで論じてきたこれらの原則をあなたの個人の研究に適用いたしなさい。『あなたは真理の言葉を正しく教え,恥じるところのない錬達した働き人になつて,神に自分をささげるように努めはげみなさい。』(テモテ後 2:15,新口)目前にある収穫の業を見なさい。あなたが宣教を拡大するとき,あなたのものとなる奉仕の特権を考えなさい。ハルマゲドン後に行われる大きな再建と教育の業を見透しなさい。神の与え給うこの業に,より良く参加するための備えをなすよう計画しなさい。そうすれば,ヱホバの祝福は必らずあなたのものとなります。
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『山羊』と判断するのは早すぎるものみの塔 1956 | 8月1日
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『山羊』と判断するのは早すぎる
アリゾナにいる全時間奉仕者から次の手紙が送られてきました,『私に任命された区域では,家から家の伝道をする時に「山羊」ばかりいる,と聞かされていました。
『初めてこの区域の伝道にいつた時,どの人もみな私を断りました。2度目のとき,私は1冊の文書も携えず,また呼鈴も鳴らしませんでした。庭にいる人々に垣根ごしにお話ししただけです。新築中の家のところでは,私はその結構なことを賞め,いろいろのところから会話のいと口をつくりました。多くの人は,作物の育たないのに困つていましたから,私は新しい世の状態がどんなに素晴らしいかを説明することができました。それから「又お会いしましよう」と気持良い別れを告げ,そのところから去りました。
『その次に訪問したとき,私は多くの家で迎え入れられました。それで,イエスが私たちに祈るようにと教え給うた御国が近ずいていることを聖書から示すと共に,文書をも配布いたしました。この区域では個人的な家庭聖書研究に対する興味は殆ど無いようでした。それで,群の研究ができ得る場所を見つけてから,奥さんたちをその研究に招待いたしました。最初の晩に15人が来ました。その後ある人々はその研究に出席しなくなりましたが,他の人々が出席するようになりました。幾ヵ月か経つて私がこの町を去るとき,別の奉仕者に研究の司会をお願いしましたが,そのときには,20人の人々が定期的に出席していました。今年の夏,その地にいる一人のヱホバの証者からの便りによると,研究はいまその証者のお宅で行われており,毎週45人から50人が出席しているとのことです。』
この地は,『山羊』ばかりいると考えられていたところなのです!
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その25B アフリカにおける拡大(1945~1955)ものみの塔 1956 | 8月1日
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ヱホバの證者の近代歴史
その25B アフリカにおける拡大(1945~1955)
アフリカでは,昔から異教の教が根強く信奉をされていましたから,人々は『暗黒』大陸と呼んでいた程です。しかし1945年以降,ヱホバの証者により真のキリスト教が伝えられるようになつてから,2億300万の住民を有するこの大陸は,世界の暗黒地域として取り残される心配はありません。この尨大な大陸の北部には,モハメット教が強い勢力を占めています。この教により人々の考えは,熱狂的,宗教的にはしり,理性を以つて判断することなく,また極めて道徳観念が薄くなつています。社会において婦人の力は弱く,一夫多妻が広く行われています。道徳は非常に乱れ,疾病は蔓がり,生活は苦しく,教育は欠けており,より高い霊的方面のことはかえりみられていません。この大陸にすむ欧州人について云うと,彼らは原住民より優れたものという態度をとり,欧州本土の人々と同様な気持を抱いております。そして黒色又は有色人種から分離した社会を作つています。一方,アフリカ人の心には,異教の習慣と迷信が深く入り込んで居り,酋長を頭に持つ族長制度を依然として固守しています。またアフリカ人は白色人種を嫌うという気持が心にこびりついており,また白色人種が搾取しないかとか侵略しないかとかいう疑いの気持をいつも離しません。アフリカ人はお互いにも愛情を殆んど感ぜず,隣人愛とは何であるか,理解に苦しみます。自分の妻又は子供に対する愛情もよく理解できません。族長制度の掟通りに,家畜を以つて妻を買い取り,子供を産み,その方面での村を築いて行くという状態です。彼らは『先祖の霊』が生きていて,生きている者を助けたり,罰したりすると信じています。又霊のたたりを恐れて,お祈りをします。さらに,人々は,このような『霊』とかかわりをもつ色々の事,たとえば,規定されている動物の犠牲を供えたりしますが,決して先祖を愛しているが故にしているのではなく,恐怖のために,或は,物質的利益を得るために行つています。悪らつな魔術を行う行者はこれらの背後にあつて,『霊』とのかかわりの行いを為し,愛のない仕業をしています。
ヨーロッパ,モハメット,野蛮な異教の思考が交錯しているこの地で,ヱホバの証者は,どのように困難を克服して行つたでしょうか? 1900年代の初期に,ものみの塔協会は南アフリカに伝道を始め,その地で支部事務所を設立し,1920年代には,この教育の業は北方へと伸びています。同じく1920年代に英領西アフリカに伝道は始められ,支部事務所は設立
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