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「いっさいの考えに勝る神の平和」ものみの塔 1981 | 2月1日
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13:1-14:16)その後ロトは,エホバがソドムを滅ぼされる際に自分の命が救われるよう物質的な所有物を捨てなければならないことに気づきました。さらにそののち,ロトはやむなくゾアルの町を離れ,ほら穴の中で暮らさなければならないと感じました。(創世 19:1-26,30-38)彼は「義人ロト」と呼ばれていますが,敬神の思いを抱く人が物質的な利得と思われるものを重視することの愚かさを“つらい方法で”学んだようです。(ペテロ第二 2:7,8)特定の導きを祈り求めて,常に霊的な関心事を生活の中で第一にする方がはるかに優れています。
13 クリスチャンが生活の必要物について心配して気をもむべきでないのはなぜですか。
13 霊的な事柄を生活の中の最重要事とすることは心と思いの平和に貢献します。確かに,金と銀のすべてを所有しておられる方が,ご自分の僕たちに生活の必要物を備えることが十分におできになることを,わたしたちは確信できます。(ハガイ 2:8)言うまでもなく,神が「きょうこの日のためのパンをわたしたちに与えてくださ(る)」ように祈るのは正しいことであり,実際の必要を満たすため勤勉に働くのは適切なことです。(箴 6:6-11; 31:10,13-24。マタイ 6:11)しかし『わたしたちは世に何かを携えて来たわけではなく,また何かを運び出すこともできないので,命を支える物と身を覆う物とがあれば,それで満足すべきです』。(テモテ第一 6:6-12)なぜ心配して気をもむのですか。次のように述べた詩篇作者は間違ってはいませんでした。「わたしはかつて若者であったが,今や年老いた者ともなった。だが,義なる者が捨て去られるのを,また,その子孫がパンを捜し求めるのを見たことはない」― 詩 37:25,新。
真の成功への道
14 クリスチャン証人として,人間の業績やそれに関連した成功と考えられるものを重視しすぎるのはなぜふさわしいことではありませんか。
14 世の人が人間の業績を重視しすぎて,自分で思い煩いを作り出すことがよくあります。もちろん聖書は,勤勉さや,自分の仕事の技術を向上させることを勧めています。(箴 22:29)それでも成功とみなされることに対して分別を欠いた野心を抱いたり,あれこれ思い煩ったりすることは,「神の平和」と一致しません。実際,野心的な人が他の人の上に立ちたいという願いを持つなら,疑わしい手段を用い,仲間の働き手の努力をけなし,神の不興を招くような悪らつな道を追い求めかねません。(箴 3:32。コリント第二 4:1,2)過度に野心的な人も人間の称賛を受けることが確かにあるでしょう。それはちょうど,19世紀前の偽善的な宗教指導者たちが,称賛を受けるような仕方で贈り物をしたり,祈ったり,断食を行なったりしたのと全く同じです。ところがイエス・キリストはそうした宗教指導者の行為を非難し,これら自己中心的な偽善者たちは「自分の報いを全部受けている」と述べられました。(マタイ 6:1-18)エホバの証人のだれであっても,“偉く”なろうとして自分の作りあげた思い煩いの中で生活するのはなんと愚かなことなのでしょう。そうした生活は永続する祝福を失う結果となるにすぎません。―エレミヤ 45:5と比較してください。
15 敬神の思いを抱く人は,成功と考えられる物事について,伝道之書 9章11節および10章5-7節から何を学びますか。
15 真に「神の平和」を享受している人にとって,真の成功に至る道は,疑わしい手段や空を打つような努力とは関係がありません。そのような人が聖書から学んでいるのは,実際に不完全で罪深い人間だけで満たされている現代社会においては,『速い者が競走をものにするのでも,力のある者が戦いをものにするのでもない。また賢い者が食物を得るのでも,理解力がある者が富を得るのでもなく,知識を持っている者たちといえども恵みを得ているわけではない』ということです。(伝道 9:11,新)確かに,『愚かさは多くの高い地位に置かれており』,人は「僕たちが馬に乗っているが,君たちは僕のように地を歩いているのを」見ることができます。(伝道 10:5-7,新)ここに述べられている通り,君たちや貴族の人々が当然受けるべき威厳を与えられず,資格の面ではるかに及ばない僕たちが,貴族さながら『馬に乗る』場合があるのです。
16 神に喜ばれる成功や業績は何に依存していますか。
16 自分がいわば“たな上げにされ”,昔願っていた成功と思われるものを得ていないとお考えですか。そのことをなぜ思い煩うのですか。「神の平和」に心を支配させ,それがもたらす心地よい穏やかさを味わってください。神のご意志を行ない続け,その奉仕における自分の努力が祝福を受けるよう天の父により頼んでください。人生で本当に重要なのはこの点です。神に喜ばれる成功や業績は,霊的な目標や物の見方に依存しています。詩篇作者は適切にも次のように述べました。「幸いなるかな,邪悪な者の計り事に歩ま……なかった人は。その人の喜びはエホバの律法にあり,その律法を昼も夜も小声で読む。これは必ず,時が来て実を結び,葉の枯れることのない,水の流れのほとりに植えられた木のようになり,その人の行なうことは皆栄える」― 詩 1:1-3,新。
17 (イ)最大の成功を収めるために,わたしたちは何をしなければなりませんか。(ロ)他の人が「いっさいの考えに勝る神の平和」を享受するよう助けるために,あなたは何を行なえますか。
17 人生で,エホバ神との親密な関係に入り,それを維持すること以上に大きな成功を収めることはできません。エホバ神を喜ばせたいという強い願いがあれば,わたしたちは敬神の言葉と行動によって神に誉れをもたらすよう,仲間の人間に善を行なうよう,そして彼らに「幸福な神の栄光ある良いたより」を分け与えるよう心を動かされます。(テモテ第一 1:11)天の父の祝福を受けて,他の人が神のすばらしい目的を学ぶよう,そして献身という神との貴重な関係に入るように助けることができるのは大きな喜びです。それらの人々はその後,わたしたちと同じように生活の思い煩いに対処することを学んでゆくのです。彼らも,「いっさいの考えに勝る神の平和」を享受するようになるでしょう。
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み使いたちのように謙遜にエホバの取決めを尊重するものみの塔 1981 | 2月1日
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み使いたちのように謙遜にエホバの取決めを尊重する
総勢18万5,000人余を数えるアッシリアの軍勢は,40㌔以上離れた,ユダ高地の反対側にあるリブナの低地に陣取っていました。その軍隊の通ったあとには荒廃した都市が幾つも残され,手足を切り取られた死体が累々と横たわっていました。その軍隊の最終目的地はエルサレムでした。
ユダの王ヒゼキヤは,人間の力による救出はとても不可能であることを悟っていました。アッシリアを代弁する使者は声を上げて降服を勧告し,それからリブナにあるアッシリアの陣営に帰って行きました。しかし,ヒゼキヤは熱烈な祈願をささげてこう述べました。「私たちの神エホバよ,どうか,彼の手から私たちを救ってください。地のすべての王国が,エホバよ,あなただけが神であることを知るためです」。(列王下 19:19,新)それに対する答えはすぐさま,それもヒゼキヤが祈ったその晩にもたらされました。
やがて,昨晩リブナにあるアッシリアの陣営でエホバのみ使いが18万5,000人の戦士を討ち倒した,という知らせがヒゼキヤのもとに届きました。(列王下 19:35)その結果,セナケリブ王はそそくさとアッシリアに帰って行きました。
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