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人々の生活の中に見られる証拠目ざめよ! 1976 | 1月8日
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レッテルは私には狂信的なものに思えました。しかし,聖書の『罪』ということばは,原語で『的をはずす』という意味であることを学んでから,理解できるようになりました。なぜなら,私にもほかの人たちと同じように弱点があることを知っていたからです。
「それから私は,人類がこの古い体制の終わりの日に住んでいること,そして私たちの天の父が,浄化されたこの地上で人類を完全な健康状態に回復させる意図をお持ちであること,またそれが近い将来に始まることを学びました。これこそ,かつてなかった最善の福祉計画です! 今では私は,他の人々をやはり肉体的に助けながら,霊的にも援助することができます」。
結婚生活における幸せ
聖書の導きのある生活とない生活の違いおよび両者が家族生活に及ぼす対照的な影響をよく示しているのは,米空軍に入隊していたある青年の場合です。
空軍にいる間に彼は不道徳な生活を始めました。そのうちに一人の少女が彼の子どもをみごもったので,仕方がないという気持ちでその少女と結婚しました。しかし結婚しても彼は夫また父親としての責任を果たそうとはせず,彼女を親元に帰しました。そして自分は妻に対して忠実ではありませんでした。ついにその最初の結婚は離婚に終わり,彼の以前の妻は再婚しました。
除隊になったときにその人は自宅に帰り,父母や兄弟と一緒に住むことにしました。そのころ彼の家族はエホバの証人と聖書を勉強していました。そこで彼も勉強を始め,聖書に従って生活する点で進歩しました。聖書からみて自由に結婚できる立場にあったので,彼はついに結婚しました。過去と現在を比較しながら彼は次のように語りました。
「過去の私には,女性に対する敬意が欠けていました。あのような生き方をして,私は自分にも他人にも不幸をもたらし,特に先妻には非常な苦労をかけました。聖書に従う生活をするようになってから,私は聖書の原則に従うことこそ最善の生き方であることがわかるようになりました。二度目の妻をクリスチャンにふさわしい仕方で遇し,自分自身を愛するように妻を愛することによって,私は結婚における真の幸せを見いだしました。10年にわたる私たちの結婚生活は,比較的に問題のないものでした。夫婦間の問題についてほかの人たちから相談されるときには,私は聖書のことばに彼らの注意を引きます。聖書の助言に従えば本当にうまくいくことを私は自分の経験から知っています。反面,意識的にせよ無意識にせよ,聖書の原則を無視する人は,多くの不幸と心痛を経験しなければなりません」。
自殺から救われる
聖書が与える導きは,絶望状態にある人を救い出し,生きる目的を与えることができます。西部アメリカに住むある若者はこれを経験しました。
12歳の時にこの青年は父親を亡くしました。母親はアル中だったので,子どもを導くことがあまりできませんでした。そのために彼は情緒的に非常に不安定でした。ほかのティーンエージャーたちと交際しているうちに,しだいに大酒を飲むようになり,マリファナを吸い,ついにはバルビツール剤を用いるようになりました。そうしたことはみな彼を一層みじめにしました。彼は劣等感に陥り,生きて行くことに非常な困難をおぼえました。
17歳になったとき,彼は宗教に助けを求め始めました。休暇の間は朝昼晩教会に行き,毎日数時間そこで過ごしました。彼は長い祈りをささげ,聖書を読み始めました。そして詩篇や箴言が非常に助けになり,心をさわやかにするのを知りました。しかし,真剣な努力や祈りにもかかわらず,自分がほとんど進歩していないのを感じました。
ある夜,教会から歩いて家に帰る途中,非常な絶望感に襲われました。彼は祈りました。そして11時半ごろ義姉に電話をかけ,もう希望がないので自殺するということを伝えました。義姉は何を言っていいかわからず,もう一度電話をかけるまで待っていなさい,と言いました。そして大急ぎで職場の同僚,つまり自分が問題にぶつかる時よく助けてくれるエホバの証人に電話をかけました。
この証人はその若者に電話をし,その晩彼の義姉の家で会う約束をしました。夜の11時45分ごろ,証人と彼女の十代の息子は,彼を乗せるために車で到着しました。その母親と息子の非常に親密な様子や二人の振る舞いは彼に強い印象を与えました。その後彼らは三時間にわたり,死者はどこにいるか,神はなぜ悪の存在を許しておられるか,といった問題について話し合いました。聖書の預言によると,現体制はその「終わりの日」に来ており,まもなく正義の新体制に取って代わられるということを学んで,その若者は勇気づけられました。また,年を取って死ぬのを待たずに父親に再会できる可能性のあることを知って胸を踊らせました。この体制の終わりを生き残り,復活してくる父親を迎える機会が実際にあるかもしれません。
聖書の勉強をしたいかどうか尋ねられたとき,彼はしばらく考えていました。彼が聞いたことは本当に助けになりました。もし聖書を定期的に勉強すればさらに大きな益が得られると考えて,彼は勧めに応じましたが,実際その通りになりました。聖書を勉強し聖書に従ったために,彼は人生の目標および将来に対する確かな希望を得,また考え方を完全に変えることができました。悲しみと絶望に沈んでいた彼の心は深い喜びに変わりました。現在彼は自分の時間を賢明に用い,他の人々が聖書にある優れた導きについて学ぶのを助けています。
以上の経験のとおり,世界中のエホバの証人は,聖書に従えばそれだけ幸せになれることを知りました。もとより,完全に解決しきれない問題もあります。しかし聖書の助言は,人が自分の生活を乱されないように問題に対処することを可能にするのです。
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今あるものをはるかに超えたもの目ざめよ! 1976 | 1月8日
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今あるものをはるかに超えたもの
『今どんな益がありますか』。新しい概念が提出されると,大抵人はこうした反応を示します。もちろん,当面の益を望むのはごく自然なことです。しかし,それと同時に,将来のことを無視するわけにはゆきません。生活の導きが,将来に対する希望や目標を差し伸べていないなら,それには確かに大きな欠陥があると言わねばなりません。今何を持っているかにかかわりなく,自分の持つ将来に対する見通しは人の現在の歩みに大きな影響を及ぼすからです。
聖書は,将来に対する健全な希望,それに向かって努力すべき目標を差し伸べています。使徒パウロは,クリスチャンの原則に従って30年近く生活した後にこう述べました。『敬神の専念はすべての事に益があります。それは,今の命ときたるべき命との約束を保つのです』― テモテ第一 4:8。
これまでにお読みになった記事の中には,自分の生活の仕方を変化させ,現在その益にあずかっている人々の経験が載せられていました。そうした人々は,単に変化しようと決意して,それに従っ
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