-
なぜこれほど多くの人が自殺をするのですかものみの塔 1983 | 11月1日
-
-
なぜこれほど多くの人が自殺をするのですか
ブルースの父親はそれまでずっと実業家として成功を収めてきました。かなり前に,ブルースの母親との結婚は破綻に終わり,父親はもっと若い女性と結婚していました。しかし,父親は子供たちに引き続き関心を示し,ある時には子供たちと共同で事業を興そうとまでしました。ところが,50代になって,その生活は大きく変化しました。事業の一つが失敗し,突然,大きな負債を抱えることになったのです。数日入院しましたが,その理由をだれにも告げようとはしませんでした。それから,年若い妻が彼のもとを去りました。そしてブルースの父親は自殺を遂げたのです。
ブルースはこう語っています。「もっと父の助けになってあげられていたらと本当に悔やまれます。中年も過ぎようというころに,奮起して経済的にやり直すことは大き過ぎる荷に思えたに違いありません。そして,一人さびしく年老いてゆき,苦痛のうちに生活するようになることを考えると,父はそうした生活に何の意義も見いだせなかったのでしょう」。
悲しいことに,こうした悲劇は今日では珍しいものではなくなっています。統計が明らかにしているように,米国だけでも,わずか1年間に2万7,294人の男女子供が計画的な自殺を遂げました。それに加え,一人の自殺者の背後に10人の自殺未遂者がいる,と言う人もいます。
しかし,世界の至る所で,人々は極めて悲惨な状況のもとにありながら死に対する闘いを懸命に行なっています。病気の苦痛に悩む人々,長期服役囚,極貧の生活を余儀なくされている人々 ― そうした人々のほとんどが生きてゆくために苦闘しています。それなのに,身体的にそこまで惨めではないように思える人々がすべてを終わらせようとするのはなぜでしょうか。
クリスチャンと称する人々の住む国の場合,その質問に答えるのはいっそう難しくなります。命は神聖なものであり,神からの貴重な賜物であると聖書は教えています。(詩編 36:9)死は敵です。エホバ神は多大の努力と犠牲とをもって,わたしたちが永遠の命を得る機会を開いてくださいました。(ヨハネ 3:16)ところが,いわゆるキリスト教国においてさえ,自殺者や自殺未遂者が増えています。どうしてなのでしょうか。人間の極めて貴重な所有物である命が重荷に感じられ,それを投げ捨てたいと思うところまで,いったいどのような圧力が人を追いやるのでしょうか。
人を死に追いやる感情
「絶望感……何の希望もないむなしさ……心痛……わたしはすべてのものに圧倒されていました」。衝動的に薬を多量に服用したある婦人は,自分を自殺に駆り立てた原因についてこのように語りました。自殺を図った人々の治療に当たってきた一医師はこう付け加えています。「これらの人は,自分が無価値な存在であり,だれも助けてくれず,何の希望もないと感じていることが少なくない。また,強い罪の意識を感じていることがある」。
このように多くの場合,抑え難い消極的な感情やめいった気分に襲われて人々は自殺に走ります。問題のかぎは多くの場合,希望がないことにあります。自殺志願者には前途が真っ暗に見えるのです。生きてゆく意義が何もないように思えるのです。
何が原因でこのように希望を失ってしまうのでしょうか。ブルースの父親と同様,多くの人は疑いなく,周囲の状況に圧倒されています。この点で特に影響を受けやすいと考えられるグループは年配の人々です。うつ病研究の専門家,ネーサン・S・クライン博士はこう述べています。「老齢は特別な孤独という問題をもたらす。年齢と共に自殺者の割合も高くなってゆく」。(ネーサン・S・クライン著「悲しみから喜びへ」)しかし,原因はほかにもあります。
希望の喪失,罪の意識,憂うつな気分
例えば,罪の意識は非常に耐え難い感情となることがあります。ある人がゆゆしい悪行を犯す場合,その良心はその人を責めさいなむことでしょう。その罪によって他の人が害を受けた場合には特にそう言えます。古代イスラエル国家のダビデ王は,自分がいかに罪の意識に悩まされているかをこう言い表わしました。「わたしの罪のために,わたしの骨には平安はありません。わたしのとががわたしの頭を越えたからです。重い荷のように,それらはわたしにとって重すぎるのです」― 詩編 38:3,4。
良心にやましいところがあって罪悪感を抱くあまり,自分には何の将来もないと感じ,自らの手で命を絶つことにした人もいます。例えば,ある若者は淫行を犯したのち,銃で自殺しました。残された遺書には,他の人にこれ以上非難をもたらしたくないという主旨のことが書かれていました。
感情的にひどく傷つき,希望がないように感じる人もいます。頭から完全に消し去ることのできないいやな経験がいつまでも影響を及ぼすという場合もあります。少女のころ自分の父親の手によって近親相姦の犠牲者となった若い女性もそうした人の一人でした。成人してからも,その経験がもたらした罪の意識と自分が無価値な存在であるという意識は非常に強く,ついに自殺を図りました。
重症うつ病にかかって回復の見込みがないと感じ,何の希望もないように感じている人もいることでしょう。重いうつ病を一度も経験したことのない人には,それがどれほど破壊的な影響をもたらすかを理解するのは難しいものです。それは単なる『憂うつな時期』ではありません。そうした時期はだれもが時々経験するものです。むしろこれは,その人が何をしようと,どこへ行こうと,常にその上に重く垂れこめる,極めて深刻な苦悩を伴う感情なのです。どうあがいても逃げ道はないように見えます。
そうしたうつ病に悩む人が自殺を考えるのは珍しいことではありません。ひどいうつ病にかかったことのある婦人は,その時には非常に注意深くなければならなかった,と語っています。風呂に入っていると,「顔を水にさっとつければそれですべてが終わってしまうのだわ」という考えがしばしば脳裏をよぎった,とのことです。また,道路を歩いていて,自動車がやって来るのを見ると,「そうだわ,とても簡単にできるわ」と考えることがよくありました。
うつ病に悩まされている人は強い罪の意識を抱いていることがあります。それはなぜでしょうか。重症うつ病にかかっていたあるクリスチャンの婦人は,以前のように家族の世話ができなくなり,自分のせいで家族の人は思い通りのことができなくなっていると考え,罪の意識を抱いていました。また,自分には思いの平安や喜びがないので,神の霊は自分から取り去られてしまったと感じていました。(フィリピ 4:7。ガラテア 5:22)懸命に努力しなければエホバ神について全く話すことができない有様でした。同様の経験をしている人は少なくありません。自分は許されない罪を犯したのだと考えている人さえいます。
このような消極的な感情を抱く人々がやがてこの苦しみを耐え忍んでゆくだけの価値があるのだろうかと考え始めるのは理解し難いことではないでしょう。しかし,人々を自殺に駆り立てるのはこうした事柄だけではありません。
人が自殺を図る他の理由
他の人の注意を引こうとして自殺を図ろうとする人がいるものと一部の心理学者は考えています。自殺志願者は,いわば助けを叫び求めているのです。だれかに罰を加えようとして自殺を図ろうとする人々さえいるかもしれません。「わたしが死んだら後悔するだろう」という子供たちと同じ考え方です。
また,時には,自殺を図ることによって周囲の人に圧力を加えようとする人もいるようです。例えば,ボーイフレンドに捨てられた少女が,相手に戻って来てもらいたくて,気の進まない自殺を図ることがあります。また,老人が成人した子供たちから無視される生活を何とかして終わらせ,共に過ごす時間を増やしてもらおうとして,自殺を図ることもあるでしょう。
これらの例は,どのような圧力が関係しているかを理解する助けとなります。悩んでいる人はしばしば問題を自分の内に秘めているため,状況はいっそう難しくなっています。外の世界に対しては穏やかな様子を示しているかもしれませんが,内側は緊張で煮え返っているのです。こうした圧力のもとにいると,ささいな事柄が引き金となって自殺を図ることがあります。
例えば,ある人は職を失った後で自殺を図るかもしれません。あるいは,十代の若者は試験の成績が思わしくなかったり,ペットが死んだり,ボーイフレンドやガールフレンドにふられたり,大好きな教師が転校するのを知ったりした後,自殺を図るかもしれません。こうした事柄は自殺を図る真の原因ではありません。それらは幾重にも積み重なった圧力の最後の屈辱,「最後に加えられた1本のわら」に過ぎないのです。
十代の娘が自殺を図った時,その母親はこうした事態が生じたことにひどく衝撃を受けました。しかし,その母親は後に,十代の若者に影響を及ぼし得る隠れた圧力について知りました。彼女は次のように語っています。「少女がどれほどの不安を心に抱くことがあるかが今わかりました。娘が負うには問題が余りにも多過ぎました。私もほかの事柄に追われて,助けになってやれませんでした。今では娘をよりよく知ろうと努めており,努めて娘と話をし,身近にいるようにしています。そして,そうすることは良い結果をもたらしています。娘はこうしたことが起きる以前と同様,今では笑ったり,私と冗談を言い合ったりします」。
逃れ道
自殺は決して正当化できるものではありません。しかし,感情的に苦しんでいる人にとって,苦悩を終わらせる手っ取り早い方法として,それが魅惑的に思える場合があるのです。しかし,み言葉,聖書の中で命が神聖なものであることを述べておられるエホバは,そうした圧力のもとにいる人々に助けを差し伸べておられます。聖書は,『神は……あなた方が耐えられる以上に誘惑されるままにはされません』と約束しています。この聖句は,偶像礼拝や不道徳など,「害になる事柄」の誘惑に言及するものです。(コリント第一 10:6,13)しかし,自殺以上に有害なものはありません。ですから,そうした行為に誘惑されている人々に対して逃れ道があるのです。エホバはみ言葉である聖書とクリスチャン会衆の双方を通して助けを備えておられます。
-
-
絶望している人々に対する希望ものみの塔 1983 | 11月1日
-
-
絶望している人々に対する希望
「以前に書かれた事柄は皆わたしたちの教えのために書かれたのであり,それは,わたしたちが忍耐と聖書からの慰めとによって希望を持つためです」。(ローマ 15:4)自殺を図る人が抱えている大きな問題は,絶望感,希望の欠如であることを知るとき,使徒パウロの前述の言葉が思いに浮かびます。「聖書からの慰め」はそうした絶望感を取り除いてくれるでしょうか。無数の例が示すように,確かにそれを取り除いてくれます。例えば,次の例を考慮してください。
ある若い女性が自殺を図って,まさにガスの栓をひねったちょうどその時,エホバの証人がドアをノックし,その女性に聖書から新たな希望を与えました。
別の少女の場合,交通事故に遭って体がまひしてしまい,将来に対して抱いていた希望は打ち砕かれてしまいました。彼女は何度も自殺を図りました。そのような時にエホバの証人がこの少女を援助して,「聖書からの慰め」を見いだすよう助けました。こうして,少女はもう一度希望を抱けるようになったのです。
年老いたある人の妻が二人の50回目の結婚記念日の直前に亡くなりました。その男の人は深く憂いに沈み,毒をあおるため実際にその手はずを整えました。その時,エホバの証人がその人の戸口を訪れ,聖書の音信が人生の新たな目的をどのように与えてくれるかをその人に示しました。
これらの人々は,『エホバを待ち望み,勇気を出す』ことを学びました。(詩編 27:14)力を得られるようエホバに頼り,『自分たちを支えてくださるエホバにその重荷をゆだねる』ことを学びました。(詩編 55:22)彼らはまた,将来に対するエホバの目的についても学びました。それによって,すばらしい展望がその前途に開かれたので,現在の状況はそれほど重要なもの,大変なものに思えなくなりました。これらの人々にとって「聖書からの慰め」はまさしく命を救うものとなったのです。
それでは,強い罪の意識に悩まされたり,喜びを感じられなくなったりした人が,自分は「希望を与えてくださる神」に見捨てられたに違いないと結論する場合はどうでしょうか。(ローマ 15:13)そうした人に対する「聖書からの慰め」がありますか。確かにあります。「エホバは心の打ち砕かれた者たちの近くにおられ,霊の打ちひしがれた者たちを救ってくださる」のです。(詩編 34:18)確かに神がそのような人たちを見捨てることはありません。
罪の意識
ゆゆしい罪を犯した人が,神は自分を許してくださるだろうかとしばらくの間思い惑うのは無理もないことです。事の重大性を知ってショックを受け,それがこたえて,自分は世界で最も悪い,価値のない人間であるように感じることがあるでしょう。しかし,エホバは罪を憎まれますが,真に悔い,その邪悪な歩みをやめた罪人に憐れみを示されます。そうした人を神は「豊かに」許してくださるのです。―イザヤ 55:7。
古代の王ダビデはそのことを知っていました。ダビデは次のように書いています。「エホバよ,あなたが善良で,進んで許してくださるからです。あなたを呼び求める者すべてに対するその愛ある親切は,豊かだからです」。(詩編 86:5)ダビデは長い間忠実な生活を送りました。しかし,その間に幾つかの極めてゆゆしい罪を犯したことも事実です。それでも,理性を取り戻し,事の重大性を悟ると,そのつど誠実に悔い改め,神は自分を許してくださるという確信を抱いて,祈りのうちに神に近づきました。―詩編 51:9-12。
ダビデ王の罪を見倣いたいとは思いませんが,もしもわたしたちが罪を犯したなら,心から深く悔い改めたその態度に見倣い,自分が悪行を犯したことを率直に認めて,わたしたちを進んで許してくださるエホバに信仰を置くことができます。―ヨハネ第一 2:1,2。
それでも,クリスチャンが何かの理由で喜びや思いの平安を感じられないでいるのは,神の霊が取り去られている証拠ではありませんか。必ずしもそうではありません。クリスチャンは喜びを抱く民ですが,苦悩を味わうことも時にはあります。亡くなられる直前のゲッセマネの園におけるように,イエスでさえそのような苦悩を味わわれました。聖書の記録はこう述べています。「しかし彼はもだえはじめ,いよいよ切に祈られた。そして,汗が血の滴りのようになって地面に落ちた」。(ルカ 22:44)直面しなければならないさまざまな試練のゆえに時々もだえるような気持ちを経験するため,自分は罪を負っている,と感じることがあるでしょうか。そのような人は,イエスがなさったと同じように,エホバからの慰めを求めるべきです。
では,クリスチャンが死にたいと思うのは悪いことなのでしょうか。憂いに沈んでいたヨブがどのように感じたかを覚えておられますか。苦痛を伴う病におかされ,偽りの友人から責められ,自分はエホバから見捨てられてしまったと感じていました。そのため,ヨブはうめきつつ,「わたしの魂は自分の命に対して確かに嫌悪を感ずる」と大声で叫びました。(ヨブ 10:1; 14:13)死というものは実際には敵であるのに,ヨブにとっては,敵というより,苦悩からの安らかな逃れ場のように思えたのです。―コリント第一 15:26。
もしもヨブがそれよりさらに事を進めて,苦悩のあまり自分の命を絶とうとしたなら,それは重大な罪となったことでしょう。しかし,不幸のどん底にあったり感情がひどく乱れていたりする時には,人は必ずしも頭に浮かぶ考えをすべて制御できるわけではありません。もっとも,自分が死ぬことを思い巡らしていたり,死んでいたらよいのにといつも願っていたりすることに気づいたなら,それを警告とみなすべきです。直ちに行動を取るべき時です。どのような行動を取るのでしょうか。
「助けを求める」
ある若い婦人は深刻な経済問題と夫婦間の問題を抱え込んでいました。そのような危機のさなか,彼女は薬物を多量に飲んで自殺を図りましたが,幸いなことに一命を取り止めました。そのような行動に出た理由を思い返して,その女性は今こう語っています。「自分の感情をだれにも知らせなかったことが問題であるように思います。前もって自殺を計画していたわけではありませんでした。問題が自分のうちにうっ積し,衝動的にそうした行為に走ったのです」。この女性はどんな助言を与えているでしょうか。「そのような事態に至る前に,だれかに助けを求めるべきです」。
それは道理にかなった助言です。感情的に緊張した状態にあると,自分の抱えている荷が余りにも重くどうにもならないように思えることがあるものです。罪の意識や悲しみ,絶望感といったものが耐え難いほど重く感じられることがあります。しかし,自分ひとりでその荷を担わなければならないというわけではありません。使徒パウロを通して,エホバ神は,『互いの重荷を負い合いなさい』と命じておられます。(ガラテア 6:2)他の人々は助けを差し伸べたいと願っています。それらの人は助けを差し伸べる務めを負っていると言えるかもしれません。それでも,あなたが告げなければ,多くの場合,あなたがどれほど助けを必要としているかがそれらの人々には分かりません。
友人3人が自殺を遂げた一少女は苦悩に顔をゆがめてこう語りました。「どのようにしてそれを知ることができたでしょう。……彼女たちの気持ちも分からなかったのですから,彼女たちがわたしたちを必要としているとき,どうしてそこにいてあげられたでしょうか」。自分の抱えている問題をだれかに打ち明けるのは非常に苦しい,難しいことかもしれません。でも,最初の一言を口に出せば,後は楽に言葉が出てくることに自分でも驚かれるでしょう。また,他の人々が本当に助けを差し伸べたいと願っていることを確信してください。援助したいと考えている人にどのような人がいるかを調べてみましょう。
[7ページの囲み記事]
他の人のことを考えなさい
自殺を考えたことのある一少女は,何が自殺を思いとどまらせたかについてこう語りました。「自殺が後に残すのは,心痛,悲しみ,罪の意識です。それは,自殺を図った人にとって耐え難く思えた問題よりもはるかに破壊的で消し去ることのできない影響をもたらします」。―マタイ 7:12。
[7ページの囲み記事]
事態はよくなる
「現在の世界でいつまでも続くものは一つもありません。……救出が間近に迫っていることが分かります」。こうした考えを抱いていれば,自殺をしたいという考えを退けるようになります。
[8ページの囲み記事]
考え直す
何年もの間に,高いビルから飛び降り自殺を図ったものの死なずにすんだ4人の人と知り合うようになった,とハーバート・ヘンディン博士は語っています。そのうちの二人は,飛び降りた瞬間,考え直せばよかったと思ったとのことです。―ハーバート・ヘンディン医学博士著,「アメリカにおける自殺」。
-
-
彼らは援助したいと考えているものみの塔 1983 | 11月1日
-
-
彼らは援助したいと考えている
『兄弟たち,あなた方に勧めます。憂いに沈んだ魂に慰めのことばをかけなさい』。(テサロニケ第一 5:14)使徒パウロはテサロニケ会衆に対してこのように述べて,クリスチャン会衆が,憂いに沈んでいる人々を助けるための,神による備えの重要な源であることを示しました。不快な感情に苦しんでいるクリスチャンはだれであっても,仲間のクリスチャン兄弟たちの間に慰めと助けを見いだすことができます。
弟子ヤコブは,任命された会衆の長老たちに助けを求めることを勧め,こう述べました。「あなた方の中に病気の人がいますか。その人は会衆の年長者たちを自分のところに呼びなさい。そして,エホバの名において油を塗ってもらい,自分のために祈ってもらいなさい。そうすれば,信仰の祈りが病んでいる人をよくし,エホバはその人を起き上がらせてくださるでしょう」― ヤコブ 5:14,15。
もしもだれかが長老たちに援助を求めることをためらっている場合はどうでしょうか。深刻な問題を抱えていた一人の婦人の場合がそうでした。彼女はその理由をこう語っています。「長老たちは理解してくれないだろうという考えが頭の隅にありました。私が間違っていると思われやしないかと思ったのです」。しかし,家庭のある深刻な問題が危機的状態に達したため,その婦人は長老たちのところへ行くことにしました。どうでしたか。「長老たちは完全な人ではありませんが,それでも理解してくれました」と,その婦人は語っています。
しかし,使徒パウロは,『憂いに沈んだ魂を慰める』よう会衆全体を励ましていたことを思い起こしてください。長老たちは助けを差し伸べたいと思っています。しかし,憂いに沈んでいる人は,自分が楽な気持ちで話せる円熟した人がいれば,だれのところに行ってもかまいません。年若い人なら親に話したいと思うことでしょう。女性の場合は,「良いことを教える者」である経験を積んだクリスチャンの姉妹と話し合いたいと思うかもしれません。(テトス 2:3)大切なのは,だれかに話すことです。
では,落胆している人が助けを求めてあなたのところへ来たならどうでしょうか。あるいは,あなたのほうが率先してその人を援助するような時にはどうでしょうか。そのような場合の心得を幾つか考えてみましょう。
慰めと思いやり
忘れてならないのは,憂いに沈んでいる人の霊性について早急な判断を下してはならないということです。そのような人々は慰めを必要としている,とパウロは述べました。ですから,パウロがフィリピ人に書き送った書簡の中で言及している次のような特質をそれらの人々に示すのは良いことです。「そこで,キリストにおける励ましが少しでもあり,また愛の慰め,霊の分け合い,優しい愛情と同情心が少しでもあるなら,あなた方が同じ思いを持ち,同じ愛を抱いているのだという点で,わたしの喜びを満たしてください」。(フィリピ 2:1,2)励まし,愛,霊の分け合い,優しい愛情および同情心は憂いに沈んでいる人をいやすすばらしい働きをするでしょう。
使徒パウロは別の優れた特質のことも述べています。パウロはこう語りました。「あなた方はみな同じ思いを持ち,思いやりを示し合い,兄弟の愛情を抱き,優しい同情心に富み……なさい」。(ペテ一 3:8)「思いやり」のある人,つまりその人の身になって考え,相手の信頼を得,慰めの言葉を語ることのできる人は,憂いに沈んだ魂を助けるための優れた賜物を有しています。
重症うつ病
しかし,会衆内のだれかが重症うつ病に悩んでいる場合はどうでしょうか。自分は全く無価値であると感じ,罪の意識を抱き,何の希望もなく,絶望状態にあり,だれが何を話そうと無駄であるように思える場合はどうでしょうか。そのような人にはまず医師に相談するように勧めるべきでしょう。身体に原因があって重症うつ病にかかることが少なくないからです。a しかし,たとえ専門家のどのような援助を求めようと,会衆には依然として果たすべき重要な役割があります。
会衆の成員は憂いに沈んでいる人を批判すべきではありません。また,『元気を出しなさい』とか『しっかりしなさい』などと言うのも禁物です。自分の妻がうつ病にかかっている一人の男性は,妻が自殺をしかけたことが時々あったと語りました。なぜでしょうか。その人は,自分や他の人々が妻に十分理解を示さなかったのが原因の一つであったことを認めています。
うつ病で頭が混乱しているため,かつて知っていた事柄が今では信じられなくなっているかもしれません。うつ病の人とそうした事柄について話すのが良いことに気づいた人もいます。「優しい憐れみの父またすべての慰めの神」であられるエホバについて話すようにしましょう。(コリント第二 1:3)エホバは喜んで「豊かに」許してくださることを思い起こさせてください。(イザヤ 55:7)創造の美について語り,そうしたことに関連した当人の楽しい経験があれば,それを思い起こさせるようにします。会衆内で享受してきた幸福な交友について,また当人が家族をどれほど愛し,家族の人々が当人をどれほど愛しているかについて語ってください。その人のつらい感情を自分には十分に理解できないが,たとえそうでも,他の人たちの経験はそれがよくなることを示している,と確信をこめて語ってください。感情的な苦しみのゆえにどんなに筋道の立たないことを言おうとも,『兄弟の愛情と優しい同情心』をもって,その人の言うことに進んで耳を傾けるようにしてください。
もしも相手が自殺について話すなら,それを真剣に受けとめる必要があります。また,自殺のことを口にはしないものの,相手が頭の中で自殺を考えているふしがあれば,その問題を取り上げることを恐れてはなりません。次のように話せるかもしれません。「気分がひどく悪いようですね。恐らく,私が想像するよりずっといやな気分なのだと思います。このようないやな気分に襲われると,一番よいのはすべてを終わらせてしまうことだと考える人が時々いるようです。そのように感じることがありますか」。そのように感じたことがあると相手が言うなら,それがきっかけで問題全体が明らかになり,そのような考えがもたらす罪の意識から当人を解放することができるでしょう。
『正しく働いていない機械』
クリスチャンの長老でもある一医師は次のように報告しています。「私は時々,計算器の例を引き合いに出します。計算器の電池が弱ると,ボタンを押して正しい数字をいくら入力しても,信頼の置ける答えは得られません。ですから,重症うつ病の人には,その人の“電池”が一時的に弱くなっているのだ,と話します。変わった考えをしたり,不可解な結論に到達したりすることがあるものです。しかし,そうしたことは,変調の生じている間だけ見られるにすぎません。問題が解決すれば,事態はよくなります」。
この医師はさらに次のようにも付け加えました。「こうした状態にある人の場合,わたしたちが何を話すかは必ずしも重要ではありません。仲間のクリスチャンとして最善の努力をつくし,感情を移入するようにしています。長老たちは人生経験の豊かな人を見つけて,共に座って話をしてもらうことができるかもしれません。時には,相手の話に耳を傾けるだけでも十分です。うつ病に悩むある人が,重症うつ病になったことのある年配の一クリスチャン姉妹から大きな助けを得ていた実際の例を知っています。そうした姉妹は一緒に腰を下ろし,相手の肩をたたいて,『気持ちが分かるわ』と言うだけかもしれません」。
克服できる
不快な感情に悩まされている人にとって,それを克服することは計り知れない努力を要するように思えることがあるのは事実でしょう。また,憂いに沈んでいる人はどんな努力もする気になれないかもしれません。しかし,自殺は答えではありません。長い間うつ病に悩んでいた一人の婦人がいました。この人は食欲がなく,眠ることもできず,全く元気がなくなってしまいました。神経質で,いつも緊張しており,死にたいと思うほどでした。今その婦人は次のように書いています。「勇気を出してください。どれほど長い期間苦しんでいようと,その問題が何であろうと,エホバにはあなたを助けることができ,現にそうしてくださいます。私が何よりの証拠です」。―フィリピ 4:13。
憂いに沈んだ魂を助けるためにほかにもできることがあります。使徒パウロが言い表わした次の考えに従って,そうした人々のために祈ることです。「わたしたちの主イエス・キリストご自身と,わたしたちを愛し,過分のご親切によって永遠の慰めと良い希望を与えてくださったわたしたちの父なる神が,あなた方の心を慰め,あらゆる良い行ないと言葉の点で,あなた方を確固たる者としてくださいますように」― テサロニケ第二 2:16,17。
-