-
なぜ人々は祝うかものみの塔 1961 | 12月15日
-
-
の世界では12月25日は太陽をあがめるために特に大切な休日として祝われてきた。そして,コンスタンチン大帝は,太陽の崇拝をキリスト教の崇拝と結合させようとした」。g そのような異教の祝日が選ばれたのは,「異教の崇拝ときそうため」と教会は主張します。しかし,政治的な感覚にするどかったローマ皇帝コンスタンチンは,帝国内の一致をのぞみ,分裂をのぞみませんでした。それで,彼はキリスト教の名前のつく行いをのぞみました。それは異教の者ときそうためでなく,一致和合させるためでした。
この皇帝は,強い勢力を持っていました。それで,カトリック教会のリストにのせられている20の総会の第一総会を召集することができました。その力は,この20世紀にはヨハネス23世だけが持っています。コンスタンチンは,異教の祝いに反対せず,むしろそれに同意していました。「その全生涯中,彼は太陽崇拝を支持しつづけた」とカルマンは述べています。h
太陽崇拝をしていたこのコンスタンチンは,洗礼をうけていなかったときに,キリスト教国の教会を西から東に向けさせたのです。また,このコンスタンチンは,321年に,「キリスト教徒の」週1度の休息日と太陽崇拝の日<サンデー>との併合を合法化しました。その日は,いままでもゲルマン民族語で,「サンデー<太陽日>」と呼ばれています。
カルマンは,こう語っています,「コンスタンチンの支配中にサンデーは公式の休日となった。それで,我々の意見では,彼の生涯中にその影響をうけて,キリストの誕生を祝うことは12月25日に変えられたのである。この日は,太陽をあがめる大休日であった」。i
この祝いはコンスタンチンのローマで始められたのであって,初期教会のあった他の場所,すなわちアンテオケ,エルサレムまたはアレキサンドリアで始まったのではありません。そのことは,4世紀の一記者によって示されています。僧院長は,次のように説明しています,「クリスマスの祝いは,最初ラテン教会独特の祝いであった。386年に述べられた訓戒の中で聖ジョン・クリソストムは次のことを証言している,すなわちその祝いは386年より約10年前,つまり375年頃に紹介されたというのである。当時その祝いはエルサレムでもアレキサンドリアでも行なわれなかったと,彼は語っていた。後者の都市では,その祝いは430年頃に行なわれるようになった」。j
レオ大法王(440-461年)の時代中,あるカトリック信徒はこの異教の日にキリストの誕生を祝わず,太陽の誕生を祝いました。そして,いまでもこの異教の「ナタリス・インビクチ」すなわち「不敗〔太陽〕の誕生日」の祝いは,火をつけるというようなたくさんの習慣の中に残っています。クリスマスを祝う人々も,それらの習慣に従っているのです。
聖書に通じている人は,太陽崇拝が神によって禁ぜられていることを知っています。ローマ人,アフリカ人,東洋人,あるいはアメリカ・インデアンのような異教徒の中で太陽崇拝はいちばんひろく行なわれています。しかし,神の民が太陽を崇拝することはつよく禁ぜられました。聖書の中で太陽崇拝のことが述べられるとき,それはサタンが創造者に対する人間の崇拝を引きはなして,被造物に向けるものとして禁じられています。
たとえば,申命記 4章19節によると,「日月星辰」に仕えることは,偶像崇拝と同じく禁じられています。それは神のみ前でつよく禁じられているため,申命記 17ノ3-5節によると,「日や月や天の衆群」を崇拝する者は,死刑に値する「憎むべきこと」を行なった者と言われます! またキリスト前7世紀に良い王ヨシアは不潔なものを放逐しました。その中には,偶像崇拝の「異教の神の祭司」や,「バアルと日月星宿と天の衆群とに香を焚く者ども」がいました。ところが,それと類似しているローマでの太陽崇拝が,今日のクリスマスの祝いの背景になっているのです。―列王紀下 23:5。
エゼキエル書 8章によると,エホバの宮の汚れが述べられています。それは,宮の壁の書かれた憎むべき絵のほかに,「悪き憎むべき事ども」があり,イスラエルの長老はそれに香を焚きました。その「悪き憎むべき事ども」は,女どもが真の神にささげられた宮の中でバビロンの神タンムズのために泣いて行なった「悪き憎むべき事ども」よりも悪いものでした。それはどんなことでしたか。25人の人々は,「東にむかいて日の前に身をかゞめをる」。この3世紀と4世紀に異教のローマ人に伝えられたこの太陽崇拝は今日のクリスマスの祝いの基礎になっているのです!
クリスチャンのするべきこと
イエスの死んだ日は聖書中に明記されているにもかかわらず,イエスの生まれた日が述べられていない事実は,クリスチャンに対する警告でなければなりません。聖書を書いた人々がその日を知らなかったわけではないのです。むしろ,その日が意識的に無視され,故意にかくされたようです。聖書の中には一語といえどもキリストの誕生日を祝えということを示す句はありません。もし私たちがキリストの誕生日を祝わねばならないなら,聖書はすくなくともその日付を示したはずです。その日付のないことは,見のがしたということでもありません。聖書を書いた人々は,キリストの約束した聖霊を持っていました。その聖霊は,彼らに必要なものをことごとく思い出させたのです。イエスは彼らにこう告げられました,「しかし,助け主,すなわち,父がわたしの名によってつかわされる聖霊は,あなたがたにすべてのことを教え,またわたしが話しておいたことを,ことごとく思い起させるであろう」。―ヨハネ 14:26,新口。
クリスチャンの守るべきひとつの祝いがあります。それは,異教主義に端を発しているクリスマスの日とは全く反対のものです。それはイエスの誕生を祝うのでなく,彼の死を祝うのです。その日ははっきりしています。それはユダヤ人の暦によると,過越の日であるニサン14日です。それは,冬でなく春に行なわれます。イエスは,ご自分の始めたこの新しい祝いについて,「わたしを記念するため,このように行いなさい」と言われました。(ルカ 22:19,新口)その言葉は,彼の誕生について語られたのではありません。春,彼の死を祝うことだけが,クリスチャンに対して聖書の命ずるただひとつの儀式です。
この記事の中に引用した権威者たちは同意していませんが,第1世紀の初期クリスチャンたちは,異教の祝いを拒絶しました。キリストの名前は,そのような異教の祝いにつけられたに過ぎません。真のクリスチャンもそれを拒絶します。彼らは,太陽の再生 ― それにつけられる名前にかかわりなく ― を祝わず,キリストの死だけを祝います。彼らは使徒ペテロと意見を同じくするが故に,このことをするのです。
「過ぎ去った時代には,あなたがたは,異邦人の好みにまかせて……もうそれで十分であろう」。―ペテロ前 4:3,新口。
-
-
シンガポールからの報告ものみの塔 1961 | 12月15日
-
-
シンガポールからの報告
軍隊に勤務する幾千名という人々 ― その多くは家族連れ ― が,外国から来て,シンガポールで2年半勤務します。その中の大ぜいの人々は英国でエホバの証者と研究したことがあり,その中のある者は英国で伝道を始めています。これらの人がシンガポールに来ると,新しい世の社会とよろこんで交わります。ある人々は,極東に来てのちに活発になり,御国の側に立ちました。英国で真理に接したひとりの善意者は,シンガポールに来たとき病気になりました。心臓病であるから,熱帯地の気候は彼女の健康に良くないので,英国に帰りなさいと医者は彼女に告げました。ちょうどそのとき,彼女は聖書研究をふたたび始め,真理についての知識と理解が進むにつれて,彼女の健康も良くなりました。彼女はエホバに生命をささげて,休暇開拓者になりました。しかし,熱帯の気候で働くのはどうでしょうか。この姉妹は良いスケジュールをつくったので,自分の家族の世話をするだけでなく,その月中,孤立した区域で100時間の奉仕を報告することができました。彼女はその地でほとんどひとりで奉仕し,160冊の雑誌を配布し,29の再訪問をしました。―エホバの証者の年鑑(英文)より
-