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全地球的な大破壊 ― 生存をめぐって深まる懸念目ざめよ! 1984 | 11月22日
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全地球的な大破壊 ― 生存をめぐって深まる懸念
昨1983年11月20日に,1億人という記録的な数のアメリカ人が「ザ・デー・アフター(その翌日)」というテレビ・ドラマを見ました。それを見た大勢の人々にとって,その映画は生々しい,また時には恐怖を抱かせるような仕方で核戦争の恐ろしい余波をいや応なしに考えさせるものとなりました。炎に包まれたきのこ雲,午後の空を突っ走る核ミサイル,黒焦げになった死体,蒸発して,X線の映像のようになってしまった男女,核の火球で目が見えなくなった子供,かつては可愛らしかったのに,毛が抜けてゆき,放射能を浴びて体じゅうにやけどを負った十代の女の子など,無気味な映像が大勢の視聴者の記憶にしみ込んでいます。
しかし,この映画の結果として大規模な反核抗議運動が起きるということはありませんでした。また,核を持つ超大国間の緊張も和らぐことはありませんでした。それでも,核による大破壊を生き残れるかどうか,その点を懸念する声は強まっているようです。人々はこの背筋の寒くなるような見込みについて,確かにこれまでよりも進んで話し合いに応じ,考えるようになっているようです。
ところがほんの数年前に,米国内で無作為に抽出された50人の人から成るグループに,「核戦争が起こると思うか」とか「核戦争が起こったらどうするか」といった質問が出されました。インタビューを担当した人は,そのような問題を話し合うことさえ気が進まないという驚くべき反応に遭遇しました。「それはわたしたちの心配すべきことではない。政治家に考えさせておけばよい」という一美容師の反応は,典型的なものといえました。人々は概して,研究者たちが“心的活動停止”と呼ぶもの,すなわち問題について考えることを全く拒否することによって,全地球的な大破壊の脅威に対処していたのです。
しかし,世界の緊張が高まるにつれ,感情を訓練して行なう離れ業のようなものを演じ,単にその脅威を見て見ぬふりをするのはいよいよ困難になっています。精神医学の名誉教授,ジェローム・フランクはこう述べています。「核兵器によって世界が破壊されるかもしれないという可能性は,大勢の人々の将来を文字通り切り断っている。青年期の人々の間では自殺が驚くほど増加しており,その多くは自分が社会に貢献する見込みがないと考えているのである」。
しかし,腕をこまねいて絶望感にひたっているのはご免だ,という人々が増えています。全地球的な災難は避けられないということを確信し,分別のある行動は一つ,すなわち生き残る<サバイブ>ための備えをすることしかない,と言う人々です。ですから,そのような人々は生存主義者<サバイバリスト>と呼ばれています。では,彼らはどんな人たちなのでしょうか。その人たちは絶滅に代わる道を提供していますか。
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生存主義者 ― 終わりのための備えができているか目ざめよ! 1984 | 11月22日
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生存主義者 ― 終わりのための備えができているか
「わたしは人々に都会から出て,小さな町に移り住むよう勧めています。世界中の文明が滅びに定められているからです」。興味をそそる一方で人々をおびえさせる,広まりつつある運動,つまり生存主義者の運動の一提唱者はそのように警告しました。その名が示すとおり,その人たちは,核,自然,社会あるいは経済などどの分野からもたらされようと,必ず臨むと思われる全地球的な大災害に生き残ることを決意している人々です。その人たちにとって災難がどこから臨むかは大きな問題ではありません。いかなる可能性に対しても備えをするからです。
「運命の日の後の生活」という無気味な題の付された本などは,それらの人たちに,「シェルター(避難壕),食糧の貯蔵,家庭医療の技術,生存心理学およびシェルター防衛などに関して啓発的な情報」を提供しています。「サバイブ(生き残る)」というような定期刊行物は,ライフル,凍結乾燥食品,戦闘服およびプレハブ式核シェルターなど,最新の生存用品の情報を提供して遅れを取らないでいられるようにしています。とはいえ,ここに挙げた用品は,US・ニューズ・アンド・ワールド・リポート誌が少し前に“新たな成長産業”と呼んだものを生み出した数々の製品のほんの一例にすぎません。生存主義者文化人の中には,“核ハルマゲドン”を快適に切り抜けるため地下マンションに投資した人さえいます。
間違ってはなりません。生存主義者は本気です。なるほど,多くの人にとって生存主義者たちの軍事演習や射撃訓練は無気味な幻想のように思えます。ライフ誌は最近,“国民生き残りゲーム”の人気が高まっていることを伝えました。そのゲームでは,戦闘服を着た参加者たちが森の中を行軍し,当たってもけがをしないような散弾銃を互いに向けて撃ちます。災難後のゲリラ戦のリハーサルです。これまでのところ,「このゲームは[米国の]38州に広まっている」とライフ誌は述べています。
子供っぽい戦争ごっこですか。ある人にとってはそうかもしれません。しかし,そのような演習を真面目なこととみなしている人々もいます。一人の生存主義者は,「事態が厳しくなると,人々は我々から物を盗むだろう。……そして,一塊のパンのために人を殺すだろう」と説明しています。
気違いか現実主義者か
それでも,生存主義者のことを気違いじみた過激派の創立メンバーのようにみなし,笑い飛ばそうという誘惑に駆られる人は少なくありませんが,結局のところ彼らはそれほど理性を失っているわけではないと考える人もいます。飢きん・犯罪・経済の崩壊,さらには社会秩序の破綻をさえ生みかねない,核戦争や人口過剰の脅威は,ノイローゼ患者の途方もない想像などではありません。これらの諸問題は専門家たちをさえ悩ませ,ひどく当惑させています。例えば,オークランド・スター紙によると,ワールドウォッチと呼ばれる研究団体は,「世界は天然資源の枯渇による経済危機の瀬戸際に立たされている」と断言する研究論文を最近出版しました。
“心的活動停止”を実践する人々とは異なり,生存主義者たちはこれらの恐れに立ち向かおうとします。この人たちの社会的また経済的な背景は様々であり,その運動は種々の哲学や手法により分かたれてはいますが,恐れというこの強力な共通要素で結ばれています。彼らはこの“体制”が機能を停止していると考えています。すなわち,政府や警察力,法廷,通貨制度は,ここ10年間の増大し続ける諸問題を解決するだけの力を全く備えていないというのです。そのために,生存主義者たちは自分に頼ることを選び,災害が臨んだ時に自分たちを救うものとして,事前の訓練により鍛えられて鋭くされた自らの進取の気象と能力に信頼を置いています。
実際的な方法か
しかし,核シェルター,凍結乾燥した食糧,金を蓄えておくことなどは,将来の生存を確実にする実際的な方法といえるでしょうか。実際の核戦争の際に,そうしたものはどれほど効果を発揮しますか。サイエンス誌に載せられた,「核戦争の長期に及ぶ生物学的影響」と題する記事の冒頭には次のように述べられています。「大規模な核戦争(放射エネルギーは5,000ないし1万メガトン)に関する最近の研究の推定によると,爆発そのものによる即死者は7億5,000万人になり,爆発,火災および放射能の相乗的な影響による死者は合計11億人ほどに上り,さらに医療を必要とする負傷者が約11億人出るとされている。それで,全人口の30ないし50%は核戦争の直接の死傷者になり得る」。
では,シェルターがたまたまこの直接の破壊を免れるような所に位置していたとしましょう。ニューズウィーク誌はこう予言しました。「最も優れたシェルターの中でさえ,腸チフスやコレラのような病気が猛威を振るう恐れがある。廃物の処理はお粗末で,医療は最低限のものになり,多くの死体は埋葬されるずっと前に腐敗するであろう。大抵のシェルターは暗くて寒く,外部との通信を切り断たれる。爆発による不規則な電磁波は無線発信機を破壊しかねない。すし詰め状態,パニック,不安などにより緊張が高まるであろう。後から来る人たちが汚染を広めることもあり,密閉された場所では急性の心理的ショックはほかの人に移りやすい」。この恐ろしい筋書きは単なる限定核戦争を描いたものなのです。
ヘレン・カルディコット博士は自著「核の狂気」の中でさらにこう述べています。「シェルターの中,あるいは田舎の辺ぴなところで生き残った人々は,人類にとって不可欠な生命維持システムのなくなった,完全に荒廃した世界に再び足を踏み入れることになろう」。生存者たちの子孫は恐るべき遺産を受け継ぐことになるでしょう。「爆発によって放出される大量の放射能を生殖器に浴びた結果,多くの人は生殖不能の状態に陥るであろう。流産や奇形児の生まれることが多くなり,優性および劣性の突然変異が非常に増加する」。それはいつまで続くのでしょうか。「その後ずっと」と,カルディコット博士は断言しています。
「核の冬: 複数の核爆発の及ぼす世界的な影響」と題する最近の研究論文は,さらに悲観的な情景を描き出しています。この報告の結論によると,限定核戦争の場合でさえ,それによって巻き起こされる大量の粉塵や煙は「天候に大きな影響 ― 幾週間にもわたる地表面での著しい暗黒,数か月間も続く氷点下の地表温度,全地球的な循環のパターンの大きな乱れ,および局地的な天候と,降水量の劇的な変化などに現われる ― を及ぼしかねない。どの季節でも厳しい“核の冬”になる」とされています。それと似た一研究の中で,科学者たちの一チームは次のような背筋の寒くなるような結論に達しました。『地上の動植物および微生物の大部分が絶滅する可能性もあるように思われ,人類そのものの絶滅も例外にすることはできない』。小説家のネビル・シュートが,核戦争の後には「生者が死者をうらやむであろう」と考えたのも不思議なことではありません。
「食うか食われるか」
ですから,生き残るためのトレーニングを積んでもそれが報われる可能性は薄いようです。しかし,科学者たちの予言が誇張されているという可能性があるにしても,やはり生存主義には致命的な弱点があります。それは,核戦争は現在知られているような政府や軍隊を終わらせるかもしれませんが,戦争の根本的な原因を消し去ることはないということです。聖書は現実的な見地に立ってこう述べています。「あなた方の間の争いはどこから,また戦いはどこから起こるのですか。それは次のものから起こるのではありませんか。つまり,あなた方の肢体の中で闘う,肉欲の快楽に対するあなた方の渇望からです」。(ヤコブ 4:1)自分の利己的な関心事を第一にするなら,必ず不和を生じさせることになります。
いま生存主義者たちを結びつけている思想は,世界的な大災厄によって物不足が生じた時にも,貪欲や利己心がその人たちの考えを支配することはないと言えるほど利他的な性質のものですか。クリスチャン・センチュリー誌は最近,“クリスチャンの”生存主義者の一グループのスポークスマンであるジェリー・ユーキンズの述べた,「我々はまず第一にクリスチャンであり,第二に生存主義者である」という言葉を引用しました。ユーキンズは,災難が臨む時,自分たちは(少なくとも最初は)キリスト教の原則を実践することに努めると言おうとしていたのです。そして,「我々はできる限り自分たちの持っている物を分かち合うであろう」と言葉を続けました。では,蓄えが底をついてきたらどうでしょうか。「我々はその人たちを殺す」と,ユーキンズ氏は語りました。「簡単なことだ。それは食うか食われるかの状況なのである」。
そのような恐怖の風潮の中にあっては,隠して蓄えておいた食糧や金は生存主義者に死刑を宣告するものとなるかもしれません。
古代の生存主義者たち
実際のところ,生存主義は少しも新しいものではありません。事実,生存主義者たちは西暦1世紀に存在したあるグループを思い起こさせます。そのグループはユダヤ人の熱心党の人々です。西暦60年代が終わりに近づくにつれ,ユダヤ人とその抑圧的なローマの支配者との間の敵意は発火点に達しようとしていました。宗教的な熱狂,地震のような自然の災害,食糧不足などはいずれも,現存する事物の体制の終わりが到来したのではないかという恐れの気持ちを駆り立てました。(マタイ 24:6-8)今日の生存主義者と同様,中には将来のために自分たちを強めようとする人もいました。ケスチウス・ガルス将軍配下のローマ軍がエルサレムに進軍してきた時,ユダヤ人の熱心党のある人々はマサダ市をどうにか陥れました。地上400㍍の岩山の要塞の中に,熱心党の人々は大量の武器と十分な量の食糧や水を蓄えていました。生存は保証されているように見えました。
しかし,ローマのティツス将軍が西暦70年にエルサレムを滅ぼし,残されたマサダはローマの攻撃の焦点となりました。熱心党の人々は7か月の長きにわたって持ちこたえました。しかし,ローマの工兵は巨大な斜道を築くのに成功し,それを使ってローマ軍の兵士たちは要塞に入ることができるようになりました。捕虜になれば奴隷として惨めな生活を送る結果になるのを知っていたので,マサダにいた960人の男女子供は集団自殺を遂げました。重装備を施した山頂の要塞に逃げ込むことにより生存を図ろうとしたその努力はむなしいものであることが明らかになりました。
ところが興味深いことに,そのような生存主義者たちの手段を用いることなく,この大破壊を生き延びた一群の人々がいたのです。
[6ページの拡大文]
『地上の動植物および微生物の大部分が絶滅する可能性もあるように思われ,人類そのものの絶滅も例外にすることはできない』
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生存主義者の思想は,物不足が生じた時にも,貪欲や利己心に支配されるようなものではない,と言えるか
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核シェルターを築き,食糧や金を蓄えることは,生き残るために備える道だろうか
[7ページの図版]
生き残るために武装してマサダに立てこもった熱心党の人々の努力は彼らを救うものとはならなかった
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生き残るための唯一の道目ざめよ! 1984 | 11月22日
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生き残るための唯一の道
「エルサレムが野営を張った軍隊に囲まれるのを見たなら,その時,その荒廃が近づいたことを知りなさい。その時,ユダヤにいる者は山に逃げはじめなさい」。(ルカ 21:20,21)イエス・キリストはご自分の弟子たちにそうお命じになりました。では,キリストの言葉に聞き従わなかった者たちはどうなりますか。イエスはこう予言されました。「人々は剣の刃に倒れ,捕らわれとなってあらゆる国民の中へ引かれてゆくでしょう。そしてエルサレムは……諸国民に踏みにじられるのです」― ルカ 21:24。
熱心党の人たちはイエスの言葉に不快感を覚えていたことでしょう。アブラム・L・サカルの著書,「ユダヤ人の歴史」によると,熱心党の人々は「自分たちの異教徒の主人を倒すためであればどんなことをも辞さない過激派」でした。逃げるという考えは,実際的ではないばかりか,もっとひどいことに,臆病なことに思えたことでしょう。そのため西暦66年に,これらのユダヤ人たちはローマの残虐な仕打ちに刺激されて,公然と反逆を起こしました。マサダがユダヤ人の反徒の手に落ちた後,ローマ軍はエルサレムを確保するために押し寄せました。その時エルサレムは「野営を張った軍隊に囲まれ」たのです。しかし,ローマの執政官代理ケスチウス・ガルスが不意にその軍勢を引き揚げたとき,エルサレムの住民にはイエスの助言に従って逃げるための機会が開かれました。3世紀の歴史家エウセビオスはこう述べています。「しかし,エルサレムの教会全体は神の啓示により命令を与えられており……同市から出て,ヨルダンのかなたにある,ペラという町に住んだ」。では,市内にとどまった人々はどうなったでしょうか。
西暦70年になって,ローマ軍はティツス将軍の指導の下に戻って来ました。ローマ軍は征服することを決意していたので,同市を封鎖しました。かつてはユダヤ人の反徒であったフラビウス・ヨセフスはその時ローマ軍に仕えており,エルサレムの城壁を巡り,むなしい戦いをやめるよう自分の民に懇願しました。「ローマ軍とだけではなく,神と戦っていることを悟りなさい」とヨセフスは叫びました。結果はどうでしたか。ヨセフス自身がこう述べています。「しかし,ヨセフスがこのように涙をもって大声で懇願したにもかかわらず,反乱に加わった者たちは従うことも,自分たちの道を変えるのが安全であるとみなすこともしなかった」。その結果,幾十万もの人々が飢えと剣によって死に,さらに幾万もの人々が引いてゆかれて,奴隷としてみじめな生活を送ることになったのです。しかし,クリスチャンはペラにいて危害を受けることなく,キリストの警告に従うことの祝福についてじっくり考えることができました。
今日,生き残る
エルサレムで起きた出来事は,わたしたちの時代に全地球的な規模で起きる事柄の小規模な例にすぎませんでした。しかし,この度危険にさらされているのは単に一都市の存続ではなく,世界的な事物の体制の存続なのです。―マタイ 24:21。
この世界的な災厄をもたらされるのは神ご自身です。しかし,どんな理由でそうされるのでしょうか。「地を破滅させている者たちを破滅に至らせる」ためです。(啓示 11:18)「地を形造られた方,それを造られた方」である神は,「それをいたずらに創造せず」,公害によってであれ,核による破壊によってであれ,人が地を破滅に至らせることをお許しにはなりません。(イザヤ 45:18)しかし,生存主義者たちが恐れる,人間による大変動を未然に防ぐには,神が介入してくださらなければなりません。それでもイエスは,「起きることが定まっているこれらのすべての事を逃れ」るのは可能であると言われました。―ルカ 21:36。
今日イエスの追随者たちは全地に散らばっているので,その人たちが1世紀のクリスチャンたちのようにある文字通りの場所に逃れることは不可能です。今日生き残れるかどうかは,ゼパニヤ 2章2,3節にある聖書の次の助言に従うかどうかにかかっています。「エホバの燃える怒りがあなた方に臨まないうち,エホバの怒りの日があなた方に臨まないうちに,地の柔和な者たち,神の司法上の定めを守り行なってきたすべての者たちよ,エホバを求めよ。義を求め,柔和を求めよ。恐らくあなた方はエホバの怒りの日に隠されるであろう」。聖書はさらに,「エホバの名を呼び求める者はみな安全に逃れることになる」と述べています。―ヨエル 2:32。
確かに,聖書翻訳の中にはこの聖句を,「すべて主の名を呼ぶ者は救われる」と訳出して,この聖句の意味をあいまいにしているものもあります。(口語訳)しかし,原語の本文の示すところによると,名前のない「主」に願い出る以上のことが求められています。多くの聖書の中で,詩編 83編18節のような聖句は,その「主」の固有のお名前がエホバであることをはっきりと示しています。(欽定訳,アメリカ標準訳)そのみ名を呼び求めることは,儀礼的にその名を用いる以上のことを意味しています。人は聖書を研究し,人格的存在者として神を知り,それによりエホバを「求め」なければなりません。(ヨハネ 17:3)正しい心の持ち主は,この知識により宇宙主権者としてのエホバの権威を敬い,神の規準に従い,他の人々に『神のみ名を明らかにする』点でイエスを見倣うよう促されます。―ヨハネ 17:6。
ですから,単に自分の選ぶ教会に通うというのは生き残る道ではありません。諸教会が神の固有のみ名を用いていないだけではなく,大抵の場合その使用に水を差すことまでし,神の律法を軽々しく扱っているのであれば,自分の選ぶ教会に通うことがどうして生き残る道になるでしょうか。「エホバを恐れる者のため,またそのみ名を思う者たちのため」の「覚えの書」を神はもっておられる,と預言者マラキが述べていることを思い起こしてください。(マラキ 3:16)キリスト教を奉じると唱える宗教団体すべての中で,神のみ名,エホバを自由に用い,その方とその方の約束に全幅の信頼を置き,成員にその方の証人となるよう大胆に勧めているのはどの団体でしょうか。(イザヤ 43:10)疑いもなく,その人たちは「エホバを求め」ています。彼らは来たるべき全世界的な大破壊を生き残るための唯一の確実な道を共に学ぶよう他の人々に勧めているのです。
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