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共産主義者はヱホバの証者を迫害しつづけるものみの塔 1956 | 11月15日
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ないため,栄養不足に苦しんでいる。
『(首相)グロトオールは,ドイツ民主共和国には信仰の故による迫害がない,としばしば言明した。しかし,もしそれが真実であるなら,自由の門は,遂にはヱホバの証者にも開かれねばならない。』
この迫害は東ドイツだけに限られているのでありません。そのことは,前のよりも二日後の1956年6月11日,別のベルリンの新聞マンディス・エコーに出た報告から分ります。頁一杯の『幾千人というヱホバの証者はシベリヤで苦しむ』との見出の下に,その報告は次のように述べていました。
『ベルリン(エイ・ピー)。週末に行われた西ベルリンの「ヱホバの証者」の大会のとき,ソヴェット連邦から戻つてきたばかりのメメルの一ドイツ人は,彼の宗派の幾千人という会員が,いまでもシベリヤの収容所にいる,と報じた。この人は,1951年にその信仰のために投獄された,と語つた。しかし,禁止令にもかかわらず,ヱホバの証者は収容所内でも自分たちの信仰を伝道し続けている。』
残忍で力のある共産主義の豹は,国内にいる平和愛好者のヱホバの証者に対して,なぜそのような残酷な処置を取るのでしようか。恐らく,ひとつの理由は,ヱホバの証者を釈放しても宣伝価値がない,ということでしよう。別の理由は,共産主義の豹が聖書の真理を恐れている,ということです。真理は,共産主義者たちの僞の宣伝よりもずつと力強いものです。さらに,ヱホバの証者は,ヱホバ神が最優先であつて,カイザルにはヱホバの求められないものだけが与えられる,という聖書の原則に従つています。共産主義こそ,絶対最高のものである,と共産主義は国民に無理強いに認めさせようとしています。
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台湾,沖繩,日本における会長の奉仕ものみの塔 1956 | 11月15日
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台湾,沖繩,日本における会長の奉仕
4月18日,水曜日の午後ノア,バリー,アダムスの3兄弟は,香港から台北まで飛行機旅行をしました。台北では,最近その市に任命された2人の宣教者と多数の台湾伝道者たちの出迎えをうけました。台湾の兄弟たちは,いまヱホバの証者に示されている台湾政府の寛容によろこんでいます。まつたく,崇拝の自由を抑圧する制限を取除き,ヱホバの御国宣明を自由に許可する政府は,賞讃に値します。台湾政府は中国の共産主義者に対して生きるか死ぬかの戦を続けていますが,しかし台湾のヱホバの証者たちは,神の御国は間もない中に共産主義や他の独裁支配を地からことごとく取除く,ということを人々に知らせて,人々に慰めを与えています。
4月19日は,台湾で初めて行われた神権的な大会の日でした。旅行者たち ― 2人の宣教者,3人の訪問者,そして他の2人は,朝早く起きました。山の彼方の大会会場に達するには,8時間かかるでしよう。先づ台北から30分間飛行機に乗つて花蓮に行きましたが,このとき,機上から台湾の有名な山岳地帯を見ることができました。1万4000フイート以上も高い山々の頂は,雪で覆われ,その裾は熱帯の植物や巨大な羊歯で取巻まれています。
花蓮に着いてから,今度はガソリン汽車に乗つて田舎の地方を通つて行きました。もう電気,近代施設,そして慰安というものはありません。この地方ではトラクターなどは用いられておらず,水牛がのたのたと田や汚い道を歩いています。農業の機械は,もつとも原始的なものです。台湾のヱホバの証者は,生計を立てて,1年に2度の米の収穫を得るため,夜明から夕方まで畠で働きます。最重要な御国奉仕の種播きと収獲の業をする時間を見出すためには,本当にたいへんな熱心が必要です。
兄弟たちは,やつと目的地,富源の村に着きました。田の稲は,上々の出来具合のようです。村は静かで平和に充ちており,昼の太陽はさんさんと照つていました。その地の伝道者の案内をうけて,兄弟たちは約15分歩いて御国会館に来ました。ものみの塔協会の業に対する禁止が取除かれてから,台湾では最近30の御国会館が設立されましたが,この御国会館はその一つなのです。竹と土でつくられ,屋根は藁ぶきですが,塵ひとつない程に清掃されていました。この御国会館の裏には,この大会のために特別につくられた新しい浸礼用のプールがありました。その大きさは,縦30フイート,横15フイートぐらいでした。清冽な山水の流れは,そのプールの片方に入り,他方から流れ出て近くの田に注がれています。1日間だけ開催されたこの大会の朝の部で,123人がこのプールで浸礼を受けた,と聞き旅行者たちはうれしく思いました。
浸礼を受けた人々の中には,多くの『山の人々』がいました。その50人はこの大会に出席していたのです。政府の規定によると,山の人々は危険なものたちと考えられるために,谷に住んでいる人は誰も山に入れません。しかし,いまから約18ヵ月前に,その中のひとりが谷に来て,ヱホバの証者と接し,神の御国について学びました。その人は山に戻つてから,出かけて行つて他の人が行けないところを伝道しました。人々はだんだんとその人の話に耳を傾けるようになり,今では80人位が交わりを持つようになつています。その中の40人以上は御国伝道者です。山の人々は,不道徳な生活と泥酔,喧嘩口論,ということで有名です。しかし,ヱホバの証者になつた人々は全く変化してしまい,今では模範的な清い生活をしているため,まわりの部落人たちは驚嘆しています。山の多くの人々が,台湾で行われたヱホバの証者の最初の大会に出席し得たことは,本当に良いことでした。
兄弟たちは御国会館で休息して昼食をとりましたが,そのとき大会は初めは近所の畠で行われる計画で準備がなされたということを知りました。しかし,大会の2日前になつて,その畠の持主であるカトリック信者は,契約を破棄したのです。兄弟たちは近くの場所を借りましたが,もの凄い豪雨のために道具の運搬はたいへん難しかつたとのことです。大会は『洗い流されて』しまうかのように見えました。しかし,兄弟たちは嵐の中でも働きつづけ,ついに,新しい場所で万事万端整いました。大会の朝にはあたかも兄弟たちの熱心な努力に対する是認の微笑であるかのように,太陽が明るく照り輝きました。
富源の大会
台湾の兄弟たちは,制度を上手に運営する人々です。この大会は,台湾における最初の大会でしたが,1953年のヤンキー野球場の大会にあつたものは,みなこの大会にもありました。実を言うと,台湾の兄弟たちは『躍進する新しい世の社会』の映画を見て,大会制度のことを知つたのです。『紛失品』係,救護係,区域係,その他のようにすべての係がつくられていました。簡易食事は,簡単でしかも清潔という点でまつたく驚嘆に値しました。焼土でつくられたカマドが1列につくられていて,米や肉が料理されました。そして流れ作業式な仕方で,兄弟たちはおむすびをつくり,次に肉を入れ,その次には大きな緑のバナナの葉の包みの中にそのおむすびを入れていました。それから,それらの包みは食事の時まで棚にのせて置かれました。食事の寄附は,兄弟たちが前以つて自発的に寄附していたため,寄附のできなかつた大会出席者たちも,みな列をつくつて自分の食事を順次に頂くことができたのです。
大会会場のつくり具合は,まつたく素晴らしいものでした。その場所は,谷の中でも一番深緑につつまれたところで,すぐ側では大きな山は空に聳えています。青々とした田,パパイヤ,バナナの樹,熱帯の棕櫚の木は兄弟たちをぐるりとり囲んでいました。会場には,ものみの塔のような形をした高い演壇がつくられ,熱帯の植物や花々で美しく飾られていました。大会の各係の設置されたところも,同じ熱帯の花々で飾られていたのです。会場は竹製のベンチで埋められ,これらの席に坐つていた幸福な人々も,まわりの場所にふさわしく,明るい衣服を身につけていました。日中,太陽は強く照りつけましたが,会場は色とりどりの美しい日傘や黒い雨傘で埋まつていました。台湾の30の会衆は,それぞれ会衆の名が記してある柱のまわりに坐つていたのです。台湾では,集会のときに男女が別々に坐るのが習慣です。男子がこちら側に坐つて女子が別の側に坐る,という具合です。台湾のヱホバの証者も,つい1年前まではこの習慣に従つてきました。しかし,この大会ではヱホバの証者はみな家族の群になつて坐つていました。なぜこの変化が行われたのですか。なぜなら,兄弟たちは『躍進する新しい世の社会』という映画を見たからです。画面で家族の群がいつしよになつているのを見て,兄弟たちは世界中の兄弟たちと同様なことをしよう,と思つたのです。それで,伝統はなくなりました。父,母,そして子供たちはみな一緒に坐つて大会を楽しみました。
午前中,兄弟たちは『専心の献身』についての講話をよろこんで聞きました。1600人が午前の部に出席していたのです。大会に遅刻した人は,ひとりもいません。大多数の兄弟たちは,南部から来た汽車に乗つて午前4時に到着していました。1600人は最初から終まで出席していたのです! 大会の開かれている時には,誰一人として,歩きまわらなかつたのです。子供でさえもじつとしていました。大会の行われているあいだ出席者は身じろぎもせずに謹聴していました。一晩中かかつて旅行したために,もし居眠りをし始めると,案内者はその人の耳をつねつて目を覚まさせ,話を謹聴させました。
ノア兄弟とその一行が午後2時に着いたとき,出席者全部は歌でもつて迎えました。楽器はありませんでしたが,しかし指揮者の指示に従つて全部の人は完全な調和の中に歌いました。これは東洋人のつくつた御国の歌です。台湾の兄弟たちは,栄光に輝くヱホバの御国の音信を,普通の人の歌える音楽に合わせたのです。特に心を打たれたのは,『迫害』の歌でした。兄弟たちは,この歌の励ましによつて,長年にわたる苦難の年を切り抜けることができたのです。まつたく,これはヱホバに献身している東洋人の心から迸り出た音楽であり,歌でありました。
午後2時15分に,ノア兄弟は『創造主の下にすべての人類をひとつとなす』の公開講演を始めました。その日の午後の他の講演もそうでしたが,英語から一つの東洋の言語に通訳し,それから今度はその地方の種族であるアミ族の言葉に通訳しなければなりませんでした。この地の謙遜な人々は,音信を良く理解しました。音信は,ヱホバの証者や,ヱホバの証者と共に集まつた多くの善意者の心に深く刻みこまれたのです。出席者合計は1808名でした。ほとんど村中全部の人が出席してノア兄弟の話を聞きました。
30分の休憩の後に続いて,ヱホバの奉仕についての実際的な三つの講演が,午後7時までずつと行われまし
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