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    ものみの塔 1959 | 1月1日
    • 名をたたえます。しかしわれわれがこのように喜んでささげることができても,わたしは何者でしよう。わたしの民は何でしよう。すべての物はあなたから出ます。われわれはあなたから受けて,あなたにささげたのです。』またパウロが自分のとつた行動と,クリスチャン奉仕者として,宣教者また使徒として,苦しみを耐えしのんできたことを詳しく話したのも,他の人々が自分と同じように行うよう励ますためのものだつたでしよう。彼は次のように言うことができました,『わたしがキリストにならう者であるように,あなたがたもわたしにならう者になりなさい。』― 歴代志上 29:3,4,13,14。コリント前 11:1。コリント後 6:3-10; 11:12-33,新口。

      偉大な師,神の御子は,人間の性質を見抜くまことに鋭い理解力を持つておられました。彼,は『心はよろずの物よりも偽るもので,はなはだ悪に染まつている。』だれがこれをよく知ることができようということをよく知つておられたのです。神の御言葉と,聖霊または活動力の助けによつて,イエス・キリストは人間の心を知ることが出来ました。―エレミヤ 17:9。

  • 『あなた方は教える者になりなさい』
    ものみの塔 1959 | 1月1日
    • 『あなた方は教える者になりなさい』

      『時間というものを考えてみると,あなた方は教える者となるべきであるのに,神の聖言の初歩の原理を最初から教える人を必要としている始末である。』― ヘブル 5:12,新世。

      1 (イ)今日の人間は,どんな種類の教訓者を必要としますか。(ロ)何処にそのような教訓者を見出すことができますか。なぜその方は最善の資格を備えていますか。

      たしかな成功の道を指示し得る人は誰ですか。どんな教訓者が,生命そのものの秘密を知つていますか。その役割を果し得る人はひとりもいません。しかし,人間がそのような教訓者を今ほど必要にしている時は,かつてないことでした。明日に何が起るかを知つていると真実に誇り得る人は,ひとりもいません。(シンゲン 27:1)生命の神秘を保ち,死の手を抑え得る人はひとりもいません。これらの事柄についての答えを得る為には,人間をつくつた御方に頼ることは理にかない,また緊急に必要なことであります。その御方は,人間が生きて成功を得るのに何を必要とするかを知つています。苦しみを受けていたヨブの忠実な友エリフも,真実の言葉を次のように述べました,『神はその力をもて大いなる事を為し給う。誰か良く彼のごとくに教えを垂れんや。』(ヨブ 36:22)神は将来に何があるかも御存知です。『われは神なり。我のほかに神なし。われは終りのことを始よりつげ,いまだ成らざることを昔よりつげ,わが謀略はかならず立つと言い,すべて我が喜ぶことを成さんと言えり。』(イザヤ 46:10,11)生命の源なる神は,生命の秘密を御存知です。『すべて生けるものの魂,およびすべて人の霊は彼の手の中にある。』― ヨブ 12:10,新世。

      2 ヨシユア記 1章8節にある成功を得る為の定則は,今日のクリスチャンにどう影響しますか。

      2 神の御言葉は人の道を照らし,人の従うべき道を指し示します。それですから,成功を求める人々は,ヨシユア記 1章8節にある神の指示に従わねばなりません,『この律法の書を汝の口より離すべからず,夜も昼もこれを念いてその中に録したる所をことごとく守りて行え。さらば汝の道さいわいを得,なんじ必らず勝利を得べし。』ヨシユアは,『律法の書』に注意を払うようにとさとされました。その『律法の書』は,来るべき将来の大きな事柄の予言的な型をつくり上げ,私たちを教える為に書かれたものです。それらの予言的な型に思いをめぐらし,そしてその予言的な型が指し示したイエス・キリストをしつかり見つめるとき,私たちはヱホバの恵みにみちびく道,すなわち成功の道を私たちの目前にはつきり置くことになります。―ガラテヤ 3:24。ヘブル 12:2。

      3 多くの人は,何処に指示を求めますか。なぜそうすることは賢明ではありませんか。

      3 大多数の人々は,聖書の与える助言に耳を傾けようとしません。或る人々は,人類の諸問題には解決がないという絶望の見方を取取つています。他の人々は,世俗的に賢いビルダデと同じ心持です。彼はヨブを慰める者と自称した者で,人間の哲学に依頼しました。『請う,なんじ過ぎにし代の人に問え,彼らの父祖の尋ね極みし所のことを学べ。彼らなんじを教え,汝をさとし,言葉をその心より出さざらんや。』(ヨブ 8:8,10)彼らは人間の言伝えを重んじて,神の言葉を排斥しました。彼らは欺きの言葉を述べて耳をくすぐる教訓者だけによろこびを見出している故に,ヱホバはこう述べています,『「私は知者の知恵を滅ぼし,賢い者の賢さをむなしいものにする。」……この世は,自分の知恵によつて神を認めるに至らなかつた。……そこで神は,宣教の愚かさによつて信じる者を救うこととされたのである。』― コリント前 1:19,21,新口。マルコ 7:8。テモテ後 4:3,4。

      4,5 私たちがヱホバから教えを受ける為には,私たちはどんな態度を示さねばなりませんか。

      4 ヱホバ神から教えを受ける為には,ちようど子供が自分の愛している父親,そして深く尊敬を払つている父親のところに来るごとく,私たちもヱホバ神のところに来なければなりません。イエスは,そのような仕方でヱホバ神に近づきなさいと,私たちに教えました。『天にいますわれらの父よ,御名があがめられますように。』(マタイ 6:9,新口)私たちは,彼の教えを求めるようにとすすめられています。『もしあなた方の中の誰かが智恵に欠けているならば,その人をして神に求めさせなさい。というのは神はすべての者に物惜しみせず,またとがめずに与えられるからである。そして,それはその人に与えられるであろう。しかし疑わないで信仰をもつて願い求めなさい。疑う者は,風に吹かれて浪立つ海の浪のようである。全くすべてのものをヱホバからいただけると考えてはならない。その者は道の定まらぬ優柔不断な者である。』(ヤコブ 1:5-8,新世)古い世の疑いを投げ捨てる人々,そして人は神の道を疑問してはならないと記憶する人々は,彼らの求める教訓を受けるでしよう。疑う者,嘲笑する者,そして疑惑を持つ人々は,ヱホバから何も頂きません。智恵も頂かず,またヱホバの新しい世での生命も頂きません。

      5 詩篇を書いた一人ダビデは,大いなる教訓者ヱホバ神から学ぶ人々の態度について次のごとく良く述べました,『謙るものを正義にみちびきたまわん。その道をへりくだる者にしめしたまわん。ヱホバをおそるる者はたれなるか。これにその選ぶべき道を示し給わん。』(詩 25:9,12)彼らの願いは,詩篇 143篇10節に述べられています,『なんじはわが神なり。我に聖旨を行うことを教え給え。恵ふかき聖霊をもて我を平らかなる国にみちびき給え。』彼らは謙遜で従順に教えを受けます。彼らは信仰を持つており,ヱホバを神と認めます。彼らは神の道は正しいと確信しています。そのような正しい見解を持つ彼らは,ヱホバ神から学ぶことができます。

      神の僕たちを通して来る教訓

      6 ヱホバが御自分の民を教えるという取り極めの中で,アダムとノアはどのように奉仕しましたか。

      6 ヱホバは遙か昔の時から教えをもたらす一つの径路を用いました。教訓はその径路を通して与えられたのです。人間アダムは神の最初の予言者で,ヱホバ神から頂いた言葉を自分の妻エバに伝えました。神はノアを教える者として用いました。ノアは自分の息子たちの若い時から,神への信仰と恐れを教え込むのになみなみならぬ注意を払つたにちがいありません。それでその結果,息子たちとその妻たちは神に受け入れられたのです。大洪水より約50年前に,主なる神は彼らも,保護されるであろうと明確に述べられました。ヱホバは世が終るということをノアに告げただけでなく,世の滅びを生き残るのにはどのような手段を採るべきかをも告げました。ノアは自分の息子たちに同様な明確な指示を与えました。彼らがノアを神に用いられた者として受け入れ,ノアに従い,そしてノアと共々に方船に入つたことにより,そのときの不敬虔な世が滅んだときにも彼らは保護されたのです。―創世 6:13–7:7。

      7 モーセの教えを特別に効果的にせしめた事柄のいくつかは何ですか。

      7 イスラエル人をエジプトの奴隷状態から救い出して神の自由の崇拝にみちびくために,モーセはつかわされました。そのとき,ヱホバは彼にこう告げました,『我……なんじの言うべきことを教えん。』(出エジプト 4:12)神の教えを受けたモーセは,特定な事柄が教訓の深い印象を生ぜしめると知つていました。その理由の故に,モーセは自分の伝えた知らせの価値をたしかに示したのです,『今イスラエルよ,我が汝らに教うる法度と律法を聴きてこれを行え。然せば汝らは生ることを得,なんじらの先祖の神ヱホバの汝らにたまう地に入りて之を産業となすを得べし。』(申命 4:1)モーセは,ヱホバに従えと彼らに語りつづけました,そしてそのような正しい道を行うことから得る益と,バアルペオルの不名誉な,神を冒涜する崇拝を行つたために滅ぼされた者たちの運命を対照しました。彼は神の律法を人々に告げる以上のことをしました。彼はそれを説明し,その価値と実例を引いて説き,そして強調の為には特別重要な事柄を繰り返して述べました。

      8 どんな群れはヱホバの律法をイスラエル人に定期的に教えましたか。彼らはどのように自分の業をいたしましたか。

      8 神の言葉を教える特権は,モーセだけが持つたのではありません。モーセは,死ぬ以前にイスラエルの国民に告別の指示を与えました。その中で彼はレビ人に特別な祝福を与えて,次のように述べています,『彼らはなんじの式例をヤコブに教え,なんじの律法をイスラエルに教え。』(申命 33:10)それから幾年か後でも,彼らはその任命の仕事を忠実に守り行つていました,『彼らはヱホバの律法の書を携え,ユダにおいて教えをなし,ユダの邑々をことごとく行きめぐりて民を教えたり。』(歴代志略下 17:9)彼らはその当時の手元にあつた聖書を用いて,自分たちの教えの基礎にしました。そして,聖書の言葉を人々に告げるとか,又は聖書の一部分を読むだけでは,自分に任された仕事を達成したとは感じなかつたのです。ずつと後に彼らがバビロンの捕われから戻つた後でも,彼らは教えをなしていたと述べられています。そして,彼らは読むだけでなく,『かつその意を解き明してその読む所をこれに了らしむ。』彼らは教える者でした。―ネヘミヤ 8:8。

      9 イエスはどんな種類の教訓者でしたか。彼は神の民に教える取り極めに,どんな変化を生ぜしめましたか。

      9 西暦29年の秋には,別の教訓者がパレスチナに現われました。この人はレビ人ではなく,ユダの王の支族の者でした。彼は神の初期の僕たちの手本に従い,人々のところに出かけて行つたのです。自分のところに人々の来ることを要求しませんでした。『イエスは,附近の村々を巡りあるいて教えられた。』(マルコ 6:6,新口)イエスの言葉を聞いた人々は,その敵でさえも,イエスの如く語つた人はいままでにいないと言いました。ユダヤ人の支配者であるニコデモは次のように認めました,『先生,私たちはあなたが神から来られた教師であることを知つています。神が御一緒でないなら,あなたがなさつておられるようなしるしは,だれにもできはしません。』(ヨハネ 3:2,新口)イエス御自身も,自分から話しているのではないと明白に示しました。イエスは神の民を教えるために,神によつて用いられた者です。イエスと共に教えの業の分野に新しいものが開かれました。教える特権はレビの支族とか,特別に任命された他の人々だけに限られなくなりました。漁夫も税金取立人も,イエスに召されて,この仕事のために教訓を受けました。彼らは教える者になるべきでした。それで,彼らはイエスと共に旅行をなし,彼から学んだのです。(ルカ 8:1。ヨハネ 14:10)一般人を教える者である彼らは,一般人に対する対処の仕方や,音信を明白に伝える仕方,および誠実な気持で尋ねる人々の質問に答える仕方を学ばねばなりませんでした。今までのこの地上に存在した最大の教師から学ぶという,すばらしい機会を彼らは持つていました。

      教える業の規模

      10 どんな意味で,イエスの弟子たちはイエスの為した業よりも大きな業をいたしますか。

      10 イエスのような教訓者は地上にかつて存在したことがありません。しかし,彼は次のように語りました,『私を信じる者は,また私のしているわざをするであろう。そればかりか,もつと大きいわざをするであろう。私が父のみもとに行くからである。』(ヨハネ 14:12,新口)これは真実のことです,なぜならイエスの言われたごとく『私が父のみもとに行き』,地上における彼の業は,終りに近づいていました。しかし,彼の弟子たちは長年のあいだ訓練を受けて来た仕事を行いつづけることができるでしよう。そして,更に広い分野で業をすることができるでしよう。

      11 使徒行伝 1章8節にある予言は,どのように成就されましたか。

      11 イエスは弟子たちにこう告げました,『ただ,聖霊があなた方にくだる時,あなた方は力を受けて,エルサレム,ユダヤとサマリヤの全土,さらに地のはてまで私の証人となるであろう。』(使行 1:8,新口)聖霊が彼らの上に注がれて油そそいだ時,彼らはイエスの言つたごとくエルサレムで宣教を始めました。多くの国々から来た人々で,エルサレムに集つていた人々は,自分たちの言語で良いたよりを聞く機会を持ちました。それから程無くステパノが石打ちされて殺されたとき,『エルサレムの会衆に対して大迫害が起り,使徒以外の者はことごとく,ユダとサマリヤの地方に散らされて行つた。さて,散らされた人々は,御言葉の良いたよりを宣べ伝えながら,めぐり歩いた。』(使行 8:1,4,新世)西暦36年,主なる神がペテロを異邦人なるコルネリオとその家族のところに遣わして真理を教えたとき,業は一層に拡大されました。その後の20年間かそれ以上の年月のあいだ,使徒パウロは地中海の周辺の国々に道を開拓する仕事をしました。今日,164の国々で,『地のはてまで』御国の良いたよりはイエスのいましめに従つて伝道されています。

      12 今日どんな径路を通して神権的な教育は行われていますか。そして,聖句はこのことをどのように示していますか。

      12 まだ100年も経つていない私たちの時代に,ヱホバは御自分の制度をつくり上げる地上の人々を用いて善意者を教えています。ヱホバの取り極めによると,『会衆を通して,神の多種多様にわたる智恵』は知られます。(エペソ 3:10,新世)神の御霊を受けた会衆のこれらの成員は,『生ける石となつて,霊の家に築き上げられ,聖なる祭司』となります。(ペテロ前 2:5,新口)全国民の善意者は,これは生命を得る為の要求を教える神の御準備であると認めるに至つています。その数がますます増加する彼らは,次のように言います,『いざわれらヱホバの山に登り,ヤコブの神の家に行かん。神われらにその道を教え給わん。われらその路を歩むべしと。そは法律はシオンより出で,ヱホバの言葉はエルサレムより出べければなり。』(イザヤ 2:3)ここで,彼らはキリストの模範に従い,彼のいましめに従うよう教えられています。御自分の民に告げたイエスの次のいましめに,自分たちも含まれていると彼らは学びます,『それ故に,あなた方は行つて,すべての国民を弟子として,父と子と聖霊との名によつて,彼らにバプテスマを施し,あなた方に命じておいた一切のことを守るように教えよ。見よ,私は世の終りまで,いつもあなた方と共にいるのである。』(マタイ 28:19,20,新口)たしかに,この組織制度の終りにあたる今,彼らはイエスの命じた事柄を教える者にならねばならぬと,学びます。

      教える者になるための訓練

      13 教える者の隊伍は拡大されると,使徒パウロはどのように示しましたか。今日,誰がそのような業をしていますか。

      13 他の人々を教えるべきだと人々に告げるだけでは十分でありません。その仕事を十分良く為し行うためには,その人々を正しく教えねばなりません。パウロはテモテを宣教の業に連れて行くことにより,そのような訓練をテモテに与えました。後日,パウロは忠実なテモテに手紙を書き送り,そのクリスチャンとしての進歩をつづけ,是非行わねばならぬ教える業に他の者を訓練するよう,特に注意を払いなさいと励ましました。『そこで,私の子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによつて,強くなりなさい。そして,あなたが多くの証人の前で私から聞いたことを,さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に,ゆだねなさい。』(テモテ後 2:1,2,新口)今日,テモテの為した業と同じような業をしている協会は,真理を教える者になるよう他の者に訓練を与えつづけて来ました。

      14,15 すべての者を教える者にならせる為に協会のつくつた取り極めのいくらかは何ですか。それぞれの御準備は,その目的にどう貢献していますか。

      14 協会は,『時間というものを考えてみると,あなた方は教える者となるべきである。』という助言に良く気をつけています。そして,すべての人を援助してそのクリスチャン円熟の程度に達せしめるための定期的な取り極めをつくつています。(ヘブル 5:12,新世)各地方の監督は,このプログラム内で重要な役割を保つ故,各監督に対する聖書的な要求は,彼が『教える資格を持つ』ということです。(テモテ前 3:2,新世)全地にある1万6883の会衆で,協会は聖書といつしよに『ものみの塔』雑誌の記事を定期的に研究する取り極めを設けました。それは,教える業にすべての人々をおくらせないものです。研究すべきところが研究されるだけでなく,出席している人々は註解を述べ,また他の人の註解をも聞きます。このことは,彼らに他の者を教える為の備えを与えます。御自分の民を教えるヱホバの径路を真実に認識している献身者や,他の善意者は,どんなことがあろうとこの集会の一つをも欠かすまいと思います。―ヘブル 10:25。

      15 それから毎週1度の宣教学校があります。教える者とは,一時にひとりの人または多ぜいの人に語ろうとも,ともかく話をする人です。また参考の書物から資料を掘り出すことができねばなりません。これらの事柄を良く行うことは,宣教学校で学びます。奉仕会は,得た知識の実際の使用について助言を与えます。そして,その後には野外奉仕における円熟した奉仕者によつて実際の訓練を受けます。一般公衆の為の教訓的な聖書の話にも,証者たちは熱心に出席します。聖書の予言と現代の世界の出来事との関係,および現代生活の諸問題に対するクリスチャン原則の適用を学び証者は強められます。『すべての種類の人々』を教え得る為には,そのような知識を自由に駆使できねばなりません。毎週の会衆の書籍研究は『ものみの塔』研究の型に従つて司会されます。しかし,大抵の場合は『ものみの塔』よりも遙かに小さな群であつて,どれ丈研究せねばならぬという定まつた量がありませんから,研究する諸点についてもつと綿密に討議することができます。これに加えて巡回,地域,国家,そして国際大会があります。家庭で『目ざめよ!』誌を定期的に読むことにより,広い範囲の知識を得ることを考えてごらんなさい。神権制度は,神の民を援助して資格ある教訓者にならせよという聖書の助言を心に銘記しましたか。まさしく,然り!であります。

      家庭教育

      16,17 家族は神権的な教育という分野でどんな役割を果しますか。これに対する必要性は,イスラエル人にどう強調されましたか。

      16 しかし,会衆は新世社会内の教育を施す家庭と入れ代つてはいません。また教育の中心地を省くこともできません。両方とも新しい世の教育制度の重要な部分です。両親は自分の子供たちを一日中教える者です。良く取り極められたクリスチャン訓練のプログラムを家庭で行うとき,家族の人々やまた共に交際をなすすべての人々は,その有益な結果を楽しみます。

      17 子供たちを教えるという両親の責任は,イスラエル人がヨルダン河を渡つて約束の地に入る前に,心に深く銘記させられました。申命記 4:9,10節にその助言が録されています,『なんじ深く自らつつしみ,なんじの心を善く守れ,おそらくは汝その目に観たることを忘れん。恐らくは汝らの生き存うる日の中に,それらのこと汝の心を離れん。なんじそれらのことを汝の子,汝の孫に教えよ,汝がホレブにおいて,汝の神ヱホバの前に立てる日に,ヱホバわれに言いたまいけらく,我ために民を集めよ。我これにわが言葉を聞かしめ,これをしてその世に存うる日の間,我をおそるることを学ばせ,またその子女を教うることを為さしめんとす。』また第6章では,次のことに留意するよう注意されています,『つとめて汝の子供に教え,家に坐する時も,路を歩む時も,寝る時も起る時も,これを語るべし。』そして第11章では『これを汝らの子供に教えよ』と告げられています。それが重要であつたために,モーセはその事柄を数度述べたのです。

      18 良く組織されたクリスチャンの家庭では,クリスチャン教育のどんな定期的なプログラムがありますか。

      18 良く組織されたクリスチャン家庭でなされる家庭教育の一プログラムは,英文の年鑑か,あるいは他の言語の『ものみの塔』に出ている聖句を,定期的に毎日研究することです。父親が全家族の論議をみちびいて,家族の各人に論議に加わる機会を与えることは一番良いことです。しかし,両親の片方が真理に入つておらず,その論議に参加しなくても,信者はこの準備から子供たちが毎日の益を得るように取り計います。更に又,両親が1週間に1時間かそれ以上の時間を割いて,子供たちと定期的な家庭聖書研究を司会するとき,それは子供たちの霊的な必要物に対して深い関心を示すことになります。他の人々の家庭に行つて,その家の人々に聖書を教えるための時間を取ります。それなら,自分自身の家族の者に対して,同じ奉仕をするのは如何ですか。それは他の野外奉仕と同じく重要なものです。そして,まだ献身していない自分の子供たちに定期的な研究を司会することは,一つの家庭聖書研究として会衆に報告することができます。

      19 教える者である両親は,どんな性質を自分の子供たちにつちかおうと努めるべきですか。それには,どんな益がともないますか。

      19 もちろん,子供たちが成長するにつれて,他の多くの事柄をも教えねばなりません。例えば,他の人々に対する敬意です。家庭にいる時の子供から敬意を要求するなら,家庭の外にあつて敬意を持つことは自然のものです。両親自身が敬意を払うということを行うなら,子供たちは見ならいをする良い手本を持ちます。(エペソ 6:1-3。テモテ前 5:17)信頼性は重要なものです。子供たちが品物を使用した後とか,自分に与えられた仕事を為し終えた後に,両親がそれらの品物を投げ散らかすなら,子供たちは信頼性というものを学びません。責任を引き受けるように両親が子供を教えるとき,その結果は極めて幸福なものです。(マタイ 25:14-30)信頼の置ける仕方で考え,正しい決定をつくる仕方を教えることは,良いことです。子供たちと事柄を論じ合いなさい。正しい行に導くクリスチャン原則,悪行をするときに身に及ぶ害,そして正しい行の後に得られる祝福を子供たちの心に印象づけなさい。(エレミヤ 10:23。シンゲン 3:5,6)『これをしなさい!』とか『それをしてはいけません!』と命ずるだけでは,その目標を達成しません。これらの性質や他の多くの性質を正しく発展せしめることは,体の正常な発育と同じ程に大切なものです。両親は,教えを施すという重要な役割りを委ねられています。

      20 新世社会内の誰が『教える者になるべき』ですか。

      20 新世社会内のすべての者は,ヱホバ神とキリスト・イエスを大いなる教訓者,および彼らを永遠の生命と成功に導く方と仰ぎ見ます。この教訓者たちの述べておられる霊感のさとし,『あなた方は教える者になるべきである』を彼らは心に銘記します。両親であろうと子供であろうと,宣教に全時間を費そうと又は一部の時間を費そうと,監督であろうとなかろうと,彼らは自分たちの参加し得る教えの業のあることを知つています。そして,今はそれを行う時なのです。

  • 善意者を教える
    ものみの塔 1959 | 1月1日
    • 善意者を教える

      『それ故に,あなた方は行つて,すべての国民を弟子として,あなた方に命じておいたいつさいのことを守るように教えよ。』― マタイ 28:19,20,新口。

      1 (イ)古い世の教育制度の顕著な失敗は何ですか。(ロ)古い世と共々に滅びるのを防ぐ為,善意者はどんな手段を採つていますか。

      この世は不適当な教育をしている為,ハルマゲドンの戦のときに生命を失うでしよう。学校が十分の数の科学者や技術者を産出し得なかつた為に,永遠の安全が脅かされているのではありません。彼らは神を恐れることを教えないために,滅亡を受けるのです。ホセア書 4章6節の言葉は,昔のイスラエルに適用されるだけでなく,現代のキリスト教国にも適用されます,『我が民は知識なきによりて亡さる……なんじ己が神の律法を忘るるによりて,我もなんじの子らを忘れん。』しかし,幾十万という善意者は,ヱホバの新世社会に頼ることにより,より高い源からの教育を受けたいという願望を表わし示しています。彼らは『我ら汝らと共に行くべし。そは,我ら神の汝らと共にいますを聞きたればなり。』と言います。彼らは学びたいと欲します。彼らに教えられる事柄は,「イエスの命じた事柄です。」そして,彼らを教える一番効果的な方法は,イエスと使徒たちの為した方法の中に見られます。―ゼカリヤ 8:23。

      イエスの教え

      2 イエスの教えた顕著な事柄のいくらかは何ですか。

      2 簡単に言つて,いつたいイエスは何を教えましたか。先ず,彼は御父なるヱホバについての真理の証をなし,彼を崇め,彼の御名を知らせる為に来ました。(ヨハネ 17:4,26; 18:37)イエスは神の御国に大きな強調を置きました。人々は神の御国を祈り求め,確信を置かねばなりません。彼は御国を第一に求めるように弟子たちを教えました。(マタイ 6:10,33)彼らは救いをもたらす神の御準備について学びました。愛と謙遜の必要は,彼らの心に銘記されました。信仰の業によつて信仰を表明し,真理を教える者になるようにと,彼は彼らを教えました。そして,聖書に対する信仰を持つと共に,他の人々を援助して聖書への信仰を持たせるようにと,彼は教えました。

      3 私たちがイエスの教えた方法に従うなら,どんな結果が生じますか。

      3 イエスの教えた方法を注意深く調べる時,私たち自身の教える能力は改善し,宣教における私たちの産出性は増加するでしよう。すべての人が私たちの言葉に耳を傾けると期待すべきではありません。すべての人がイエスの言葉に耳を傾けたわけではないのです。しかし,羊は彼の声を認めて,正しい羊飼なるイエスの後にしたがいました。私たちがイエスの行つた事柄を教え,またイエスの行つた仕方で教えるなら,羊は私たちを通しても正しい羊飼の声を認めることができるでしよう。そして,熱心に向を変え,私たちに従わず,彼に従うでしよう。―ヨハネ 10:16。

      4,5 (イ)伝道することと教えることとの相違は何ですか。(ロ)御父についてのどんな事柄をイエスは弟子たちに教えましたか。

      4 他の人に告げること,つまり伝道することと,人を教える,つまり人を援助して理解を得させ,信じさせることとは全く違う事柄です。イエスは御父について弟子たちに忍耐づよく教えました。なぜなら,御父についての知識を採り入れることは生命を意味すると知つていたからです。『ヱホバを畏るることは,智恵の根本なり。聖者を知るは,聡明なり。』(シンゲン 9:10)彼らがヱホバを知つてヱホバに対する正しい恐れを持つとき,智恵を示します。彼らは学んだ事柄について何を為すべきかを知ります。なぜなら,智恵とは知識を用いる能力だからです。

      5 イエスは,御父に祈りを捧げるよう彼らに告げただけでなく,その仕方をも示しました。(マタイ 6:5-15)彼は神に依頼するよう,そして天の御父からの御準備として生命を支える事柄を受け入れるよう彼らに教えました。(マタイ 6:25-34)彼は聖書から引用し,また聖書を説明することにより,神の言葉なる聖書に対する彼らの確信を建て起しました。或る都市とか或る山だけに神の崇拝を限定することは,悪いとイエスはサマリヤの女に説明しました,なぜなら『神は霊であるから,礼拝をする者も,霊とまことをもつて礼拝すべきである。』(ヨハネ 4:24,新口)神に対する人間の関係から判断して,人間の業は自己を高めるためになされるべきでなく,神を賛美する為になされるのが正しいと,イエスは指摘されました。『そのように,あなた方の光を人々の前に輝かし,そして,人々があなた方の良い行いを見て,天にいますあなた方の父をあがめるようにしなさい。』(マタイ 5:16,新口)イエスは御父を崇めるため,そして善意者を援助して御父との関係を悟らせる為に来ました。それでこれらの諸点が弟子たちの思いと心に深く刻みつけられるよう念には念を押されたのです。

      6 「御国を第一に求めよ」という意味を示す為に,イエスはどんなたとえ話を用いましたか。

      6 「神の御国を第一に求めなさい。」それは言うには易しいものです。しかし,その意味が理解され,かつ聴く人の生命を支配するような仕方で,その点を表現するには,どうすれば良いですか。学ぶべき事柄を聞く人の生活とか,毎日の経験および聞く人の欲求とか習慣から例証するなら,その事柄は極めて簡単に理解されると,イエスは知つていました。彼の話を聞く者は,その話の事柄を光景に想い浮かべることができたからです。イエスは,その御国に対する熱烈な欲求を,丁度土の中に埋められた宝を見つけた人が,その地所を買うために持ち物全部を売つてしまう気持になぞらえました。(マタイ 13:44)イエスは,御国の力を持つて臨在いたします。その臨在を示すしるしを見分ける能力は,季節の変りを見得る人間の能力に比較されました。人は学ぶ気持があるなら学ぶことができます。(マタイ 24:32,33)御国に来るようにとの招待に対する感謝の不足は,婚姻の御馳走に招かれた人々の無関心な態度で説明されました。これらの人々は,王によつて招待されましたが,他の事柄に専念していて,出席を断つたのです。支配者に対して尊敬を示さぬその返答により,彼らは罰を受けました。―マタイ 22:1-14。

      7 偽りの教職者たちに対してイエスは,どのように警告し,またすべての者が御国を相続しないことをどのように示しましたか。

      7 明らかに分ることですが,すべての人は御国を相続するわけではありません。イエスはその点を理解させる為に,二人の息子の態度を引合に出されました。片方は表て向きには父親に敬意を表していましたが,従いませんでした。他の一人は,最初父親の言いつけ通りすることを渋つていましたが,その間ちがいを悔い改めて従うようになりました。『二人の中どちらが父の望みどおりにしたか。』とイエスは問われ,『あとの者です』と彼らは言いました。表て向きは義者らしく見える宗教指導者たちは,洗礼者ヨハネの教えに答え応じなかつたが,以前は神の言葉に答え応じなかつた罪人たちは悔い改めていまは御国に入れるようになつた,という論議に対するなんと強力な紹介の言葉でしよう!(マタイ 21:28-32)偽わりの宗教指導者たちのところに行つて,霊的な食物を求めるのは望ましくないことを示す為に,彼は偽りの宗教指導者たちを汚い皿にたとえられました。汚い皿からは誰も食べたいとは思わないでしよう。イエスの言われたように,たしかに彼らは表てむきは『白く塗られた墓』のごとく,良く見えます。しかし,誰もその内部の腐敗の一部になりたいとは欲しません。(マタイ 23:25-28)漁夫の網から取り捨てられる魚という話から,他の人々はその点がもつと良く理解できるでしよう。それで,イエスは曳網のたとえ話を用いました。(マタイ 13:47-50)そのような適切なたとえ話により,イエスは聞く者の心に音信を生き生きとしたものにしたのです。

      8 どのような方法を用いることにより,イエスはヱホバの救いの手段を受け入れることを,心にひびかせるようにしましたか。

      8 彼らが学ばねばならぬ別の点とは,神はイエスを通して救いを施されるということです。その考えはすべての人に受け入れられず,多数の人にとつてイエスは『つまづきの石,妨げの岩』でした。(ペテロ前 2:8)しかし,イエスはその事柄を極めて巧みに提出されたため,聞く者の気持にピンと響き,かくしてその人の永遠の祝福をもたらすことになりました。毎日,井戸から水を汲み出すという辛い仕事をしていたサマリヤの女に対しては,イエスはその毎日の仕事と信仰の恩恵とを結びつけました。『「私が与える水を飲む者は,いつまでも,かわくことがないばかりか,私が与える水は,その人の中で泉となり,永遠の生命に至る水が,わき上るであろう。」女はイエスに言った,「主よ,私がかわくことがなく,また,ここにくみにこなくてもよいように,その水を私に下さい。」』(ヨハネ 4:14,15,新口)彼女は興味を持ちました。そしてイエスは更に説明をいたしました。イエスに反対した他の者たちに対しては,彼はなかなか忘れることのできない事を描写しました。彼らがイエスを拒絶したことは,ぶどう園を栽培していた者の不正な行いに,比較されています。それらの者たちは所有主に支払うべき物を支払わず,その事柄を調べる為に遣わされた所有主の息子を殺す事すらしたのです。―ルカ 20:9-18。

      9 どのように,そしてなぜ彼は愛とけんそんを彼らに教えましたか。

      9 新しい世の生命を得る為に,愛と謙遜はぜつたい必要であるとイエスは知つていました。それらのものを得る為には,心の教育が必要です。それらのものの表現を見ることによつて一番良く学べるのです。それで,イエスはヱホバが彼らの上に注がれた無数の愛の表現に彼らの注意を惹きました。彼らは又,イエスの態度と宣教の中に,彼の教えた者たちに対して感じた『やさしい愛情』の中に,天の御父に捧げられた彼の祈りの中に,またイエスが彼らの足を洗われたとき,そして人類の為に自分の生命をよろこんで捨てられたとき,愛とけんそんを目で見ることができました。見聞きした事柄を回想するとき,その教えは彼らの心に深く入り,心を柔くし,心に反応をなさしめたのです。『私たちが愛し合うのは,神がまず私たちを愛して下さつたからである。』― マタイ 9:36。ヨハネ第一書 4:19,新口。

      10 イエスの宣教記録の中には反論についてのどんなすばらしい例が見出されますか。

      10 イエスが弟子たちを遣わされたとき,その仕事の為し方について注意深い指示を与えました。彼は何を言い,何を為すべきかを告げました。彼は,彼らの会う反対について弟子たちに準備せしめ,そして彼らの持つすばらしい祝福を銘記せしめました。(マタイ 10:1-28)教えるということは,善意者に真理を提供するだけでなく,敵共の不誠実な攻撃をしりぞけることであると,彼らは知つていました。彼らはイエスを観察している中,ぶつかつた状況に対してイエスがどのように取り扱われたかを学びました。彼の立場は強いものでした。彼は真理を持つていました。彼の論議の簡潔さと力強さの例は,マタイ伝 9章11-13節に見出されます。パリサイ人たちは,『なぜ,あなた方の先生は,取税人や罪人などと食事を共にするのか』とイエスの弟子たちに尋ね,彼らに不安な気持を与えようとしました。イエス御自身がその質問にこう答えました,『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である,「私が好むのは,あわれみであつて,いけにえではない」とはどういう意味か,学んできなさい。私が来たのは,義人を招くためではなく,罪人を招く為である。』別の時に,イエスが安息日に病人を癒したことが問題となりました。それに対するイエスの答えには,反論することはできません,『あなたがたのうちに,一匹の羊を持つている人があるとして,もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら,手をかけて引き上げてやらないだろうか。人は羊よりも,はるかにすぐれているではないか。だから,安息日に良いことをするのは,正しいことである。』(マタイ 12:9-12,新口)学びたいという気持を持たずに質問がされたときは,彼の答えは極めて短いものでした。しかし,聞く人々の内で正直な心を持つ人は,イエスが真理を教えたと認めることのできるような仕方で,その答えはなされたのです。

      11 何がイエスの教えをかくも説得力のあるものにしましたか。

      11 イエスの言葉に,そのような力を与えるものは何ですか。彼の話は,なぜ説得力を持ちますか。先ず第一に,彼は真理を教えたからであり,またヱホバの御霊を持つていたからです。また,イエスは聞く人が容易に理解できる言葉を用いて伝道しました。彼が魚と網についての話をなして諸点を説明したときに,漁師はその点がすぐに分つたでしよう。農業について知つている人ならば,誰でも収穫とか,ぶどう畠で働く人々,ひなどりを持つ牝鶏,穴で捕まつた動物,そして天候についてのイエスの言葉を十分に理解し得たでしよう。家庭の雑事をしていた人々は,イエスが着古した衣服のつぎ,パンに及ぼすパン種の影響,汚い皿,そして子供たちの行う事柄でもつて説明したとき,その音信を良く理解することができたのです。他の者たちにとつては,賃銀のこと,エルサレム市の塵芥所であるゲヘナなどに言及されたことは,考えというものを明瞭に理解することができました。イエスは真理を提供されるときに一本調子でなく,適応性を持つものでした。音信そのものはすこしも変わつていませんが,イエスは自分の教えた人々に興味を持つていましたから,彼らを理解することができました。そして人々の見地から事柄を採り上げました。彼は聞く者の反応を見守り,それから後の話の中にその反応を考慮に入れられたのです。呑みこみがむずかしい諸点については,人々の良く知つている事柄とむすびつけました。彼は明白な対照を用いることにより,助言をはつきり示しました。イエスは,私たちの見ならうべき先生です。

      パウロはユダヤ人と異邦人を教えた

      12 ユダヤ人に対する話の中で,パウロはキリストに対する信仰という事柄をどのように提供しましたか。特に何が彼の論議を聴衆の心に強くひびかせましたか。

      12 イエス・キリストの熱心な使徒パウロは,真理を教える業に心をこめて専念しました。そして,彼の宣教の記録の中にも,有益な諸点がたくさんあります。使徒行伝 13章16-41節は,パウロがユダヤ人に述べた聖書の話で,これは私たちの従うべき良い模範です。それは,心に強くひびくもの,説得力のあるもの,要点をついたものです。冒頭のところで,パウロはユダヤ教の優越性についての論議を避けているのに注意しなさい。パウロは,彼らに向かい『神を敬うかたがた』と呼びかけ,そして『この民イスラエルの神は,私たちの先祖を選び』と認めたのです。しかし,彼はあまりに巧みであつたため,真理の提供に失敗するということはありませんでした。彼はその民のかたくなな態度を示す一般周知の歴史的な事実を述べることにより,メシヤについての論議を行う為の土台の部分を置いたのです。洗礼者のヨハネに言及することにより,パウロは当時の世の著名な人はキリストを受け入れたと示しました。支配者たちがキリストを拒絶しても,それはキリストの不名誉にならないとパウロは論じます。むしろ,そのことは予言を成就したのであつて,キリストに対する彼らの信仰をかためるべきであると彼は論じます。彼はイエスに対する信仰を,愛されたダビデ王を受け入れることと巧みに結びつけました。そして,イエスの立場の優越性を示しました。彼は,彼らの知つている事柄,彼らの信じている事柄について論議を建てて行きました。心を強く動かす結論では,彼は不信な態度で嘲笑をなす者について述べる予言の成就に加わらぬよう強くすすめました。正直な心を持つユダヤ人で,自分の民の歴史に通じ,神の予言者たちの書いた事柄を誠実に信じている人なら,誰一人としてこの論議に背を向けることはできませんでした。

      13 聖書を受け入れない者に対しても,パウロの真理の提供が心にひびくもの,そして効果的なものであつたのは,何によりましたか。

      13 パウロは,諸国民の為に主なる神より良いたよりを委ねられた者であると自ら語つています。諸国民に伝道することは,ユダヤ人に伝道する場合とは全く異る問題を提出しました。使徒行伝 17章22-31節には,良いたよりがそれらの人々に提供される仕方についての例が書かれています。そして,今日同様な任命を持つ者に対して良い指針となつています。パウロは自分の奉仕した人々に興味を持つていて,彼らの生活の仕方を観察していました。パウロの切り出しの言葉は,彼らの宗教的な献身について興味深く述べ,それから彼らの崇拝の場所の一つに註解をしました。彼は真の崇拝に結びつけてゆきますが,その時に彼らの偶像崇拝とは結びつけず,知られざる神を崇拝したいという彼らの正しい欲望と結びつけます。多数の人々は多くの神々を崇拝しましたから,パウロは彼が神と言う場合にその神とはどういう方であるかを注意深く説明しました。この世界の創造者なる御方は,偶像でなく,また人間の手でつくつた宮に住まないと,パウロは論じています。いまこそ,私たちは神の目的を知り,神の目的に一致すべきであるとパウロは論じます。それは,裁きの日に私たちが良い恵みの立場を持つ為です。彼らが自分たちの神殿で聞いたものと,この音信をごちやまぜにすることはあり得ません。それは巧みなものでしたが,また要点をついたものでありました。神が誰であるか,神は私たちの前にどんな希望を置かれているか,そして私たちは何をすべきか,が明白に示されました。あなたの聖書の話は,それと同じほどに良く提供されますか。

      現代において真理を教える

      14 教会で同じことを学びますという家の人を,どのように巧みに援助し得るかを例証しなさい。

      14 それで今日のヱホバの証者は,すべての国民を教えて彼らに『御国の良いたより』を知らせよというイエスの命令に従い,人々の家庭を訪問します。彼らは,人々が真実に学ぶように,そしてヱホバの証者が聖書からもたらす音信と,普通のキリスト教国の説教壇から述べられる教えとの相違を見ることのできるよう欲します。教会に行く一般の人々に,私たちは信仰を持たねばならぬと告げるなら,そんなことは教会で聞いているとその人は答えるでしよう。神についての知識を採り入れねばならぬと告げれば,そんなことは知つていると言うでしよう。まつたくのところ,神の御国にも信仰を持つている,とその人はあなたに言うでしよう。教える資格を持つ奉仕者は,これらの事柄を家の人に告げるだけで自分の仕事が完了したとは感じません。人が進んで聞こうとする態度を示すなら,奉仕者はその人が真実に音信を理解するようにいたします。それですから,奉仕者は神をよろこばす為の必要な信仰とは単なる信仰以上のものであると指摘します。その信仰は神の御言葉の正確な知識に基づかねばなりません。(ヘブル 11:1,6)神について語る時,神はヱホバという御名を持ち,神を真実に知るために聖書中に記されている神の目的を理解せねばならぬと指摘することができます。(詩 83:18)また,御国は天から運営されている真実の政府で,間もない中に地上から悪を拭いさるもの,そして神の御国の支配下で永遠の生命を得たいなら,私たちの生活を神の要求に沿わせねばならぬと明白に説明することができます。―ダニエル 2:44。

      15 初期のクリスチャンの場合と同じく,今日のヱホバの証者のなす教えが効果的なのは,何によりますか。

      15 今日,教会員は聖書を持つており,多数の人々は聖書の言葉を聞いています。彼らは丁度イエス時代のユダヤ人のようです。そのときのユダヤ人は聖書を持つていて聖句の朗読をしばしば聞きました。しかし,彼らは聖句の意味を悟ることができなかつたのです。イエスと使徒たちが人々を教えたとき,彼らはその教えに驚嘆しました。イエスや使徒たちは,宗教牧師のような教え方をしませんでした。彼らは誠実であつて,自分たちは真理を教えていると知つており,神の聖霊は彼らを助け支えました。(使行 4:13)同じく今日,ヱホバの証者が人々の家庭で宣教を行うとき,彼らは聖書を巧みに用います。適当な聖句を読み,それからその聖句内にある教訓の諸点に特別な注意を惹き,そして現代におけるその適用について註を述べます。彼らは伝道するだけでなく,また神の言葉を教える者でもあります。

      16,17 興味を持たない人に会うとき,どのように宣教を行うべきかについて,聖書はどんなすばらしい助言を与えていますか。このことは私たちの教えることにどんな効果をもたらしますか。

      16 或るサマリヤ人の村で,人々はイエスを快く迎えないことがありました。ヤコブとヨハネは激怒して,こう言いました,『主よ,いかがでしよう。彼らを焼き払つてしまうように,天から火をよび求めましようか。』(ルカ 9:54,新口)イエスは2人を叱りました。私たちはそのことを心にとめるべきです。無関心とか公然とした反対に会おうとも,私たちが興奮してしまう理由はありません。パウロの助言は次の通りです,『主の僕たる者は争つてはならない。だれに対しても親切であつて,よく教え,よく忍び,反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は,彼らに悔い改めの心を与えて,真理を知らせ,一度は悪魔に捕えられてその欲するままになつていても,目ざめて彼のわなからのがれさせて下さるであろう。』― テモテ後 2:24,26,新口。

      17 私たちは,彼らに真理を教える為に遣わされています。峻烈で鋭い言葉が良く教えるということは先ずありません。『心に智恵あれば哲者と称えらる。くちびる甘ければ,人の知識をます。』(シンゲン 16:21)私たちは『飼う者のない羊のように弱り果てて,倒れている』人々を深くあわれみます。(マタイ 9:36,新口)私たちが訪問すると,人々は冷い態度で音信を拒絶するかもしれません。しかし,私たちは立腹しません。「愛は寛容であり,自分の利益を求めない。いらだたない。うらみをいだかない。」(コリント前 13:4,5,新口)人々が真理を受け入れるなら,それは彼らにとつて生命を意味すると,私たちは知つています。私たちは音信を彼らに強制しません。しかし「反対する者を柔和な心で教え導き」ます。ヱホバの証者がこのような愛に充ちる態度を採る故に,幾千幾万という人々は真理を学びました。『智恵ある者の心は,おのれの口を教え,またおのれの口唇に知識をます。』(シンゲン 16:23)賢明であるとき,動機の座である彼の心は,愛によつて動かされます。それによつて,彼の仕える人々の真実の状態に焦点を合わせ,彼らと交際をする際に賢明さを示すことができます。それによつて,或る人々はその人の言う言葉に耳を傾け,なる程と理解し,そして『目ざめて彼(悪魔)のわなからのがれる』でしよう。

      円熟に進歩する

      18 (イ)ヱホバの証者は,善意者に対する真実の愛をどのように表明しますか。(ロ)クリスチャン奉仕者の与える教訓を真実に根づかせる為に,どのような提案が与えられていますか。

      18 ヱホバの証者が正しい羊飼の声に答え応ずる者を見出すとき,仕事は終つたと感じますか。いいえ,感じません。ヱホバの証者はその人を助けて羊飼の羊の群れに交わらせ,クリスチャン円熟に進ませます。毎週,定期的に彼らは訪問して,答え応ずる人と聖書の研究をします。かくして,その人は聖書の命ずることが何であるかを知ります。教えている人は非常な注意を払い,善意者がたしかに学んでいて,要点を理解し,そして円熟に向つて進歩するようにします。すべての人は同じ歩調で進歩しません。しかし,注意深く組織化することにより各人の霊的な進歩は適当な注意を受けます。新しい人を励まして自分の意見を述べさせなさい。『御言葉を教えてもらう人は教える人と,すべて良い物を分け合いなさい。』(ガラテヤ 6:6,新口)註解がなされても,もし理解のある註解でないなら,その点を更に論じ,学ぶ人からもつと多くの註解を引き出して,あなたが真実に教え得る者であると示しなさい。物事を理性でもつて考え,以前に学んだ事柄との関係を見るように,そして答の中にその註解の正しいことを証明する聖句を入れるように教えなさい。重要な点は,忘れることのないようにする為,特に繰り返しなさい。

      19 私たちは正確な知識を善意者に教えるだけでなく,それ以外のどんなものを教えようと努めるべきですか。

      19 この人が真実にキリスト・イエスの弟子になる為には,それ以上のことが必要です。その人は,ヱホバに導きを求めるよう学ばねばなりません。そして,ヱホバをよろこばしたいという熱烈な欲求をつちかわねばなりません。詩篇記者ダビデの見解を認識するよう援助しなければなりません。ダビデは次のように語りました,『汝はわが神なり,われに聖旨をおこなうことを教え給え。恵ふかき聖霊をもて我をたいらかなる国にみちびきたまえ。』(詩 143:10)その人の頭の中に答を得させるということではなく,それ以上にその人を助けて神の律法を心の中に得るように助けねばなりません。『私はこう祈る。あなた方の愛が,深い知識において,するどい感覚において,いよいよ増し加わり,それによつて,あなた方が,何が重要であるかを判別することができ,キリストの日に備えて,純真で責められるところのないものとなり,イエス・キリストによる義の実に満たされて,神の栄光とほまれをあらわすに至るように。』(ピリピ 1:9-11,新口)たしかに,真理が根づいて,人の心の中に発展するとき,その人は実を結び始めます。―マタイ 13:23。

      20 新しく興味を感ずる人々をどのように準備して,他の者に真理を教えることに参加せしめることができますか。

      20 クリスチャンは或る仕事をせねばならぬと善意者が悟るのに,たいていの場合,長い時間はかかりません。しかし,人によつては心からそうしようと思うまで,他の人よりも長い時間をかける人がいます。すべてのことが直ちに起るのではありません。しかし,良く教える人は,その準備の為に多くのことをすることができます。毎週しばらくの時間を費してヱホバの制度,およびその制度がどのように働くかを知らせなさい。集会について,また集会がどのように司会されるかを知らせなさい。集会に出席するようその人々を招待しなさい。毎週なすあなた自身の家から家の宣教について告げるとき,なぜそうするのかを聖書から簡潔に示しなさい。(使行 20:20)後には,善意者を再訪問したときの励ましとなる経験を語ることもできます。イエスは羊を養えと命じました。再訪問の機会は,そのことを示すものです。(ヨハネ 21:15-17)別の時には,訓練計画について知らせることができます。そして,新しい人々は自分一人で遣わされるのでなく,他の人を援助する資格があると感ずるまですこしづつ愛の援助を受けると知らせなさい。野外奉仕について初めて語つたときに,人々を奉仕に招待せねばならぬという風に感じてはなりません。それについて準備をしなさい。すべての取り極めが心の中にはつきり判つてくるにつれ,そして又あなたとの研究から,それらの人々は他の人々も学ばねばならぬという,緊急な必要性を悟り始め,それに参加したいと欲するでしよう。知識にもとづく愛は,自分の学んだ事柄を他の人々に告げるときの恐れを取りのぞきます。そして恐れを抱く代りに,ヱホバに仕えてヱホバへの感謝を示そうという燃えるがごとき欲望を持つでしよう。―ヨハネ第一書 4:18。

      21 いまどんな仕事は是非とも為されねばなりませんか。

      21 世界のあらゆる場所において,良いたよりを教える者は緊急に求められています。あなたはクリスチャンとして教える資格を持つていますか。あなたはクリスチャンの幼年期から進歩し,教える者になる為の段階を取つていますか。あなたは,他の人を援助して真理を学ばせ,神の新しい世における生命を得させる為に,あなたの今持つている真理と能力をよろこんで用いる御気持がありますか。もしそうなら,今は奉仕という神の与え給うた特権に参加すべき時です。宣教に新しい者であろうと経験を積んだ者であろうと,それに参加するとき,テモテ前書 4章16節(新世)に記録されている助言に従いなさい,『自分自身と自分の教えに絶えず注意を払いなさい。』

  • 物質による解決は不適切
    ものみの塔 1959 | 1月1日
    • 物質による解決は不適切

      「大戦後の人道主義」の中で,W・マツクネイル・デイクソンはこう書いています。『毎日疲れはて,徹夜して物質を追い求めることにより,私たちの精神的苦しみをやわらげたりいやそうと試みても,それは失敗に終るだけである。いかに寛大にまた献身的に与え行われても,うえた者は食物以上のものが要り,貧しい者は家以上のものが要り,貧民は衣服以上のものを必要とする。偉大な真理を受け入れる日は近づいている。すなわちいままでの宣言の中で一番大きな宣言すなわち,「人の生くるはパンのみによるにあらず」という偉大な真理である。この真理が受け入れられることによつてのみ,またその時はじめて,文明という名にふさわしい,文明の基礎石が置かれるであろう。』

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