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あなたは良い教え手ですか目ざめよ! 1974 | 3月22日
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特定のことばを繰り返し言うということですか。そういう方法を取れば生徒はそのことばをスローガンのように暗記するかもしれませんが,その背後にある考えを学ぶことはないかもしれません。これよりもはるかに良い方法は,違うことばを選ぶことです。そうすれば考えが定着します。長い経験を持つある教師は,「同じことを,2,3の異なる方法で言うようにしなさい。そうすると生徒はことばだけを暗記するのをやめ,要点をつかむようになります」と勧めています。
問題の取り上げ方を分析してみることによっても,説明をいっそう平易にするよう改善できます。『もっと良い説明の方法があったのではないか。どうすればもっと明快に,もっと簡単に説明できただろうか』ということを,絶えず自問します。
調べてみたい他のふたつの分野は,例と質問を用いることです。
例を用いること
例は適切な意味を含んだ物語かもしれず,あるいは何かを行なう方法を一歩一歩示す実演かもしれません。黒板のような視覚教育器具はたいへん役だつでしょう。『生き生きした叙述』を用いることもできます。
しかしなかには,『私は話がへたで,将来もじょうずになるとは思えない』と言う人もあるでしょう。でも実際にはわたしたちはみな,例を絶えず用いています。「カメのようにのろい」とか,「小鳥のように自由である」とか言う場合,わたしたちは例を用いて説明しているのです。つまりたとえて言っているのです。
自分は長い例を用いる能力はないと考える人があるかもしれませんが,短い例は非常に効果的に用いられることが少なくありません。地上に生存した者の中で最も偉大な教師であったイエス・キリストは,短い例をお用いになりました。他人を裁くことについて話されたときイエスは,「なぜ兄弟の目の中にあるわらを見ながら,自分の目の中にある垂木のことを考えないのですか」と言われました。(マタイ 7:3-5)なんと強力なたとえでしょう。それでもそれは短いたとえでした。
短いたとえには多くの利点があります。それは簡単でわかりやすいのが普通です。長いたとえは,よほどじょうずに話さないかぎり,複雑になりがちです。学習者のほうはそのたとえを理解することに注意を奪われて,習っている事がらを忘れてしまうかもしれません。
一方,簡単な例はものを教えるのにほんとうに役だちます。教育者のN・L・ボシングはその理由をこう説明しています。「抽象的に考える[例による裏づけなしに考える]能力は,人間が身につける事がらの中でも最もむずかしいもののひとつである」。学習者が論点を十分にはあくするためには,例が必要なのです。
例はまた教えを実生活の領域に持ち込むのに役だちます。自動車の運転にかんするある原則を息子に教えるなら,ついでに路上で起こりうる問題の例を示します。すると息子は,今教わった原則は実際の場合に重要なのだという印象を強くします。適切な例は主題から脱線させるものではありません。主題をより重要なもの,より現実的なものにします。それは良い教え方です。
ではどのようにして良い例を考え出しますか。「物語」を作る必要はありません。自分の論点を支持する「例」を考えるだけでよいのです。想像力もちゅうちょせずに用います。たとえば,惑星が相互の関係においてどのように動くかを子どもに教えようとする場合,どうすれば「真に迫った」描写を行なうことができますか。そういうときは,砂糖つぼを太陽に見立て,カップを地球に,塩入れを月にして,それぞれに相手のまわりを回らせることもできるでしょう。そうすればあなたが用いたことばは,子どもにとって意味を帯びたものになってきます。
このようにして例をさがすことを習慣にするなら,あなたの言うことはしばしば消えない印象を残すということが,やがてわかるでしょう。
質問を用いる
正しく用いるなら,質問は非常にすぐれた道具です。基本的に言って,質問は事実(だれ? 何? いつ? どこで?)を告げること,あるいは結論もしくは意見(どのように? またなぜ?)を告げることを求めます。
いちばん良いのは短い,簡潔な質問です。そういう質問には,主要な考えがひとつだけ含まれているのが普通です。
生徒が何を考えているかをほんとうに知りたいと思うなら,自分の口調に注意が必要かもしれません。たとえば親が10代の息子に,マリファナの吸煙をどう考えているかを尋ねるとします。息子は,父親が「マリファナ」ということばを口にするその仕方によって,父親がそれを認めていないことを知ることができます。するとどうなるでしょうか。息子は父親が期待していた通りの答えをするかもしれません。しかしもし感情を表わさずに質問するなら,子どもがそのことにかんする自分のほんとうの考えを話す可能性は大きくなります。もしきつい,迫るような調子でなされるなら,質問はまず良い教え方とはなりません。教える者と教えられる者の関係を忘れないことです。
またおぼえておくとよいのは,もしだれかに考えさせているのであれば忍耐がたいせつだ,ということです。質問をしておきながらすぐに自分でそれに答えたのでは,相手が答えられたかどうかは実際にはわかりません。質問をしたならしばらく黙っています。そして相手の表情をよく見守り,相手が理解していないようであれば,質問を別のことばで言い直します。
質問は関心を刺激するために,理解しているかどうかをためすために,あるいは両方の目的で用いることができます。関心を刺激する質問は多くの場合修辞的質問,つまり回答が自明であるかまたは口頭による回答を必要としないもので,『わたしたちはみな幸福になりたいと思いますね』といったような質問です。
理解しているかどうかをためす質問がいちばんむずかしい質問です。これは要点を復習したり,生徒の理解力を調べるさいに用いられます。この種の質問をする場合には,生徒を落胆させないよう,ことば使いに注意しなければなりません。ある事がらについて推理をする問題を出し,相手がまちがった結論を引き出すなら,相手は,自分は頭の回転がおそいのだと考えたり,きまりの悪い思いをしたり,あるいは自分に失望するかもしれません。相手の表情から,自分の説明を理解していないことがわかったなら,質問をせずに説明し直すか,もう一度説明してほしいかどうかを巧みに尋ねるほうがよいでしょう。そうすれば生徒は感謝するでしょう。実際のところ,日常生活において思いやり,関心,忍耐を示すことは,人を教える時だけに限らず,いつも自分自身によい影響があります。他の人とより効果的に意思を通じ合うことのできる人になります。理解しやすいので,他の人たちから理解されやすくなります。
実際に問題は,あなたは教師になることを考えるべきではないか,というものではありません。あなたは教師なのです。問題は,良い教師になるよう努力するかどうか,ということです。
良い教師であることの報いは大きなものです。というのは,物事を教えることは他の人と分け合うことだからです。人を援助するために自分の一部を与えるのです。それは生活をよりおもしろく,より価値のあるものにする,そして心を豊かにする経験です。
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注射針からの感染目ざめよ! 1974 | 3月22日
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注射針からの感染
● 麻薬の流行に伴い,細菌で汚染した注射器や注射針の使用に起因する流行性疾患が増えている。注射針を繰り返し皮膚に刺すと皮膚の防御組織は破壊され,流行病の病菌を全身に運ぶ経路が開かれる。ある都市では,流行性の心臓疾患のために1年間に24人の青年が死亡した。ある年若い少女の場合,汚染した注射針を使用したため,バクテリアが皮膚を通って体内に入り込み,血管を通って心臓弁に付着した。何千万単位もの抗生物質を投与して治療したにもかかわらず,その少女は死亡した。
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