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子供たちを守りなさいものみの塔 1963 | 11月15日
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モーセは,「ふん,私は政府の要職に,いや王位にさえつける可能性があるようだ。イスラエルを助けたいとは思うが,まあ王が死ぬまで待つことにしよう。そのときにはエジプトの王位からわけなく同胞を助けることができるだろう」と言いましたか。いいえ,モーセはそんな考え方をしませんでした。「信仰によって,モーセは,成人したとき,パロの娘の子と言われることを拒み,罪のはかない歓楽にふけるよりは,むしろ神の民と共に虐待されることを選び……」。(ヘブル 11:24,25,新口)モーセは正しい決定を下しました。なぜなら,いったん権力の座についたなら,圧倒的な誘惑に面したに違いないからです。モーセの例は,幼い時から保護となる訓練を与えることを強くすすめるものです。そのような訓練はなんという確実な益をもたらすのでしょう!
11 子供の保護になる訓練に成功するにはほかにどんなことが要求されますか。それはどのように示されますか。
11 保護となる子供の訓練に成功するには,幼い時から始める必要があるばかりでなく,両親が行動に一慣性をもち,また正しい手本を示す必要があります。真のクリスチャンの両親は,子供の訓練という問題について意見を異にすべきではありません。彼らにはただひとりの権威者,一つの権威ある源があるだけです。ですから一致できないはずはありません。行動の一貫性とは,夫の与えるしつけを妻がくつがえさず,妻の与えるしつけを夫がくつがえさないということです。また,父親だけでなく両親が,エホバの原則を実際に適用することです。母親は,子供がしたい放題のことをしていながら父親が帰宅すると突然良い子になる,というようなことを許しません。子供を守る計画の実行は,不規則なものではなくて,1日24時間効力のあるものでなければなりません。
子供に神の思いをもたせる
12 パウロはどんな助言を与えていますか。子供はどのようにエホバの権威ある教えによって育てられますか。
12 子供たちは,さまざまな事柄にかんして神の思いをもつ必要があります。この知識は,幼時からはじめて,重要な時である十代を通じ漸進的に与えつづけられます。使徒パウロは次のような助言を書いています。「父たる者よ,子供をいらだたせないで,エホバのこらしめと権威ある教えとによって子供を育てなさい」。(エペソ 6:4,新世)では子供たちはどのようにエホバの権威ある教えによって育てられますか。パウロの言った「権威ある教え」という言葉は,原語のギリシャ語では,文字通り思いを他の者のなかに入れるということを暗示しています。青少年は保護としてだれの思いを必要としますか。もちろんエホバの思いです。エホバの権威ある教えによって子供を育てるには幼い時や少年時代だけにかぎらず,継続的に進歩的にエホバの思いを子供にもたせるようにしなければなりません。
13 両親はどのように幼い時から子供に神の思いをもたせることができますか。それが可能なことをだれの例が示していますか。
13 神の思いを子供にもたせるには,両親は,子供の年齢に適した言葉とたとえを使って神のご命令を彼らに教えねばなりません。ごく幼い子供でも意味がつかめるように,神の御言葉をかみ砕いて,消化できるかたちにしてやらねばなりません。ユニスはテモテに「幼い時から」神の思いをもたせたではありませんか。それはできないことではありません。それには忍耐と,かなりの時間を要し,また,神の定められた原則を子供に明確に理解させる必要があります。しかし,テモテの場合のように,その益は非常に大きなものです。―テモテ後 3:15。
14,15 (イ)両親は子供たちに何を明白に理解させねばなりませんか。(ロ)盗みとかうそをつくことなどについて,両親はどのように子供に神の思いをもたせるができるか説明しなさい。
14 エホバの律法の至上性を子供にはっきり理解させるとき,両親はほんとうに神の思いを子供にもたせていると言えます。たとえば,盗んではならないことを教える場合,盗んでならない理由,つまりこの問題には単なる両親の望みとか希望以上のものが関係していることを説明してください。そうすることはただあなたの考えから出たのではなくて神のみこころであること,また神のおきてを実施する責任が神から与えられていることを子供たちに知らせてください。それで盗みとはどういうことかを説明したのち,聖書を取り,適切な箇所を開いて,神のみこころがなにかを子供に読み聞かせます。「あなたは盗んではならない」,これが神のご命令です。しかし出エジプト記 20章15節だけでなく,エペソ書 4章28節「盗んだ者は,今後,盗んではならない」などのほかの聖句も読みます。そうすれば子供はそれが重要な事柄であること,神のみこころはいちばん重要であること,そして両親はいつも神のご命令を支持するということを知るでしょう。
15 神の思いで子供を保護し,進歩的にそれを行なってください。一つの点をはっきり理解させてから次に移ります。たとえば,うそをつくとはどんなことか,最初のうそつきはだれだったが,偽りはなぜ神の怒りを招くか,うそつきの最後はどんなものかを子供に説明します。そして再び子供と一緒にすわって聖書を開き,そのことについて神はどんなお考えをもっておられるかを子供に教えます。うそをつくことを神がおきらいになることについて述べてある聖句を読むほかに,たとえば,「エホバのもろもろの道は……仁慈なり真理なり」「偽ることのあり得ない神」などの聖句を読んで,神ご自身が模範を示されていることを教えてください。(詩 25:10。ヘブル 6:18,新口)品行の問題についての神のみこころを示した聖句を使うことは,両親がすべての事柄において示す手本と相まって,この時代の悪から子供たちを守る強力な保護になるでしょう。
16 適当な年齢になったなら,若い人はどんなことを知らねばなりませんか。それで両親はどんなことをしなければなりませんか。
16 子供が成長するにつれ,両親が両性間の正しい道徳的行為についての神のみこころを教えねばならない時期がきます。この場合も,悪いことを禁止する両親の言葉だけでは不十分です。やはり聖書に来て,神がクリスチャンに要求される清い行いについて示されている聖句を読むことによりエホバの「権威ある教え」を与えてください。この世のわなについても教えることができます。たとえば10歳代の娘をもつ両親は,娘がおおきくなって魅力的になると,どんなことが起りやすいか,信仰を持たぬ青年や男性がどのように近づいてきて,誘惑するかを警告してやることができます。両親はこうした誘惑に会わぬうちに,エホバの権威ある教えを与えて,新しい世代を守らねばなりません。
神のいましめを銘記させる
17 (イ)子供を進歩的に訓練するほかに,どんな重要なことがありますか。なぜですか。(ロ)モーセはその重要性をどのように強調していますか。
17 子供たちを守るうえにおいて,進歩的であることと同じく重要なのは,くりかえすことです。ある行為に関する神の原則を一度子供に教えたからといって,それで事が終るわけではありません。いましめがぼんやりと薄れて,不明りょうになるのは容易なことです。誘惑に会ったとき,ヨセフがポテパルの妻の誘惑を退けたのと同じほど早く確実にそれを退けるには,神のみ言葉が心に鋭くきざみこまれていなければなりません。もしその誘惑に屈したなら,神に対して罪を犯すことになるということを,ヨセフはつゆほども疑っていませんでした。(創世 39:7-12)申命記 6章7節のモーセの言葉の背後には,私たちの心のうちにある神のいましめをいっそう明りょうにするためにそれをくりかえして考える,という意味があります。「今日わが汝に命ずる是らの言は汝これをその心にあらしめ,勤めて汝の子等に教へ家に座する時も路を歩む時も寝る時も起る時もこれを語るべし」。
18 (イ)モーセはなぜイスラエルにそのような戒めを与えましたか。彼の言葉はなぜ今日でも適切なものですか。(ロ)神のこの戒めを守れば,どんな二重の益がありますか。
18 あらゆる事柄に関し,エホバのみこころをこのようにくりかえし教え込むことは,子供と両親の両方の保護になります。悪がはびこり,悪への誘惑がいたる所にあるいまの世の中では,いつの時代にもまして神の御言葉,神のいましめを,心の中にいつも生き生きと持ちつづけることが肝要です。モーセはイスラエル民族が異教の国民と接触する時に彼らにのぞむ事態を警告しました。彼は,神の律法から遠ざかる傾向があることを知っていたのです。そこでモーセは彼らに忠実であることをすすめ,また神の律法を定期的に子供の心に植え付けて,子供たちを守るように命令しました。今日のクリスチャンについても同じことが言えます。神の真の崇拝者でない人々と完全に接触を絶つことが不可能なこの世界においては,神のいましめを心に銘記することによって保護が得られます。両親がこれらの律法を子供に教え込んで,『家にすわるときも,道を歩くときも,寝る時も起る時もそれを語る』なら,両親もそのことから益を受けます。両親は神のみこころを,自分自身の心に銘記しました。それで次には,神のみこころを子供に教え,それを反復することによって,たえず神のいましめに対する子供の注意力を鋭くするようにしてやればよいわけです。そうすれば,神のいましめの意味をはき違えることはありません。
19 子供に特によく理解させねばならない神の律法にかんする事実とは何ですか。したがってそういう事情のもとにあるおとなと子供の行いはどんなものでなければなりませんか。
19 神の律法は,子供たちが家から離れているときも家にいるときと同様にあてはまる,ということをはっきりと理解させてください。若い人々は時に,別の地方や都市に行って,一時的に親の目から離れることがあります。たとえ直接人間の監督のもとにいなくても,エホバの目から離れることは決してないことを子供たちに教えてください。「エホバの目は何処にもありて,悪人と善人とをかんがみる」。(箴言 15:3)この聖句は,エホバ神の注意をのがれるものが一つもないことを示しています。エホバは大小を問わずあらゆる事物を観察する手段をおもちです。しかしこの世の国々のスパイや秘密警察と違って,エホバが見ておられるのは私たちを益するためです。子供たちはそのことを知っていなければなりません。そして親やクリスチャン会衆内のしもべたちの監督下にいる時には決してしないこの世の行いは,家を離れている時もしてはならないことを教えられねばなりません。おとな自身も,別の都市を訪問して自分の会衆を離れている時に,子供たちによい手本を示さねばなりません。
20 子供たちに与えられねばならないエホバの権威あるこらしめをいくつか説明しなさい。それにはどんな結果がありますか。
20 ですから,子供たちが幼い時から教わらねばならない行いの原則はたくさんあります。保護となるエホバの権威ある教えはきわめて広範囲にわたるのです。金銭に対する聖書の見方を子供に教えてください。そうすれば子供は金銭を過大評価することも過小評価することもないでしょう。あらゆる事に節度を保つことを教えましょう。また交わりについての神のおきてと,悪い交わりは必ずよいならわしを損うものであることを教えましょう。健全で徳を高める読み物を読むように教えましょう。名利のみを追う群衆に抵抗し,この世の若者たちからどんなにひどく嘲笑されても,愚かな行いや悪からにげることを教えましょう。「この世の組織制度にならうのをやめる」ように教えましょう。(ロマ 12:2,新口)責任をもたせることにより,責任を果たすことを教えましょう。他人の所有物を尊重することを教えましょう。人間の生命の尊さを教えましょう。新聞はしばしば,ある子供たちが誤ってあるいはほかの理由で人を射殺したことを伝えています。だいいち,なぜ子供がおもちゃにせよ,本物にせよ,ピストルを人に向けねばならないでしょうか。子供たちに「光の武具」を着け,神の御言葉「御霊の剣」をふるうように教えましょう。幼い時から自分自身の聖書を持たせましょう。クリスチャンは『主にある者とのみ結婚できる』という結婚にかんする神のおきてを教えましょう。エホバの律法を軽んずることから生ずる悲惨な結果を教えましょう。こうして神のみこころを子供に理解させるということは大きな責務です。しかしそれが結果として子供たちの保護になるのです。―ロマ 13:12。エペソ 6:17。コリント前 7:39。
21 この世的な風潮を避けるため,クリスチャンの両親は何をしますか。結果としてそれは子供にどんな祝福をもたらしますか。
21 子供たちから親を守らねばならないというのが世間の風潮ですが,クリスチャンの両親は,そういう風潮が自分の家庭内にひろがることを許しません。モーセの両親と同じく幼い時から訓練を始めましょう。エホバの権威ある教えを常に子供に与え,それをくりかえし教えることによって偉大なる保護者のいましめが子供たちの心にふかく根をおろすようにしてください。誘惑の増す危険な10歳代をとおして,若い人々に神のみこころを教えましょう。心から関心と愛をもって新しい世代を守りましょう。そうすれば彼らは,いまも,また新しい世においても,権威ある教えによって保護を可能にしてくださるかたエホバ神を永遠にさんびするために用いられるでしょう。
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ひとりびとり自分の言いひらきをしなければならないものみの塔 1963 | 11月15日
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ひとりびとり自分の言いひらきをしなければならない
「わたしたちはみな,神のさばきの座の前に立つのである。だから,わたしたちひとりびとりは,神に対して自分の言いひらきをすべきてある」。―ロマ 14:10,12,新口
1,2 私たちはみなだれに対して責任がありますか。どんなことについて? またなぜ?
神に申し開きをせずにすむ人はひとりもいません。偉大なる審判主は必ず「御言を…地上になしとげられる」と私たちは教えられています。私たちがどこに住んでいようと,どんな宗教を信じていようと,「神のみまえには,あらわでない被造物はひとつもなく,すべてのものは,神の目には裸であり,あらわにされているので」す。「この神に対して,わたしたちは言い開きをしなくてはならない」。―ロマ 9:28。ヘブル 4:13,新口。
2 公然と行なったことであろうと,かくれてしたことであろうと,私たちは自分の行為の言い開きをしなければならないのです。私たちのすることはみな,宇宙の審判主の「目には…あらわにされている」のです。私たちは,どれほどよく神のいましめを守ったか,申し開きをしなければならないのです。「事の帰する所は,すべて言われた。すなわち,神を恐れ,その命令を守れ。これはすべての人の本分である。神はすべてのわざ,ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである」。―伝道 12:13,14,新口。
3 子供の責任について聖書は何を教えていますか。
3 子供たちにも,神に言い開きをする義務がぜんぜんないわけではありません。神のみまえで,子供に対する責任が第一に両親にあるのは事実です。したがって,両親のどちらかがエホバの真の崇拝者であるなら,この結婚によって生まれた子供たちはみな神の目には清いものです。(コリント前 7:14)けれども,神が子供たちの悪い行ないにも目を閉じられない,ということを示す聖書の記録を心に留めておくのはよいことです。あるときエホバは,2頭の雌ぐまによって42人のあざける子供の一団を処刑されたことがあります。それはこれらの非行者がエホバの預言者に対して非礼な態度を示したからです。―列王紀下 2:23,24。
4 聖書に述べられていることを考えて,両親は子供たちをどのように教えるべきですか。
4 それで,両親が子供たちに,ちょうど彼らが神に言い開きをしなければならないのと同じく,子供も神に言い開きをしなければならないのだ,ということを教えるのはよいことです。古代のイスラエルでは,矯正不可能な非行者になった子供たちは,神のみ旨によって死刑に処せられました。「もし,わがままで,手に負えない子があって,父の言葉にも,母の言葉にも従わず,父母がこれを懲らしめてもきかない時は,その父母はこれを捕えて,その町角の門に行き,町の長老たちの前に出し,町の長老たちに言わなければならない,『わたしたちのこの子はわがままで,手に負えません。わたしたちの言葉に従わず,身持ちが悪く,大酒飲みです』。そのとき,町の人は皆,彼を石で撃ち殺し,あなたがたのうちから悪を除き去らなければならない」。(申命 21:18-21,新口)今日でも神は,「主にあって」両親に従う責任を子供たちに負わせておられます。そのことはエペソ書 6章1-3節に示されています。「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。『あなたの父と母とを敬え』。これが第一の戒めであって,次の約束がそれについている,『そうすれば,あなたは幸福になり,地上でながく生きながらえるであろう』」。
エホバのこらしめについての責任
5 どんなことについて両親は神の前に責任がありますか。それでどんな質問が生じますか。
5 使徒パウロは,子供たちも言い開きをしなければならないことを示したのち,神のみまえにおける両親の責任を力説します。「父たる者よ,子供をいらだたせないで,エホバのこらしめと権威ある教えとによって子供を育てなさい」。(エペソ 6:4,新口)両親には,エホバの権威ある教えのみならず,エホバのこらしめによって自分の子供を育てる責任が神のみまえにあることに注意してください。両親は時々このこらしめという問題についてあいまいな場合があります。愛情をもって世話をし,注意をそそぎ,また神の御言葉を教えながら,エホバのおきてを実施していないかも知れません。両親は子供の育てかたについて言い開きをするのですから,エホバのこらしめとは何か,という疑問が生じます。
6 エホバのこらしめは何から始まりますか。なぜそれは大切ですか。
6 エホバのこらしめは必ずしも実際のむちで始まるわけではありません。それは両親の正しい手本から始まります。エホバは,愛する御子と同じく,完全な模範を示されます。私たちはこのおふたかたにならい,主イエス・キリストの弟子にならねばなりません。「こらしめ」<ディシプリン>という言葉自体,「弟子」<ディサイプル>という言葉と同じ語源からきています。弟子とは指導者の模範に従う者のことです。それでこらしめは弟子の身分と深い関係があります。子供はクリスチャンの両親にみならって,良い指導者の弟子にならねばなりません。両親は正しい手本を示すことによって,子供たちが主イエスの弟子になるように援助します。したがって手本は,エホバのこらしめを適用する1つの手段です。両親は,エホバの目に何が正しいかを子供に教えるでしょう。しかし子供は両親が家庭で,またほかの場所で示す模範以上によくなるものではありません。ですから両親は,自分は神の目に正しくないことを行ない,子供たちには正しいことだけをさせるわけにはいきません。ということは,両親自身も,自分の生活をあらゆる面でエホバの聖なる御言葉の正しい基準と一致させるために,時折自分を顧みるべきだということです。そうすれば子供たちはあなたの教えを聞くばかりでなく,あなたの手本をとおして正しい道を悟るでしょう。
7 (イ)エホバのこらしめはどのように与えられねばなりませんか。(ロ)両親はなぜ子供を絶望させてはなりませんか。どうすればそれをさけられますか。
7 もし両親が,子供の育てかたについて神に正しく言い開きをしたいと思うなら,愛情と同時に毅然とした態度をもってエホバのこらしめを,適用しなければなりません。それは,子供に物を与えて行儀よくさせるというような物ぐさなやりかたではなく,断固としたこらしめでなければなりません。堅実なこらしめとは,両親が日より見主義的な態度を見せないということです。子供は両親がなんのためにそうするかということ,また,どんなに議論しても,うまいことを言っても,泣きわめいても,両親がエホバの原則を捨てないことを知る必要があります。断固としたものではあっても,エホバのこらしめは愛の心から与えられます。ですからそれは首尾一貫したもの,道理にかなったもの,公正なものです。愛情の深い両親は,子供たちも不完全で間違いをするものであることを知っています。もし子供たちが,ちょっとした欠点や,ちょっとした誤りとか事故を起しても,必ず罰を与えられるという恐れで悩まされるなら,彼らはいらだってきます。パウロは言いました。「子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかも知れない」。(コロサイ 3:21,新口)もし両親が子供をいらだたせるなら,子供の神経は乱れて,叱責から益を受けることができません。それで,愛情の深い両親は,毅然とした態度はもっていても,道理をよくわきまえています。子供も理くつに合ったことは理解できます。それで子供がわかるように説明してやります。そうすれば子供は,自分がエホバ神の指示される方向に導かれている,ということを知ってそれについて行くことができます。
8 エホバの言葉に示されているように,時にどんなこらしめが必要ですか。それからどんな益が生まれますか。
8 アダムの子孫はみなこらしめが必要です。そして時にはしっかりとこらしめるためにむちで痛みを加える必要があります。「愚かなことが子供の心の中につながれている,懲らしめのむちは,これを遠く追いだす」。(箴言 22:15,新口)ですからエホバのこらしめは,いつの場合もむちをひかえる世間の専門家がすすめようななまぬるいものではありません。箴言 23章13,14節は,もともと実際のむちのことを言っているのです。「子を懲らすことを,さし控えてはならない,むちで彼を打っても死ぬことはない。もし,むちで彼を打つならば,その命を陰府から救うことができる」。ですから両親は時折り,子供に痛い思いをさせて理解させる必要があります。そうして痛い思いをさせても,それで子供が死ぬことはなく,かえってよい影響を与え,子供を保護して「その命を陰府から救う」でしょう。
両親の苦痛を防ぐ
9 エホバのこらしめはどのように二重の保護となりますか。
9 エホバのこらしめは二重の保護になります。つまり,(1)子供自身,(2)両親自身の保護となります。こらしめを受けないなら,子供はエホバのきらわれる道を歩みつづけて,神の新しい世における生命を得ることができないでしょう。こらしめられない子供は,よくない行いをして両親を悩ますでしょう。わがままをすれば,両親を心配させ,苦しめるというようなことを子供が自分の頭で想像するのを期待することはできません。それでいずれか処置を講じなければなりません。さもないと子供は,両親の心に多くの苦しみをもたらすようになるでしょう。「愚かな子を生む者は嘆きを得る,愚か者の父は喜びを得ない。愚かな子はその父の憂いである,またこれを産んだ母の痛みである」。「むちと戒めとは知恵を与える,わがままにさせた子はその母に恥をもたらす」。―箴言 17:21,25; 29:15,新口。
10,11 (イ)どうすれば,両親は苦しみをさけられますか。(ロ)エホバのこらしめを与えるさい,実際のむちのほかに,何を使うことがありますか。
10 では何が両親をこうした恥や悩みや憂い,悲しみから守るでしょうか。それはエホバのこらしめです。訓練されていない子供の行いが非行になるのは必然的な成行きです。であれば「懲らしめのむち」が必要です。両親から憂いと苦しみを除くためには,子供が痛い思いをしなければなりません。「あなたの子を懲らしめよ,そうすれば彼はあなたを安らかにし,またあなたの心に喜びを与える」。「むちを加えない者はその子を憎むのである,子を愛する者は,つとめてこれを懲らしめる」。「望みのあるうちに,自分の子を懲らせ」。(箴言 29:17; 13:24; 19:18,新口)時々両親はこの方法で子供に話すのを好まない場合があります。しかし両親はエホバの方法に従って自分の子供を訓練する責任を,エホバに対してもっているのです。
11 もちろん,エホバのこらしめには,いつも実際のむちを加えることが含まれているわけではありません。口で叱ったり辱しめることもあるでしょう。つまり言葉を使ってむちと同様の影響を与えるわけです。くちびるがそのように使えるということは,「わたしがむちをもって,あなたがたの所に行くことか」といったコリント人へのパウロの言葉から明らかです。子供が大きくなれば,口のむちを与え,特権を取り去ることも非常によいこらしめになります。―コリント前 4:21,新口。
12 与えるこらしめが確実に「エホバの」ものとなるにはどうすべきですか。
12 実際のむちであろうと,口のむちであろうと,こらしめはエホバの方法に従って与えられねばなりません。そして若い人々には,だれのこらしめを両親が実行しているか,また両親はただ自分を満足させようとしているのではない,ということも理解しているべきです。子供は,あるいは若者は,両親が神のこらしめを実行に移す責任を神に対してもっているということを知らされねばなりません。それは「むちと戒め」であることをおぼえていましょう。むちが加えられる理由については,いつもはっきりと説明してやる必要があります。エホバのどの戒めを破ったのか子供にわかっていなければなりません。わかっていればそれはほんとうにエホバのこらしめになります。
言い開きをする
13,14 (イ)両親にとって,わがままな子供がもたらす悲しみ以上に重大な事柄はなんですか。(ロ)エホバのこらしめを与える責任がエホバのみまえにあることを,エリの場合はどのように示していますか。
13 こらしめを受けていないなら,若い人は悪を行なって両親に憂いと非難をもたらすでしょう。しかしそれよりもっと重大なことは,怠慢な両親は神に対して言い開きをしなければならないということです。両親と,神の組織の責任ある地位にある人々が,神のこらしめを与える責任を神に対してもっているということを示しているのは,大祭司エリの場合です。
14 エリは,父として,大祭司として,またイスラエルのさばき人として,エホバのこらしめを適用することに手ぬるい態度をとりました。彼の2人のむすこホフニとピネハスは,式を司る祭司として仕えていたので,その行いも模範的であるべきでした。ところがそうではなかったのです。「エリの子は邪なる者にしてエホバをしらざりき」。聖書の記録はさらに,祭司として仕えたこの2人のむすこが,神の律法によって彼らに割り当てられていた分に満足していなかったことを示しています。貪欲なこの2人のむす子は,エホバよりもまず自分自身に仕えました。彼らは,自分の食欲を満たすまえに,肥えたものをエホバの祭壇にささげるべきでした。しかし彼らはエホバのことよりも自分のことを先に考えました。彼らの父と大祭司は,彼らを叱責しなかったようです。ですからエホバはエリに「わたしよりも自分の子らを尊び」と言われました。老年になってエリはたしかにむすこたちをおだやかにたしなめました。しかしそれも彼らの素行がいっそうひどく,悪名高いものになったからでした。「エリは…その子らがイスラエルの人々にしたもろもろのことを聞き,また会見の幕屋の入口で勤めていた女たちと寝たことを聞いて…」。エリのむすこたちは神の律法のもとでは死に価しましたが,それでもエリはその不道徳な者を職務から追放してエホバのこらしめを与えることをしませんでした。そのためにエホバは,エリの家の力を断ち,2人のむすこは同じ日に死ぬであろうと宣告されました。それでもエリはむすこたちに対して懲戒処置をとらず,職にとどまることを許していました。それで最後にエホバは,預言者サムエルを通して宣言されました。「わたしはエリに,彼が知っている悪事のゆえに,その家を永久に罰することを告げる。その子らが神をけがしているのに,彼がそれをとめなかったからである」。エリは自分の子供を幼い時から甘やかしていたようです。そしてむすこの非行が評判になった時も,エリは老いていて,懲戒処分をすべきところを,おだやかに意見しただけでした。そこまできてもなおエリは,父としても,大祭司としても,イスラエルのさばき人としてもエホバのこらしめを与えなかったのです。それをしなかったことに対して神はエリに責任をとわれました。「エリの家の悪は,犠牲や供え物をもってしても,永久にあがなわれないであろう」。―サムエル前 2:12–3:14,新口。
15 エホバのこらしめを与えないなら,それは今日,クリスチャンの父親にどう影響しますか。それで神はこの問題をどのように見られますか。
15 エホバのこらしめを与えるか否かについて,両親がエホバの前に非常に重い責任をもっているので,クリスチャンの使徒は,会衆の監督になるための資格について述べるさいに,こう書いています。「さて,監督は…自分の家をよく治め,謹厳であって,子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。自分の家を治めることも心得ていない人が,どうして神の教会〔会衆=新世〕を預かることができようか」。父親がエホバのこらしめに従って子供たちを育てることに怠慢なのは,エホバの目に小さなことではありません。―テモテ前 3:2,4,5,新口。
16 新聞が示しているように,エホバの道に従って子供を育てればどんな良い結果がありますか。
16 子供が自分にも両親と同じく神に対して責任があるということを知って「エホバのこらしめと権威ある教え」とに従って育てられるとき,それから生ずる結果は明らかです。ある新聞記者は,1961年にヤンキー野球場で開かれたエホバの証者の「一致した崇拝者の地域大会」を訪ねたとき,多くの若い人々が出席しているのを見て,1961年8月2日付のクィーンズ・カウティ(ニューヨーク)・ポストの第一面に次のような記事を書きました。
「今日の多くの青少年犯罪,多くの行儀の悪い子供たち,若者が年長者を尊敬しないこと,20歳未満の者たちの犯す犯罪が毎年激増していることなどを見ている人は,青少年犯罪の問題などもたぬ何万という家族によって構成される一大組織を見るときに,突然足を止める。そして当然,なぜだろうかと考える。…子供のことになるとエホバの証者は,彼らがいつも生活のあらゆる面にかんして助言を求めるのと同じ本,すなわち聖書から助言を得る。非行と戦う最善の方法は非行を防ぐことだ,とエホバの証者は信じている。多数の若いエホバの証者が,いたずらをする代りに宣教を行い,あてもなく歩きまわる代りに証言し,うろつく代りに伝道するのを見るなら,あなたはすぐにそれに共鳴するだろう。ここヤンキー野球場にいる若人の様子が,1年に1回のユース・リバイバル風のものではなく,1年を通じてそういう生活をしていることを示すものであることは,すぐに認められる。いまの世界状勢は,ある若い人を,『いざ飲み食いせん,明日死ぬべければなり』式の考えをもった,目標のない,スリルばかりを追い求める者にするのだが,若い証者には責任感を養わせている。彼らはより良いものを,確信をもって期待しており,それを仲間の人間に知らせることを望んでいる。彼らはまさに人生の真の目的をもっており,その目的の重要性が,現代の若者に欠けている価値感というものを彼らに与えているのである」。
神のみこころを行なうために残されている時間
17 (イ)責任について言えば,神の言葉に従って生活しない多くの人々について聖書は何を示していますか。(ロ)もし変らないなら,神に不従順な人々の行く末はどんなものですか。
17 もちろん全部の人が献身したエホバの崇拝者であるわけではありません。しかしすべての人はさばきに直面しなければなりません。もし神の真の崇拝者たちが言い開きをしなければならないとすれば,神のみこころを行なわずに,異邦人の好みに従って事を行ないつづけている人類の大半はいったいどうなるでしょうか。使徒ペテロは言いました。「さばきが神の家から始められる時がきた。それが,わたしたちからまず始められるとしたら,神の福音に従わない人々の行く末はどんなであろうか。また義人でさえ,かろうじて救われるのだとすれば,不信なる者や罪人は,どうなるであろうか」。彼らが行いを変えない限り,神の『福音に従わない人々の行く末は』,「主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。その時,主は神を認めない者たちや,わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し,そして,彼らは…永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう」。―ペテロ前 4:17,18。テサロニケ後 1:7-9,新口。
18 「刑罰」をのがれたい人は何をやめねばなりませんか。そして信仰のない人はだれに申し開きをしなければなりませんか。
18 今日,人類の大多数はこの世の楽しみにふけっています。しかしもし私たちが,ハルマゲドンの時彼らのうえにのぞむ「刑罰」からのがれたいと思うなら,使徒ペテロが述べているような事柄にこれ以上時間をついやすことはもはやできません。「過ぎ去った時代には,あなたがたは,異邦人の好みにまかせて,好色,欲情,酔酒,宴楽,暴飲,気ままな偶像礼拝などにふけってきたが,もうそれで十分であろう。今はあなたがたが,そうした度を過ごした乱行に加わらないので,彼らは驚きあやしみ,かつ,ののしっ
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