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    ものみの塔 1973 | 3月1日
    • 崇拝を行なうための唯一の真の神殿

      「また,天にある神の神殿の聖所が開かれ,神の契約の箱がその神殿の聖所の中に見えた」― 黙示 11:19,新。

      1 世の地上の事がらは今日どのように取材されていますか。

      今日,地球上の四方八方から,それも膨大な量のニュースがどっと押し寄せてくるため,普通の人はついてゆけないほどです。それはあまりにも多種多様で,当惑させられるほどです。この世の地上の事がらは,雑誌,新聞,電報,電話,ラジオ,テレビその他のあらゆるニュース機関によってかなりよく取材されています。

      2 それら現代の報道機関は,真剣な考慮に値するどんなニュースをいつも見過ごしてきましたか。

      2 しかしながら,それら報道機関のすべてがいつも見過ごしている非常に重要なニュースがあります。それは大いに真剣に考慮されるにふさわしいニュースです。それは,報道価値を有する年となった西暦1914年以来,国際戦争や政治政府の変革を見た現代の人類社会で生じてきた一連のできごととともに起きてきました。この珍しいニュースとなるできごとは,人類史の20世紀の現代に生ずるよう事前に定められていました。それは,霊感を受けて事前に書かれた歴史,すなわち神聖な預言の中で,およそ19世紀前にわたしたちのために予告され,記述されました。その預言的な報告を今読んでみると,世界情勢の中で起きている事がらとこのニュースとの関係がわかります。

      3 そのようなニュースとなる事がらをどこから調べ出せますか。それは何と述べていますか。

      3 そのニュースとなる事がらを聖書巻末の書,すなわち黙示録の11章15-19節〔新〕を読んで調べてみましょう。『第七のみ使いラッパを吹きしに,天に数多の大いなる声ありて「この世の〔王国〕は我らの主およびそのキリストの〔王国〕となれり。彼は世々限りなく王たらん」と言う。かくて神の前にて座位に座する二十四人の長老ひれふし拝して言う,「今いまし昔います主たる全能の〔エホバ〕神よ,なんじの大いなる能力を執りて王となりたまいしことを感謝す。諸国の民,怒りをいだけり,なんじの怒りもまたいたれり,死にたる者を審き,なんじのしもべなる預言者および聖徒,また小なるも大なるもなんじの名を畏るる者に報いをあたえ,地を滅ぼす者を滅ぼしたもう時いたれり 『かくて天にある神の〔神殿の聖所〕ひらけ,〔神の契約の箱がその神殿の聖所の中に〕見え,数多のいなずまと声といかづちと,また地震と大いなる雹とありき』。

      4 (イ)そのニュースに関連して,この世に対する王国による支配については何と言わなければなりませんか。(ロ)「神の契約の箱」が神殿の聖所の中にあるということは何を表わしていますか。

      4 さて,この預言的なニュースに関して今日どんな注解を述べるのはふさわしいことですか。それはこうです。1914年以来,諸国家の民主主義陣営と共産主義陣営との間で人類世界の支配を目ざして戦いが行なわれてきたにもかかわらず,その1914年以来,大いなる力を執って王として支配を開始したのは,永遠に生きておられる全能者,エホバ神です。その年に確かに『この世の〔王国〕はわれらの主[神]およびそのキリスト』すなわち神のみ子イエス・キリストの『王国』となりました。「世の王国」の現在の所有者である全能者,エホバ神はその神殿の聖所に来られたのです。その聖なる場所におけるエホバの臨在は,「神の契約の箱」と呼ばれる聖なる容器で象徴されました。その「箱」の大きさや形については,それを見たクリスチャンの使徒ヨハネは何も述べてはいませんが,それは主なる神の臨在を表わすものでした。わたしたちはその神を見ることもできませんし,人間の言語をもってしてはその神を十分に描写することもできません。この象徴的な「箱」は,西暦33年以来有効になった,神と人間との間の「新しい契約」の箱なのです。

      5 歴史的見地からすれば,神殿とは何ですか。あらゆる国民が,限りない命を得るには,どんな神殿で崇拝を行なわなければなりませんか。

      5 歴史の記録が示すとおり,神殿とは神もしくは神々に対する奉仕や崇拝のためにささげられた建物または場所を意味します。前述の『神の契約の[象徴的な]箱』の場合,その神殿の聖所というのは,全能者エホバ神の神殿の聖所のことです。義者と不義者に対する約束の復活によって諸国の民を死からよみがえらせることが必要であるにしても,あらゆる国民が一致して崇拝を行なうためには,これからもこの神聖な神殿に来なければなりません。(黙示 11:18。使行 24:15)これこそ,予定の時に全地が楽園と化すこの地上で,あらゆる国民が限りない命を得ることのできる唯一無二の方法です。それらの人びとは,「世の王国」の神聖な所有者を認め,そのかたを崇拝し,そのかたに仕えなければなりません。そのかたはご自分の神殿の聖所で王として永遠に支配します。―黙示 11:15,新。

      6,7 楽園に住む人たちがこの神殿で崇拝を行なうことに関してどんな質問が生じますか。神殿のような建造物の中に神が住まわれるかどうかについてソロモンは何と述べましたか。

      6 この崇拝は楽園の地で行なわれる以上,国々の民は天に行くのではないということを意味していますか。では,彼らが天に行かないとすれば,黙示録 11章19節は『天にある神の神殿の聖所』について述べている以上,それらの人はいったいどうして神の神殿に行けるのでしょうか。ここではこれは当を得た質問といえます。しかし,わたしたちは,天にある,壁と出入口のついた建物もしくは建造物としての神の神殿の聖所について考えるゆえに,その質問は当を得ているのでしょうか。では,西暦前11世紀の著名な神殿建造者がその神殿の落成式にさいして述べたことばを思い起こしてみましょう。その建造者とは,エルサレムのモリア山上にその種のものとしては最初の神殿を建てた賢い王ソロモンです。ソロモンは神に語りかけて,こう言いました。

      7 『神はたして地の上に住みたもうや 視よ天ももろもろの天の天もなんじを容るに足らず ましてわが建てたるこの家をや』― 列王上 8:27。

      8 「契約の箱」はどこに置かれていましたか。それは何を表わしましたか。それで,神殿の至聖所は何を表わしましたか。

      8 ソロモン王の建てた神殿の聖所の一番奥の部屋は,奥行き・幅・高さがいずれも20キュピトの完全な立方体で,その部屋は至聖所と呼ばれました。確かにそれは,物質でできた地上の「エホバの契約の箱」を収めるには十分の大きさの部屋でした。その箱には,神の指で十戒がしるされた2枚の石の板が収められていました。(列王上 6:19,20,新; 8:6-9。出エジプト 34:1,27,28; 40:20)しかし,その一番奥の部屋つまり至聖所といえども,天と地の創造者であるエホバ神ご自身が臨在するに足りる大きさのものなどとはとても言えません。契約の箱は,神に仕える大祭司が毎年,贖いの日に,罪を贖う犠牲の血をそれに向かってふりかけた神聖な器物でした。このように契約の箱は,天のエホバ神の王座を表わしていました。このことと一致して,契約の箱の収められていた,神殿の至聖所は,広大無辺の天の,神ご自身の聖なる住まいとなっている部分を表わしていました。そこは神が臨在するに足りる広大な所です。

      「天幕」もしくは「幕屋」

      9 ソロモンの神殿はどんな建造物の型にならって造られましたか。その建造物の仕切り室に出はいりしたのはだれですか。

      9 ソロモン王の建立した神殿の聖所は,アラビアのシナイ山の荒野で預言者モーセが建てた神聖な天幕,つまり幕屋の型にならって造られました。その天幕の内部には,それぞれ奥の幕で隔てられた2つの仕切り室がありました。祭司たちが,中庭に面する外側の幕をくぐって中にはいったその第1の仕切り室は,〔聖なる所〕と呼ばれました。大祭司が奥の幕をくぐって中にはいった一番奥の仕切り室は,至聖所と呼ばれました。大祭司は,至聖所にはいる場合には,至聖所に香の煙を満たすべく,香をたく器,つまり,つり香炉を携えてゆきました。金でできた契約の箱に向かって大祭司が贖いの日の犠牲の血をふりかけることができる態勢を整えるために香がたかれたのです。クリスチャンの使徒パウロはヘブル書 9章2-10節〔新〕でこのことを次のように述べています。

      10 ヘブル書 9章2-10節によれば,それらの仕切り室にはどんなものが入れられていましたか。だれがそれらの仕切り室にはいりましたか。いつはいりましたか。

      10 『設けられたる〔天幕の第一の仕切り室〕ありき,前なるを〔聖なる所〕と称え,そのうちに燈台とつくえと供えのパンとあり。また第二の幕の後ろに至聖所と称うる〔天幕の仕切り室〕あり。その中に金の香壇と金にてあまねく覆いたる契約の〔箱〕とあり,この中にマナを納れたる金の壺と芽したる[大祭司]アロンの杖と契約の石碑とあり,〔箱〕の上に栄光のケルビムありて〔なだめの覆い〕を覆う。これらの物につきては,今いちいち言うことあたわず,これらのものかく備わりたれば,祭司たちは常に〔天幕の第一の仕切り室〕に入りて礼拝をおこなう。されど〔第二の仕切り室〕には大祭司のみ年に一度おのれと民との過失のために献ぐる血を携えて入るなり。これによりて聖霊は〔第一の天幕〕のなお存するあいだ,〔聖なる場所〕に入る道のいまだあらわれざるを示したもう。この〔天幕〕は〔今すでに来ている定められた時〕のために設けられたる比喩なり…(これらは)改革の時まで負わせられたるのみ』。

      11 その「天幕」は,昔の何ものかを,それとも後代の何ものかを表わしましたか。

      11 ここで筆者が,預言者モーセの建てた聖なる天幕は『今すでに来ている定められた時のために設けられたたとえなり』と述べている点に注目してください。この筆者の場合,その『今すでに来ている時』とは西暦61年ごろ,つまり,ローマの軍隊が西暦70年にエルサレムの神殿を滅ぼす9年前のことでした。それはまた,イエス・キリストが死んで復活し,昇天してから28年後のことでした。ですから,モーセの建てたその天幕は,預言者モーセの時代以前の何ものかではなく,後代の何かを表わす『比喩』でした。大祭司エリの時代にその比喩的な「天幕」は「神殿」と呼ばれるようになりました。(サムエル前 1:9; 3:3,新。またサムエル後書 22:7と詩篇 18:6; 27:4をも比べてください。)このようなわけで,モーセの建てた天幕もしくは神殿は,モーセの時代以前に存在した神殿を表わすものではありませんでした。

      12 モーセ以前のエホバの忠実な証人たちは地上で神殿を建てましたか。当時,エホバご自身は天に神殿を持っておられましたか。

      12 モーセ以前の時代を振り返ってみても,エホバ神の忠実な崇拝者のだれかが地上で神殿を建てたという記録は一つもありません。『サレムの王にていと高き神の祭司』であったメルキゼデクですら神殿を建てませんでした。(ヘブル 7:1。創世 14:18-20)アベル,ノア,アブラハム,イサク,ヤコブそしてヨブなどの,エホバ神の忠実な証人たちは,神に犠牲をささげはしましたが,神のための神殿を建てたことはありません。では,エホバ神は,物質でできた神殿を地上に持っていないとはいえ,天では神殿を持っていましたか。いいえ,持っていませんでした! すなわち,モーセの建てた天幕やソロモン王の建立した神殿で表わされるような神殿を神はお持ちになってはいませんでした。

      13 神の創造活動の六日目の終わりの当時,神殿を必要としなかったのはなぜですか。預言的な文書の中でエホバの神殿に言及した箇所はどのように理解すべきですか。

      13 エホバ神がエデンの園でアダムとエバを完全な人間として創造したとき,確かに天ではそのような神殿は必要ではありませんでした。なぜでしたか。なぜなら,創造の日の六日目の終わりに完全な男女が創造され,そして,『神その造りたるすべての物を視たまいけるにはなはだ善りき』と言われたのちの当時は,天でも,また地上でも,どんな創造物にも罪が少しもなかったからです。神が大祭司を用いて,罪を贖う犠牲をささげさせる必要もなければ,罪のための供え物をささげる,神殿の中庭の祭壇も必要ではありませんでした。(創世 1:26-31; 2:7-24)詩篇 11篇4節,ミカ書 1章2節,ハバクク書 2章20節などに見られる神殿に言及したことばは,預言的な意味を持つものであって,それはモーセが天幕の神殿を建てたり,あるいはソロモンがエルサレムに神殿を建立した後に書かれました。それらの神殿は,後代に存在することになっていた霊的な神殿を表わす,もしくは予表するものでした。

      14 エホバの真の神殿が西暦33年のペンテコステの日に存在するようになったかどうかを問うのはなぜですか。

      14 それでは,モーセの建てた天幕やソロモンが建立した神殿によって表わされた真の神殿はいつ存在するようになりましたか。それは,クリスチャン会衆もしくは教会が設立された西暦33年のペンテコステの祭りの日でしたか。こう尋ねるのは,使徒パウロが当時のクリスチャン会衆にあてて次のように書き送ったからです。『汝ら知らずや,汝らは神の〔神殿〕にして神の御霊なんじらの中に住みたもうを。人もし神の〔神殿〕を毀たば神かれを毀ちたまわん。それ神の〔神殿〕は聖なり,汝らもまたかくのごとし』。(コリント前 3:16,17〔新〕)このことばからすれば,モーセの建てた天幕やソロモン王や総督ゼルバベルまたヘロデ大王がエルサレムに建立した神殿によって表わされた,もしくは予表されたのは,比喩的な神殿としてのクリスチャン会衆だったと考えられるでしょう。しかし,はたしてそうでしょうか。この問題についてパウロ自身は何と答えていますか。

      15 大祭司としてのイエス・キリストについてヘブル書 9章11,12節は何と述べていますか。

      15 それでは,ヘブル書 9章に戻って,さきほど読んだ箇所に続くパウロの説明のことばをさらに読んでみましょう。『されどキリストは来らんとする善き事の大祭司として来り,手にて造らぬこの世に属せぬさらに大いなる全き〔天幕〕を経て,やぎと犢との血を用いず,おのが血をもてただ一たび〔聖なる場所〕に入りて,永遠の贖罪を終えたまえり』― ヘブル 9:11,12〔新〕。

      16 ユダヤ人の贖いの日に,イエスはご自分の血を携えてエルサレムの神殿の至聖所にはいりましたか。それとも,イエスは,神殿としてのクリスチャン会衆にはいったのでしょうか。

      16 イエス・キリストはユダヤ人の贖いの日(チスリ10日)に犠牲の死を遂げて,エルサレムに立つヘロデの神殿の至聖所にみずからの血を携えて,はいったわけではありません。イエスは決してそうすることができませんでした。彼はレビ人の大祭司ではありませんでした。当時のユダヤ人の大祭司はカヤパで,彼は贖いの日に若い雄牛と山羊の血を携えてエルサレムの神殿の至聖所にはいりました。しかし,イエス・キリストはそうしませんでした。それでは,イエス・キリストはご自分の血を携えてどんな「聖なる場所」にはいったのでしょうか。地上にあるクリスチャン会衆にはいったのではありません。というのは,クリスチャン会衆はイエスの復活の日にも,また西暦33年のペンテコステの10日前のイエスの昇天の日にもまだ設立されてはいなかったからです。では,そのペンテコステの日以前にイエス・キリストがはいった「聖なる場所」とは何ですか。もう一度ヘブル書 9章を開いて,パウロに答えてもらいましょう。

      17 ヘブル書 9章23,24節によれば,大祭司としてのイエス・キリストはどこにはいりましたか。

      17 パウロは述べます。『このゆえに天にあるものにかたどりたる物はこれらにて潔められ,天にある物はこれらに勝りたる犠牲をもて潔めらるべきなり。キリストは真のものにかたどれる,手にて造りたる〔聖なる場所〕に入らず,〔天そのもの〕に入りて今よりわれらのために神の前にあらわれたもう』― ヘブル 9:23,24〔新〕。

      真の神殿が存在するようになる

      18,19 (イ)神は,イエス・キリストがはいった,あの真の至聖所にどのようにして住んでおられますか。(ロ)そこにはいるために,イエス・キリストはどんな障害物を通過しなければなりませんでしたか。ヘブル書 6章18-20節によれば,それはどのように表わされていましたか。

      18 パウロに感謝しなければなりません。というのは,喜ぶべきことに,そのことばから,復活したイエス・キリストがご自身の犠牲の血の価値を携えてはいったのは,その少数の弟子たちのいる地上の聖なる場所ではなく,「天そのもの」であることがわかるからです。そこは『神のみ前』であり,神が霊によってではなく,みずから住んでおられる所なのです。しかしながら,その真の「聖なる所」すなわち「天そのもの」は,真の神殿のすべてではありません。なぜですか。なぜなら,神がその霊によって住まれた場所である,手で作った地上の天幕や神殿の至聖所は,それら神聖な建造物のすべてではなかったからです。至聖所はそれら地上の建造物の一番奥の部屋にすぎず,それは第一の仕切り室から幕で隔てられていました。(マタイ 27:50,51)この内側の幕は,イエスが天の至聖所にはいるために通過しなければならなかった肉体の障害物すなわちイエスご自身のからだ,つまりその人間性を表わしていました。この希望について語ったパウロはこう述べます。

      19 『おのれの前に置かれたる希望を捉えんとてのがれたるわれらに強き奨励を与えんためなり。この希望はわれらの〔魂〕の錨のごとく安全にして動かず,かつ幕のうちに入る。イエスわれらのために前駆し,とこしえにメルキゼデクの位に等しき大祭司となりて,その所に入りたまえり』― ヘブル 6:18-20〔新〕。

      20 天幕の「聖なる所」は,どのようにして中庭から隔てられていましたか。その中庭には銅製のどんな物件がありましたか。

      20 ここで,天幕もしくは幕屋の第一の仕切り室は聖なる所と呼ばれており,それは神殿の聖所の外の中庭から幕,もしくは仕切りで隔てられていました。その中庭の,神殿の聖所の前(もしくは東)には大きな銅の祭壇がありました。

      21 ユダヤ人の祭司たちには,どんな祭壇から食べる権利がありませんか。この祭壇はだれの犠牲と関係がありますか。

      21 神殿の聖所そのものと同様,この祭壇も模型的なものでした。使徒パウロは,ユダヤ人の祭司とバプテスマを受けたキリストの弟子たちとの違いを述べるにさいして,この点を示し,こう語っています。『われらに祭壇あり,幕屋につかうる者はこれより食する権をもたず。大祭司,罪のために生き物の血を携えて至聖所に入り,その生き物のからだは陣営の外にて焼かるるなり。このゆえにイエスもおのが血をもて民を潔めんがために,門の外[すなわちエルサレムの門の外]にて苦難を受けたまえり』。(ヘブル 13:10-12)したがって,キリスト教に関する場合,その祭壇はイエスの人間としての犠牲に関係があります。しかし,その対型的な祭壇とは何ですか。また,地上の天幕もしくは神殿の第一の仕切り室,つまり聖なる所の対型は何ですか。聖書の助けを用いてこの問題を解いてみましょう。

      22 (イ)神殿の奥の幕は何を表わしていましたか。イエスはどのようにしてそれを通過しましたか。(ロ)したがって,その幕の外側もしくは東側にあるものはすべて,どんなものと関係がありましたか。

      22 神殿の至聖所と聖なる所の間の奥の幕は,区分する線を表わしています。それはイエス・キリストがご自分の人間としての完全な肉体を犠牲としてささげて,それを永遠に捨てることによって通過しなければならなかった肉体の障害物を表わしています。さて,奥の幕の内側の仕切り室である至聖所は,神が霊によってではなく,みずから住んでおられる「天そのもの」を表わしているのですから,その幕の外側(あるいはその東側)にあるものはすべて,見えない天の何ものかではなくて,この地上にある何ものかを表わしているといえるでしょう。それは,この地上でエホバ神を崇拝し,エホバに仕える人たちの肉のからだと関係があります。したがって,このことは銅の祭壇にもあてはまります。ソロモンおよびヘロデの建てた神殿の場合,祭壇は奥の中庭,もしくは祭司の中庭に設置されました。その中庭では,大祭司や従属の祭司たちが犠牲を備える務めを行ないました。その祭壇は何を予表するものでしたか。

      対型的な祭壇

      23,24 (イ)イエスは,「世に」来たとき,犠牲に対する神の態度に関して何と言いましたか。なぜですか。(ロ)それで,何が取り除かれましたか。クリスチャンはキリストの犠牲を通して何によってきよめられましたか。

      23 使徒パウロはヘブル書 10章の中でこの点を明らかにしています。神の大祭司としてのイエス・キリストがご自分の血の価値を携えて,わたしたちのために神のみ前に現われるべく,どのようにして天そのものにはいったかを述べたのち,パウロはこう続けます。

      24 『それ律法は来らんとする善き事の影にしてまことの形にあらねば,年ごとにたえず献ぐる同じ犠牲にて,神にきたる者をいつまでも全うすることを得ざるなり。…これ牡牛と山羊との血は罪を除くことあたわざるによる。このゆえにキリスト世に来たるとき言いたもう「なんじ犠牲と供え物とを欲せず,ただわがためにからだを備えたまえり。なんじ燔祭と罪祭とを喜びたまわず,その時われ言う 『神よ,われなんじの〔意志〕を行なわんとて来たる』 我につきて書の巻にしるされたるがごとし」と。先には「なんじいけにえと供え物と燔祭と罪祭と(すなわち律法にしたがいて献ぐる物)を欲せず,また喜ばず」と言い,後に「視よ,われなんじの〔意志〕を行なわんとて来たる」と言いたまえり。その後なる者を立てんために,その先なる者を除きたまうなり。この〔意志〕に適いてイエス・キリストのからだのひとたび献げられしによりてわれらは潔められたり』― ヘブル 10:1-10〔新〕。

      25 では,イエスがやって来て,犠牲としてご自身をその上にささげた祭壇とは何でしたか。

      25 このことばから,神殿の中庭の銅の祭壇に相当する対型とは神の「意志」,つまり神がみずから整えた完全な人間の犠牲を喜んで受け入れようとする神の意志であることがわかります。神のこの「意志」は,巻物の書にしるされた事柄の中で予告されていました。(詩 40:6-8)神はアブラハムの息子イサクの不完全な人間としての犠牲を受け入れることを快しとはしませんでしたが,ご自分のひとり子,イエス・キリストの完全な人間としての犠牲を喜んで受け入れました。神は年ごとの贖いの日の動物の犠牲をいつまでも欲したり,是認したりしておられたのではありません。かえって,神はご自分の意志と目的に従って,人間の罪を贖い,ほんとうに「罪を除く」完全な人間の犠牲をまさしく欲しておられたのです。イエス・キリストは神の意志を行なうために来ました。そして,祭壇の上でなされるように,神の意志を基盤としてその上で,人間の犠牲としてささげられた完全なイエスは受け入れられ,また備えられたイエスの完全な人間のからだがささげられました。神の「意志」という祭壇の上でささげられたこの完全な人間の犠牲は,ほんとうにキリストの弟子たちを清めるものとなりました。パウロが,『この〔意志〕に適いてイエス・キリストのからだのひとたび献げられしによりてわれらは潔められたり』とつけ加えたのはそのためです。―ヘブル 10:10〔新〕。

      26 クリスチャンの従属の祭司はその「祭壇」から食べますが,ユダヤ人の祭司にはそうする権利がないのはなぜですか。

      26 また,パウロがあとの箇所で次のように述べたのもやはりそのためです。『われらに祭壇あり,幕屋につかうる者はこれより食する権をもたず。…このゆえにイエスもおのが血をもて民を潔めんがために,門の外にて苦難を受けたまえり』。(ヘブル 13:10-12)つまり,われらとは霊的な従属の祭司のクリスチャンたちのことですが,それらの人たちは神の「意志」という祭壇にささげられた罪を贖う犠牲を持っています。しかし,エルサレムのヘロデの神殿で仕える祭司たちは,この祭壇にささげられた犠牲を食べる権利はありません。なぜなら,彼らはエホバの真の大祭司で,エホバの新しい契約の仲介者であるイエス・キリストに対する信仰に欠けていたからです。

      27 イエスはいつご自身を犠牲としてささげましたか。それで,犠牲を供える基盤となるどんなものが存在するようになりましたか。また,対型的などんな「日」が始まりましたか。

      27 完全な人間としてのイエスは,巻物の書に述べられているように,神の「意志」という祭壇に供える犠牲となるため,いつご自身をささげましたか。それは西暦29年にヨルダン川で浸礼を受けるため,ご自身をバプテスマのヨハネに渡した時でした。エホバ神が,みずからを犠牲にしたイエスを受け入れたことは明らかです。なぜなら,イエスが水のバプテスマを受けたのち,エホバはご自分の聖霊をイエスの上に注ぎ,イエスをキリストつまり油そそがれた者とし,また人に聞こえるように天から,『これはわが愛しむ子,わが喜ぶ者なり』と述べたからです。(マタイ 3:13-17。ヨハネ 1:29-34)したがって,その時,神の対型的な祭壇が存在するようになり,またその上に,受け入れられうる罪祭が備えられました。その時以降,イエス・キリストは,ご自分の人間としての犠牲を死に至るまで管理しながら,対型的な祭司の中庭を歩んでゆかれました。大いなる対型的な贖いの日は始まりました。そして,神の大祭司,イエス・キリストは,チスリ10日の年ごとの贖いの日にエルサレムの神殿でアロンの家系の大祭司が行なったと同様の仕方で,神の真の霊的な「祭壇」で仕えていたのです。―ヘブル 8:1-6。

  • 崇拝を行なうための唯一の神殿にあらゆる国民を集める
    ものみの塔 1973 | 3月1日
    • 崇拝を行なうための唯一の神殿にあらゆる国民を集める

      1 エホバはどのようにしてイエスを霊的な祭司にしましたか。そのとき,どんな霊的な聖所が形を整えましたか。

      今やエホバ神の大いなる霊的な幕屋の聖所が形を整えました。どうしてそう言えますか。なぜなら,今や神の霊的な神殿の対型的な「聖なる所」が存在するようになったからです。それというのも,神がイエスに聖霊を注いで,イエスを霊的な祭司としたからです。神はイエスをご自分の霊的な子とするために,ご自身の霊をもってイエスを生み出し,アロンの家系の地上のユダヤ人の大祭司の祭司職よりも位の高い祭司職の誉れをイエスに与えました。

      2 こうしてイエスはどんな状態にはいりましたか。イエスはエホバの霊的な神殿のどんな部分にはいることができましたか。そこで何をするためでしたか。

      2 それで,パウロはこう書きました。『キリストもおのれを崇めて自ら大祭司となりたまわず。これに向かいて「なんじはわが子なり,われ今日なんじを生めり」と語りたまいし者,これを立てたり。またほかの篇に「なんじは永遠にメルキゼデクの位に等しき祭司たり」と言い給えるがごとし』。(ヘブル 5:4-6)こうしてイエスは,依然肉のからだのままではありましたが,霊によって生み出された状態にはいりました。このような状態にはいったので,イエスはエホバの霊的な神殿の対型的な「聖なる所」にはいることができたのです。イエスはその「聖なる所」で,祈りと賛美と奉仕という香を実際の香のように神にささげることができました。

      3 (イ)また,エホバの霊的な神殿の他のどんな仕切り室も形を整えましたか。その内部のどんな特色も整いましたか。(ロ)こうして,エホバの霊的な神殿はいつ以降その機能を働かせはじめましたか。

      3 また今や,神の霊的な神殿の至聖所も形を整えました。それはすなわち,神の座もしくは「なだめの覆」と呼ばれた,契約の箱の金のふたの上に神がかつて臨在したように,エホバ神が天のケルブたちの上方の王座にみずから座しておられる天のあの一定の領域なのです。(詩 80:1。民数 7:89。ヘブル 9:4,5)今や至聖所の仕切り室もしくは一番奥の部屋の特色を帯びてきたその天の領域において,エホバは新しい契約の箱のなだめの覆いの上方の王座に座し,大いなる対型的な贖いの日の最高潮に至って,申し分のない罪祭,つまりご自分の大祭司イエス・キリストの完全な人間の犠牲によりエホバは進んで,また喜んでなだめられ,静められ,和らげられる用意が整いました。(レビ 16:1-34)こうして今や,対型的な至聖所および聖なる所,そして犠牲をささげる祭壇のある中庭を持つ,エホバ神の大いなる対型的な霊的な神殿が存在するようになりました。西暦29年にイエスがヨルダン川でバプテスマを受けて以来,エホバの真の神殿はその機能を続けており,それは全人類に対する祝福を差し伸べるものとなっています。

      4 (イ)エホバはいつイエス・キリストを「幕」の向こう側の真の至聖所に導き入れられましたか。どのようにしてそうしましたか。(ロ)対型的な贖いの日はいつ,またどのようにして終わりましたか。

      4 今や,大祭司としてのイエス・キリストをエホバの真の至聖所から隔てているものは,あの象徴的な「幕」,つまり肉のからだというあの障害物だけです。『血肉は神の〔王国〕を嗣ぐことあたわず』とあるとおりです。(コリント前 15:50〔新〕)この理由でイエス・キリストは,西暦33年ニサン14日,過ぎ越しの日に罪のない犠牲者として死ぬことにより,神の「祭壇」の上でご自分の完全な人間として犠牲をささげることを完了しました。しかし,イエスの死後3日目,すなわちニサン16日に全能の神は,イエスを血肉を持つ大祭司としてではなく,「神の性質」を帯び,不滅性を与えられた霊者なる大祭司として死からよみがえらせました。そうすることによって,神はご自分の大祭司イエス・キリストを,あの介在する「幕」の向こう側に導き入れました。(ペテロ前 3:18。コリント前 15:42-54。ペテロ後 1:4)肉体という障害物を表わす,神殿のその「幕」は,復活させられたイエス・キリストについて言えば今や確かに取り払われました。ですから,その復活後40日目にイエスは,天そのものにはいり,罪を贖うご自身の血の貴重な価値を携えて神のみ前に現われ,全人類のためにそれを神のなだめのみ座でささげることができたのです。それをささげることによって,大いなる対型的な贖いの日は終わりました。

      霊的な従属の祭司たちの会衆

      5,6 (イ)イエス・キリストは岩としてのご自身の上に,いつご自分の会衆を建てはじめましたか。(ロ)会衆の成員はどのようにして霊的な従属の祭司となりましたか。ペテロ前書 2章5,9節はこのことについてどのように述べていますか。

      5 以上の事がらすべてに照らして考えてみると,モーセの建てた天幕や,ソロモンやゼルバベルそしてヘロデがエルサレムに建立した神殿はキリストの弟子たちの会衆を表わすものでないという事がらほどに明白なことはないでしょう。そのようなクリスチャン会衆は,イエスの復活後50日目に至るまで,したがってイエスが昇天し,それらクリスチャンのために「天そのもの」で神のみ前に現われた後になって存在するようになったのです。イエスはご自分のことを象徴的な岩と述べて,ご自分の十二人の使徒たちにこう言いました。『われこの岩の上にわが〔会衆〕を建てん,〔ヘーデス〕の門はこれに勝たざるべし』。(マタイ 16:18〔新〕)イエスは西暦33年のご自分の昇天の10日後のペンテコステの祭りの日に,その霊的な会衆を建て始めました。神から聖霊を受けたイエスは,地上のエルサレムで待機していた弟子たちにそれを注いで与えました。このようにして,それらの弟子たちは霊によって生み出された者となり,その結果,神の霊的な子たちとなりました。また,その同じ霊によって,彼らは大祭司イエス・キリストに従う霊的な従属の祭司となりました。(使行 2:1-36)使徒ペテロはこのことについてこう述べています。

      6 『なんじら彼にきたり,生ける石のごとく建てられて霊の家となれ。これ潔き祭司となり,イエス・キリストによりて神に喜ばるる霊の犠牲を献げんためなり。されどなんじらは選ばれたる族,王なる祭司・潔き国人・神に属ける民なり,これなんじらを暗黒より召して,おのれの妙なる光に入れたまいし者の誉れをあらわさせんためなり』― ペテロ前 2:5,9。

      7 霊的な従属の祭司たちについていえば,彼らはどんな対型的な場所に,また,霊的な神殿のどんな仕切り室に導き入れられていますか。それは,そのような所で何を行なうためですか。

      7 この「霊の家」は,イエス・キリストの従属の祭司たちである『生ける石』でできています。彼らはこう告げられています。『されば共に天の召しをこうむれる聖なる兄弟たちよ,我らが言いあらわす信仰の使徒たり大祭司たるイエスを思い見よ』。(ヘブル 3:1)こうした従属の祭司たちで成る家として彼らは,「イエス・キリストによりて神に喜ばるる霊の犠牲を献げ」ることになっています。(ペテロ前 2:5)ということは,それらの人びとは,神の対型的な「祭壇」の置かれている,これまた対型的な中庭に導き入れられたということを意味しています。彼らはその対型的な祭壇の上で,つまり神の「意志」という基盤の上に自分たちの「霊の犠牲」をささげるのです。このことはまた,彼らが神の霊的な子たちとして霊によって生み出された状態にあるという点で,神の霊的な神殿の対型的な第一の仕切り室,つまり「聖なる所」に導き入れたことをも意味しています。彼らはその場所で,あたかも七つの枝のある金の燭台から得るかのように霊的な啓発を享受し,供えのパンを載せた金の机からでも食べるかのように霊的な糧を食べ,また奥の幕の前に据えつけられていた金の香の祭壇のそばに立っているかのように祈りと賛美をささげてエホバ神に仕えています。

      8 (イ)それで,天幕もしくは神殿の聖なる所は何を表わしていましたか。(ロ)祭司の中庭は何を表わしていましたか。

      8 このような見地からすれば,神殿の聖なる所は,神の霊的な祭司職の成員が依然地的なからだで,つまり肉体のままで留まってはいても,その祭司たちの霊によって生み出された状態を表わす,もしくは予表していたことがわかります。それはあたかも幕によって局外者からは仕切られてでもいるかのような,神との特別な霊的関係なので,局外者はそれを見分けることも,あるいは認識することもできません。銅の祭壇が置かれていた祭司の庭は,神に対して彼らが人間として有している特別の立場を表わしています。神は彼らをご自分の霊的な祭壇で仕えるには不適当な,有罪の宣告を受けた不完全な罪人とは見ずに,悔い改めて転向し,バプテスマを受けたイエス・キリストの弟子とみなします。神は彼らを,神に対する信仰ゆえに,また大祭司イエス・キリストの贖いをなす血を通して,罪のない,義にかなった者とみなします。(ロマ 5:1,9; 8:1; 3:24-26)それで,銅の祭壇のある神殿の中庭は,神の霊的な従属の祭司たちの肉のからだの点での正しい立場を表わす,もしくは予表しています。

      9 (イ)それらの霊的な従属の祭司たちは,どのようにして対型的な至聖所にはいりますか。彼らは罪を贖う犠牲を携えてはいるのでしょうか。(ロ)彼らはその至聖所でどのようにして奉仕しますか。

      9 「血肉は神の〔王国〕を嗣ぐこと」はできませんから,キリストに従う,霊によって生み出されたそれらの従属の祭司たちもやはり,神殿の奥のあの「幕」によって表わされている肉体の障害物を通過しなければなりません。彼らは地上で祭司職の務めを人間としての死に至るまで遂行することによって,その肉体の障害物を通過します。その後,神は,かつてキリストを復活させたと同様に,すなわち神の性質を持ち,不滅性と不朽性とをもって高められた霊者として彼らをご自分の予定の時に死から復活させるのです。それは,『[死にさいして]朽つる物にて播かれ,朽ちぬものによみがえらせられ』とあるとおりです。(コリント前 15:42-44。ロマ 6:4,5)こうして彼らは至高の神のみ前に招じ入れられますが,もちろん罪を贖う何らかの犠牲を神にささげる者として神のみ前に出るわけではありません。それはすべて対型的な贖いの日に,エホバの大祭司,イエス・キリストによって成し遂げられました。(ヘブル 10:19-22)しかし,彼らは復活させられて彼らの大祭司と天でともになるとき,『神とキリストとの祭司となり,キリストと共に千年のあいだ王』として支配します。―黙示 20:4,6。

      10 コリント前書 3章9,16,17節でパウロはクリスチャン会衆をどんな『建物』にたとえていますか。しかし,これをどう解してはなりませんか。なぜですか。

      10 彼らは地上にいるあいだ,いくつかの事物にたとえられています。たとえば,コリント前書 3章9節で使徒パウロは彼らに対してこう語りました。『なんじらは神の畑なり,また神の建築物なり』。それはどんな建物でしょうか。その答えは16,17節〔新〕にこう述べられています。『なんじら知らずや,なんじらは神の〔神殿〕にして神の御霊なんじらの中に住みたもうを。人もし神の〔神殿〕を毀たば神かれを毀ちたまわん。それ神の〔神殿〕は聖なり,なんじらもまたかくのごとし』。このことばは,彼らがモーセの建てた天幕やエルサレムの神殿によって表わされ,もしくは予表されていたとは述べていませんし,あるいは意味してもいません。ヘブル書でパウロが言及しているあの神殿には神がみずから住み,神ご自身がそこに臨在しておられるのです。しかし,パウロが会衆のことを神殿と述べている場合,その神殿には神がみずから臨在しておられるわけではありません。その象徴的な神殿には単に神の霊が宿っているにすぎません。神は単にご自分の霊によってそこに住んでおられるにすぎないのです。なぜなら,その成員は肉のからだで地上にいるからです。

      11 土台に関する事がらは,神殿としての会衆と天にあるエホバの神殿との違いをどのように示していますか。

      11 天にある神の神殿は,クリスチャンの使徒や預言者たちの土台の上に建てられているわけではありません。しかし,神殿としてのクリスチャン会衆は,クリスチャンの使徒や預言者たちの上に建てられています。エペソ書 2章20-22節〔新〕で使徒パウロはこう書いています。『なんじらは使徒と預言者との基の上に建てられたる者にして,キリスト・イエス自らその隅の首石たり。おのおのの建造物,かれにありて建て合わせられ,いや増しに聖なる〔神殿〕,〔エホバ〕のうちに成るなり。なんじらもキリストにありて共に建てられ,御霊によりて神の御住となるなり』。

      12 (イ)地上にある会衆は,その中に何が宿っているゆえに神殿にたとえられていますか。にもかかわらず,会衆は神の大いなる霊的な神殿のどこにはいっていますか。(ロ)地上における真の神の「神殿」として,会衆はみずからの内に何がはいり込むのを許してはなりませんか。

      12 この会衆がエホバ神の「神殿」と呼ばれているのは,キリストの霊的な従属の祭司たちの,調和を保って組織されたその一団の中に神の霊が宿っているからです。神はご自分の大いなる霊的な神殿の高い天の至聖所にみずから臨在しておられます。なお地上にいるこの神殿級の人たちは,その大いなる霊的な神殿の「聖なる所」と呼ばれる仕切り室の中にいるのです。この霊によって生み出された会衆は,エホバがご自分の霊によって住む地上の神殿にたとえられているゆえに,偶像崇拝あるいは偽りの神々の崇拝を会衆の中ではいっさい許してはなりません。使徒パウロは,「神の〔神殿〕と偶像と何の一致かあらん」と問い,次いでこう説明を加えています。『われらは生ける神の〔神殿〕なり,すなわち神の言いたまいしがごとし。いわく「われ彼らのうちに住み,また歩まん。われかれらの神となり,彼らわが民とならん」と』。―コリント後 6:16〔新〕。

      崇拝者たちで群がっている神殿の中庭

      13 霊によって生み出された会衆が地上から姿を消すとき,神殿の一つの仕切り室で表わされたどんな状態がなくなってしまいますか。

      13 神殿にたとえられている,霊によって生み出されたこの会衆は,聖なるものとして扱われなければなりません。やがて,この会衆は地上から姿を消します。それらの人たちが去るとともに,(エルサレムの神殿の仕切り室の聖なる所で表わされた)霊的な従属の祭司たちの,霊によって生み出された状態は存在しなくなります。それら霊的な従属の祭司たちは,肉のからだで死んで霊者として復活させられることにより,(神殿の奥の幕で表わされた)肉体の障害物を通過して天的な至聖所にはいります。

      14 黙示録 21章1,2節は,天の至聖所にいる14万4000人の従属の祭司たちの会衆をどのように描いていますか。

      14 エホバの霊的な神殿の14万4000人の従属の祭司たちにとって,その至聖所にはいり,ほかならぬエホバ神のみ前にいるのは何という聖なる特権でしょう。この特異な事がらは,エルサレムの神殿で仕えた従属の祭司たちの場合には描かれてはいませんが,聖書巻末の書の中でそれは美しく描かれています。そこでは,エホバの大祭司イエス・キリストのもとで仕える14万4000人の従属の祭司たちの会衆は,婚礼の日のキリストの花嫁にたとえられています。クリスチャンの使徒ヨハネは美しいことばづかいを用いて,この複合の花嫁を描写し,こう述べています。『我また新しき天と新しき地とを見たり。これ前の天と前の地とは過ぎ去り,海もまたなきなり。我また聖なる都,新しきエルサレムの,夫のために飾りたる新婦のごとく備えして,神のもとをいで,天よりくだるを見たり』― 黙示 21:1,2。

      15 神殿という建造物を持っているという点では,古代の地上のエルサレムと天的な新しいエルサレムはどのように比べられますか。

      15 古代の地上のエルサレムには西暦70年にローマの軍によってそれが滅ぼされるまで壮麗な神殿が立っていたことが思い起こされます。しかし,エルサレムの古い神殿が西暦70年に滅ぼされてから約26年後に使徒ヨハネが幻の中で見た天の新しいエルサレムについてはどうでしょうか。エホバは天の新しいエルサレムに関する喜ばしい描写をさらに続けて,こう述べます。『われ都の内にて〔神殿〕を見ざりき,〔エホバ〕なる全能の神および小羊はその〔神殿〕なり。都は日月の照らすを要せず,神の栄光これを照らし,小羊はその燈火なり。諸国の民は都の光のなかを歩(めり)』― 黙示 21:22-24〔新〕。

      16 14万4000人の従属の祭司の占めている位置にかんするどんな事実のゆえに,新しいエルサレムには神殿という建造物は不必要ですか。どうしてエホバご自身がその神殿なのでしょうか。

      16 天の新しいエルサレムには,神殿が,つまり,14万4000人の従属の祭司がそこで奉仕し,そのようにして中間の建物を通して神聖な奉仕を間接的に神にささげるための別個の建造物がどうしてなければならないのですか。それも,彼らはほかならぬ神のみ前にいて,『そのみ顔を見』ているではありませんか。(黙示 22:4)エホバ神ご自身が新しいエルサレムの神殿なのです。天の新しいエルサレムは神殿ではありません。そうではなくて,全能の神エホバが神殿なのです。エホバはその天の都のための神殿の場所に満ち,その場所を占めておられるのです。エホバは霊によってではなく,みずからそこに存在しておられるのですから,新しいエルサレムの住民,つまり14万4000人の従属の祭司が間接的に神を崇拝したり,神に仕えたりするための別個の建物を必要とするわけがありません。ですから,彼らは,小羊イエス・キリストの崇高な祭司職の取り決めの下で,神聖な奉仕を直接神にささげるのです。

      17 また,どうしてエホバ神とともに小羊も新しいエルサレムの神殿なのでしょうか。

      17 小羊がエホバとともに,新しいエルサレムの神殿を成しているのはそのためです。黙示録 21章22節に,『神および小羊はその〔神殿〕なり』とあるとおりです。イエス・キリストはみずからエホバの霊的な神殿のその至聖所にいます。彼は対型的な贖いの日の贖罪のための犠牲をすでに直接神にささげました。そして,メルキゼデクに似たエホバの大祭司として神の右に座しているのです。

      18 人びとはエホバの霊的な神殿のどんな場所で贖いの日の恩恵に浴するのですか。そのことを示すものとして,贖いの日の犠牲はだれのためにささげられましたか。

      18 その時,神殿の聖なる所と呼ばれた仕切り室で予表された,14万4000人の従属の祭司の,霊によって生み出された状態はもはや存在しないにもかかわらず,エホバの大いなる霊的な神殿の地的な中庭は存続します。地上でエホバの贖いの日の恩恵に浴する人びとは,そのような中庭でそうした恩恵に浴するのです。喜ばしいことにこれは,贖いの日の罪祭は単に祭司の家族のためだけでなく,神殿でエホバを崇拝した人たちの残りの者全部のためにもささげられたという事実と合致します。

      19 (イ)預言者ゼカリヤは,「その日」だれがエホバにつき,その恵みを請うであろうと述べましたか。(ロ)そのための備えを設けているかのように,エルサレムのヘロデの神殿には,ほかにどんな中庭がありましたか。ソロモンは神殿の献堂式にさいして,イスラエル民族の者でないどんな人びとのために祈りましたか。

      19 西暦前6世紀のこと,エルサレムの神殿の再建に関連して神の預言者ゼカリヤは預言を述べ,霊感を受けてこう語りました。『その日には許多の民エホバにつきてわが民とならん われなんじの中に住むべし』。『おおくの民強き国人エルサレムにきたりてエホバを求めエホバを和めん』。(ゼカリヤ 2:11; 8:22)イスラエル民族でない人びとがエホバの神殿に来てエホバを崇拝するというこの預言と合致するものとして,預言者ゼカリヤの時代に建てられた神殿に代わってヘロデ大王によって建てられた神殿には,祭壇のある祭司の中庭,またイスラエルの中庭,そして婦人の中庭があっただけではなく,さらに異邦人つまりイスラエル民族でない人びとの中庭もありました。それより何世紀も前でさえ,ソロモン王はエルサレムの最初の神殿の落成式にさいして,遠い土地からやって来てエホバの神殿に詣でる外国人のために祈りました。―列王上 8:41-43。歴代下 6:32,33。

      20 ゼカリヤのその預言は特にいつから成就を見てきましたか。わたしたちはなぜその成就をその時以来見ているのでしょうか。

      20 遠い昔,ゼカリヤが述べた預言は,現代においてすでに,特に西暦1935年以来,その成就を見てきました。ということは,エホバの霊的な神殿の聖なる所と呼ばれる仕切り室で仕えている,霊的な従属の祭司たちの残れる者が依然として地上にいる今,その預言が成就していることを意味しています。それゆえにこそ,地上のあらゆる場所からエホバの唯一の霊的な神殿の中庭に続々とはいってくる『大いなる群衆』は,なお地上にいるそれら霊的な従属の祭司たちと接触を持ち,交わりを持っているのです。西暦1935年は,エホバの崇拝者で,祭司ではないあの『大いなる群衆』が神殿に来るということが理解されはじめた年です。なぜなら,その記念すべき年に,『大いなる群衆』に関する黙示録 7章9-17節の預言が当時の事実に即して説明されたからです。(1935年8月1日および15日号の「ものみの塔」誌をご覧ください。)使徒ヨハネが見た黙示録の幻を調べてみると,崇拝者たちの国際的な『大いなる群衆』がエホバの神殿で対型的な仮庵の祭りを祝うのを見ているかのような気持ちがします。

      21 ヨハネは黙示録 7章9-15節でその『大いなる群衆』をどのように描いていますか。

      21 ヨハネは自分の見たことをこう述べています。『視よ,もろもろの国・族・民・国語の中より,誰も数えつくすこと能わぬ大いなる群衆,しろき衣をまといて手にしゅろの葉をもち,御座と小羊との前に立ち,大声に呼ばわりて言う 「救いは御座に座したもう我らの神と小羊とにこそあれ」…「かれらは〔大かん難〕よりいできたり,小羊の血におのが衣を洗いて白くしたる者なり。このゆえに神の御座の前にありて昼も夜もその〔神殿〕にて神につかう。御座に座したもう者は彼らの上に幕屋を張りたもうべし」』― 黙示 7:9-15〔新〕。

      22 (イ)神の霊的な神殿に関連して,その『大いなる群衆』は昼も夜もどこで神に仕えていますか。(ロ)ヨハネの幻は,霊的な神殿が『大かん難』を無事通過したことをどのように示していますか。『大いなる群衆』はそこでどんな益を受けていますか。

      22 この美しい幻の中で,国際的な『大いなる群衆』は,エホバの神殿で,すなわち霊的なイスラエル人でない人たちのためにあらかじめ指定されていた地的な中庭で,あたかも「異邦人の中庭」ででも仕えているかのように,エホバに仕えている者たちとして示されています。そうです,使徒ヨハネの見たこの幻の中では,エホバ神の大いなる霊的神殿は,この終わりの日の『大かん難』を無事通過しました。なぜなら,その『大いなる群衆』は『大かん難』を生き残り,そしてエホバの神殿の中にいて,仮庵の祭りのさいに人びとが振った古来の祝いのしゅろの枝(ルラブa)を振っているからです。彼らは自分たちの救いをエホバ神と,犠牲にされたその小羊イエス・キリストとに帰しています。そして,今や楽園の地上の神の新しい事物の体制の秩序のもとで終わりのない幸福な生活と神聖な奉仕とを享受する道を歩んでいます。(黙示 7:16,17)それらの人たちは,エホバの大いなる贖いの日に設けられた罪祭の恩恵を感謝して受け入れます。―レビ 16:1-34。

      23 (イ)キリストが大祭司の務めを千年間行なう時,霊的な神殿の地的な中庭に群がるのは『大いなる群衆』だけではありません。なぜですか。(ロ)地上で永遠の命を得るには,それらの人びとは何を守ることに加わらなければなりませんか。

      23 しかしながら,それら救いの中庭に群がるのは,現在のこの事物の体制の終わりに伴う『大かん難』のそうした生存者だけではありません。大祭司である小羊イエス・キリストがその14万4000人の霊的な従属の祭司とともに,エホバの霊的な神殿の天的な領域で千年間祭司の務めを行なうとき,「義者と不義者との復活」が行なわれるでしょう。(使行 24:15。黙示 20:4,6,11-14)それらの人たちはみな,エホバの霊的な神殿の中庭に来て,エホバに仕え,また対型的な大いなる仮庵の祭りを祝うことに喜んで加わらなければなりません。それ以外に他のどんな方法を講じようとも,地上の楽園における永遠の命への救いにあずかることはできません。ゼカリヤの預言の最後の6節はこのことを示していると考えられます。地上で永遠の命を得たいと願う復活させられた人たちはすべて,『王なる万軍のエホバを拝み』,また『〔仮庵の祭り〕を守る』ために霊的な神殿に来なければなりません。そうする人たちにとって,それはことばでは言い表わしようのない何と喜ばしい時となるのでしょう。―ゼカリヤ 14:17,18〔口語〕。

      24 (イ)エホバ神が認めておられるのはどの神殿ですか。神の新秩序で命を得る人はすべて,どの神殿のもとに来なければなりませんか。(ロ)すでにその中庭にいる人たちにとって,今や他の人びとにどんなニュースを伝えるのは特権ですか。

      24 また,わたしたちの中の一部の人びとは奥の祭司の中庭にいる者であり,わたしたちの大多数は至高の神,万軍のエホバの祭司ではない崇拝者たちの中庭にいる者ですが,わたしたちはそのどちらであっても,今エホバの霊的な神殿の中庭にいる今日のわたしたちすべての見込みは恵まれたものと言えます。これは救いの神が認めておられる唯一の神殿です。それこそ,あらゆる国民が清い崇拝に携わり,そうすることによって神の義の新秩序で永遠の救いを得るためにそのもとに来なければならない唯一無二の神殿なのです。その神殿は今や,ひとりの生ける真の神を求める人びとすべてを集めて招じ入れられるよう,開かれています。これは驚くべき時代である現代のできごとと関係のあるほんとうに重大なニュースです。『大かん難』が到来する前に,命を救うこの良いたよりを他のすべての人びとに伝えるのは,エホバの霊的な神殿の中庭で奉仕しているわたしたちすべてにとってすばらしい特権です。

      [脚注]

      a ハーバート・ダンビー著,「ミシュナ」(1933年版),178ページ,5,6そして7節を見てください。

      A・エダーシェイム博士著,「神殿」(1874年版),238,242ページをご覧ください。

      マクリントクとストロング共編「百科事典」第10巻,148ページ,「チスリ第21日」の項の最後の節を調べてください。

      [153ページの囲み記事/図]

      (正式に組んだものについては出版物を参照)

      ヘロデの再建した神殿(平面図)

      チロペオンの谷

      門

      市の城壁

      門

      門

      柱廊

      異邦人の庭

      王の柱廊

      門

      門

      市の城壁

      ケデロンの谷

      東にオリーブ山を望む

      美しの門

      ソロモンの柱廊

      外の庭

      石のさく

      婦人の庭 5

      イスラエルの庭

      祭司の庭 3,4

      神殿 1,2

      北の柱廊

      門

      1. 至聖所

      2. 聖なる所

      3. 燔祭の祭壇

      4. 鋳物の海

      5. 神殿の内門

      [囲み記事]

      預言的な意義

      至聖所: エホバみずからが王座についておられる天の一定の領域

      聖なる所: イエス・キリストと14万4000人の油そそがれたクリスチャンの,なお肉体でとどまっている時の,霊によって生み出された状態

      幕: 聖なる所と至聖所を仕切っていた幕は,天の神のみ前に近づけないよう,地上の祭司たちを隔てている肉体の障害物を表わした

      祭壇: イエスの完全な人間としての犠牲を喜んで受け入れることによって示された神の意志

      祭司の中庭: イエス・キリストおよび神の霊的な従属の祭司たちの肉体の点での義とされた立場

      異邦人の中庭: 神に受け入れられる崇拝をささげるためにあらゆる人類が到達しなければならない,義とされた立場

      [148ページの図版]

      西暦29年,イエスが聖霊によって油そそがれたとき,神の大いなる霊的な神殿が存在するようになった

  • 宗教指導者たちによる評価
    ものみの塔 1973 | 3月1日
    • 宗教指導者たちによる評価

      ● デンマークの一流新聞の一つである,ベルリングスケ・ティンデ紙(1969年8月9日)は社説の中で,「教会が[エホバの]証人の熱意の半分でもよいから持って,キリスト教に関する知識を広めてくれたらと人は思うだろう」と書きました。また,ブルックリンの指導的なプロテスタント牧師は,自分の会衆に向かって次のように語りました。「わたしは,自分たちの宗教について語るエホバの証人に敬服する。…われわれは申し合わせたように,押し黙っている。宗教はわれわれが決して口にしない事がらの一つである。…証人たちは自分の信仰を明らかにしている。毎日,口で表明する。彼らはためらわずに話す」。

      使徒パウロ伝道会の司祭で編集者である,J・B・シーリンは,かつて,エホバの証人は「われわれカトリック教徒に対して,挑戦を投げかけている」と書きました。なぜでしょうか。なぜなら,「証人たちは真の教会の特色を備えており,われわれカトリック教徒が,われわれの宗教のこれらの特色を無視している一方で,彼らは徹底的にそれを行なっている」からです。証人たちの熱意について述べたのちに,シーリンはこう質問しました。「大会出席者が朝早く起き,開催都市の町かどでカトリックのパンフレットを配布するようなカトリックの大会のことを聞いたことがあろうか」。

  • 聖書の土地のらい病人
    ものみの塔 1973 | 3月1日
    • 聖書の土地のらい病人

      ● 何年か前に,中東の町,ナブルスの近くの道路添いでは多くのらい病人が見られた。彼らは通りがかりの人に遠くから大声をかけた。住む家もなく,親族とともに住むこともできないのである。それららい病人はほら穴や古い建物の廃墟あるいは自分たちで建てた小屋で眠っていた。彼らのための食物はある特定の場所に置かれた。彼らは施し主が去ってから,はじめてそれを取りに行った。それらの人々にとって神の王国の祝福はどんなにか必要だったであろう。

日本語出版物(1954-2026)
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